第七話 卵焼き②
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案の定、一時間目の英単語テストは散々な結果だった。二時間目の古典ではぼんやりしすぎて怒られ、三時間目の数学では予習していない問題を当てられて困り果て、四時間目の体育では、バスケ中に派手に転んでクラス中の皆に笑われた。自分でも思う。酷すぎる。
「柴本、お前どうしたんだよ」
「いや、ちょっと……悪い、今日一人で食ってもいい?」
いつも一緒に昼食を食べているメンツに断りを入れて、俺はスマートフォンと弁当だけ持って教室を出た。屋上前の踊り場は人通りがなくて静かだから、そこでお昼を食べつつ一回頭を整理しよう。
ポケットに手を突っ込んで、一人でそそくさと教室を出た。ガヤガヤと騒がしい昼休みの廊下を歩く――と、後ろからぽん、と軽く肩を叩かれて、俺は驚いて振り返った。
「どこ行くんだ? 柴本」
「……! 五十嵐っ」
叫ぶ声が、つい上擦ってしまう。そのままじいっと見つめられて、条件反射で体が熱くなった。
まって、これ俺、また絶対顔赤くなってるだろ。この仕様超嫌なんだけど……。
「めっ、飯、食いに行こうと思って」
「どこで?」
「上で」
「ふうん」
再び足を動かし始めた俺の隣に、当たり前のように五十嵐が並ぶ。
「なに、お前も来るの」
「ん」
「弁当は?」
五十嵐はすました顔で自分のランチバッグを持ち上げてみせた。
準備のいいやつだな、おい。
内心ツッコミを入れつつ、断ることはせずに階段を上った。いやだって、普通に嬉しいし? 一人になって一旦落ち着こうって作戦は、まあ完全に、駄目になっちゃったわけなんだけど。
踊り場までたどり着き、屋上扉の前の段差に腰掛けると、当たり前みたいに隣に五十嵐が座ってきた。二人でもそもそと弁当の準備をし、「いただきます」と手を合わせて、それぞれの弁当に箸をつける。
ぱくっと卵焼きを口に放り込みながら、横目で五十嵐の弁当を盗み見る。俺のと同じように卵焼きが入っているけど、なんかすごい形が綺麗。っていうか、だし巻きなのか?
「五十嵐の母親、めっちゃ卵焼き作るの上手くね?」
「母さんじゃない」
「えっ? あ、じゃあお父さん?」
ウチは、弁当はいつも母さんが作ってくれる。だからなんとなく弁当イコール母親ってイメージだったけど、どこの家もそうってわけじゃないよな。
自分の考えの至らなさを実感して、けっこう恥ずかしい。内心少し落ち込んだけど、そんな俺の隣で、五十嵐はさらに予想外の答えを口にした。
「家政婦の作り置きを朝自分で詰めてる。三日に一回来るから」
五十嵐の言葉を聞いて、俺はぽかんと口を開いたまま固まってしまう。
五十嵐は俺の視線を気にするでもなく、ほうれん草のおひたしを口に運び始める。そんな五十嵐を見る俺の頭の中には、やがて段々と、前に見た五十嵐の家が蘇ってくる。
モデルルームみたいに、生活感がなくて綺麗なリビング。食器がほとんど出ていない水切りカゴ――あとは、そう。
寂しくないのかと指摘されて、怒っていた五十嵐とか。
「受け取ったって、大事にする方法もわからない」って言っていた五十嵐とか。
シェリーに通い詰めて、あまり家に帰っていない五十嵐とか。
ただのお弁当の、卵焼き一つで。その話をする五十嵐自身の声のトーンとまなざしだけで、色々なことが伝わってきてしまう。
……大事にする方法がわからないのは、大事にしてもらったことがないからだろうか。受け取り方がわからないのは、受け取ってもらったことがないから?
