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鬼の原っぱ  作者: 西中凛呉


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鬼の原っぱ

 スーパーの交差点は、去年、四車線化した。

 ちょっとした買い物に行くのにも、長い信号待ちをしなければならない。

 爺さんはちょんを抱えて青信号を渡っていたが、信号が黄色に替わるとゆっくり引き返し始めた。

 急いで歩いても、信号は途中で赤になってしまう。

 こちら側へ戻ってきて立っている爺さんはまっすぐ前を見ていても、もう俯いているように見える。


「ああ、このスーパーの鮮魚売り場の鰹は旨いよな。

 店長が土佐の出身だから、漁師が直接送ってくるんだ。

 太平洋の黒潮に乗ってくる魚ってこんなに旨いんだって思うよな」

 ちょんは舌なめずりをして、道の向うの丸大ストアの方へ体を乗り出した。

 ちょっと身じろぎをしただけなのに、ずり落ちそうになる。

 ちょんを引きずるようにして抱いて立っている爺さんの手は、少女のように小さい。

 抱きなおそうとして爺さんはよろける。


「爺さん、年を取ったな。

 俺は大急ぎで生まれ変わって、爺さんを慰めてやるんだ」

 ちょんは、ぎゅっと目をつむった。

 雨があがった歩道に、左足と尻尾が着いている。


 たくさんの時間が猫の上を通り過ぎていく。


 マルチングを抜けた光が猫の頭の上に碁盤格子の影を落としている。

「ねえ、マジョリーヌがいいよ。

 可愛いくて、かっこいいもん」

 そう言って、女の子は後ろ向きにぴょんぴょん跳ねる。

 若い母親が右手に提げたバスケットには、立ち耳のレッドタビーのスコティッシュフィールドが入っている。

 生後二か月のよちよち歩く子猫は、何をしても叱られないだろう。

 母親は左胸に、外国の猫の絵のフードと林檎の形のフードボールが入った袋を抱いている。

 女の子が提げている白い紙袋には、変な顔の細長い人形とピンクと茶のロープで編んだボールが入っている。

 今まで何組の幸せそうな家族と子犬や子猫が、猫の頭の上を通り過ぎていっただろう。


 猫は、腹いっぱいになったことがない。

 体高が低くほとんど肉も付いていないが、もう生後六か月を過ぎていた。

 鯖トラの鉢割れで、顔の大半は濃い緑色の目だ。

 

