10
中間テストから二週間ほど経った六月中旬。
長い間続いた梅雨は明け、湿った地面を灼熱の太陽が照り付ける。
熱帯といっても差し支えないような日本の夏。
放課後。クーラーが決められた時間しか作動しない教室で、俺は速水の前で中間テストの結果、罪悪感に駆られつつも全教科の解答用紙を見せていた。隣に雫もいる。
「馬鹿な……! あり得ない……!」
速水は文字通り目を見開いて、俺の解答用紙を見つめる。それもそのはず、ほとんどの教科で九十五点以上の高得点、数学や化学に至っては満点だ。対して速水の答案用紙は八十点前半や九十点前半。
「まだだ……! 提示された条件では、お前は学年一位にならなければいけない! 俺に点数で勝っていたとしても、佐々木さんに勝っていなければお前は負けだ!」
半ば悲鳴に近いような声を上げ、速水はりんこの方へ駆け寄り、そしてまくしたてる。
「佐々木さん! 解答用紙を見せてくれ! 全教科!」
「え……いいけど……」
眉毛をハの字にする幼馴染、もちろん演技だ。あらかじめ用意されていた解答用紙を、速水に見せる。
「そんな……!」
なんどもなんどもテストの合計点を計算する速水。残念ながら結果は変わらない。
今回の中間テスト、おそらく順位は一位が俺で、二位がりんこだ。
中間テスト、最も平均点が低かった科目は数学。俺はりんこの神がかり的なヤマ張りで八十三点という高得点を納めたけれど、速水は調子を崩して六十九点という若干渋い結果に終わってしまった。
それが勝負の明暗をわけたのだ。
しかしながら、様々な工夫を凝らし、りんこが解答用紙をすり替えなければ俺のテストの合計点はりんこに負けて学年二位、速水との勝負、雫の提示した条件をクリアできずに負けていた。
「クソ……!」
心底悔しがる速水。俺はなんと声をかけていいかわからなかった。俺は不正をした、それはまぎれもない事実。勝負には勝ったけど一生懸命頑張って勉強したであろう速水に対して威張ることはできない。
「ほらね、言ったとおりでしょ。愚兄が本気をだせばこの程度余裕だって」
なぜか俺よりも自信満々に、速水を煽る雫。俺が学年一位を取ることを全く疑っていない。そんな様子だ。催眠術の強制力。今の雫はそれを信じ切っていた。
「まだだ……まだ負けじゃない!」
速水は机をドン! と叩き、そして俺をにらみつける。
「まだ、体育祭の選抜リレーが残ってる……。足の速さに、たまたまはない。まぐれが二度続くと思うなよ?」
彼の言うように、体育祭ではまぐれは起きない。学年テストのように不正は使えない。
実力が拮抗している選手同士ならともかく、俺と速水には明確な差がある。その日の体調や外的要因に実力を左右されたとしても、絶対にその差は埋まらない。
陸上部のエースに、真っ向から勝負して勝たなければならないのだ。
……しかし、策がないわけではない。
「なぁ……確認なんだけど、選抜リレーで最後にゴールテープを切ったほうが勝ち。この条件で間違いないよな?」
「ああ、そうだ。俺とお前がアンカーを走り、勝敗を決める。逃げるなよ……?」
「……もちろんだ」
条件の確認は終わった。あとは事を成すだけだ。
「俺が勝てば、雫さんは俺と付き合う。お前が勝てば、この話は無しだ」
口角をこれでもかと上げ、笑みを浮かべる速水。心臓と脳みそが、ゆっくりと熱を帯びる。
雫の見栄から、余計な一言から、この綱渡りのような勝負は始まった。もし仮に俺が負けて、雫と速水が付き合うことになったとしても、事の全容を知る第三者からすれば『自業自得』と一言で終わらせられてしまうかもしれない。
振って湧いたような災難。それでも俺の戦意は、不思議と萎えなかった。
「雫は絶対にやらん」
そう、速水に言い切る。
「勝てる根拠もないくせにイキってんじゃねぇぞ……!」
