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第四話 口悪ハリネズミ①

 全然そんなことなかった……!


 翌日、土曜日、十五時過ぎ。シェリーのお客さん、やたらと多い。

 ――柴本、五卓お冷! ――三卓会計! ――テラス席片づけ間に合ってない!

「ひえええええ……」

 あまりの忙しさに、情けない悲鳴が口からこぼれる――と、「変な声出すな!」って、すかさず五十嵐。

 この鬼! 鬼教官!

 チョコレートパフェを持ってテラス席へと出ていく五十嵐の背中を、俺は恨みを込めて涙目で睨む。

 今日の五十嵐はマスク姿だ。本当は体調が万全になってから勤務するべきなんだろうけど、五十嵐の咳は空気や唾液の刺激で誘発される物理的なものな上、しばらくは治らないらしいので仕方がない。

 昨日の件もあるし、本調子でもないんだから、少しはしおらしくなるかと思ったのに。今日も今日とて、五十嵐は俺の前でだけ口が悪いし、店が忙しい分指示も厳しい。

 そのくせお客さんの前では、あの完璧なギリシャ神話スマイルを崩さない。

 一方俺は店を回すだけで精一杯で、口角を上げる余裕なんて全然ない。だから今日も、賄いのオムライスはほぼほぼ確定で五十嵐のものだ。

 はあ、とついため息がもれる。俺、けっこう頑張ってると思うんだけどな。

「お待たせいたしました。こちらブレンドコーヒーに……」

「ねえ、ちょっと」

 唇を尖らせながら、窓際の席の女性にブレンドコーヒーを出した時だった。

 チクチクした声で呼ばれて、俺ははっと我に返って顔を上げた。

「あなた、人に商品出す時にため息つくってどういうこと? 失礼にも程があるでしょ」

「……! 申し訳ありませんっ」

 すぐに状況を理解して、俺は大きく頭を下げた。

 やっちゃった、という後悔が、じわじわと胸のうちに広がっていく。完全に自分が悪いってわかっているからこそ、一気に心臓が冷えて唇が震えた。

「店に入ってきた時も、お冷持ってくるの遅かったし。私のこと馬鹿にしてるの? この店の教育どうなってんのよ」

 頭を下げたまま、なんとかもう一度「申し訳ありませんでした」と言葉を絞り出す。ちらりと上目遣いで盗み見た女性の顔は、怒っているけどどこか悲しげだ。

「お客様、いかがなさいましたか」

 事態に気づいた五十嵐が、駆け寄ってきて間に入ってくれる。しかし女性は五十嵐の声掛けには取り合わず、「気分悪いから帰る」と宣言して席を立ってしまった。

「お金、払わないからね。せっかくの休みが台無し。もう二度と来ないから」

 カツカツとヒールを鳴らして、女性は店を出ていった。

 俺はその背中を、呆然と見送ることしかできない。

「柴本。おい、柴本」

「あ……ごめん、俺、」

「理由は後で聞く。とりあえずこの席片づけて、それ終わったらドリンク作れ。客に出すのは、しばらくは全部俺がやる」

 感情の読めない声で言われて、胸がきゅっと苦しくなった。

 お客さんと関わらせてもらえないのは、「お前なんかいらない」って言われたみたいですごく悲しい。だけどたった今やらかしたばかりだから、文句なんて口が裂けても言えない。

「お騒がせして申し訳ございません」

 ちらちらとこちらの様子を気にしていた周囲のお客さんに向かって、五十嵐は丁寧に頭を下げた。それで、その後はもう、いつも通りの五十嵐だ。レジ前で待っていたお客さんの元へ微笑みながら近づいていき、そんな五十嵐を見た俺も、「そうだ、片づけ」と思い出して、まだ湯気のたつコーヒーをテーブルから回収する。

 片づけを終えた後はカウンター内に引っ込んで、五十嵐に言われた通りひたすらドリンク類を作り続けた。作り終えたドリンクや厨房から出されたフードは、五十嵐が片っ端からお客さんの元へ持っていってくれる。

 ようやく店が落ち着いたのは、十六時半を回る頃だった。作業の合間に五十嵐に事情を聞かれ、正直に説明して謝ると店長にも報告するように言われ、厨房で洗い物をする店長に話したら結構しっかり怒られた。