 今日は、この冬で一番寒い。

 夜、マルチングの切れ目からここへ入って眠るようになって、一週間たった。

「一人ぼっちになって、もう何日になるだろう」

と思って、曇り空を見上げた。

 その時、頭の上に大きな黒い影が落ちてきた。

 ガガッという重い音がして、猫を守っているマルチングが道路へ引き出される。

 猫は、思わず身を屈めた。


「なんてこった。

 俺にも運が向いてきたってことだ。

 あの太った猫が何十万円もするっていうのによ、俺はこのとびっきり器量のいい子猫がタダで貰えるっていうんだ」

 木の根のような大きな手が、猫を掴んで大通りに出す。

 それから、両手で持ち直してビルが立ち並ぶ青空に差し上げて

「おおっ」

と叫んだ。

 猫は白っぽい毛糸玉のように丸まって、何も言わなかった。


 川沿いの道から町に入って、通りを抜けたところの枯野の向こう端に男の家はある。

 トタンの波板を張ったバラックだ。

 物置か工事用の仮小屋が使われずにいたところへ住み着いたようである。

「はい、ちょんとな。

 ここがお前の家さ」

 男は、猫をテーブルの上におろして笑った。

 蓋の開いたスパイスラックと二枚残った食パンの袋、何日分かの新聞、山積みの洗濯物、それらの中に降りたった子猫は、光り輝くように美しい。

「もう大丈夫だぞ。

 うちで食べさせてやるからな。

 捨てられたのか。

 俺は一人暮らしだから、ここで好きなようにしていいぞ。

 いっぱい食べさせてやるからな。

 そこで、ちょんと座ってたらいいさ。

 そうだ、お前、名前はちょんにするか」

 男は一人で喋り続ける。


「つまらない名前だ」

と、猫は思う。

 マックスとかルビーとか、可愛いからとか幸せを呼ぶからと言う理由で名前は決めるものだ。

 ちょんと置くの「ちょん」はあんまりだ。

 猫は、がっかりした。

 そして、そっと隣のテーブルに移って洗濯物の山に隠れた。

 ともかく、今夜は家の中で眠れる。 


 温かい優しいにおいがした。

 男は、炊き立てのご飯に炒り子を割いて乗せて、薬缶の湯をかけた。

 服の山の中へ手を入れて探っていると、あちこちに避けるちょんの背中に触れた。

 そして、そっと柔かく握ってもとのテーブルの上に下すと、ちょんの前に茶碗を置いた。

 ちょんは生まれて一度も熱いものなど食べたことがなくて、おまけにひどい猫舌だというのに

「食べな、今日は初めてあった日だから大サービスだよ」

と言って、ちょんの頭を押して茶碗に近づける。

 危うく、湯に鼻を突っ込むところだった。

 つまらないご飯だと思って匂いを嗅いでいると、ちょんの茶碗が傾いているのに気が付いた男は下のタオルをのけようとして、手を出した。

 シャーッと見事に毛を逆立て、柔らかな小さな毛糸玉は少し大きな毛糸玉に変わった。

 ちょんは鼻を茶碗に突っ込んだ。

 そして、猛烈な勢いで食べ始めた。

 時々、ケッケッと言って鼻から何かを飛ばしながら。


 男はそこらの服やタオルを小高く積み直して、食べ終わったちょんを天辺に乗せた。

 ちょんの腹の回りは頭よりずっと太くなって、薄い腹の皮の上から御飯の温もりが伝わる。

「布団に入れてやったらいいんだけどな。

 まだ小ちぇいから潰れるといけねえからな。

 ゆっくり眠りな」

 ちょんは洗濯物の中に沈んで、朝まで一度も目を覚まさずに眠った。

 

 こんな家でも、朝日は温かい。

 西に窓がひとつあるだけの簡単な家なのに、東側の壁が温かいのである。

 ちょんは家の有難さを知った。

 テレビの上に載ってみたり薬缶に入ってみたり、ほんの少しの温もりを求めてちょんは動き回った。

 ドアの前に、炒り子ご飯と水が置いてあった。

 跳び上がるほど冷たい。

 テーブルに戻って、ふわふわの食パンを踏み台にして炊飯器の上に上がった。 

 袋から柔かな匂いがたつ。

 上から、細い歯をそっと立ててみた。

 これは美味しい。

 二センチ四方ほど食べると腹がいっぱいになったので、服の山に戻って眠った。

 

 ぐっすり眠って起きて薄暗い西の窓から冷えてきた部屋で伸びをしていると、表でカタンと音がした。

 ちょんは大急ぎで服の山にもぐりこんだ。

「いるかあ」

 男が叫んだ。

 ちょんは、伸びあがってドアを見た。

 男が服の山を目で探している。

 ちょんは服の山に潜って身を潜めて様子をうかがった。

 昨日、ちょんをつかみだした木の根のような手は、今日も少し遠慮がちに服の山を探った。

 大きな冷たい手が、ちょんを縮みあがらせる。


「いたのか、お前、暖けえなあ。」

 男は笑いながら、ちょんを服の山の上に置いた。

 ちょんはふわりと置かれたまま、少し窪んだ服の山の上に丸まった。

 不愉快だ。

 今夜も炒り子ご飯だである。

 今日は昨日より細かい、炒り子の袋の底に溜まっていた粉がたくさんかかっていて食べやすい。


 ちょんが生まれて、初めての春がきた。

 ドアの隙間から差す日差しは、素晴らしく明るい。

 ドアを開けると、青い瞳のようなオオイヌノフグリが一面に生えた野原が広がっていた。

 このふわふわの草なら、ちょんが隠れたら誰からも見えない。

 

