水葬
「おれァな。もう海には行かねェことにしてんだ」
叔父は時々ベランダに出て、そう言って遠くを見つめていた。手すりの上で組まれた、齢を重ねてなお逞しいはずの腕は、そのときばかりはひどくしょぼくれて見えた。
結局、叔父は海に行くことになった。このあたりの地域ではまだ水葬の風習が残っていて、死んだ人、特に船乗りは通夜の後の引き潮の日に、棺ごと小舟に乗せられて海に流されるふうになっている。叔父はもう漁師はやめて、こじんまりとした商店の主をやっていたのけれど、やはり元漁師だからと町内会のすすめで、彼も水葬されることになった。私も彼の数少ない親族のひとりだったから、葬儀に出席するために、仕事を休んで久しぶりに地元に帰っていた。通夜が終わって、花や写真のほかに、本人の取った魚拓や使っていたタモ網も棺の中に一緒に入れられて、叔父の入った棺の小窓は閉じられた。彼の日に焼けて突っ張ったような顔は、もうとっくにその感触を失っていて。叔父を乗せた小舟が岸から押し出されて、そうしてようやく私は彼が死んだことを理解したようなつもりになった。水平線に溶けていく影を見て、私は何かとても大きなものを失ったような気がした。
――海で生かされたものは海に還るんだと、そう誰かが言っていた。
四十九日も過ぎて、幾分か心も落ち着いてきた。ちょうど休みが取れたので、私は実家に帰って、彼の遺品整理を手伝うことにした。叔母が作業の供にと淹れてくれたコーヒーはすこし酸っぱくて、これが叔父の好みだったのだなと感じた。叔父が使っていた部屋からは、漁師の時に使っていた仕事着や腕時計、船や仲間たちと一緒に写っている写真、昔の歌手のカセットテープなんかが次から次へと出て来て、私の知らない叔父の姿を想像してほんのりとした感傷に浸っていた。そういったものやカタログなんかに紛れて、一冊のノートが出てきた。ぱらぱらとめくってみると、どうやら彼の日記帳のようだった。随分と痛んではいるが、それも彼が船に乗る中でつけていたもののようで、ページをめくるたび、ほんのりと海の匂いがするような気がした。流し読みをしながら、彼の半生に思いを馳せる。そうしていると、ふと気になる記述を見つけた。
19xx年3月9日
ポイントへの移動中に水平線付近に黒い影を見る。方角は東北東。
6分後に遭難信号を受信。座標方角は同じく東北東。救助に向かう。
13分後座標に到着。付近に船のものと思われる残骸あり。特徴から田越さんのところの長福丸だと思われる。長福丸に通信を試みるも応答なし。今日漁に出ている葛鶴さんと平さんに連絡して捜索するも田越さんは見つからない。海保に連絡。帰港後に確認する。
――追記、発見ならず。
この日以降も数日間捜索が行われたようだが、結局田越さんは見つからなかったらしい。「本日も発見ならず」の、祈るような文字ばかりが何日も、何日も積み重なっている。震えるような筆跡で描かれたそれが、日を重ねるごとに苛立ちを現すように乱雑になっていく。とはいえずっと漁を休むわけにもいかなかったらしく、しばらくすると通常通りの日誌が再開されていた。しかし、その数日後だった。
あの影が見ている。
日付も記入されていない、殴り書きのような、ただその一文だけ。その後には白紙のページが続くばかり。だけれどその一文で、彼に何が起きたのかを理解するには十分だった。たぶんそれっきり、叔父は海には出ていなかったのだろう。私は静かに日記帳を閉じた。
一人ぼっちの船室で、沈みゆく彼は何を思って、何を見ていたのだろうか。
海で生かされたものは、海に還る。
マグカップの中のコーヒーに、黒い影が揺らめいて消えた。
船室、マグカップ、見つめる