不って沸いた幸い
タイトルは誤字ではありません。
まさかここまでとは……
失望。
親戚で、見た目が似ていても中身はちっともね。
落胆。
クラレット様ならもっとできたのに。
クラレット様なら。
クラレット様なら。
クラレット様なら――
うるさいうるさいうるさい!
私はクラレットなんかじゃない!
私は!
「私は……」
叫んだはずが実際は喉の奥からかすかに零れるような声しか出てこなかった。
けれども、その声によって自分の意識が覚醒したのだと気付いて。
「……夢?」
ぽかんとした表情のまま、アルミアはベッドから身を起こした。
「……違う、夢じゃない。
戻ってきた。戻ってきたんだわ、私」
声に出す。
それが事実であるように。
――アルミアは幼い頃健康とはあまり言えず、常に屋敷の中で過ごしていた。
外に出る事があっても、その後ほぼ確実に体調を崩すものだから外といっても庭が精々。
時々親戚が訪れる事はあったけれど、来客のほとんどはアルミアではなく彼女の両親に用があってやって来る。だからこそ、アルミアにとっての外の世界は未知だった。
憧れがあったと思う。
同時に、憎んでいたかもしれない。
ただその憎しみは外そのものではなく、自分以外の自由に外を出歩く事ができる者に対してだったと思うけれど。
思えばクラレットの事は昔からあまり好きではなかった。
自分と似た容姿。
けれど彼女の方が身分が上で。
似ているくせに自分と違って健康で。
大丈夫? 無理はしないで。
そんな風に言われた事もあった。
クラレットはきっと、意地悪をしようとして言ったわけではない。わかっている。
けれどもその時の自分にとっては、無理なんてしたくてもできないくらいだったから、逆に嫌味にしか聞こえなくて。
使用人の誰かが言っていた。
健全な精神は健全な肉体に宿るのだと。
なるほど、言われてみればそうなのかもしれない。
健康体ではなかった時のアルミアは、確かになんでも悪い方に捉えていたかもしれない。
クラレットの言葉でさえも。
健康になってからは、今までなら気にしていたかもしれない言葉もなんて事のないように受け流す事ができた。
健康。
そう、望んだ状態になれたのは喜ばしい事ではあるけれど。
だがしかし、そうなると今度は未来に不安が出始めた。
あまり健康ではなかった頃は、何をするにもそこまで求められなかった。
礼儀作法を学ぶにしても、そもそもあまり外に出られなかったのもあってそこまで厳しくはされていなかった。
勉強だってあまり長時間取り掛かると頭が痛くなってきたからと、随分ゆっくりなペースで学んでいた。
健康な状態であったなら、アルミアは間違いなく不出来な娘とされただろう。
常に臥せっているような状態だったから許されてはいたけれど、そうでなければ無能の烙印を押されていたに違いない。
けれど、健康であったならそんな風にのんびりゆっくりと学ぶ事もなかっただろう。
侯爵家の令嬢としてもっと相応しくなれるように、と様々な事を学んでいたはずだ。
実際のところ、学園に通えるようになったのはアルミアにとっては幸運だった。
もし通えるまでに回復できなければ、修道院あたりに送られてそのままひっそりと過ごす事になっていただろうから。流石にそんな人生はごめんだった。
アルミアに兄や弟はいなかったから、本来ならアルミアが婿をとって家を継ぐはずだったのだけれど。
父は早々にアルミアに当主は務まらないと判断してしまって、親戚から養子を迎えて彼を跡取りにする事を決めた。
アルミアもそれについては、まぁ仕方ないわね……と理解はしている。
けれども、学園に通える程度にまで回復した時点で、彼女の未来は雲行きが怪しい状態であった。
高位身分の家の娘ともなれば、そろそろ婚約者が決まっていてもおかしくはない。
けれどもアルミアにはそういう相手どころか、話すら出ていない。
病弱だったせいで令嬢としての教育も必要最低限であったのだから、嫁に出そうにも難しい、というのも遅ればせながら理解するしかなかったが、それはつまり、学園を卒業後彼女に婚約者ができるような事がなければやはり修道院コースもあり得るという事だった。
……いや、修道院ならまだマシかもしれない。
健康になった事で、修道院に送るよりは、とどこぞの――社交などから遠ざかっている家の後妻あたりとして嫁ぐ可能性すら出てきたのだ。