 ちょんはじわりとドアを押して、野原の向こうの物置小屋までそろそろと這っていった。

 道の向こうのバス停の長椅子に、お爺さんが二人座っている。

 ものすごく声の大きなお爺さんが、もう一人のお爺さんに言った。

「次郎んとこの息子が、猫の子を飼ってるな」

 もう一人のお爺さんは、もしゃもしゃとした声で

「あの汚い家で、猫が飼えるものかいな」

と言った。

「いやあ。

 野良猫の子や、まだ小さいわ。

 可愛いかったけどな」

「あそこは鬼の家やからな、鍋に入れて煮られとるで」

「今日の晩御飯は猫のスープや」

 ちょんは、首から上を鍋に張った湯から出して、痩せた肩に毛が張り付いている自分の姿を想像した。

 ちょんは年の割に小さいから、肉なんてほとんどない。

 スープにするなら出汁くらいは出るかもしれないけれど。

 でも、男は武骨で善意と温かみに溢れていた。

「ぼくも野良だから、あんまり贅沢は言えないんだけれども」

 ちょんは思った。

「もう少し柔かいご飯と、素敵な名前をくれると良いんだけれど。

 でも、おじさんは青鬼みたいに心の優しい鬼さんだ」


 暖かな野原で遊び、好きなだけ水を飲み、服の山に沈んでゆっくりと眠り、ちょんの一日は過ぎた。

 そうして、家の前の野っ原でバッタを追いかけたり雀と遊んだりして、日が経つ。


 ある日、青鬼さんは白いビニール袋を提げて帰ってきた。

 本能を搔き立てる強い匂いがする。

 ちょんは寄っていって、匂いを嗅いだり立ち上がって袋を覗き込んだりした。

 頭を入れて覗く。

「魚が好きか、ちょん。

 お前は刺身が好きか。

 鯛なんかじゃねえぞ。

 鰹だぞ。

 昔は下魚っていったんだ」

 青鬼さんは発泡酒を袋からテーブルの上に出して、底にある鰹の叩きを出した。

 五切れ百九十八円は、刺身コーナーで一番安い。

 それが今日は三割引きになっていた。

 あまりにも素晴らしい匂いだったので、ちょんは半狂乱になってにゃあにゃあ言った。

「鰹は好きか。

 一緒に食べるか、今日は給料日だからな」

 青鬼さんが米を研いでいる間に、ちょんはラップの上から待ち針を並べたような歯を立てた。

「もう食べているのか。

 ラップを食べたら体に悪いぞ」

 青鬼さんがラップをのけようとして手を出すと、ちょんはジャアジャア言って飛びついた。

 ラップをのけてテーブルの上に降ろしたのを、またちょんは一心に食べた。

「ちょんは鰹が好きか」

 青鬼さんが首筋に手を掛けると、ちょんはシャーッと毛を逆立てて、食べながらうにゃうにゃ言った。

「怒らなくていいぞ。

 食べたらいいぞ。

 そうか、ちょんはそんなに鰹が好きか。

 なら、今度から給料日にはいつも買ってこよう」

 そう言って、青鬼さんは米を研ぎに行った。

 青鬼さんは炊き上がったご飯に、ちょんが残した剣の大根を乗せて山葵と醬油をかけた。

 ふあーと美味しそうな匂いがする。

 ちょんは、そっと青鬼さんの膝に手を掛けて、手の平の茶碗を覗いた。

「ほれ、いるか。

 野菜も食べないといかんぞ」

と言って、大根をちょんの鼻先にだらりと垂らす。

 ちょんは服の山へ戻ってさっともぐりこんだ。


 青鬼さんは約束を守った。

 半額になっていなくても、給料日には必ず鰹の叩きを提げて帰る。

 海水温が低くて北上が遅れ、記録的な不漁で鰹の価格が高騰した年にも、半額になっている鰤や鯛にはしなかった。

 だからと言って、ちょんが鰹の叩き以外食べたことがないわけではない。

 青鬼さんは、鰹の叩きを買ってくる以外にちょんに喜んでもらえる方法を知らなかった。

 

