魔除け
がらんどうになった部屋を一瞥して、私は二度と開けることの無い扉を閉じる。
ずいぶんと寂しくなった玄関から出ると、生暖かい風が吹いて廊下の枯れ葉がくるくると回る。照り付ける陽射しが下方の道路に反射して目を穿つ。日陰は多少は涼しくて、残暑の厳しい9月の暮れ、私は実家に帰ることになった。
馬鹿な男に捕まったものだ、と思う。同時に、そんな相手にのぼせ上って、つい先日まで都合の悪いことはすべて見ないふりをしていた自分に嫌気が差す。なにもかも上手くいくと根拠もないのに信じ込んで、私は後戻りできなくなってしまっていた。結婚してしばらくは、あの甘美な幻想が、いつまでも続くと思っていたのだ。
離婚した以上、彼と私はもう他人。結婚を機に仕事もやめてしまっていたものだから、今の私にはこの街に居る理由も無い。彼と、彼の浮気相手――最も、今は彼女こそが妻なのだが――の生活するこの街から、私は一刻も早く立ち去りたかった。
スーツケースを手に、特急列車に乗り込む。
幸いにも金はあった。慰謝料やその他諸々で、当面の生活には困らないだろう。金は無限ではなく、汲めばいつかは尽きてしまう。その前に私はどうにかしてこれに注ぎたしていかなければいけないのだが、幸運なことに、それは今である必要はなかった。
電車にしばらく揺られて、ようやく目的の駅に着いた。凝り固まった背筋を伸ばして、数刻ぶりの動かない地面を踏みしめる。改札を出ると、もうそろそろ夕暮れという時間になっていた。懐かしい道を登って行って、しばらくすると見えて来る茶色の屋根が、私の実家だった。
呼び鈴を鳴らせば、随分と老けた母が迎えてくれた。玄関で二言三言会話を交わして、ようやく家の中に入る。家の中はしっかりと冷房が効いていて、すこし肌寒いくらいだった。
靴を脱いで、揃えて、立ち上がる。玄関から入って正面の壁には、かつてと同じ、一枚の絵が飾ってあった。満月の下で燃え盛る、洋風の屋敷の絵だ。
相も変わらず、趣味が悪い、と思う。この絵について以前父に聞いてみたところ、なんでも父の大学時代の知り合いが譲ってくれたものらしい。父自身は芸術に興味はないものの、すこし吝嗇家の気があるものだから、貰えるものは貰っておけと快く受け取ったらしい。
それ以来、実家の、それも来客が一番に目にするところには、あの絵が飾ってある。家が燃える絵など縁起ではないというのに、他に飾るものも無いからと、父はずっとあの絵を置いている。
母が今日は客間に泊まりなさいというので、そうすることにした。私が使っていた部屋がまだ片付いていないらしく、明日からは私を加えて片付けの続きをするそうだ。その言葉に甘えて、私は荷物を客間に下ろした。父にも顔を見せに行こうとしたが、母が父はまだ仕事から帰っていないという。例日どおりなら夕食の時間には帰って来るというので、私は先に荷物の整理をしておくことにした。
夕食の時間になった。ここしばらくはストレスや忙しさ、調理器具も片付けてしまったのもあって、ちゃんとした食事を摂れていなかったこともあって、人と食べる食事はこんなにも暖かいものなのかと思った。ただ、奇妙なのは食事時になっても父はダイニングに姿を現さなかった。母にそのことを聞いてみても、彼女も困惑しているようだった。きっと仕事が忙しいのだろうということになって、私は客室に戻ることにした。
風呂の時間までは暇なので、荷ほどきの続きをしていると、スーツケースの中に入れた覚えのないものが入っているのに気が付いた。
丸い石が数珠繋ぎになった、ちいさなブレスレッドのようだった。それぞれの石には、薄青色のわっかのような模様が入っていて、ちょうど蛇か何かの目玉のように見える。
不思議に思ったので、似たような石について調べてみると、どうやらアイアゲート、あるいは天眼石と呼ばれる、パワーストーンのようなものらしい。魔除けに用いられることがあるらしいが、私にしてみればこのブレスレッドは勝手に荷物の中に入っていたのだから、むしろ魔そのものなのではないかと思いたくなる。見れば見るほど、気分が晴れるどころか悪くなるような紋様で、常に見られているような、それも好奇の目で観察されているような気分になってくる。
そうしてブレスレッドをこねくり回していると、母がノックもせずに扉を開けて、慌てふためいた様子で転がり込んできた。そのまま口をパクパクとさせるばかりなので、とにかく落ち着かせないと何があったのかは聞くことが出来ないと思い、ひとまずブレスレッドを部屋の中ほどの壁際にある鏡台に置いて、母の傍に座り込み、ゆっくりと呼吸をさせる。そうしているとだんだん落ち着いてきたのか、顔は依然として青白いまま、つっかえながらも言葉を話し始めた。
母の話によると、こうだ。つい先程、村の駐在から連絡があったらしい。駐在がパトロールをしていると、ちょうど坂の中ほどで、道端の側溝に顔を突っ込むようにして倒れている男を見つけたそうだ。この道の先には私の実家くらいしか家が無いことと、あとは背格好や服装なんかから、私の父が倒れていると判断したらしい。酔っぱらっているとか、とにかくなぜ倒れているのかを確認しようと駐在がその男を揺り動かすと、身体がごろんと転がって、顔がこっちを向いたそうな。意識があるのか、ないのか、そもそも何故こんな場所で寝っ転がっているのか。とにかく声を掛けようと男の顔を覗き込むと、どうにもそこには、がらんどうの眼窩だけがぽっかりとあって、そこにあって然るべき目玉が無くなっていたらしい。そうしてそのまま、慌てて母に電話を掛けたということだった。
私はその話を聞いて初めに抱いたのは、心配や恐怖の情というよりも、とにかく先程のブレスレッドを知られてはならないという秘匿の気持であった。私は震えるばかりの母に、まずは現場に行きましょう、きっと暗かったからなにか見間違えたのでしょうと、そう言い聞かせて、二人そろって部屋を出た。
客間の扉が閉まる寸前、鏡台の方に目をやると、やっぱりあのブレスレッドと、目が合ったような気がした。
客間から出て、玄関に向かう。玄関の扉のほうから、どんどんと叩く音が聞こえて、きっと駐在も電話のあと家に迎えに来たのだろうと、そう思った。
足取りもままならない母にやっとの思いで靴を履かせて、私も履きなれた靴に足を通して、ようやく玄関の扉を開ける。うるさいくらいに叩かれていた扉はいつのまにか、しんと静まり返っている。がちゃりと鍵を回して、重たい扉を開けた。
玄関扉を開けて最初に感じたのは、むせ返るようなガソリンの臭いだった。あの脳の透くような、腹の重たくなるような、嗅ぎなれた臭いがあたり一面に満ち満ちていて、私は思わず足を止めた。
月明かりの見下ろす家の入口の、その真ん中に立っていたのは、あの男で。
夜に溶け込む紺碧の、警官の制服が恐ろしく似合っていて。
ああ、だから私はどうしようもないのだと、ようやくはっきりと理解した。
彼はかつてのように笑っていて、ジッポライターが下に引かれて。
世界が止まったようになって、私の背中は、酷く凍えていた。
炎に包まれた屋敷の中、蛇の目石、寝る