それは、アルミアにとって冗談ではなかった。
多分やらないとは思いたいけれど、しかし可能性はゼロではない。
故にアルミアは学園で、アルミアを嫁として迎え入れてくれる令息を見つけなければならなかった。年の離れた男のもとへ嫁ぐのも、修道院もどちらもごめんである。
けれどもアルミアは今まで教育にそこまで力をいれてきたわけではない。
侯爵令嬢でありながらも、その実精々子爵令嬢くらいの教育度合いといったところか。
体調が良いとは言えない時にそれでもそこまでは学べたのだから、健康になった今なら楽勝だと思っていた。
学ぶ意欲が無いわけではなかったのだ。
それと並行して、結婚相手として良さそうな男性を見つけるというのが、アルミアにとっての学園での目標と言ってもよかった。
そしてそこで、アルミアは出会ってしまったのだ。
クラレットの婚約者でもあるこの国の王子、カミルに。
クラレットと少しばかり似ていたせいで、アルミアの後姿をクラレットと間違えたカミルが声をかけたのが切っ掛けだった。
本来ならば、そこで人違いですよと言って終わるはずだったが、クラレットは親戚であると告げればカミルは少しばかり興味を抱いたようで。
自分が知らない婚約者について、知りたいという気持ちがあったのだとは思う。
だが、それがアルミアにとっては酷く面白くなかったのだ。
自分と話をしていても、カミルはアルミアを通してクラレットを見ているだけに過ぎない。
だから、だろうか。
幼い頃の記憶を思い返しながら、クラレットに言われた事などをカミルに語って聞かせたのだ。
幼少時代のクラレットとの思い出なんてほとんどないけれど、ちょっとくらい話を膨らませても構いはしないわとアルミアがかつて悪く受け取ってしまった言葉を、カミルもまたクラレットに悪感情を少しでも抱くように仕向けて。
勿論そう簡単に信じたりはしなかった。けれども、昔の話ですから、とアルミアがどこか諦めたような雰囲気と共に笑みを浮かべれば、カミルも絶対にでたらめだとは言えなかった。
かつての不健康だった頃を思い出しながら、儚げな雰囲気を出せれば……というアルミアの思惑は上手くいったらしく、その後もちょくちょくとカミルはアルミアに声をかけてきた。
そのたびに、アルミアは少しずつカミルのクラレットへ抱く感情にヒビを入れるように仕組んだ。
同情であっても、それでもカミルが少しでも自分を見てくれるのなら……と思ったところでアルミアは気付いてしまったのだ。
自分がカミルに恋をしてしまったという事を。
気付くと同時にクラレットが憎くて仕方がなかった。
幼い頃から健康で、勿論安全面と言う意味での行動には制限がかかっていても、しかし健康面での制限のないクラレットの事は昔から嫌っていた。
見た目が似ていてアルミアと同じようにクラレットも病弱であったなら、もしかしたらそうは思わなかったかもしれない。
けれども彼女はそうではなかったし、挙句に婚約者がいる。
アルミアだって健康だったら、今頃侯爵令嬢として相応しい振る舞いができていたはずだし、婚約者だっていたはずなのに。
自分が欲しい物は全てクラレットが持っている。
そう思ってしまったのだ。
思ったと同時に、アルミアは今でも時々クラレットからは……と虐められているのだと匂わせた。
実際は違う。学園でアルミアがクラレットと出会った事はない。クラスが違うし、アルミアの交友関係とクラレットの交友関係は異なっていて、中々顔を合わせる機会すらなかった。
虐めといっても精々通りすがりに一言二言嫌な事を言われるだとか、怪我をしないまでもちょっと押されたりするというような、派手な目撃証言が出ないだろう些細な嫌がらせである、と思わせて。
いっそアルミアの容姿がクラレットと似ていなければここまで彼女を憎まなかったかもしれない。
けれども外見が似ているのに中身は全くの別、というある意味当たり前の事をこの時のアルミアは自分ばかりが損をしていると思ってしまっていた。
幼い頃から健康であったなら侯爵令嬢として相応しい立ち居振る舞いが自然とできるようになっていた。
そうであったなら今頃はきっと素敵な婚約者が自分にもいたはず。
身分的にも自分だって、本当ならカミルと婚約ができたかもしれないのに……!
