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三題噺  作者: 銅座 陽助
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ここよりずっと先、海を越えたこの世の果てには黄金で出来た島国があって、死んだ人はみなそこで幸せに暮らすのだ。私がまだ小学校に通う前の幼いころ、曽祖父はときどきそう語っては悲しそうな眼で遠くを見つめていた。今思えばそれは当時すでに胃癌を患っていた曽祖父の気休めで、私に語り掛けているというよりも自身に言い聞かせていたのだと思う。まだ五十代のうちに事故で曾祖母に先立たれた身で、そのうえ自らの死も身近に迫っていることを知った彼の心労のほどを推し量るのは当時の私にはおろか、社会人となった今の私にも難しいことだった。あるいは私も、自らの死の足音が近づいてくる音を聞くようになればその恐怖と心配と、そして少しの安堵と諦念がないまぜになったような感情に名前を付けて咀嚼することができるようになるのであろうか。あいにくとそうする時間は無かったし、私に残されているのはただ彼が感じていた感情を取りこぼさないように、必死にかき集めて暖をとることだけだった。数センチ先ではごうごうと唸り声をあげる暴風雪が視界を真っ白に塗りつぶしている。斜面にできたこのわずかなへこみが、私が収まる最後の純白の棺だった。登山なんて趣味を始めなければ良かったと今思っても遅すぎたし、きっと今より前の時に思っていたとしてもやめることはしなかっただろう。そういう意味でこの現状は私にとって必然で、因果応報といえばそれまでの、あまりにもあっけない「おわり」の来訪だった。曽祖父は結局、病院のベッドの上で酸素マスクを外されて死んだ。無機質な心電図モニターがけたたましく鳴って、それで終わりだったと聞いた。曽祖父が死んだとき私は学校に居て、友人とその日の部活動について笑いながら話し合っていた。母からは死に顔は安らかだったと聞かされたが、とてもじゃないがそれを信じることはできなかった。お見舞いに行ったとき曽祖父はいつも寝ていて、結局私が彼と最後に話したのはもう思い出せないくらい昔の、彼がまだ自分の口で食事ができていた時のつまらない会話だった。彼は死に際にどのようなことを考えていたのかはわからないし、きっと何も考えることができないほどに昏迷していたか、或いは痛みに呻いていたのかのどちらかだと思う。曽祖父は理想郷に行けたのだろうか。病院があったのは海沿いの街で、病室の窓からは海が見えていたから、きっと彼は行けたのだと思う。曾祖母はどうだろうか。事故にあったのは臨海の曲道だと聞いていたから、きっと彼女も行けたのだと思う。それじゃあ、私は行けるのだろうか。肘から先の感覚があまり無いし、持ってきていたチョコレートも随分前に食べてしまった。携帯電話は圏外で通じないし、通じたとしてもこの吹雪では救助隊が来るのは何日あとになるかわからない。なによりここは山だ。海からはずいぶん離れているし、きっと私は曽祖父たちのいったところに行くことはできないだろう。火葬された彼らと違って、私はそもそも遺体が発見されるかも怪しい。雪解け水になって地面にしみ込めば、水脈を通っていずれ海に流れ込むことができるだろうか。それだってきっと何年も何十年もかかるだろう。それまで私は私でいることができるのだろうか。だんだんと寒さも感じなくなってきたような気がする。これが彼が死に際に感じていた感覚なのだろうか。あるいは魂が肉体から離れて、どこか遠くに、それこそかの理想郷に私を運んでいく感覚なのだろうか。ひどく眠い。雪山で眠ってしまってはそれこそ死につながるというのは有名な話だ。寝てはならないと理性は警鐘を鳴らしているが、今となってはもう寝てしまって、そのうちにすべてが終わっている方が楽なようにも思える。ごうごうと吹きすさぶ暴風雪はその方向を変えて、私が身を横たえているわずかなへこみに吹き込んでくるようだった。風の音がうるさくて、それ以外の音が何も聞こえない。耳が痛くてちぎれ落ちてしまいそうだ。だがそういった感覚もすべて肉体に置き去りにして、私の精神は緩やかな地の底へと、或いははるか遠くにある理想郷へと向かって落ちて行って――――――。

 


地響きがあったのを感じた。朦朧としていた意識がほんのすこしだけ、冷え切った現実に引き戻される。そうして、何かが終わる破壊的な音がして、私は上から殴り潰された。



眠って終わりだ。眠るように終わるのだ。私は安らかに終わるはずだったのだ。折れた肋骨が肺に刺さって息がほとんど漏れていく。声は出ない。かすれたような音も耳に届かない。真っ暗な雪の下で、深紅の染みが白い雪に吸い込まれていく。内臓がいくつか弾けて、腕も足もへんな方向を向いている。誰も、私自身さえも、それを見る者はだれ一人としていない。痛みが脳髄を支配して、半分しか残っていない視界も赤と白のまだらに染まっていた。


意識も、魂も、私のすべてが、このまだら色の棺の下で終わるのだ。


世の果て、チョコレート、殴る

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