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第五話 寂しがりや②


     *


「あっちー。急にあちー。エアコンに感謝。文明バンザイ」

「お前、さっきからそれしか言ってねえぞ。戻ってきてからけっこう経つだろ」

「汗が全然引かねえの。坂上ってくる時、蜃気楼やばかった」

 目の前の棚に雑貨類を並べつつ、俺は片手でワイシャツの襟元を掴み、パタパタと動かす。

 日曜日の十五時過ぎは、いつもなら賑やかな時間。だけど今日のシェリーは、驚くほどに暇だ。

 お客さんのいない店内で、俺は少し前から雑貨の入れ替え作業をしている。五十嵐はカウンターのところで、入口を気にしつつグラス磨き中。

 雑貨周りを任されるよりも前は、俺は店長に頼まれて、駅前のスーパーまで買い出しに行っていた。外はギラギラと日差しが強くて、あまりの暑さにどろどろに溶けてスライムにでもなるかと思った。

「ってか俺、もしかして汗くさい? 大丈夫かな」

「知らねー」

「五十嵐、ちょっと嗅いでくんね?」

「は? 嘘だろ?」

 五十嵐が心底嫌そうな顔で俺を見る。それでもめげずに「お願い!」と手を合わせると、はあああああ……と地の底に沈んでいきそうなほど重いため息をついて、五十嵐はカウンターから出てきた。

「よしよし。俺わかってきた。最近の五十嵐は、意外と押しに弱い」

「断るのがめんどくせえからだっつーの。俺だってわかってきたんだよ。お前はやけに頑固でしつこいやつだって」

 そんな風にあしらいつつ、五十嵐はちゃんとそばにやってきて、俺の襟元に鼻先を寄せた。すん、と空気を吸い込む音と振動に、ピクリと小さく肩が跳ねる。

「ん。べつにくさくねー……おい、なに笑ってんだ」

「いや、なんか五十嵐、犬みたい」

 狂犬、とからかい口調で言いながら顔を向けると、思ったよりも近い距離で目が合った。

 そのあまりの近さに、反射で心臓がドキンと跳ねる。

「……このお気楽タヌキめ」

「うえっ? あ、ちょっ」

 嫌そうに目の縁を細めた五十嵐が、突然手を伸ばしてきて俺の鼻を摘んだ。息がしづらい。苦しい。

「ふえっ、う。ぐ……苦し、」

「おら、謝れ」

「ゴ、ゴメンナサイ」

 苦し紛れに謝罪を絞り出すと、五十嵐はようやく手を離してくれた。

 掴まれていた鼻を手で撫でながら、すー、はー。俺は慌てて深呼吸をする。

「やっぱり狂犬……」

「なんか言ったか?」

「いえいえ、なんでも?」

 依然ジト目を向けてくる五十嵐を、顔の前で両手を振って必死に誤魔化す。そのまま「てかさ!」って大きな声で切り出して、話題の転換も試みる。

「なんで皆、俺のこと『パンダ』とか『タヌキ』とか言うわけ?」

「パンダ? 皆?」

「そう。この前もさ、ひよりんが」

「待て。ひよりんって誰だ」

 当然のツッコミに、「俺の親友!」ときっぱり答えた。よっしゃ、上手いことノってくれた! と、心の中ではしっかりガッツポーズ。

「そのひよりんもさ、俺のこと『お気楽パンダ』って言ってきたんだよ。なに、俺そんなにタレ目?」

「いやべつに、タレ目ではねえけど……」

 そう応じつつ、カウンターの中に戻った五十嵐は、うつむき加減に空中を見つめて急に黙り込んでしまった。

 心ここにあらず、といった感じのその表情に、俺は少し戸惑う。

「えっと、五十嵐?」

 さっきまでテンポよく会話できていたと思ったのに――俺なんか、またマズイこと言ったか?