そんな風にアルミアの思考はどんどん突き進んでいって、クラレットこそが自分にとって不幸の象徴であるかのように思い込んでしまったのだ。
クラレットが得る幸せは、本当なら自分のものだった――そんな風にいつしか思うようになっていったのである。アルミアがクラレットに抱いた感情が、単なる逆恨みでしかない事など気付きもせずに。
そこからはじわじわとカミルに同情心を抱かせて、そうして二人の仲を引き裂くべく色々と言った。
時にはちょっとした細工をして、本当に虐められているのだと装った。
カミルは最初からクラレットの事を嫌っていたわけではない。
彼女の容姿に不満がある、だとかであったなら似ているアルミアも同じように好かれる要素はなかったかもしれないが、そうではなかった。クラレットに似ていたからこそアルミアはカミルと知り合えたのだから。
儚さを漂わせ、カミルの視線を奪った。目を離したら消えてしまうのではないかと思わせて。
徐々にカミルの意識からクラレットを追い出して、その隙間に自分が入り込むように。
クラレットがいなければ、彼女がいた場所には自分がいたかもしれないとカミルにも思わせた。
アルミアが振りまいたクラレットへの悪意でカミルをじわじわと染めていって。
そうしてある日、アルミアに幸運が舞い込んできた。
クラレットが死んだのだ。
事故にあった、という話を聞いたがアルミアは実際それを見ていない。
ただ噂でそう聞いただけだ。
葬儀には一応参列したけれど、どこか実感がわかなかった。
いなくなればいい、と思っていた。
そして本当にいなくなった。
悲しい、とは思わなかった。
これで自分はクラレットの影みたいに思われなくて済む、とさえ。
学園でクラレットとアルミアを見間違えた者は何もカミルだけではない。
友人たちも遠目で見間違えてしまいましたわ、なんて言っていたので。けれどもそれを聞くたび、胸の中でどうしようもない不快感を抱える事となってしまった。
優秀なクラレットと、幼い頃の病弱さのせいで学習の進みが遅かったアルミア。本来ならばアルミアも高位身分の令嬢たちのクラスになるはずだったが、療養していた事もあって遅れていた分をここで履修するためのクラスにいたのもあって、密かにそれも裏で言われていたのをアルミアは知っていたから。
アルミア以外にも、今まで療養生活を送っていたせいで色々とままならない状態の令嬢は数名いた。面と向かっては悪く言われる事はなくても、それでもやはり悪し様に言う心無い者は存在していた。
そういう者たちの聞くに堪えない言葉も、クラレットがいなくなったことで止まるだろうと。
そう思って安堵したくらいだ。
困ったのは葬儀の際、これっぽっちも悲しくなくて泣けなかった事だ。
どうにか悲しんでいる演技をして乗り切ったけれど、一歩間違えば彼女がいなくなった解放感で笑いだしそうになるところだった。
その後、同派閥で身分的にも問題がなかった事でカミル自身がアルミアを新たな婚約者にしたい、と王へ訴えたらしい。結果としてアルミアはカミルの新たな婚約者となった。
他の――カミルと結婚するに相応しい身分と年齢の令嬢たちには既に婚約者がいたというのもアルミアにとって上手く事が運んだと言える。
想いを寄せている相手と結ばれる事ができる。
その事実を実感して、アルミアはそこで幸福とは何たるかを知ったのである。
だが、その幸福は長くは続かなかった。
死してなお、クラレットの影が付き纏うのである。
