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「あっくんは絶対に返さない」
数か月前、雫がりんこに言い放ったセリフ。
それと同じ状況、行動で、りんこは雫に見せつけたのだ。
唇に残る感触と、甘美なぬくもりを振り払う。
「雫……っ!」
俺は立ち上がり雫に駆け寄った。
相当なショックを受けているであろう彼女は、前髪を垂らして、表情は見えない。
「ごめん……俺……その……っ」
言葉がうまく紡げない。
どうすれば、雫との関係を修復できるのか、いくら頭をまわしてもその答えは出ない。
時間にして数秒の時間だっただろうか?
俺が何も言えずにまごついていると、雫は前髪で隠していた顔を上げる。
「……っ」
雫は泣いていた。
冷たい涙は、頬を流れて、ちいさなあごから零れ落ち、雫のシャツを濡らしていた。
怒るでもなく、悲しむでもない、その中間のような、形容しがたい表情。
りんこへの怒りと、情けない自分への罪悪感からくる、そんな表情だったのだろう。
「雫……っ!」
俺は何をするでもなく、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
雫が催眠術で俺を縛ろうとしたように、俺も雫に嫌われることを恐れて、催眠術にかかったフリをしていた。
お互いがお互いに嘘をつき、それがばれて、その罪悪感で苦しめられている。
りんこの言う『破綻』とは、おそらくこの状況のことを指していたんだろう。
「…………」
結局雫は何を言うでもなく、袖で涙をぬぐい、リビングから速足で去っていった。
階段を上る音を聞いていると、雫と俺の距離がまた、どんどん開いていくような感じがして、思わず耳をふさぐ。
「あっくん」
優しげな声。
柔らかな香り。
背中からりんこに抱きしめられる。
「つらい気持ちはわかるよ? でももう関係は戻らない」
まぎれもない事実。
変えようもない現実。
それを容赦なく、賢すぎる幼馴染は俺に突きつける。
「うるさいっ!」
りんこの腕を振りほどき、叫ぶ。
あたたかい感触が、いまだ背中に残っている。
俺はその感触がなくなる前に、すぐさま冷静になった。
「わ、悪い……」
りんこにあたるのは筋違いだ。
彼女は事実を告げているだけなのだから。
歪なのは俺と雫のほうなのだ。
「今は、一人にしてくれ」
「あっくん!」
玄関まで速足で向かい、靴のかかとを踏みつけながら、外に飛び出した。
空は灰色。天気予報を無視して、いつの間にか雨が降っていた。
構わず走り出す。
雨が横殴りになり、全身を打ち付ける。
少しだけ期待していた。
催眠術にかかったフリという嘘がばれたとしても、なんだかんだで雫は俺を許して、また懲りずに催眠術をかけてくれると。
嘘に気づかないフリをして、今まで通りのおかしな関係が続くと思っていたのだ。
けれど。怒りもしなかった雫の反応と、りんこが告げた事実によって、俺は確信してしまった。
あぁ、もう元には戻らないんだ。
そう、確信してしまったのだ。
「はぁ……はぁ……っ」
気づけば俺は、一キロほど先の公園に来ていた。
雨が地面に乱反射して、泥を巻き上げる。
濡れたソックスに不快感を感じながら、俺はドーム状の遊具の中に入り、そして乾いた砂の上に腰を下ろした。
不思議と息は切れていない。
「……ここ、そういや」
湿った空気、壁に書いてあるどこか見覚えのある落書き。三畳ほどの暗い空間。
子供のころはもっと大きく感じられたのに、今は手狭に感じる。
幼いころ、俺はここに来たことがある。
通っていた小学校と、自宅のちょうど中間地点にあるこの公園で、俺はよく遊んでいた。
中学生、そして高校生になり、見ることすら少なくなった小さな公園。
ブランコの鎖は錆びつき、砂場は砂が少なく、滑り台のペンキはところどころはげて、そして今雨宿りしている小さなドームも、経年劣化や小学生たちの落書きで埋め尽くされ、お世辞にも綺麗とは呼べない。
何を思ったのか、俺はそんな場所に来ていた。
雫とここで遊んだこともある。
好きだという気持ちを自覚し、それを嘘で繋ぎ止め、そしてそれが終わりだと告げられ、雫に拒絶された。
もうどうにかなりそうだった。
がなりたてて泥の中を転げ回れば楽になれるんじゃないかってくらい、苦しい。
そんな精神状態だからこそ、雫との思い出があるこの公園に来てしまったのかもしれない。
「……あっくん」