 青鬼さんは、隣町の海辺にある水揚げした魚や地元でとれた野菜を売っている「海の駅」へ行くことがある。

 総菜や透明なトレーに入れて売っている生魚を、それは楽しそうに長い間見て回る。

 それから鯵だの鰯だの、時にはキビナゴや鱚まで店員に頼んで刺身にしてもらう。

 ここへ来る途中にも、漁師の奥さんが営業している刺身や総菜の安い店は何軒もあった。

 それなのにわざわざここまでくるのは、この店の従業員はみんな勤め人で、鯛や鰤など儲けになる魚でなくても機嫌よく捌いてくれるからである。

 今日は、飯蛸と鰆を刺身にしてもらった。

 

 夕方には、青鬼さんは、夕方に山の展望台まで歩く。

 途中に溜め池があって、大きな白い鳥や鴨の群れが土手に上がって日向ぼっこをしていた。

 家へ帰って早い風呂から上がったら、青鬼さんは晩酌を始める。

 青鬼さんの人生に満点の幸福な時間があるとしたら、この瞬間に違いない。

 その大部分は、青鬼さんの腰のあたりに背中を預けて、尻尾の手入れをしている自分のせいであることをちょんは知っている。

 ちょんは、どの刺身も好きなだけ食べていい。

 余したら、青鬼さんが食べる。

 青鬼さんの家は、人間と猫の食べ物を選ぶ権利と食べる順番がよそとは逆であった。

 

 青鬼さんは、いつも同じ色の作業着を着ている。

 休みの日には三枚のカーキ色の作業着を洗って、叩いて伸ばして乾す。

 古い型の風呂だけれど、毎日入る。

 こんなに素晴らしく男らしくて、結構小銭も持っていて、給料日には鰹の叩きを奮発してくれる。

 大きな発泡酒の缶を買ってきて飲んだりできるのに、女の人に相手にされない。

 ちょんも男だからわかるけれど、芝居っ気とか見栄も必要だが青鬼さんには全くそれがないのである。

 

 青鬼さんの家が「鬼の家」と呼ばれるのには訳があった。

 青鬼さんのひいお爺さんは短気な人だった。

 田んぼの水の事で近所の人と喧嘩をして、突いて転ばせて大怪我をさせた。

 それでお堂の隣の家のお爺さんのお爺さんは、腰を痛めて寝たきりになった。

 青鬼さんのひいお爺さんは

「こっちが悪いわけじゃねえ、向こうが嫌なことばっかり言ってくるんだ」

と言い張って、絶対に謝らなかった。

 妻のひいお婆さんはもう亡くなっていたので、息子である青鬼さんのお爺さんが平謝りに謝って、お詫びに山をあげたりして何とか事を納めた。

 けれども、ひいお爺さんは道で人に会うたびに

「あいつは性根が悪いから、罰が当たったんだ」

とか

「あそこの家は盗人だ、今に不幸な目に遭うぞ」

とか悪口ばかり言うので、周りの人が怖がって、あれは原口山の鬼の子孫だとか生まれ変わりだとか言って避けるようになった。

 それで青鬼さんのお父さんが子どもの頃に、家の固まったところからずっと離れた山の麓の自分のうちの田んぼの隅っこに、掘っ立て小屋を建てて引っ越した。

 

 青鬼さんのお父さんは、小学校で散々いじめられて学校へ行かなくなった。

 そのうち、生まれつき病気の青鬼さんのお母さんがお嫁に来て、鬼の家みたいなこんな野っ原の中のバラックで青鬼さんが生まれた。

 二人は、早くに亡くなった。

 青鬼さんは一人っ子だ。

 勉強は嫌いだが、気が長くて真面目である。

 大きな分厚い手で、いつも遠慮がちにちょんを触る。

 壊れないように、傷つけないように、冷たい手がちょんの小さな体の芯まで冷やさないように。

 親指の付け根の皺と手の平だけ白い、日焼けして荒れた分厚い手はいつも優しかった。

 