クラレット様に似た容姿だから選ばれた彼女の代わりに過ぎない――なんて言葉を耳にするまでにそう時間はかからなかった。
それでもクラレット本人が自分を脅かすものではないからこそ。
アルミアは学園で一層勉学に励むようになったし、王子妃としての教育を受けるのも前向きではあった。
だが、最初から順調であったクラレットと、スタート地点から出遅れていたアルミアとではやはり大きな違いが存在していたらしく、周囲の反応はアルミアにとって優しいものではなかった。
それでも努力して努力して頑張って――学園を卒業した後も王子妃教育は終わっていなかったから、城で生活をし一日中学び続ける事になったけれど。
そこでのアルミアへの反応は、アルミアにとって厳しいものだった。
何をしてもクラレットと比べられるのだ。
努力しているのはわかりますが……と教育係が困ったように王妃へ告げているのを耳にしてしまった事もある。
それでもアルミアは努力し続ければいずれ認められると信じて、諦める事はしなかった。
だが、アルミアがどれだけ努力してもクラレットとの比較は止まる事がなかったし、療養していたからといっても、あぁまで進捗が遅いと……なんて言葉を濁すように暗に向いていないと言われるような事も増え、アルミアの周囲でアルミアを認める者はほとんどいなかった。
最初の頃は少しはいたはずの自分にとっての味方は、気付けばすっかりといなくなってしまっていたのだ。
最早頼り縋れるのはカミルだけ。
しかしそのカミルも、アルミアの教育が進まないせいで、王子妃としてこなさなければならない執務の大半を引き受けてもらっている状況であるが故、同じ城にいるというのに中々顔を合わせる機会もなかった。
せめて一言、カミルに頑張ってるねと努力を認められたい。そうしたらもっと頑張れるから。
けれどそれすら難しい状況下で、既にいないクラレットと比べられ続ける状況に――
アルミアの心はぽっきりと折れてしまったのだ。
だがそれでも、と無理を言ってカミルに会わせてもらった。
励ましてもらえれば、それでもまだ頑張れると信じて。
しかしその頃にはすっかりカミルの態度も冷ややかになっていた。
「君は物事を大袈裟に言う事があるみたいだから」
どういう話の流れでそんな風に言われたのだったか、アルミアは憶えていない。
けれど、その言葉には暗にクラレットに虐められていなかったくせに、というのが滲んでいた。
勉強が辛い? 今までやってこなかったからだろう?
そんな風にも言われて、君ができない分を今こちらで肩代わりしているから忙しいんだ――と早々に退室を求められて。
そこにはアルミアへの愛も同情も何もなかった。
煩わしい、という空気が隠される事なく存在していて。
頑張ってはいるけれど、成果が出ない。
今まではゆっくりであってもそれでも前に進めていたはずなのに、もう一歩も前に進めなくなってしまった。
アルミアの心は迷子になってしまったみたいで、何を目指すべきなのかもわからず途方に暮れて――
王家に伝わる宝物に時を戻す秘物がある、と知ったのはどういう経緯だったか。
アルミアはその頃には周囲の色々な事が雑音としてしか認識できず、はっきりとはわかっていない。
けれども、そんな物が本当にあるのなら……と思ったのは確かで。
今のアルミアなら侯爵令嬢として何ら問題はないくらいになってはいる。いるけれど、王子妃としては至らない。
けれど、もし。
今から時間を遡ったなら……?
