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出会った時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
艶やかな黒髪、淡い桃色の頬、悲しげに下を向く睫毛。
そして、憂いを帯びた瞳。
一人っ子だった俺のもとに、突如現れた妹。
それが雫だった。
俺は彼女を一目見たとき、こんなにかわいい女の子が存在するわけがない。きっと妖精かなにかだと、本気でそう思っていた。
それほどまでに俺の心は、雫の未完成な美貌に惹かれていたのだ。
両親を亡くし、悲しみに暮れている彼女を、笑顔にしたい。
何もしゃべらない彼女を、常に泣きそうな顔をしていた彼女を、笑顔にしようと俺は躍起になった。
折り紙を教えたり、花火をしたり、雪遊びに連れ出したり、海で星を見に行ったり。
お小遣いはなくなるし、いろいろと準備は大変だったけれど、お兄ちゃんとしてそんな苦労は当然のことだと思っていた。
今思えば、それは雫と接近したいが為の、ただの大義名分だったのかもしれない。
とにかく彼女が好きで、とにかく振り向いてもらいたかった。
けれど、俺の無駄な気遣いは雫の心を癒すどころか、義兄に対して毎日欠かさず死ね死ね言ってくるような、ある意味強靭な心に成長させてしまった。
それもそのはず、あかの他人から急に兄貴ズラされて、おせっかいを焼かれれば、年頃の女の子はうざいと思うにきまってる。
気づいたときにはもう遅かった。……年数にして五年くらいだろうか? 雫と俺の関係は、俺が考えていた仲の良い兄妹関係ではなく、妹から嫌われきっている兄という、ある種ありふれた、冷え切った関係になっていた。
会話もなければ、目を合わせようともしない。
そんな、本当に終わりかけていた状況で、雫は俺に催眠術をかけようとしたのだ。
『お兄ちゃん、私のことを、大好きになりなさい』
五円玉を揺らし、俺にまたがる雫。
もちろんはじめは驚いたし、困惑した。
けれど、そんなマイナスの感情を打ち消してしまうほど、俺はうれしかった。
何をしても振り向いてくれなかった。
何をしてもうっとおしいと邪険に扱われた。
そんな雫が、毎日死ね死ね言ってくる義妹が、失敗に終わったとはいえ、俺を惚れさせようとしたのだ。
雫の催眠術という名のお願いを、メンタルを削られながらもこなしていた数週間。
散々自分の気持ちに嘘をついて、雫に殺されないためだとか、適当に理由を作って、俺は催眠術にかかったフリを続けた。
催眠術にかからなかった理由も、雫のわがままに付き合った理由も、本当に単純で、簡単な理由だった。
俺は、雫のことが好きだった。
だから、嘘をやめられなかった。
今まで止まっていた関係が、ゆっくりと動き出したような気がして。
雫のお兄ちゃんでいられるなら。
彼女を心の底から笑顔にできる、そんなお兄ちゃんになれるのなら。
たとえ催眠術という歪な関係だったとしても。
嘘にまみれた関係だったとしても。
それでもよかったのだ。
* * *
まぶたの裏が赤く光る。
ゆっくりと目を開けると、薄緑色のカーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。
枕もとでカチカチと音を鳴らしていた時計を手に取って、寝ぼけ眼をこすりながら現在の時刻を確認する。
「……もう十時か」
普段なら完全に遅刻している時間だけれど、今は絶賛夏休み中。焦って支度する必要はない。
時計を置いて体を起こそうとしたが、節々に痛みが走る。
体育祭が終わって二週間ほど経過したが、いまだに体の傷は癒えきらない。
