遅きに失する
その日はいつにもまして憂鬱だった。
うちの班に配属された新入社員が無断欠勤して、上司がいらいらしている。そしてそのストレスのはけ口を、彼の指導担当だった私にぶつけてくるのだ。
今どきの新卒が入社後すこしで蒸発することなんか、すこしインターネットに触れていれば常識だろうに。にらみつけて来る上司に、すこしでも「仕事してます」アピールをするために、私はもう一度彼に電話を掛ける。
『お掛けになった電話番号は……』
もう何十回と聞いたアナウンスがスマホから流れる。十中八九、着拒されている。
だめです、繋がりません。と上司に報告して、私は自分の仕事に戻った。
仕事に忙殺されるうちに、いつの間にか退勤時間になったので帰宅する。上司はまだイラついているようで、後輩くんを頼んだよ、きみの責任だろう。なんて去り際に投げつけて来る。そんなことを言われても、どうしようもないじゃないか。私は愛想のいい笑みだけを返して、できるだけ速足で部屋を出ていった。
明日は休みだ。
電車に乗って、数か月ぶりに実家に向かった。
今の会社は上司こそ気に入らないが、こうして少し嫌なことがあると電車に乗って、実家にすぐに戻ることが出来る立地なのは良いところだった。
電車に揺られているうちに疲れていたのが出たのか、いつの間にか電車の中で眠りこけてしまっていたが、アナウンスで目を覚ますとちょうど目的の駅に着くところだった。
最寄りの駅は無人駅で、降りているのも私だけ。涼やかな風が吹いて、日が照り付ける。都会の喧騒から離れて望郷の念を満たす。こうして少し離れただけで見ると、普段私が暮らしている都会というものが、自然の営みの中にできた不自然な特異点であると感じられる。そもそも人間というのはこういった自然の中から生まれて来ていて、本来の居場所というのはつまりこういう場所なのだ。そういった自然原理主義者的な演説を脳内の私が行って、聴衆である脳内の私はそれを喝采する。そしてそれを箱の前で見ている脳内の私は、それでいてお前は都会の便利さや快適さを享受し、それを捨てられないのだと嘲笑する。お前は結局のところ、生きる場所として故郷ではなく都会を選んだ身なのだ。
くだらない脳内劇場に幕を引いて、私は実家へと足を進めた。数年前から変わらない景色が、次から次へと現れては後方に流れ去っていく。そうして私の実家は見えてくるのだ。
家族に軽く挨拶して、荷物を置く。昼を食べていきなさいというので、ありがたく頂戴することにした。この家には父と母の夫婦二人で暮らしていて、時々近況報告と健康確認もかねて来ることにしている。農家の仕事の方も順調だそうで、これはしばらく心配はないのかもしれない。
昼食を食べて、適当にうろついていると、開きっぱなしになっているガレージの扉が目に入った。中のトラクターがなくなっているから、たぶん父が畑の方に乗っていっているのだろう。それにしたって不用心だ、いや、田舎だからこんなものかと思いながら中を覗き込む。ガレージの中は薄暗くて、少しひんやりしている。こびりついた土と油の匂いに懐かしさを覚えていると、ふと目に留まるものがあった。
工具や軍手なんかが置いてある台の上に、一台のスマートフォンがあった。うっかり父が忘れていったものかと思ったが、父はいまだにガラケーを使っていたはずだから、たぶん、父のものではない。じゃあ誰のものなのだろうか。恐る恐る手に取って、触ってみる。見覚えのあるものだ。しかしどこで見たのか思い出せない。新しめの機種で、そんなに傷や汚れも目立たないものだ。持ち主に悪いかなと思いながら、スリープを解除してみる。充電は半分くらい、そうして、私はそのスマートフォンが誰のものだったかを思い出した。待ち受けに表示されたのは、数人の男女。自慢げに見せてくれたのを覚えている。このスマートフォンは、あの新入社員のものだ。
私はあわてて、自分のスマートフォンを取り出した。昨日何度も掛けた電話番号にもういちど掛けなおす。目の前のスマートフォンが、バイブレーションで鳴り始めた。間違いない。彼のものだ。
私は彼のスマートフォンをもとの場所に戻して、なぜこれがここにあるのかを考えた。なぜ、彼が私の実家に来ている? 彼に私の実家の場所は教えていないはずだけれど。誰かが彼のスマートフォンを持ち込んだ? 父や母が? 何のために?