どれくらい遡れるかはわからないけれど、やり直せるというのなら……
それは希望だった。
一縷の僅かなものでしかなくても、確かにアルミアの道先を照らす導であった。
王家が所持している以上、厳重に保管されているはずだから簡単にアルミアの手に渡る事はないとわかっていても、それでもアルミアは諦めなかった。
結果として、アルミアにとっての幸運がいくつかあった事で誰に咎められるでもないままに宝物庫へやって来たアルミアが秘宝を目にし――
どうすれば時が戻るのか、なんてわからないままそれでも何とかしようとして。
そして気付けば懐かしい自室のベッドで目覚めたというわけだ。
睡眠時間を削ってまで学んでいた日々のせいで、アルミアの目の下には濃い隈が出ていたが、しかし今のアルミアにはそんなものはない。
日付を確認すればどうやらカミルと出会って間もない頃らしく、その顔は時を戻そうとした時と比べて若々しい。
憶えている。
王子妃として学んできた日々を。
その上で今、時を遡ってきたのだと、アルミアは自覚した。
これなら――
これなら、次は問題なくこなせる。
今まで躓いていた部分を、今は躓く事もない。
であれば、以前と同じ道筋を辿りながらも今度は王子妃として相応しくなれるはず。
そうなれば、カミルとの仲も冷え込む事はない。
あぁ、そうだ。
クラレットが邪魔なのは間違いないけれど、それでも今度はもっと上手くやらなくちゃ。
何が原因であの女が死んだかなんて詳しく知らないけれど、どうせ死ぬなら必要以上にクラレットを貶めなくたって、カミルとある程度親しい間柄になりさえすれば。
そしたらどのみち他に丁度いい相手がいないのだから、カミルに悪く思われる事もないままに自分は選ばれる。
ただ、それでも完璧とは程遠いのだから、学園にいる間にも学ぶ必要はある。
ある、けれど療養などで教育が遅れていたために在籍していたクラスからはすぐに抜けて、本来いるべきクラスにいけるだろうから、王子妃になった時に必要になる知識を予め修得しておかなくては。
これからするべき事、やっておくべき事を頭の中で纏め上げ、アルミアの唇は自然と弧を描いていた。
次こそは。
今度こそは。
きっと幸せになれるのだと、そう、確信を得て。
その確信が間違いなどではなかったように、アルミアのやり直しは順調だった。
カミルとは既に出会っている。
カミルのクラレットへの感情を、印象を下げるのはやめないが、それも幼い頃に虐められていた、や今も時々虐められるといったものではなく、昔から少し苦手で……程度に留めておいた。
アルミアは早々に療養などで教育が遅れていたクラスから、本来のクラスに移っている。
以前よりも物理的にクラレットが近い状態になった今、クラレットに虐められているなんて噂を流せばその真偽を確認しようとする者たちが現れるかもしれない。
昔、ちょっとだけ無神経な事を言われてそれで苦手なの……
今回はその程度で留めておいた。
その言葉に嘘はない。
実際アルミアがそう思うような事をクラレットが言ったのは本当なので。
クラレットに自覚がなくても、臥せっている時にこんな風に言われて……と当時の自分の気持ちも伝えれば印象操作など容易い。
健康になってからのアルミアは実に様々な事を意欲的に学ぶ熱心な生徒、という風に周囲に思われるようになっていった。
同時に、カミルとの仲も以前より良好だと思う。
露骨にクラレットの事を悪くは言わないから、カミルもアルミアの事を悪く思う部分がないのかもしれない。
学園を卒業後いつカミルが、クラレットがアルミアを虐めていたなんて事実はない、と知ったかはわからないままだが、己の不出来さとその尻拭いをしている最中で知ったのなら、確かにアルミアへの想いがすっからかんになったっておかしくはない。
だが、その部分もなくなった今ならば、いずれそんな事もなくなるはずで。
今度は王子妃としての教育もそこまで躓く事もなく、クラレットと比べられる事も全く無いとは言えないが、以前程ではないはずだ。カミルにまかせっきりだった王子妃としての執務だって今度はきちんとできるようにならなくては。
それを思うと、前回のように頻繁にカミルと話をしようと機会を狙い続けるわけにもいかなくなってくる。前回は頻繁にカミルといるところを他の生徒たちに目撃されていたので、悪い噂も流れていたというのを考えればある程度回数を減らしておく方が得策かもしれない。