雫の催眠術に応えるために勉強にトレーニングを限界までこなし、本番当日、体育祭でもかなり無茶をした。
入院やら後遺症やら、そんな大事にならなかっただけマシだろう。
「ふぁ……っ」
大きくあくびをしながら、きしむ体を無理やり動かしてリビングへ向かう。
リビングに近づくにつれ、重くなる体。
いや、実際に体が重くなっているわけじゃないけど、そう感じてしまうのだ。
二週間前、欺瞞の関係を終わらせた、あの日から。
「……っ」
かちゃりとドアを開けると、朝食を食べ終えて、食器を片している雫と目が合った。
表情はうつろ。というより、無表情と表現したほうがいいだろうか。
少し短めのスカートに、白のシャツ、淡いピンク色のカーディガンを羽織っている。
「お、おはよう。雫」
笑みを浮かべてそう言う。
ほほの筋肉が痙攣しているような、そんな感覚がした。
「…………」
雫は無言で食器を流し台に置き、そしてそのまま俺と目を合わせることもなく二階へと上がっていった。
二週間前から、この調子。
俺が催眠術にかかっていないことを雫が知ってからは、一度だって口を聞いていない。
「はぁ……」
自業自得だとはわかっていても、重たい溜息を吐いてしまう。
雫との関係を終わらせたくなかった。
たとえそれが、嘘でつながれた関係だったとしても、俺は終わらせたくなかったのだ。
そのツケが、甘えが、こんな結果を招いてしまった。
「……元通りなんて、もう無理に決まってるよな」
自分の気持ちも、雫の気持ちも知ってしまった今、雫に無視されるという以前じゃ当たり前だった光景が、とてつもなく痛い。
ぼーっとリビングで突っ立っていると、玄関のチャイムが俺の暗い感情と裏腹に、リズミカルに鳴った。
「あっくん~! おはよう~!」
家中に聞こえるような元気な声。
りんこの声だ。
「おはよう」
玄関に顔を出してそう言うと、りんこは満面の笑みを浮かべながら俺に抱き着いてくる。
清潔感のある白いシャツに、タイトなデニム。
薄手の布地、当然、りんこのたわわな感触は俺にダイレクトに伝わる。
「ちょっ! りんこっ!」
「体は大丈夫? まだ痛む?」
「お前が急にだきつくからさらにダメージが蓄積されたよ」
「癒されたの間違いでしょ?」
けらけらと笑いながら、俺の体に手をまわして、キツく抱きしめる。
「なぁりんこ、何も毎日看病に来なくたっていいんだぞ? 俺もう自分で歩けるし」
「完全に治るまでは看病します。あっくんいつ無茶するかわかんないし、夏休みだからって変なものばかり食べそうだし、心配なの!」
「心配してくれるのはうれしいけど、何もそこまでしなくても……」
「そこまでします」
りんこは白い歯を見せて、濡れた瞳で、俺をソファーに座らせながら。
「だって私、結構あっくんのこと好きだし」
そう言った。
いつものセリフを聞いた瞬間に、罪悪感で心が支配される、
俺はりんこに催眠術をかけた。
『俺のために生きてくれ』と。
動機は最低。自分に好意を抱いてくれていた親友を、雫の催眠術という名のわがままにこたえるために、洗脳したのだ。
「あっくんに催眠術をかけられた私は、こうしてあっくんのために、あっくんのためだけに尽くしてるんです」
「うっ……」
りんこは俺の腕を抱きしめる。
それによりりんこの大きな胸が、くにゅりと形を変えた。
とんでもない質量を孕んでいるはずなのに、想像もつかないほど柔らかい。
「りんこ、胸を押し付けるなって何度もいってるだろ……!」
「嫌なの?」
「い、嫌とか嫌じゃないとかそういう問題じゃないだろ。とにかくおっぱいを押し付けるのはやめてくれ」
「う~ん、だめ、押し付けます」
「俺ってお前に催眠術かけてるよな? なんでいうこと聞いてくれないの?」