狭い空間に、反響する鈴のような声。
鈍い日光がドームの湾曲した壁に歪んだ影をつくる。
たとえ影が歪んでいたとしても、その影の主人を、俺は予測することができた。
「りんこ……どうしてここが……」
視線を上げずにそう答える。
自分でもびっくりするくらい暗い声がでた。
「わかるよ。だって私、けっこうあっくんのこと好きだし」
いつもなら心がかき乱されるセリフを聞いて、不思議と落ち着いた。
全身を濡らしながらも、にこやかに笑うりんこが、俺の隣に腰を下ろす。
長い髪は濡れて、薄い化粧もおちて、着ていた淡いピンク色のニットも濡れて、透けていた。
「風邪ひくぞ」
うつむきながらそう告げると。
「あっくんに言われたくないな」
笑いながら彼女はそう答えた。
先ほどの重たい空気を感じさせない口調。
怒鳴って、感情に任せて、家を飛び出した俺を、何も責めずに隣にいてくれる。
そんな器の大きい幼馴染を見ると、自分の矮小さを思い知らされるようで、心臓の奥のほうがずきりと傷んだ。
「ごめんりんこ……俺……ほんと子供だよな……」
「あっくんは子供じゃないよ」
「子供だろ。雫とうまくいかないからって、りんこにあたって、外に飛び出して……今こうしてお前に慰められてる。俺はお前に好意を抱いてもらえるほど、できた人間じゃないんだよ」
りんこは言わずもがな賢い。
ルックスもいいし、性格もいい。……少し……いや、かなり黒い部分はあるけれど。
そんな彼女が、俺のことを……ずっと好きでいてくれる。
「俺はお前の気持ちを踏みにじってまで、雫を救うために催眠術をかけた。それなのに全部台無しにして……ほんと、最低だよ……」
雨音の不規則な音が、暗いドームに反響して、無言の時間を埋める。
三十秒ほどたって、りんこが雨音を縫って口を開く。
「あっくん、この落書き、覚えてる?」
「落書き……?」
りんこが指さす方向に、土で汚れたマジックの落書きがあった。
ところどころかすれていて読めない。
けれど、どこか見覚えのある落書き。
数秒ほど考えるけれど、なかなか思い出せない。
「この公園でりんことよく遊んだことは覚えてるけど……何があったかまでは思い出せないな……」
そういうと、彼女は頬を膨らませる。
「あっくんはひどいなぁ」
「え……?」
「私はずっと覚えてるのに」
りんこは自分の膝に、俺の手をあてた。
「私、あっくんとはじめてここで、出会ったんだよ?」
その一言で、頭にかかっていたもやが一気に晴れる。
* * *
夕暮れ。影が伸びる。
放課後、文房具屋で買い物をした帰りに、俺は公園の前を通りかかった。
「……ひくっ……っ……うう……っ」
「……え?」
遠くから聞こえる、女の子のすすり泣く声。
小学校低学年の男子が、薄暗い夕暮れにそんな声を聞けば、嫌でも幽霊を連想する。
俺はすぐさま走り出そうとしたけれど、頬に水滴が当たった。
「まじかよ……っ!」
手に持っていた買い物袋を、抱え込む。
今日帰ったら使う予定のソレは、水に濡れてしまえば使えなくなるような代物だったのだ。
そうこうしているうちに、雨はどんどん強くなる。
「あーもう!」
俺は脳内で『おばけなんていないさ』を熱唱しながら、公園の真ん中にあったドーム型の遊具、その中に駆け込んだ。
雨に濡れていない白い砂。
舞う土埃。
幸い、女の子の声は聞こえなかった。
「はぁ……夕立だし、すぐにやむよな」
ドーム入口のすぐそばでわざとらしく独り言を言いながら、乾いた砂の上に腰を下ろす。
視界の端に、ドームの奥がうつる。
奥につれて深まる闇。
意識的に見ないようにするけれど、怖いもの見たさというか、どうにも暗闇を気にしてしまう。
頼むから早く止んでくれ!
心の中で祈りながらうつむいていると。
「……ひっく……ううっ……」
「ッ……!?」
暗闇の奥から、女の子のすすり泣く声が聞こえた。
おいおい勘弁してくれよ……!
俗にいう、いないと思ったらいるパターン。心霊番組などでよく見かける展開だ。
恐怖のあまり足が震える。
次に暗闇のほう見れば、すぐそばに女の子がいて俺の顔を覗き込んでいる。
そんな嫌な光景が、とじたまぶたの裏に浮かんで離れない。
「なむあみだぶつ……! あくりょうたいさん……っ!」
聞くかわからない、お経のようなものを小声で唱えながら、目を強くつむる。
雨は一向に止む気配はない。
「だれ……?」
「ひっ!?」
透き通るような女の子の声。
まずい気づかれたッ!
