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三題噺  作者: 銅座 陽助
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さして人と変わることもなく

 腹が、減った。

 某グルメドラマの主人公のようなことを考えながら、私はパソコンをスリープにした。あの作品は原作の漫画があるのだったか。漫画の方は読んだことが無いが、このセリフは出てくるのだろうか。そんなとりとめのないことを考えながら、私は軋む椅子から立ち上がる。クッションもくたびれてしまって、この椅子もそろそろ買い替え時だろうか。余計なことを考えていたら、机に突いた手が当たって、転がり落ちそうになるコーヒーの空き缶をあわてて逆の手で押さえた。

 コロナウイルスの影響で我が社でもリモートワークが導入され、私の仕事場は綺麗なオフィスから薄汚れたボロアパートになった。これまで朝早く起きては寝不足の中満員電車に揺られ、仕事というストレスに加えてさらに寝不足のストレスに人ごみのストレスを二重三重に抱え込んで、ただでさえ良い歳であちこちガタが来ている身体がさらにストレス過多でガッタガタになっていた私だったが、リモートワークというのは本当に素晴らしいもので、私をそれらから解放してくれたのである。もっとも必ずしも良いことばかりというわけでも無くて、これはまぁ、私の自制心とか生活管理能力とか、そういうたぐいの問題ではあるのだけれど。通勤の時間も昼休みの時間も決まったものが必要ないわけだから、私生活と仕事の境目があいまいになってしまって、要は仕事に集中してしまって昼飯をすっぽかすことが増えたわけである。

「腹が、減った」

 呟いてもひとり。締め切ったカーテンの隙間から差し込む西日が、まぶしいくらいに壁を照らしていて。不意に私は孤独と郷愁と、不安と言い表せない黒いものがグチャグチャに入り混じったような、慣れ切ったようでいつまでも慣れないあの感覚に襲われた。立ち上がったまま、どこかでカラスが鳴いているのを聞く。どうやら腹を透かしているのは私だけではないようだ。頭を振って、両手を上にあげて伸びを一つ。凝り切った肩と首がごきごきと小気味いい音を立てる。冷蔵庫にあるものは、何かあっただろうか。キッチンの電気をつけないままに、冷蔵庫の扉を開く。萎びた野菜と、残り少なくなった調味料と、飲み差しのペットボトル。卵の一つも残っていない。私は長い溜息をつきながら扉を閉めて、買い出しに行こうと財布を探した。


 近所のスーパーに来た。外食でも良かったが、今日は何となく総菜の気分だった。まだ晩飯という時間には少し早いが、今から食べるのを昼飯とするには随分と遅すぎた。家に帰って、米を炊いていればだいたいちょうどいいくらいの時間になるだろうと思って、私は総菜コーナーに向かった。通りすがりに青果の方を見る。お、玉ねぎが安い。

 総菜コーナーではちょうど値引きのシールが貼られているところで、肉食獣のような目を輝かせた面々が店員を取り囲んでいる。何も知らなければほぼ事案のような絵面である。仕事で疲労困憊の私にはあの中に入る気力は無かったので、先に今晩の晩酌のための、酒とつまみを買いに酒類コーナーへ向かうことにした。いやまぁ、仕事の後でなくともあの中には入りたくはないのだけれど。

 酒類コーナーへ来ると、先程の鬼気迫るような、いやに暑苦しいような熱気も無くなって、むしろうすら寒いくらいだった。店員に詰め寄るような客の声も、走り回る子供らの声も届かなくて、天井のスピーカーから流れる、どこかで聞いたようなヒットソングだけが静かに鳴り響いている。ここは落ち着いた、澄み切ったような空気で、人っ子一人居なかった。いや厳密には一人居るのだが、あれは人ではない。あの赤ら顔に長っ鼻、歯が一本だけのやたらに背の高い下駄を履いて、ぼろぼろの裃に高級そうな扇を佩いている。思わず二度見したが、どこからどうみても天狗である。天狗がスーパーのカゴを片手に持って、真剣な表情で日本酒を選んでいる。

 まさかそんなものがいきなり目の前に出て来るとは思わなかったから、私は思わず立ちすくんでしまって。その天狗が長い思案の末に、値段の張りそうな大吟醸を棚から取り出し、ゆっくりとカゴに横たえて。満足そうな顔で一度頷いて、顔を上げて一歩歩き出して。そうして初めて、通路の端に突っ立っている私を見つける一部始終を見届けることになった。私は天狗の方を見ていたから、天狗の方も私を見ると、ちょうど目が合う形になる。向こうも私がいることに驚いた様子で、目が合った瞬間、私とそっくり同じように、一歩歩き出した姿勢のまま立ちすくむことになった。

 微妙な空気が二人の間に流れて、店内BGMがどこか遠くで鳴っているように聞こえてきて。そうしてどれくらいが立っただろうか、どちらともなく会釈が起こった。二人ともがぎこちなく歩き出して、距離が近づいていく。天狗というものも人間とさして変わらないらしい。そう思うと急に可笑しいような気持ちになってきて、もう少しですれ違おうとするときに、思わず私は話しかけてしまった。

 「あの」

 そうした瞬間、天狗はその大きな目を見開いて、髪の毛をアニメみたいに逆立たせて、そうしてぶわりと風が吹いた。思わず私が目をつぶって、もう一度目を開けた時には、もう天狗は居なくなっていた。外でもないのに風が吹いて、瞬きをする間に姿を消す、まさに天狗だと、半ば放心状態のようになりながら私は思った。


 私はいつもの安いパック酒を棚から取り出して、カゴに放り込む。段々と落ち着いてきて、つまみの柿ピーを選びながら、一つの事に思い至った。

 「あいつ、酒の支払いやってねぇじゃん」

スーパー、大吟醸、瞬きする

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