 ほとんど大きくならないように見えたちょんは、青鬼さんの家へ来てそこらの犬よりも大きくなった。

 青鬼さんが、とびっきりの器量よし、と言った大きな目は変わらないが、おじさん猫の煌々と光っている目は恐ろしい。

 中型犬くらいなら、立ち止まって道を譲ってくれる。

 小さな子どもに遭うと泣かれる。

 「やれやれ、青鬼さんの気持ちがわかるな」

と、ちょんは思った。

 

 青鬼さんは町の人に嫌われている。

 だから、のっしのっしと地面を揺らすように歩く太ったちょんに町の人は冷たい。

 保健所にでも言われたら大変なので、青鬼さんは決してちょんを町中へ連れて行かない。

 ちょんも、町の人が見えると大急ぎで家に入った。


 青鬼さんの仕事場は毎日変わるが、中学校を出てからずっと同じ会社で働いている。

 真面目なので、社長には有難がられている。

 仕事の帰りには、毎日途中にあるスーパーへ寄って帰る。

 町の商店で買い物をすることは、ほとんどない。

 それでまた、口うるさい店屋のおばさんがいつまでも古い話を言い触らすのだろう。


 ちょんはいつからか、青鬼さんの買ってくる鰹の叩きを一切れ残すようになった。 

 初めてちょんが叩きを残した時、青鬼さんはひどく心配した。

 今日はニンニクが付いているのかとか腹が痛いのかとか言って、うとうとしているちょんを服の山の中から引っ張りだして、抱きかかえてうろうろした。

 眠くて寒いのに迷惑で腕の中で丸まっていると、茶碗に盛った自分の御飯が冷えるのにも構わず抱いたままいつまでも立っている。

 ちょんはもう六キロになっていた。

 鼻を触ったり耳をひっくり返したりしていたが、やがて炬燵布団の上に丸まったままのちょんをそっと置いた。

 炬燵布団の端っこをちょんの腹に掛けて、ご飯を食べ始めた。

 ちょんは、薄目を開けてそっと青鬼さんを見ていた。

 気がついた青鬼さんは

「ほれ、食べるか」

と言って、鰹を箸で鼻先に持ってきた。

 ちょんは首を伸ばして一回だけ舐めて、また目をつむった。

 青鬼さんは、箸でつまんだ鰹を電灯にかざして、大げさに

「ああ、おいしい。

 ちょんのくれた刺身は美味しい」

と言って、口に入れた。

 今日も剣の大根を肴にして、五百ミリリットルの発泡酒を一本飲んだ。


 爺さんは丸大ストアから裏へ回って、堤に沿って歩く。

 途中から展望台へ上る道を上がって、池の畔で長いこと立っている。

 もう何年も前から、爺さんは展望台までは行けない。

 爺さんは抱きかかえたちょんを引きずるようにして、寒くなった野原へ帰ってきた。


「俺がいなくなったら鬼の原っぱで遊ぶやつがいなくなるな」

と、ちょんは思った。

 通りの金物屋の店先の鍋の中で寝ている猫が時々コオロギを追いかけて遊んでいたが、去年の秋にどこかへ行って、今はちょんしかいなかった。

 それで、ちょんは家の戸口で日向ぼっこをしながら、時々ゆっくりと野原を見て回った。

 遊んでやらないと、野原は寂しがる。 

 雲や風が優しくしても、腹の上で生き物が走り回ってやらないと野原は調子が悪くなるのである。

 それは、蝶にしても同じだった。

 野萱草に止まって夢中で蜜を吸っているとき、ちょんが鼻で風を送って

「おいしいかい」

と言ってやると、大げさに羽を震わせて恐ろしそうにする。

 そのくせ、傍に誰もいないと雀やムクドリに捕まるのが怖くて、ひらひらひらひら飛び回るばかりで、花にとまることができないのである。

 裏の沢で孵った白鷺の雛にしたって、ちょんがいない時には狸や鼬が怖くて野原に降りられない。