その分の時間を学習に費やせば、その先での苦労も減るのだ。
カミルと全く会わないとなるのも今後を考えると不安があるので、ある程度要所要所でのやりとりはするとは思うけれど、邪魔者がいずれ消えるとわかっている今ならば焦る必要などどこにもなかった。
以前は未来の事など知りようもなかったから、クラレットとカミルが婚約している以上いつかは結婚すると思っていた。だからこそ、その前に二人の仲を壊す必要があったのだ。
だが、クラレットがいずれ死ぬと知っている今ならば。
焦る事なく自分はただ、己を磨く事を優先すればいい。
必要な事を疎かにしてまでカミルに関わる必要はないのだ。完全にカミルとの仲を疎かにしてはいけないが、それでも必死にならなくてもいい、と考えるだけでアルミアの心には余裕が生まれ、結果として普段の行動にもそれが出てきたからこそ周囲との人間関係も前以上に上手くいっていた。
前とほとんど同じようにしながらも、それでも変化は確かに存在している。
以前はそこまで仲良くなかった友人とも、前以上に仲良くなれたというのもあった。
間違いなくやり直す前以上に今は充実していると言ってもいい。
だからこそ、クラレットがアルミアへ声をかけてきたとしても以前とは異なる行動をしたからそれの何かが関係した結果なのだろう、とアルミアはそこまで重く捉える事はなかった。
以前であるのなら、アルミアがクラレットに虐められている、という噂をそっと流していたのもあって根も葉もない噂を流す事に関して追及されてもおかしくはなかったが、今回はそんな噂を流したわけではない。
精々従姉妹ではあるけれどほとんど交流がない事と、アルミアがクラレットの事を苦手に思っている……というだけの知られたところで別に何かが悪くなるでもない事実が周囲に知られているだけだ。
だから別に、アルミアがクラレットと会ったとしても何か酷い事をされるというような事態にはならないだろうと思っていた。
事実アルミアを呼び出したクラレットは、どこか申し訳なさそうに頼みごとをしてきた。
学園でも滅多に顔を合わせる機会がなかったクラレット。前回はそもそもクラスが離れていたのもあって、会おうと思ってもそう簡単な話ではなかったが、今回はクラスが近い事もあって、会う事に関してそう難しい話でもない。それでも今まで会う事がなかったのは、単純にアルミアにはクラレットに用なんてなかったし、苦手だと周囲にそっと伝えている相手に自分からわざわざ会いに行く必要性がどこにもなかったからだ。
けれどそれでもクラレットの方から近づいてくるとは思っていなかった。
学園の中でもあまり人目につかない場所に呼び出されて、前回にはなかったクラレットと二人きりという状況。
そこでクラレットに申し訳なさそうに頼まれたのだ。
「実は次の休日カミル殿下と会う約束をしていたのだけれど、急な用事が入ってしまって遅れてしまいそうなの。
カミル殿下に時間の変更を頼みたいのだけれど、でもその用事がどれくらいで終わるかはわからないから変更をするのにも気軽にはできそうにないし……
悪いのだけれど、わたくしの代わりに次の休日、殿下と過ごしてもらえないかしら?」
「殿下に直接伝える事はできないの?」
「難しいわね……用事というのがフロレンツィア様に頼まれた事なのだけれど、ちょっとどれくらいで終わるか予想もつかなくて。
終わるまで待たせるのも申し訳ないし、親子喧嘩に発展するかもしれない事態は避けたいの」
眉を下げてどこまでも困ったように言うクラレットに、アルミアは少しばかり考えた。
クラレットの代わり、というのはとても気に食わないけれど、だがしかし王妃様に頼まれたとなればクラレットとて簡単に断れないだろう事は想像がつく。アルミアだってその立場になれば困る。
王妃様を差し置いてカミルを優先したらそれはそれで後々何かに響いてきそうだし、なんというかそれはそれで恐ろしいものがある。
だが、王妃様を優先したら今度は殿下の機嫌が悪くなるかもしれない。
確かに、何というか親子喧嘩の引き金を引きそうな状況ではある。
休日の授業もない日に会うとなれば、デートかしら……?