 しおしおと沈んだ気持ちのまま残りの勤務時間を過ごし、いつも通りに十八時にタイムカードを切った。

 ショルダーバッグを肩に掛ける俺の横で、五十嵐はいつも通り、賄いのオムライスを食べている。

「……」

 長いまつげを伏せて黙々と口を動かす五十嵐の横顔を、俺はじっと眺めた。やがてそれに気づいたらしい五十嵐が、黒い瞳をすっと動かして片眉を上げる。

「なんだよ、柴本」

「いや、その……えっと。今日はほんと、ごめん。迷惑かけて」

 俺は小さな声で言って、潔く頭を下げた。

 事情を説明した時に、もちろん謝りはしたけど――その時五十嵐は、意外なことに、あまり俺を責めなかった。だから逆に、俺の中で罪悪感が膨らんで、もう一度謝らずにはいられなかった。

「俺、五十嵐にはいつも、すぐに色々口に出す癖やめろって言われてたのに。ごめんなさい。気をつけます」

 事務所の床を見つめたまま続けると、少しの間沈黙が流れた。不思議に思っておずおずと顔を上げると、むすっとした表情の五十嵐が「まあ、」と口を開く。

「お前は初めてのバイトなんだろうし、今日は特に忙しかったからな。ちゃんとわかって、反省してんならそれでいい。じいちゃんにも怒られただろうし」

「え……。いや、でも、」

 やっぱり予想外の返しに、俺は戸惑う。

 そんな俺に向かって、五十嵐が「ん」となにかを突き出してくる。

「食うなら、やるけど」

 いい匂いを漂わせるそれは、オムライスが乗ったスプーンだった。赤いチキンライスと、ふるふるの卵。

「いいの?」と驚きつつ尋ねると、五十嵐は無言でうなずいた。俺はごくりと喉を鳴らしてから、五十嵐の手ごとスプーンを掴んで、ひと口分のオムライスを口に含む。

「……! やっぱりおいひい……」

 ケチャップの風味が、落ち込んでいた心と体にじんわりと染み込んでいく。

 なんかやばい、泣きそうかも。

「ありがとう五十嵐――って、なにその顔」

「いや、自分で持って食えよ」

「え」

「心底驚いた」というような顔で静止する五十嵐を、目尻ににじみ出てきた涙を拭いながら見つめ返す。

 やがてその言葉の意味を理解して、俺は自分の頬がぱーっと熱くなるのを感じた。

「ごっ、ごめん。俺、歳の離れた従兄弟の兄ちゃんがいて、昔よく色々食べさせてもらってて。その癖で、つい」

 全くの無意識だっただけに、よけいに恥ずかしい。しかも相手は、あの五十嵐だ。

「まあ、いいけど……警戒心ないやつ、こわ」

 すいっと視線を逸らしながら、五十嵐がつぶやく。再び訪れた微妙な雰囲気の沈黙に、俺はますます居た堪れなくなって、「とにかく、ありがとう。お疲れ!」と口早に言って事務所の出口へ向かった。

「柴本」

 瞬間、呼び止められて振り返る。

 椅子に座ったままの五十嵐が、じっと俺の顔を見つめ返してくる。

「柴本が頑張ってること、ちゃんとわかってる。明日もよろしく」

「……へ?」

 今聞いた言葉が信じられなくて、ぽかんと口を開けたまま固まってしまう。そんな俺をしばらく見つめた後、ふっと息を抜くようにして五十嵐が笑う。

「今お前、アホ(ヅラ)すぎてやばい。そこにずっと突っ立ってると邪魔。さっさと帰れ」

 しっしと手のひらで追いやられて、俺はなにがなんだかわからないまま、とりあえず事務所を出た。厨房の店長に挨拶をして、店内を通ってシェリーを後にする。

 なに、さっきの? なになになになになに???

 家までの帰り道、俺の頭は別れ際の五十嵐の言葉でいっぱいだった。「柴本が頑張ってること、ちゃんとわかってる」って、なに。「明日もよろしく」? よろしくって言った?? あの五十嵐が???

 突然のデレに驚いた心臓が、まだドキドキと脈打っている。ってかイケメンの笑顔、ヤバい。いつもみたいな作り物じゃなくて、思わず笑っちゃったっていうあの感じ。

 綺麗だけど厳しい感じの目尻がふっと緩んで、「仕方ないな」って雰囲気の――同い年だけど、お兄ちゃんみたいな、本当に一瞬だけ温もった柔らかいまなざし。

 思い出すだけで、きゅうっと胸が苦しくなった。ちょっと可愛いかも、とか思っちゃったじゃん。ギャップ萌えってもしかして、同性同士でも有効?

 なかなか火照りが消えない頬を、五月末の穏やかな風が撫でていく。その心地よさを全身で感じつつ、俺は自然と早足になる。

 なんか、突然すぎる変化だけど……。

 これってつまり、五十嵐との距離がちょっと縮まったってことで、オケ?

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