「見てませんなにも見てませんっ!」
「…………」
「お金二百円あります!」
「…………」
「んあっ!?」
死ぬほど慌てていた俺は、ポケットから二百円をとりだそうとして、地面に小銭をぶちまけた。
「ねぇ……」
「ひゃいっ!」
「のどかわいた」
「へ?」
暗闇から顔をのぞかせたのは、幽霊でも妖怪でもなく。
「……っ」
栗毛色の髪の毛をした、少し地味目な女の子だった。
「足……ある?」
「足? あるよ?」
「なんだよ驚かせんなよ……!」
大きく息を吐いて背中をドームに預ける。
よく見ると幽霊でもなんでもなく、どこにでもいるような普通の女の子。
少し見覚えがあるような気がする……。
暗闇に目が慣れて、女の子の顔が見える。
栗毛色の髪の毛に、一見地味目に見えるけど、整った顔立ち。
「あっ……!」
ドームの中にいた女の子は、同じクラス。しかも隣の席の女の子だった。
学校をよく休むのであまり面識がない。
そのせいですぐに気づかなかった。
「ねぇ、のどかわいたの」
「え?」
「二百円くれるんでしょ?」
「え、あ、いや……」
「うそついたの?」
「……何がいいんだよ」
「ソーダ」
「ちょっと待ってろ」
ごうごうと降る雨。
その射線の隙間を縫って、真っ白に光る自動販売機が見える。
文房具屋で買ったものを少し湿った上着でくるみ、ドームの絶対濡れない場所に置いて、俺は雨の中駆け出した。
自販機でソーダを買ってドームに戻るまで、一分もかかっていないけれど、俺の全身をびしょ濡れにするのには十分な時間だった。
「ほら、ソーダ」
「ありがと。やさしいね」
雨が滴る冷たいソーダのペットボトルを、女の子はこきゅこきゅと美味しそうに飲む。
「……あまいっ」
目尻は赤くなってはいたけれど、涙は止まっていた。
「んで、どうしてこんなとこにいるんだよ。もう五時だぜ?」
沈黙が気まずかったので、素朴な疑問を彼女に投げかける。
こんなくらい公園に女の子一人はかなり危険だ。小学生でもわかる。
「……家に帰りたくないから」
ソーダを飲む手を止めて、苦しそうに女の子は答えた。
「なんで? 家に帰らないとおなかすくだろ」
「……世の中には、空腹よりつらいことだってたくさんあるんだよ?」
「じゃあその空腹よりつらいことってなんだよ」
「…………」
女の子は黙る。うつむいて。
うつむいた瞬間、首元が大きくあいたTシャツから、うなじがチラリと見えた。
「っ……」
紫。いや……黒い。
大きなあざが、少女の華奢な体に、刻印のように焼き付いていた。
「いろいろ、あるの」
いろいろ。
その一言に含まれた万感の思い。
何も聞いていないし、聞く勇気もないので、詳しくはわからないけど、そのいろいろに含まれた内容や思いは、ポジティブな内容ではないことは簡単に理解できた。
「……」
「……」
女の子の瞳は、暗く淀んでいる。
俺はその目を何度も何度も見たことがあった。
「同じだ……」
思わず口に出る。
女の子の淀んだ瞳は、両親を亡くし生きることに絶望している俺の義妹。
雫にそっくりだった。
「同じって、何が?」
「……なんでもない」
この女の子の空腹よりもつらいこと、それを推し量ることはできないし、側にいる妹すら笑顔にできない俺じゃ、救うことなんてことさらできない。
それでも、その悲しそうな瞳を見た以上、放っておくことなんて出来なかった。
「じゃあさ、うちにこいよ!」
「……へ?」
計画性も何もない。
気づけばそんなことを口走っていた。
「家には空腹よりもつらいことがあるんだろ?」
「まぁ……そうだけど」
「なら帰らなきゃいいじゃん」
暗いドームの中で、俺がそういうと。女の子は目を丸くした。
そして少し笑いながら。
「バカなの?」
そう言った。
「バカとはなんだバカとは! 答えはシンプルだろ! 家に帰りたくなかったら、帰らなきゃいいんだよ!」
「そりゃそうだけど……でも……」
しぶる女の子。ドームの中の乾いた砂をかかとでいじっている。
「大人はさ、嫌なことでも我慢して頑張りなさいだとか、辛いのはみんな同じだ、だとか、よくわからんこと言うけど、嫌だったり痛かったりすることから逃げた方がいいんだよ」
「逃げて解決する問題じゃなかったら?」
「……でも家は痛くて辛いんだろ?」
「……うん」
「だったら逃げた方がいいだろ」
「でも……」
「あーもうめんどくせー!」
反響する声。
女の子が抱えている問題がどんなものかはわからないけど、痛ければ逃げなければいけない。
フライパンを触ってやけどしたならば、すぐさまフライパンから手を離すべきなのだ。
痛いものを痛いままにしたって、意味はない。
「こっちこい!」
「えっ! 何!?」
女の子の手を引く。
「今からお前をゆうかいする!」
「へっ!?」
名前も知らない女の子を、ドームの外に連れ出す。
先ほどまで地面に穴が開くほど強く降っていた雨は止み、オレンジ色の淡い太陽の光が、黒雲の隙間から溢れていた。




