15
やわらかい風が、頬をなでる。
ゆっくりとまぶたをあけると、淡いオレンジ色の光が見えた。
揺れる白いカーテン。ズキズキと痛む体。
微かに、消毒液の香りがした。
ここは……保健室?
「……っ」
体を起こそうとするけど、何かやわらかいものが腹に乗っかっているようで、思うように体が動かない。
頭を起こして、視線だけ送ると。
「……雫」
可愛らしい寝息をたて、俺が寝ているベッドに倒れ込むようにして雫は寝ていた。
眉間にしわが寄ってない彼女の表情は女神のように安らかで、目鼻立ちは怖いくらいに整っていた。
おそらく、選抜リレーで怪我をした俺を看病してくれていたんだろう。
しばらく雫の寝顔を眺めていると、長い睫毛がピクリと動く。
「お兄ちゃん……?」
「おはよう、雫」
「っ!」
あいさつとともに、雫は俺にラグビー部の顔負けのタックルを叩き込んでくる。
「ぐえっ!」
「もう! 心配したんだからっ!」
声に涙が混じっている。
「心配かけて……ごめんな……。そ、それより、体育祭の、選抜リレーの結果は……?」
誰かに着替えさせられたであろうシャツに、雫はぐりぐりと顔を押し付けたあと、ゆっくりと顔を上げる。
「……お兄ちゃんの、ぶっちぎりの一位に決まってるでしょ」
淡い光に照らされて、何故か少し恥ずかしそうにそう言う彼女。
少しだけ滲んだ涙が、夕日に反射して、キラキラと光る。
光の加減なのか声音によるものなのかはわからないけど。
少しだけ、笑っているような、そんな気がした。
「…………っ」
抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出る。涙で雫の顔が見えない。
「お兄ちゃん!? どこか痛いところでもあるの!?」
慌てる雫を俺は抱きしめる。
嘘で繋いだ絆。催眠術による欺瞞の関係。そんな後ろめたい術を、嘘をつき続けた。
何度も、何度も迷った。これで本当に雫が幸せになれるのか、本当に彼女が笑えるのか……と。
情けない道化を演じ、数々の苦難を乗り越えた先に、その答えはあったのだ。
笑っていると言い切れるかあやしいけど、それでも、少しだけ頬が緩んだ雫の顔。
それが、俺にとっての答えだった。
「良かった……本当に……! 良かった……っ!」
俺が負ければ、雫は速水の言いなりになっていた。
勝てる保証なんてどこにもない。本当に、奇跡みたいな偶然が何度も重なった。
頬を紅潮させて固まる雫の頬を撫でて、髪をすく。
「……俺はいくら馬鹿にされても、お前さえいてくれればそれでいいんだ。あまり心配かけさせないでくれよ」
催眠術にかかったフリではない。心の底からの、本心だった。
「……ほ、本当に、ごめんなさい。お兄ちゃん」
珍しく素直に謝る雫。今回の件は雫が発端だ。俺が負けかけて、催眠術の強制力にも限界があると解釈してくれただろう。これからのお願いが、催眠術が、少しでも難易度の低いものになることを祈りながら、俺はまぶたを閉じた。
いや。正確には、閉じようとした。だ。
ひと段落付いたところで、幕を、まぶたを下ろそうとしたんだけど。
保健室の扉が、とんでもない勢いで開かれたのだ。
扉の先にいたのは、りんこでも、教員でもない。
「速水……ッ!」
驚愕。
目を血走らせ、泥だらけになり、汗だくになっている速水がそこにいた。
いや、俺が驚いたのはいつも小奇麗にしている速水が泥まみれになっていることではない。
刮目すべきはその左手。
俺は、彼が持っているそれを、よく知っていた。
俺と雫、そしてりんこの関係性を、ほどけないほど複雑にしたそれを。
「なんであなたが……その本を……ッ!」
焦る雫。それもそのはず。速水の左手に大事そうに抱えられているそれは、雫が持っているであろう本。
催眠術の本だったからだ。
このままじゃ終わらせない。催眠術という嘘を使った代償に、悪魔がそう笑っているような気がした。
「ははっ……やっぱりおかしいと思ったんだ! 雫さんがお前みたいなやつを相手にするわけがない! 何か秘密があるに決まってた……! そして見つけた! 雫さんのカバンの中でッ!」
目を血走らせ、唾を飛ばし、取り乱す速水。
プライドをこれでもかというほど傷つけられた彼が見つけたのは、俺たちの関係を証明するような代物。いや……冷静な彼なら、催眠術の本を見つけたとしても、鼻で笑う程度で俺たちの関係と結びつけることはしなかっただろう。
しかし今の速水は飢えている。
勝利に、俺たちの敗北に飢えているのだ。
だから、催眠術の本という眉唾なものでも信じるしかなかった。そして、現物を突き付けられた俺たちはまんまと。
「その顔……やっぱりそういうことなんだな……ッ!」
顔を緊張でゆがめる。
「お前が雫さんに催眠術をかけ、そして言いなりにさせた! 今まで雫さんの正気を失わせていい様にしてきたんだろうッ!」
何か言い返さなければ、シラを切り通さなければ! そう考えて口を動かそうとするんだけど、喉元で言葉が止まる。
ここで俺が催眠術の本に対して何か言及すれば、俺が催眠術にかかってないことがバレてしまう……!
迷っている間に、雫が口を開いた。
「その本は……友達から押し付けられただけよ……! いいから返しなさい……っ!」
「押し付けられただけにしては、ずいぶん必死そうだね……雫さん……それとも催眠術で言わされているのかな……?」
にやりと笑みを浮かべる速水。間違いない確信している! 言い逃れはできない!