 爺さんが休みの日に物干し竿を引っ張り出して、野原に覆いかぶせるようにして乾した布団はちょんが潜りこんでやらないと寂しがる。

 ふわふわの布団でちょんが寝ていると、風呂からあがった爺さんはそっと手を入れて、嬉し気に微笑む。

 その顔を見るたびに、ちょんは

「俺は幸せな猫だなあ」

と思ったものである。

 家に二つあるテーブルのひとつに、いつも置かれた洗濯物の山は、時々ちょんが重しになってやらないと膨れ上がって崩れる。

 だが、この頃は野原の便所へ行くのが大義になって、時々爺さんの服の中で済ますことがある。

 それで、爺さんは洗濯機を回す前には、そこらの服を皆くんくん嗅いで、ちょんが粗相をした服を正確に持っていく。

 一度も叱られたことはない。

 だからちょんは、できるだけふかふかの爺さんのスウェットとかバスタオルを一枚だけ引っ張り出して、その上に座っていることにしている。

 洗濯物が倒れてこないように番をしながらである。

 グラグラし始めたなと思ったら、ゆっくりと上に上がって体積が減るまで静かに座っている。

 温かいほうが型をつけるのに良いので、体温を逃がさないようにできるだけきれいな円になって丸まる。


 これはちょんが子どもの頃、時々家の前を通る高祖母から教わったことだ。

 高祖母、つまりひいひいお婆ちゃんが子どもの頃、家の娘さんはいつも朝のうちに浴衣を洗った。

 糊水を打ちながらきっちり四角に畳んで、茣蓙の真ん中に置き、両端から茣蓙を被せる。

 ひいひい婆さんは、その上へ座って敷きのしをする名人だった。

 落ち着きがあって体格がよく、敷きのしが得意だったのである。

 それで娘さんはひいひいお婆ちゃんを大層可愛がって、隣村の大百姓の家へ嫁いだ時にも連れて行った。

 それからは竈の上で眠り、朝は住み込みの女中に小魚をねだって何不自由のない暮らしをした。

 ところが、その娘さんが子どももできないうちに亡くなってしまった。

 それから、ひいひいお婆ちゃんは家を出てそこらの軒下で暮らしていたが、生家へ送り返された娘さんの墓参りは欠かさなかった。

 「そんりゃあ、器量も気立てもいい、そんりゃあ、ここらにはいやあせんわな。

 後にも先にも、はい。

 あそこの家は裏でお狐さんを祀って信心をするから、あないな器量のいい娘さんができたんやわな、はい。

 まあ、本当にいたわしい」

と言って、大げさに首を振りながらちょんに昔の話をした。

 ひいひいお婆ちゃんは娘さんに連れられていって、良家の暮らしぶりを知っていたから教養がある。

 「今日はちょっと裏山まで花を見に。

 年をとったら教養「今日用」があることと教育「今日行く」が大事」

と、粋な姿で笑った。

 だからちょんは年をとっても、戸口から出て野原を見回るのはやめなかったのである。

 姿の良い賢い婆さんだったが、もうこの世にはいないだろう。


 世の中には頑張ってもどうにもならないことがあるのを、ちょんは知った。

 昨日より高く飛ぶこと。

 鳥たちよりも多くイナゴをとること。

 木の枝から背中に粗相をしたカケスを怒鳴りつけに、去年よりずっと背の伸びた柿の木に一目散に駆け上ること。 

 いつかちょんは小さくなった爺さんの手に抱えられてしか、野原を見ることができなくなっていた。

 「ちょん、ぜーんぶ、ちょんにやるぞ。

 光も野っ原も、柿の実だって大根の葉っぱだって。

 皆ちょんにやるぞ」

 爺さんは、春の日差しの中に立ってくしゃくしゃ笑いながら歌うように言った。

 爺さんは勉強ができないから、学校でこんなにすらすら読むことはできなかっただろうけれど。