「私がかけられた催眠術は『あっくんのために生きる』だから、あっくんの命令をただ聞くだけじゃないんだよ? 素直になれないあっくんが喜ぶことを私はしてるだけ」
「それだと俺がおっぱいを押し付けられてうれしいみたいじゃないか!」
「うれしいでしょ?」
りんこはさらに腕をきつく締める。
「なんならはさんでもいいんだよ?」
「は、はさむ!?」
「うん」
「はさむって何を……?」
「あっくんが想像してるもので間違いないよ」
りんこは不敵に笑う。
「あっくんが素直になれば、私はなんでも言うこと聞いてあげるんだよ? なんだってしてあげるんだよ?」
甘い声。鼓膜を粘っこく濡らすような、そんな声。
「りんこ……俺は……」
雫の顔が頭をよぎる。
狂わせた幼馴染を前にしても、俺は雫のことを考えてしまう。
罪悪感に耐えかねて、思いのたけをぶちまけようとするけれど、それはりんこの人差し指によって制止される。
俺のかさつくくちびるを、りんこの細い人差し指がなでた。
「何を言おうとしたの?」
「え……あ……っ」
「あっくんは悪人なんだよ?」
「……」
「あっくんのことが大好きで大好きだたまらない私に催眠術をかけて、私の恋敵である雫ちゃんのために無理やり働かせたんだよ? 解答用紙をすり替えさせたり、陸上部のデータを盗ませたり、たくさん悪いことさせたよね?」
終始笑顔で、りんこは事実を淡々と告げる。
「あっくんと雫ちゃんの関係が終わっちゃったのは半ば必然なんだよ。仕方ないことだったんだよ。だってあんな歪な関係無理があったよね? あっくんがどれだけ一生懸命に頑張っても、雫ちゃんはあっくんにわがままを言うばかりで何も返そうとしない」
「……」
「だから終わって当然。壊れて当然なの。あっくんが今しなきゃいけないことは、そんな終わった女のことを考えることじゃないでしょ?」
りんこは俺の足に、自分の足を絡めた。
「俺は……俺は……」
「あっくんは、私のことだけを考えていればいいの。おかしくしちゃった私のことだけを……。私も、あっくんのためだけに生きるから……」
「……っ」
耳元でそうつぶやいた後、熱くて濡れた何かが、俺の耳をなぞった。
「ほら、はやくいつものご褒美ちょうだいよ……っ」
罪悪感で縛る。
彼女の言葉にあらがうことは許されない。
俺が催眠術をかけているはずなのに、かけられていると錯覚してしまうほどの主従関係。
りんこの言うように、俺は悪人だ。
だから、責任は。
りんこをおかしくしてしまった責任は取らなけらばならない。
「こっちに顔を向けて」
「うん……っ」
彼女はさっきの真剣な顔を一転させて、ほほを朱に染めた。
ゆっくりと顔を近づけて。
俺は、りんこのほほに、ゆっくりと唇を押し付けた。
「……んぁ……っ」
頬にキスしただけなのに、りんこは妖艶な声をあげる。
「あっくん……絶対に逃がさないよ……っ」
りんこの暗くてよどんだ瞳を、俺はぼーっと見つめていることしかできなかった。
抵抗も否定も許されない。
俺はまんまと、彼女の思惑通りに動き、そして捕まったのだ。
雫との関係を修復することもできず、雫を笑顔にすることもできず、こうしてりんこに甘えているのだ。
自分が情けなくて嫌になる。
「ねぇ」
「……どうした?」
「また雫ちゃんのこと考えてるでしょ」
「…………」
「あっくんも物好きだよね、雫ちゃんって確かに顔はかわいいけど性格最悪でしょ? 私があっくんだったら絶対にあんな子好きにならないけどな~」
「雫にだっていいところはあるっ!」
思わず叫ぶ。
確かに雫はわがままだ。けれどそれをおぎなって余りあるほどに魅力的な女の子なのだ。