 不安になって、俺は五十嵐にそっと近づく。顔の前でひらひらっと手を振ると、五十嵐はようやく我に返った感じで顔を上げ、俺の目を正面から見つめてきた。

「? なに?」

「……悪い。なんでもない」

 意外なほど素直に謝った五十嵐は、ふいっと目を逸らしてグラス磨きに戻っていってしまう。

 訪れた微妙な雰囲気の沈黙に、俺はぱちぱちとその場でまばたきを繰り返す。

「おい、五十嵐、」

 呼びかけた瞬間、入口のベルがカランカランと鳴った。

 二人揃って弾かれたようにそちらを振り向くと、赤ちゃんを抱いた女性客が上目遣いで店内を見渡していた。

「あの、やってますか? 子連れでも大丈夫ですか」

 三十代半ばくらいの女性で、そのすぐ後ろからは、茶色い天然パーマが可愛らしい感じの男の子がぴょこっと顔を覗かせた。

「いらっしゃいませ! もちろんどうぞ」

 俺はにこにこ笑いながら声をかけ、店の奥のボックス席に女性たちを案内した。

 安心したように笑った女性が、俺の後をついてくる。そのさらに後ろを、とてとてと愛らしい足取りで男の子がついてくる。

「赤ちゃん、可愛いですねー」

「ありがとうございます。じゃあえっと……とりあえずブレンドで。ルイは? あ、こら。お店の物触らない」

 席に座りつつ周囲を見回して、女性は突然、慌てた様子で立ち上がった。

 男の子がいつの間にか、雑貨を販売している棚を背伸びで覗き込んでいる。そこに並べられた、親指サイズの動物たちのマスコットが気になるらしい。

「ルイ、ルーイ。ほらこっち来て。なに頼むか選ぼう」

 女性は赤ちゃんを抱いたまま身を屈めて、男の子の手をきゅっと握る。けっこうキツそうな体勢だ。

「お兄さん、また追加する感じでもいいですか」

「大丈夫ですよ。先にブレンドご用意します」

 そううなずいて、俺は一度、五十嵐の立つカウンターに戻った。五十嵐はもうブレンドコーヒーの準備を始めてくれていたので、それを手伝いながら、「親って大変だよな」と小声で話しかける。

「大変なのはわかるけど、ちゃんと二人面倒見てもらわないと困るんだよな」

「え」

「ほら、あっちのちょこまかしてる方。店の物ベタベタベタベタ……だめだ。俺ちょっと片してくる。こっち任せた」

 五十嵐は険しい顔で言って、素早い身のこなしでカウンターを出ていった。またもや席を立ち、雑貨の棚に近づこうとしていた男の子をぐいっとよけて、綺麗に陳列してあった商品を片っ端から回収していく。

「あ……ごめんなさい。ご迷惑おかけして」

「いえ、割れ物もありますので」

 手早く片づけを続けつつ、五十嵐はにっこりと笑った。笑顔だけど、明らかに怒っている顔だ。

 気まずそうに目を泳がせた女性が、そのまま五十嵐に向かって、おずおずとパンケーキとメロンソーダを追加注文する。俺はそれを、事務所で帳簿をつけている店長のところまで伝えにいく。

 店の方に戻って、準備が終わったブレンドコーヒーを女性の方へ持っていくと、なにも言っていないのに「すみません、すみません」と何度も頭を下げられた。きっと他の場所でも、こういうことばっかりなんだろうなって思うと、なんだか胸が痛くなってくる。

「おい、五十嵐。もうちょっと優しくしろよ」

 俺がメロンソーダのシロップを準備している五十嵐に耳打ちすると、五十嵐は面倒くさそうに眉根を寄せた。「なにが? 俺ちゃんと笑顔だったろ」と、不服そうに言い返してくる。

「そうじゃなくて。もっとこう、柔らかい感じっていうか」

「は? 知らねえよ。俺は常時こうだわ」

「そんなことないだろ。いつもは……」

 言いかけて、言葉に詰まる。

 思い返してみれば、確かに接客中の五十嵐は、いつもあんな感じの笑い方だ。完璧で隙がなくて、だからこそ時には、相手に若干の圧を感じさせるような。

 じゃあ俺は、五十嵐にどんな風に笑ってほしいんだろう。

「いつもは?」

「いつもは、っていうか。うーんと……そうだ。俺と話してる時みたいな感じの方が、いいと思う」

 俺の答えに、五十嵐が大きく目を見開いた。

「……それは無理だ」

「え」

「客は、柴本じゃねえからな」

「へ? ――いやいやいや、そういうんじゃなくね?」

 俺は粘ったけど、五十嵐はそれ以上は、もう全く相手にしてくれなかった。手慣れた様子でソーダ部分を作って、厨房に入ってバニラアイスとサクランボを乗せたら、さっさとカウンターを出ていってしまう。

 メロンソーダを置いて戻ってきた五十嵐は、また黙々とグラスを磨き始めた。雑貨を並べることもできず手持ち無沙汰になってしまった俺は、五十嵐が磨き終わったグラスを片づけながら、ぼんやりと時間を過ごす。

 それから、五分くらい経った頃だろうか。

 がしゃんっ、と大きな音が店内に響いて、俺ははっと我に返った。

「こんなのもう、いらないっ」

 続けて聞こえたのは、甲高い子どもの声だ。ボックス席に視線を向けると、先ほど五十嵐が持っていったメロンソーダのグラスが、テーブルの上に横倒しになっている。

 鮮やかな緑色のソーダ部分も、溶けかけたアイスも、ドロドロのぐちゃぐちゃになってこぼれていた――お母さんの顔面は蒼白、「どうすればいいかわからない」といった表情で、赤ちゃんを抱いたままおろおろと視線を泳がせている。

「せっかくお出かけなのに、なんでリクもいるの! こんなの全然楽しくない! クリームソーダもいらない!」

「ちょっとルイ、落ち着いて」

「やだ! やだやだ! ぜんぶ無くなっちゃえ!」

「あっ、危ないっ」

 男の子はソファ席の座面に立ち、女性の前にあったコーヒーのカップに手を伸ばした。

 またこぼれる……!