物思いに耽っていると、家の方から私を呼ぶ母の声が聞こえた。話があるらしい。せっかくなのでこのスマートフォンの話も聞いてみたいと思い、先程戻したスマートフォンを手に家に戻った。外はいつの間にか、日が傾いていた。
家に戻ると、いつの間にか父も戻ってきていて、居間の机を囲んでいた。トラクターは畑に置いてきたのだろうか。それに、畑仕事をしていたはずなのに、彼の着ている服は家でくつろいでいるときのそれだった。母がコップに入った麦茶を四つもってきて、机の上に置く。三人が座ると、父が話し始めた。お前も良い歳なのだから、そろそろ結婚すべきだろう。こっちのほうで相手を見繕っておいたから、この婚姻届にサインしなさい、と。
突拍子がないにも程があるというか、あまりに常識に欠けた発言に、私は耳を疑った。目を白黒させていると、母は、お相手の人ももう呼んであるんだからね、と向こうに向かって呼びかけた。そこから出てきたのは、予想通りと言えば予想通りの人物で、でも外れてほしかった予想の相手だった。
部屋の奥から現れて、私の向かいに座ったのは、後輩の彼だった。
しかし彼の様子は、ここしばらく会社で見ていたそれとはずいぶん違っていて。
ありていに言うと、ひしゃげていた。
頭蓋骨がへこんで、目玉なんかは片方飛び出して濁り切っている。腕もてんでバラバラな方向にねじ曲がっていて、肺や方からは黄色っぽい骨が飛び出していた。乾いた血が固まって、赤黒いかさぶたが動くたびにぽろぽろと落ちていて、その様子は、まるで何かに強く叩きつけられたみたいだった。
脳が理解を拒絶している。恐怖を感じる前に、身体の芯から冷え切っていくのを感じる。よく見れば父と母も、それっぽいだけで、私を見ていない。父と母の姿を借りた、なにか全く別のものが、私の前に居た。
私は目の前の婚姻届けに目を落とした。父と母が、その姿をした何かが早く早くと私を急かす。私はシャープペンシルを取り出して、婚姻届けをさかさまにした。
「書きますから、その前に。まずそちらのお名前をお願いします」
父は私の手からシャープペンシルをひったくるように奪って新入社員の彼に握らせ、自分の名前を書かせようとする。そのうちに私は、急いで荷物をまとめて駅に向かった。
役所がシャープペンシルで書かれた書類を受け取るわけがないのだけれど、そもそもあんな突拍子もないことをする化け物が、人間の文化をちゃんと理解しているかは怪しいものだ。それにどうやったって、芯のないシャープペンシルでは一文字も書くことはできないだろう。私は駅のベンチに座って電車を待ちながら、自分の対処が実に優れていたことを思い返し、誇らしくしていた。
さて、そもそもあの後輩は何故あそこに居たのだろうか。あんな死体となっていたのだから、たぶんここはあの世で、彼は落ちたか、撥ねられたかしたのだろう。そうして私を引きずり込もうとして、こんな場所に誘い込んだのだ。
じゃあどうやって誘い込まれたのだろうと考えれば、たぶんこうして実家に来るときに寝てしまったのが原因だろうから、また電車に乗れば同じように現世に帰れるに違いない。
昔オカルト系のサイトなんかを見ていたかいがあった。こういったときに対処できるのはやはり知識で、新しいことを勉強しようとしないあの上司は、同じことがあったらきっと戻ってこられないだろう。
それにしても電車が遅い。田舎はこれだから良くないのだ。
すこし小腹が空いてきた。昼食をもう少し食べておけば良かった。
ガレージの中、シャープペンシル、契る