「……ごめん」
小声で謝ると、五十嵐はふっと笑って首を横に振った。
全く責める気のなさそうなその顔は、こんな時だけ妙に優しい。
「べつに、悪い親ってわけじゃない。二人とも俺と違って捻くれてないし、普通にいい大人だと思う。そもそもが大変すぎるんだよな、医者って」
その後五十嵐は、湿っぽくなってしまった空気を振り払うように唇の端をつり上げて、ニヤッと笑った。
「柴本は? お前んちは誰が弁当作ってんの?」
問いかけられて、一瞬悩んだ。俺これ、普通に答えて、普通の空気に戻していいのか? それとももっと、五十嵐の話、聞いてやるべきだったりするのかな。
三秒だけ考えて、だけど結局、「母さんが作ってる」って普通に答えた――だって五十嵐は今、「これ以上は突っ込まなくていい」って教えてくれたから。
俺はそれを、ちゃんと受け取りたいと思った。
「なにがうまい?」
「えー。まあ普通に、卵焼き? あ、唐揚げもうまいよ。でもそれ言うと母さん怒る。冷凍だから」
「それはウケる」
「弟も気に入ってるらしい」
「味覚が似てるんだな。弟どんな感じ?」
「賢い。俺と違って」
「はは」
「あと外ではわりと静か。俺と違って」
「なんだそれ。味覚以外は全然似てねーじゃん」
くくっと五十嵐が笑ってくれたので、俺はなんだかほっとする。そういえば、五十嵐に俺の家族の話するの、初めてかも。
そのまま、それぞれの弁当を食べながら、俺たちは家族の話で盛り上がった。俺の母さんの激怒エピソードとか、俺の弟が鳥にめっちゃモテるって話とか、俺の父さんが上司から言われた理不尽な業務命令三選とか。
……なんか、俺の家の話ばっかりだな。まあ五十嵐は、自分の家族の話はやっぱりあまりしたがらなかったから、仕方がない。
ひと通り話し終わって、弁当箱の中も空になって。
話題の切れ目で、二人同時にふうっと息をついた。
その吐息に混ぜるように、「やっぱり」と五十嵐が小さくつぶやく。
「柴本んち、いい家だな。お前のもんになった昨日のタヌキが、ちょっとうらやましいわ」
「賑やかで飽きなさそー」と、自分の輪郭を長い指でなぞりながら五十嵐が言う。
まつ毛が長くて、綺麗な横顔だと思った。
だけどその目元は、どこか寂しそうにも見えて。
「五十嵐も、俺のもんになる?」
つい口を滑らせてしまってから――やばい、なんか間違えたかもって気づいて、心底焦った。「えっと、俺のもんっていうか、」としどろもどろに弁解を始める俺を、目をまん丸くした五十嵐がガン見してくる。
「俺んちのもん、っていうか……? いやでも、五十嵐は物じゃないしな。うん。なんていうんだろ、俺んちの……一員? 柴本家の仲間、的な? ……いやでも、五十嵐は五十嵐だしな。うん。俺が柴本であるように……って、いうか……その。あの、あのー……」
チョット、近クナイデスカ?
カタコト気味に言って、俺は目の前に迫ったイケメンの顔面を恐る恐る見上げる。
五十嵐の顔が、いつの間にか鼻先が触れ合うほど近くにある。さらにずいっと近づかれて、反射的に顔を反らせたら後頭部が壁に当たった。これ以上はもう逃げられない。やばい。
「柴本はさ、」
ぐっと低い声で、五十嵐が話し始める。
少し冷えた指先が頬に触れて、ドキンと心臓が脈打った。
「それ、意味わかって言ってんの」
「……え」
「俺昨日、お前にキスしたんだけど」
キスって単語を聞いた瞬間、体の中心が一気に熱くなる。お前それ、言うの? 蒸し返すの? 五十嵐的には、なかったことにしなくていいの?
動揺してなにも言えない俺の唇に、五十嵐の親指がそっと触れてくる。
「俺、柴本のこと――」
もしかしてまた?! と驚いてぎゅっと目をつむると、キーンコーンカーンコーン……予鈴だ。お昼休み終了の合図。
「!」
音に驚いて動きを止めた五十嵐が、はっと目を見開いて上を向いた。
「……戻るか」
しばらく戸惑ったように視線を泳がせてから、五十嵐は小さくつぶやく。そのままあっさりと身を離し、自分の分の弁当を片づけながら、「柴本、早く」と何事もなかったかのような表情で急かしてくる。
「え……? あ、おう。うん、……うん?」
「次生物。急がないと移動やばいぞ」
「! 確かに!」
五十嵐が言ったことは、紛れもない事実だった。生物教室は、俺たち一年生の教室からは一番遠い専科棟にある。しかも担当の北野先生は、遅刻者にめちゃくちゃ厳しい。
俺は弾かれたように壁から身を離し、慌ただしく自分の弁当箱を片づけて、五十嵐と一緒に一段飛ばしで階段を駆け下りた。
でも頭の中は、五十嵐のことでいっぱいのままだ。