そう考えて、前回そんな事があったかしら? とも思う。
クラレットが死んだ後、その後釜におさまったアルミアも王子妃としての教育を受ける事になって、それが想像以上に大変で休む暇も中々取れなかったくらいだ。
けれどクラレットはもっと昔から教育をしていたのだから、休みを捻出する余裕があるのかもしれない。
そうでなくともクラレットは王妃様との関係もきっと良好だったのだろう。
アルミアは努力をしてもそれが中々実を結ばなかった。頑張ってもクラレットに及ばず、アルミアの分までカミルが執務の大半を肩代わりしていたのだ。教師とともにアルミアへ指導していた王妃様は、アルミアに対していつも呆れたようだった。当然だろう、と今なら思う。
クラレットの代わりになるであろう存在が、努力はしていても圧倒的に不出来だったのだから。
クラレットとなら王妃様もお互いに和気藹々と会話に興じたかもしれないが、アルミアと話に花を咲かせるなど夢のまた夢であった。そうなるためにはまずアルミアが王妃様の中の最低ラインを越えなければならないが、それすらできていなかったようなもの。
いずれ王妃となるのだから、と厳しい指導であったが、それはアルミアのためにもなっていた。けれど、それと同時に相当落胆していたのも理解はできる。
姿は多少クラレットに似ていても中身がこうまで異なれば、王妃様にとってアルミアという存在はきっと紛い物のようだっただろう。
自分にはなかった展開。
今回は別にクラレットに虐められているなんて言ったりしていないから、カミルとクラレットの仲が拗れている様子もない。であれば、休日に二人でデートをするような事があっても何もおかしくはない。
「ね、駄目かしら? わたくしも後から殿下にはちゃんと謝罪をするけれど、殿下にとっても折角の休日だから、ただわたくしの事を待つだけなんて勿体ない事はしてほしくないの。
貴方も殿下と友人なのでしょう? 殿下から話は聞いているわ。
貴方なら、わたくしの代わりであっても殿下も無下にはしないと思うし、それに何より……殿下もきっと楽しめると思うから」
すっかり困り果てた様子で言ってくるクラレットに、アルミアは言葉に詰まってしまった。
考えようによってはチャンスだ。
クラレットだと思ったところにアルミアがやってくれば、カミルの機嫌が悪くなる可能性は確かにあるけれど、事情を説明するくらいの猶予は与えられるだろうし、クラレットに頼まれた事を前面に押し出せばクラレットの代わりとはいえ、カミルと親しくする機会ではある。
クラレットが困っている様子だったから、と苦手に思っていても相手を助けるために行動した、というのを上手く見せる事ができればアルミアに対するカミルの気持ちも良い方向に転がるのではないだろうか。
勝手に知って勝手にカミルのところに行くのであればカミルも機嫌を損ねるかもしれないが、クラレットの頼みできた、となればアルミアに対してもそう酷い事にはならないと思われる。
僅かな時間でメリットとデメリットを考えて、どこか戸惑ったように見せながらも最終的にアルミアは小さくではあるが頷いてみせた。
そんなアルミアに、ホッと安堵したようにクラレットは微笑む。
「ありがとう。この恩は忘れないわ」
「恩って……大袈裟ね」
「そんな事ないわよ」
あくまでも自分はクラレットの願いを聞いてあげるだけ、という態度を崩さずに言えば、クラレットはそれでも嬉しそうにアルミアの手を取った。そして軽くではあるがぶんぶんと振られる。
カミルとの待ち合わせ場所と時刻を伝えられて、アルミアは頭の中で反芻する。
クラレットの頼みで行くのだ。
その流れでカミルとアルミアが思った以上に親密になったとしても、クラレットがアルミアを恨むのはお門違いだ。後から後悔しても知らないわよ……なんて内心で思ったものの、そういえば、と思い直す。
そういえば、クラレットが死ぬのってそろそろよね。
だったら、この機会にカミルともっと親密になれるよう頑張っても何も問題はないのかも。
アルミアはそんな風に考えて、絶対に待ち合わせ場所と時間を間違えないようにしないと……あぁ、それからどういう服を着ていこうかしら……なんて考え始めていた。
行き先は王城が見える湖の近く。景色が綺麗だけれど、場所が場所なだけに人が大勢やって来る事もなく、ひっそりと逢瀬を楽しみたい者からすれば絶好の穴場である。
そんな場所に、カミルはいた。
背後にカミルの護衛だろうか――従者と思しき男が一人いるけれど、それ以外は誰もいない。
従者の存在を除けば、カミルとアルミア二人きりである。
少しばかり早足で、しかし決して急いでいると思われない程度に注意を払ってアルミアはカミルのもとへと近づいていった。
「アルミア……?」
「すみませんカミル様。実は……」
クラレットがやって来ると思っていたであろうカミルは、しかしアルミアを見て怪訝そうな表情を浮かべていた。だからこそアルミアは事情を説明しようとして。
「あぁ、そういう事か」
「え? あの……?」
それよりも先に何かを納得したようなカミルは、背後に控えていた従者へ視線を向けた。
言葉はない。けれどもその視線の意味を従者は正しく理解したらしく、音もたてずに歩き出す。カミルの横から前に。そしてそのまま進んでアルミアの隣からその先――
一体どこへ行くのだろう……?