 ちょんにはまだまだすることがあるのに、爺さんは老いた親を介護するように自然にちょんの老いを受け入れた。


 青鬼さんは去年の春、腰を痛めて仕事をやめている。

 学校が嫌いで、子どもの時から運送会社のトラックに乗って行って、そこで荷物を降ろすのを手伝った。

 中学校を出て就職して、最初は親方について木材を運んだ。

 頭を使わなかった代わりに体は人一倍使ったので、痛むのも早かった。

 体力にだけは自信があったが、体力にしか自信がなかったので、すっかり元気をなくしてしまった。

 青鬼さんはいっぺんに爺さんみたいになった。

 それを、社長が施設警備員の仕事に回してくれたのである。

 一階のトイレと廊下の掃除をして、会社の裏口の番をしていればよい。

 給料は減ったがもともと倹約な人なので金をは使わないし、貯金もあったので暮らしていけた。

 毎日、学校帰りの小学生が悪戯をして、侵入防止のセンサーの前をわざと通る。

 そのたび、ピーッと警告音が鳴って、爺さんは見に行く。

 近所のマンションで飼っているきれいな猫が来て、毎日植え込みにうんちをする。

 「一日中トラックが出入りしてうるさい、若い社員のマナーがなってない」と、爺さんをつかまえて文句を言う人がいる。

 だが爺さんは腹を立てることなく、真面目に働いた。


 そこへ、ちょんの病気である。

 昨日できたことができなくなっていくちょんを、爺さんはいらだつ様子もなく、身内のように面倒を見てくれる。

 治療代はかかったが、刺身が食べられなくなったちょんに療養食の缶詰を買ってくる爺さんは嬉しそうだ。

 「ほら、缶詰を開けたぞ」

と言って、スプーンで固形物と汁に分離した中身を皿に入れて、かき混ぜてくれる。

 一缶が鰹の叩きの二倍もする。

 最近は、帰るとすぐにストーブの上に乗せて温めておいて、猫舌のちょんの前へ持ってきて、わざと鼻の前でふうふうする。

「ほら、美味しい臭いがするだろう。

 食べるんだぞ、食べてやれねえんだから」

そう言って、ちょんの口の前へ持ってきて笑う。

 そうしてもらってもここ一週間くらい、美味しいのはわかるのにちょんは不思議に口が開かなかった。

 今となっては爺さんの幸せだけは何とかしてと思うが、世話になるばかりで今朝、ちょんのこの世の時間は終わった。

 

 もう、野原の事も蝶の事も考えなかった。

 この春から一層腰を悪くして、丸くなって歩いている爺さんが心配で仕方がないのだけれども、できることは一つもなくなった。

 爺さんは今日別れるちょんの体を愛おしみながら、いつもより冷たいちょんを小さな手でトントンした。

「ほら、ちょん。

 夕焼けだぞ。

 海の駅の方だ。

 刺身、もう一回食べたいなあ、おいしかったなあ」

 と言って、お爺さんはずり落ちたちょんの体を抱えなおした。


 自分しか爺さんを喜ばせられないのをちょんは知っていた。

 そこで、また大急ぎでぎゅっと目をつむった。


 たくさんの時間が町の上を通り過ぎていく。


 丸大ストアは、立体駐車場のある五階建ての丸大タウンになった。

 役場の屋上に、防災ヘリポートができた。

 川の側の公園に、赤い展望塔が立った。


 去年より小さくなった爺さんは、土手で摘んだ赤詰め草を一本、腰の後ろに組んだ手に持って、散歩から帰ってきた。

 ちょんがよく登った百日紅の下に作った土饅頭の上の牛乳瓶に、それを挿す。


 爺さんは小さな手でつるりと土饅頭をなでると、空を見上げてふっと笑った。

 











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