第六話 嫌じゃなかったら①
その後は少しずつ店が混み出して、退勤までの時間はあっという間に過ぎていった。女性たちは追加で頼み直したレモネードとパンケーキを食べ終えると、にこにこと穏やかな笑顔で帰っていった。
「にしても五十嵐、めっちゃ嫌われててウケたわ」
俺は事務所で帰る準備をしながら、オムライスを食べている五十嵐に向かって話しかける。「あれは買収だろ」と不機嫌そうに答えて、五十嵐はスプーンに乗せたチキンライスを大きな口で頬張った。
今日の勝負も、結果は五十嵐の勝ち。
だけどあの女性客は、俺の接客の方に一票入れてくれた。というか、質問を聞いていた男の子が「絶対にこっちのお兄さん!」と俺を指さし、通りかかった五十嵐に向かって思いっきりアッカンベーをしたのだ。
「やっぱ子どもは素直だよなー。あ、そうだ。お金。多分今あるから忘れないうちに渡しておくわ」
俺はショルダーバッグから財布を取り出し、千円札を三枚、オムライスの皿の隣に置いた。
あんな小さなマスコットなのに、予想の三倍くらい高かった。五十嵐によると、海外のハンドメイド作家から仕入れた珍しい品だったらしい。
うう、俺の三◯◯◯円……。
正直名残惜しいけど、見栄を張った責任はきっちり取らなければならない。渋い顔をする俺の前で、目視でお札を確認した五十嵐は「はい、確かに」と小声で応じてから、おもむろに席を立った。
「ちょっと待ってろ」
「え?」
不愛想に言い残して、スタスタと店の方へ歩いていく。どうしたんだ?
言われた通りに待っていると、五十嵐は一分もしないうちに戻ってきた。右手になにかを握っていて、それを真正面から勢いよく突き出してきたので、俺は反射的に受け取ってしまう。
「なに、これ」
恐る恐る手を開くと、そこには親指サイズのタヌキのマスコットがあった。俺が男の子に買ってあげたのと、同じシリーズのやつだ。
「社割。二個で一個分の値段なら、実質半額だろ」
「え。でもほんとは、社割なんてないだろ?」
「ねえよ。だからそのタヌキの分の金は、俺が後でじいちゃんに払うの」
お兄ちゃん、頑張ってるんだろ?
五十嵐はそう付け足して、「なんか文句あるかよ」みたいな表情で俺を見てくる。
「へ? ああ、あれは全然、子どもの頃の話っていうか」
「じゃあいらない?」
「いや、待って。そういうわけでは……!」
本当にもらっていいの? と五十嵐の顔を覗き込むと、「だから、そう言ってんだろ」と心底面倒くさそうな顔で返された。
瞬間、ぱあああって気持ちが明るくなって、俺は手の中の小さなタヌキを改めて眺める。
垂れた目とか、きめ細かな毛並みがすごく可愛い。
それになにより、五十嵐が俺にくれたっていう事実が、予想以上に嬉しくって口元がにやけた。
「えー、めっちゃ嬉しい。帰ったらそっこー飾る! 一生大事にする!」
「はは、大げさなやつ」
「だって五十嵐がくれたんだよ? 外面いいくせに、俺にはやけに厳しくて、めっちゃ口の悪い、あの五十嵐が! 俺のために、自ら! 自主的に!」
「マジでコイツうるせえ……」
うんざりした感じで言われたけど、俺は気にしない。顔を上げて、五十嵐の目をまっすぐ見ながら「ありがとう」とお礼を言う。
「俺、こういうの大好き。棚に並べながら『すげー可愛い』って思ってたから、本気で嬉しい」
「……ん」
小さな声で応じた五十嵐は、なぜかそのまま黙り込んでしまった。
一瞬目線を下げて、すぐにまた上げて、俺の顔をじっと見つめてくる。
「ん? どーした、いがら――えっ」
直後、大きな手のひらが素早く伸びてきて、俺は咄嗟に目をつむっていた。
「ん……ふっ、」
暗闇の中、後頭部を力強く引かれる。ふにっと柔らかい感触が唇に触れて――内側の敏感な部分に、チキンライスとケチャップの甘酸っぱさが微かに広がる。
「うえ、え……?」
目を見開いて、言葉を失う。
呆然と立ち尽くす俺の前で、五十嵐は自分の唇をぺろりと舐めた。
「あー……悪い、つい。嫌だったら忘れろ」
じゃ、また明日。学校で。
それだけ言って、五十嵐はさっさとオムライスの前のパイプ椅子に戻っていってしまった。
え? え? え?
混乱の渦の中に一人取り残されて、俺は呆然とその場に立ち尽くす。
「つい」ってなに? 「忘れろ」ってなに?
っていうか今のって、え?
――キス、された……?
「………………っ?!?!?!」
事態を理解したとたん、体中が一気に熱くなって動揺した。なに、なになになになに、今の!!!
まばたきを何度もしながら、五十嵐を見る。五十嵐はこちらには一切視線を向けずに、淡々とした仕草でスプーンを動かしている。
「お疲れ。また明日」なんて返せる余裕、当然あるわけがなくて。
俺は五十嵐から全力で目を逸らして、逃げるようにシェリーを後にした。