それは兄である俺が一番よく知っている。
雫をかばう俺をみて、りんこは少し驚いたような顔をした後、少しうつむく。
「そう、まだ雫ちゃんのことあきらめてないんだ」
「いっ!」
足を踏まれる。
透明なペディキュアできれいにコーティングされたりんこの指が、俺の足の甲をぐいぐいと突き刺す。
「り、りんこさん痛いです!」
温厚な幼馴染の、怒気を孕んだ雰囲気にあてられて、俺は思わず敬語になってしまう。
「まぁいいけどね……」
ソファーがきしむ。りんこは俺と唇が触れそうな距離で、熱い吐息を漏らす。
「あんなわがままな子より、私のほうがあっくんにふさわしいもん。……そう、すぐにわからせてあげる」
りんこがそう言った瞬間。
リビングのドアがゆっくりと開いた。
「雫……!」
おもわず名前を呼んでしまう。
俺とりんこがソファーで密着していると、リビングに空いたマグカップをもった雫が入ってきたのだ。
服装も態度も、いつもと変わらない。しかし目元だけが、少し赤くなっていた。
雫は表情を変えず、時間にして二秒ほどこちらを見つめて、キッチンのほうに歩いていく。
もう……怒るそぶりさえ見せてくれないのか……。
心を支配する落胆。これなら以前のように毎日死ね死ね言われているほうがまだマシだった。
そう思ってしまうほど、彼女の無反応っぷりは、雫への好意を自覚した俺には堪えたのだ。
「雫ちゃん! お邪魔してます!」
「ちょっ! りんこ!」
シリアスな雰囲気をまとう雫に、これでもかというほど元気に声をかけるりんこ。
慌てて制止しようとするけれど、りんこは立ち上がり、そして雫のほうへ歩いていく。
「ごめんね~リビングでイチャついちゃって! あっくんってばすごく甘えん坊だからさ! そういや雫ちゃんて最近あっくんのことさけてるよね? あ、そっか! ついに魔法がばれちゃったんだね! 学校でも噂流れてたもん! 速水くんが雫ちゃんに催眠術とか言って無理やり言いよってたって! 噂って怖いよね! 誰がどこで見てるかわかんないもん!」
早口で、それでいて満面の笑みでりんこはまくしたてる。
「おいりんこ! いいかげんにっ!」
「あっくんは黙ってて!」
金切り声がリビングに反響した。
「催眠術が魔法の正体。だから言ったでしょ。いつか破綻するって」
「…………」
雫は黙っている。俺の座っている場所から雫の表情は見えない。
けれど、彼女が今どんな気持ちかは、胸が痛くなるほど理解できた。
「ねぇ、今とってもつらいでしょ? 私にあっくんをとられて、死にたくなるくらいつらいでしょ?」
りんこは、雫の肩をつかんで無理やり振り向かせる。
「カフェでの出来事覚えてる? 雫ちゃん、お兄ちゃんは私のものだって、あっくんにキスしてそういったよね?」
雫は目に涙をためていた。
唇を真一文字に結んで、頬は紅潮し、今にも叫び出しそうだった。
「私も、おんなじ気持ちだったよ? あっくんをあなたみたいな卑怯者に取られて、あまつさえキスまでされて……」
フローリングをリズミカルに歩き、そして俺の座っているソファーまでやって来るりんこ。
「あっくん、目をつむって」
「えっ……」
「いいから早く!」
「お、おう」
鬼気迫る彼女の表情に気圧されて、俺は言われるがままに目をつむった。
淡い香りが鼻腔をくすぐる。
これは……。
シャンプーの香り?
「…………っ」
くちびるにあたる柔らかな感触。
俺はその感触を知っていた。
「りんこっ!」
唇を重ねていた彼女の肩を引きはがす。
濡れた唇。
糸を引く唾液。
唇からはかすかに桃のような香りがした。
幼馴染は額に汗を浮かべて、妖艶に笑い、そして雫のほうを見つめる。
「あっくんは絶対に返さない」