そんな風に思ったのも束の間であった。
「ファデル」
それが従者の名である、とアルミアが気付くまでに少しばかりの時間を要した――とは言っても精々二、三秒程度である。だがその僅かな時間が、アルミアにとっての命取りとなってしまった。
ずぶり。
「ぇ……?」
アルミアの腹部にナイフが突き刺さる。
「ぁ、ぐ……っ!?」
痛みに呻くよりも早く、アルミアの首に布が巻き付く感触がした。
直後、呼吸ができなくなる。
首を絞められているのだ、と理解して咄嗟に首に巻きつけられた布を取り外そうとしたが、余計な隙間すら存在しない挙句容赦のない力で締め上げられているせいで、アルミアの指は虚しく布の上を滑るだけに終わる。
腕を背後へ向けて振り回そうとしても、アルミアの力ではどれだけ勢いよく振り回したところで背後にいる従者を張り飛ばせるだけの威力が発生するはずもなく、それどころかそうやって動いた事で余計に布が首を締めあげてくる。
息ができないだけならまだしも、腹部に突き刺さったナイフというのが視界にちらついて、アルミアはどこを見るべきなのか混乱し、視線はやけに高速であちこち彷徨う。
ナイフは突き刺さったままで、体内に嫌な存在感を主張してきている。本来あってはならない物。だからこそ取り除かなければならないが、しかし深々と刺さったこれを自分で抜くと考えると、それだけで恐ろしかった。
刃物が再び体外へ出ていく感触を想像するだけで痛みが増した気がする。
だが抜かなければならないのは明らかで。
けれども、今ここで抜いてしまえば、間違いなく血が流れる。
そうなった時、アルミアがマトモに立っていられるかどうか。アルミアには想像もできなかった。出血多量で倒れてしまったら。
そしてそのまま死んでしまったら。
幼い頃、あまり自由に動き回る事もできずベッドの中にいた時の事が、ふと思い出された。
熱が出て呼吸をするのも辛かったあの日々の事が突然よぎる。
あの時も死んでしまうのではないか、と幼心に恐れていた。
そして今、死んでしまうのではないか、と思えるだけの事態が起きている。
助けを求めるように目の前にいるカミルへと腕を伸ばすが、カミルはアルミアにナイフを突き刺した後、すっと後ろへ下がって距離を取っている。
アルミアの伸ばした腕はカミルに届きそうで届かない。
ギリギリと更に力がこめられて首が締まっていく。
息苦しさに酸素を求めて口を開くが、上手く呼吸ができないまま。
アルミアの唇が言葉を紡ごうとして小さく動くが、しかし声にはならなかった。
救いを求めるように伸ばされていた腕が、やがて力なく垂れ下がる。
腕だけではなく足からも力が抜けて、アルミアはぴくりとも動かなくなった。
アルミアは知らない。
巻き戻る以前、クラレットが死んだのはカミルと従者が殺したからだという事を。
そしてクラレットが死んだのがこの場所であったという事も。
以前のような結末を迎えてたまるかと思っていたクラレットが、自分の代わりにアルミアを向かわせたのだという事など、彼女は最期まで気付けなかったのである。
次こそは。
そう願った女の望みは、果たして叶えらえる事はなかった。