 そう思って、俺は咄嗟に目をつむる。

 だけどしばらく待っても、それらしい音は聞こえてこない。

「お客さま、静かにしていただけますか」

 恐る恐るまぶたを開けると、男の子の腕をしっかりと掴む五十嵐の背中が見えた。

 静かな声の余韻が、周囲の空気をピキリと凍らせている――やばい、五十嵐、どう見てもメチャクチャ怒ってる。

「あと、靴で椅子に乗らないでください。柴本、台拭き持ってきて」

「えっ、あ。はいっ」

 俺はカウンター内に置いてあった台拭きを掴んで、慌てて男の子たちの席へ近づいた。

 倒れてしまったパフェグラスを回収した五十嵐は、入れ違うようにして厨房の方へ去っていく。

「ちょっと失礼しますね」

 すみません、すみませんと女性に謝られながら、俺はテーブルの上を拭いた。

「ルイ! ちゃんと謝りなさい!」

 女性が促すが、男の子は半ば呆然としてしまって、椅子の上に立ったまま動けなくなってしまっている。よっぽど五十嵐が怖かったのだろう。

「だって、だってママが、」

「言い訳しない!」

 ピシャリと遮られて、男の子の目の縁にじわじわと涙の粒が盛り上がる。それを見ていたら、なんだか俺まで悲しくなってくる。

「大丈夫ですよ。どうしてこうなっちゃったんですか」

「……アイスを食べさせてほしいって言われて。『ママ、赤ちゃん抱っこしてるからごめんね』って断ったら、この子が突然、グラスを倒してしまって」

 本当にすみません、と女性はもう一度頭を下げてくれた。「気にしないでください」って応じてから、俺は床に膝を突いて、男の子の小さな顔を覗き込む。

「寂しかったんだよね。ママのこと、赤ちゃんにとられたみたいで」

「……」

 ゆっくり静かに声をかけると、男の子はなにも答えずに、ただきゅっと唇を引き結んだ。

 同じように強く握り込まれている小さな拳を、俺は自分の手のひらでそっと包み込む。

「さっきのお兄ちゃん、怖くてごめんね。メロンソーダのコップもこのソファも、このお店のものはぜーんぶ、あのお兄ちゃんの大事な物なんだ。君にとってのママとおんなじくらい大事なの。だから、君に大事にしてもらえなくて怒っちゃった。もっと優しく言えればよかったね。俺が代わりに謝るから、許してくれる?」

 じっと見つめると、大きな目がぱちぱちとまばたきをする。

 やがて小さくうなずいて、男の子は椅子に座ってくれた。

「ごめんなさい」

「うん。謝ってくれてありがとう」

 にっこりと笑い返して、俺はテーブルの上から紙ナプキンを何枚か取り、汚れてしまっていた男の子の袖口を拭いてあげた。「ありがとうございます」と女性がお礼を言ってくれて、心がふわっと温かくなる。

「いえ。俺も『お兄ちゃん』なんで。なんかわかるなーって思って……あ、そうだ!」

 俺はふと思い立って、急いでカウンター内に戻り、さっき五十嵐が片づけていた雑貨類の中からプードルのマスコットを手に取った。

 男の子が最初に店に来た時、熱心に見つめていたアレだ。

「これ、なんか君に似てるなーってずっと思ってたんだ。いつも『お兄ちゃん』頑張ってるご褒美。もらってくれる?」

 瞬間、キラキラキラーって男の子の瞳が輝いた。やった、やっと笑ってくれた。

「いいんですか、ほんとに。それって売り物なんじゃ」

「大丈夫です! 従業員割引あるんで!」

 シェリーにそんな制度はないけど、とりあえず笑いながらそう返しておく。

「……! ありがとう!」

「本当にすみません。ありがとうございます」

「いえ、全然」

 その後は何度もお礼を言われながら残りの片づけを終え、俺は機嫌よくニヤけながらカウンターの方へ戻った。

「へえ。上手いことやるじゃん」

 カウンター内に入ると、厨房との境に寄りかかってこちらを眺めていたらしい五十嵐が、小声で言って右の手のひらを差し出してくる。

 え? なにこれ。握手しろってこと?

 一瞬迷いつつ握り返すと、五十嵐は「ちげーよ」と呆れたように言った。

「あのマスコットの代金、一個三◯◯◯円」

「えっ……」

 予想以上に高い価格に、喉の奥から変な声が出る。

 そんな俺を見て、五十嵐はぷっと小さく吹き出した――でもその表情はなんだか、やけに楽しそうで。

 ドキッと心臓が跳ねてしまって、俺は内心、かなり戸惑ってしまったんだ。

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