「じゃあそろそろ、本当にこの本が、友達に押し付けられただけのふざけた本なのかどうか、試してみようか」
催眠術の本を開き、速水は右手で素早く糸をつけた五円玉をポケットから出した。
視線を逸らす暇もない。
「雫さん……今助けてあげる……! 俺の催眠術で上書きしてあげる……!」
まずい! 雫は今寝起き! 催眠術にかかる条件を満たしてしまっている!
「くそッ!」
ベッドから飛び起きて雫の元へ向かおうとするけれど、体が上手く動かずに床に転がり込む。また強く鼻を打ち付けて、血がにじむ。
そのわずかな間に、速水はお決まりのセリフを吐いて、雫の視線を奪った。
「体の力が抜けてきて……貴方は私の言いなりになる……!」
速水の声が保健室に響いた瞬間、こわばっていた雫の体が、肩が、すとんと落ちる。
全身が脱力していた。それは、催眠術の下準備が完了した合図。
「やめろ速水ッ!」
このまま速水が暗示をかければ、間違いなく雫に催眠術がかかる。
芋虫のように這って彼を止めようとするけれど。
「邪魔するなッ! 殺すぞッ!」
彼は目を血走らせながら、保健室にあった大きなハサミを手に取った。
「お前が見てる目の前で、お前がしたように、雫さんに催眠術をかけて……それで……」
この世で最も醜悪で、下卑た笑顔を、速水は浮かべていた。
怒りが、不安が、脳内を埋め尽くす。雫に催眠術をかけた速水が、雫に対して何をしようとしているのかは想像に難くなかった。
「ッ! ぐぁッ!」
痛む体を無理矢理起こして、俺は立ち上がった。
俺は殺されたって構わないッ! けど雫だけは絶対に助けるッ!!
速水に体当たりしようとした刹那。
雫が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「おにい……ちゃ……ん。おねが……い……」
うつろな瞳。
意識を失いかける寸前。
催眠術にかかりかけている状況で、自我を保ち体を動かすのは至難の業だ。それは俺も経験している。
絶対に体は動かせないはずなのに、何か大きな力に脳内を支配され、考えることもままならないはずなのに。
それでも雫は、言葉を続ける。
「に……げ……て…………」
それは、その命令は、催眠術。
薄れゆく意識の中、自分の体が危険に晒されているにも関わらず、雫は俺に催眠術をかけたのだ。
『逃げて』と。
催眠術の効力は絶対。
俺は催眠にかかったフリをしてきた。
雫との関係を崩さないために、死に物狂いで催眠術にかかったフリを続けてきた。
今回のお願いは、今までのどんな催眠術よりも簡単。
幼馴染の目の前で妹大好き宣言よりも。
自作の義妹小説の主人公のセリフを朗読するよりも。
人生初のサイン会で女装するよりも。
幼馴染を催眠術にかけて、学年テストで一位、選抜リレー一位を獲るよりも。遥かに簡単だった。
ここでその簡単なお願いに背けば、今までの努力はすべて無駄になる。
「…………」
雫に嫌われないために、雫との関係を壊さないために、俺は催眠術にかかったフリを続けてきた。
「……いや違うな」
りんこの言葉を、俺はようやく理解する。
『あっくんは、なんで雫ちゃんの催眠術があっくんに効かなかったか、理解してる?』
俺が雫の催眠術にかからなかった理由。
雫が危険にさらされて、俺はようやく理解した。
催眠術にかけた瞬間、その催眠が、暗示が、もうすでにかかっている状態であれば催眠術は失敗する。
妹だからと言い訳して、自分の本当の気持ちを隠して、嘘の感情で覆い隠して。
普通に考えればわかる。そうでなければ、雫の突飛なわがままの為に、命を賭けたりはしない。
「雫のことを、俺はもうすでに、これ以上ないくらいに、大好きだったんだ……」
だから、催眠術にかからなかった。
だから、催眠術にかかったフリになった。
もう迷う必要なんてない。
俺が成すべきことは、ただひとつ。
うつろな瞳で、涙を流す雫。
「雫さん! まずは俺とッ!」
そんな妹に、命令しようとする速水に。
俺は思い切り踏み込んで。
「俺の妹を泣かせるな」
右こぶしを顔面めがけて振りぬいた。
「ぐがぁッ!!」
血をまき散らしながらのけぞり、転がりながら速水は壁に叩きつけられる。
彼は油断しきっていたのか、無防備な体勢でもろに右ストレートを喰らい、意識を失ったようだ。
「な……んで?」
背後で、速水の催眠術が失敗し、正気を取り戻した雫が声を上げる。
俺は雫の催眠術に背いた。
それは、俺が雫の催眠術にかかっていないことの証明。
けれど後悔はない。そもそも迷う必要性すらなかったのだ。
俺は、催眠術にかかったフリをしていた。雫を笑顔にするために。
大好きな妹の為に、嘘をつき続けていたのだ。
だから、雫を泣かせた速水を許せなかった。
それが、催眠術にかかっていないことがバレて雫に嫌われることよりも、つらくて、耐えられないことだった。
それだけのことなのだ。
「ごめんな雫、お兄ちゃん、ずっとお前に嘘ついてた」
「へ…………?」
痛みの果てに。欺瞞の果てに。
そうして、ようやく。
嘘ではない、本当の物語が、始まる。
本日から催眠義妹コミカライズ開始です。
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