机から身を乗り出し、鼻息がかかる距離で俺をにらみつける。走り方も知らない素人に、陸上部のエースが勝利宣言されたのだ。怒らないほうがおかしい。
「根拠ならあるさ」
どんな汚い手を使ってでも勝つ。そう覚悟を決められる理由は、たった一つの、揺るぎない事実の為。
「俺は雫の、お兄ちゃんだからな」
呆気にとられる速水に、俺は精一杯見栄を切った。
* * *
「はぁ……はぁ……!」
時刻は午後十時。
俺は肩にかけたタオルで汗を拭いながら、玄関に座り込む。
今の今まで、いつも通り坂道を走っていた。今回の作戦は、俺が百メートルトラックをある程度速く走れないと成り立たない。りんこの策があるとはいえ、俺の努力は必須なのだ。
荒い呼吸を整えていると、背後からガチャリと音が聞こえた。
「……お疲れ」
玄関から、少しだけ恥ずかしそうに雫が顔を出す。差し出された右手には、乾いたタオルが握られていた。
「ありがとう」
そう言って、汗で湿ったタオルと雫が持ってきたタオルを交換して、汗を拭う。
玄関の前で座り込む俺の隣に、雫も腰を下ろす。
「ねぇ」
「ん?」
「……お兄ちゃんは、今、誰のために、頑張ってるの?」
月明かりに照らされるアスファルトを見つめながら、雫はそう言った。考えるまでもない。
「もちろん、お前の為だよ」
もし仮に、催眠術にかかっていなかったとしても、俺は同じように努力しただろう。
俺は雫のお兄ちゃんなのだ。妹の危機に、頑張らない理由はない。
「……それは、妹の為って意味?」
「ああ、そうだ」
「そっか……」
今更催眠術の効力を確認する雫。催眠術の強制力は雫が一番よく知っているはずだ。……いや、実際には効力はないんだけど、幾度となく雫は俺に催眠術と称して無理難題を吹っかけてきた。そのことごとくを乗り越えてきた今、雫の中では、催眠術の力は疑いようもないはずなのだ。
「お前は、俺の大事な妹だ。絶対に速水のいいようにはさせない。安心してくれ」
おそらく雫も心配なのだろう。俺が負ければ、雫は速水と付き合わなければいけない。
俺を馬鹿にされて、勢いで啖呵を切った彼女が、大きな苦難を前に冷静さを取り戻し、心配になる。俺が雫の立場なら同じ気持ちになったはずだ。
湿った風が吹く。それと同時に、雲が月を覆い、影がおりる。
「ねぇ、こっち見て」
「?」
雫は、俺に揺れる五円玉を見せる。
「今から言うことは、忘れて」
「……あ、あぁ、わかった」
何かはわからないけど、催眠術は絶対。俺は紡がれるであろう雫の言葉に耳をすませる。
「私、お兄ちゃんの妹になんて、なりたくなかった」
「え……っ?」
雫の目元が鈍く光る。おそらく滲む涙。
「私は、催眠術でお兄ちゃんの気持ちをつくった。決めつけた。だから、もうこれ以上はない。一生偽物のままで、一生ただの妹のままで、終わる……」
「…………」
返答することができない。あまりにも唐突で、まったく意識してなかった。
雫はただ、催眠術によって、俺と時間を共有できれば幸せ。それが雫の喜びで、それが雫が心から笑えるようになるために必要なことだと俺は思っていたからだ。
「地味女の言うとおりだよ……一度与えられたら、そこからもっと先に進みたくなる。けれど、私には先がない。お兄ちゃんの気持ちは、催眠術でつくった偽物だから……」
雫がどれだけ俺を催眠術で操ろうと、どれだけ深い関係になろうと『催眠術で無理矢理言いなりにさせた』という事実は残る。それが、雫の心を痛めつけるのだ。
手段を選ばないという選択が、甘美な時間という成功を生み、その甘美な時間を求める気持ちが、関係を先に進めたいという気持ちに変わる。
しかしながら、催眠術がそれを許さない。偽物の関係は、それを許さない。
良心の叱責、催眠術という欺瞞。それらすべてが、お互いにかみつき、痛みが生まれる。
手段を選ばないということは、本当の気持ちを明かさないということは、催眠術に真実を隠し、捻じ曲げるということは、自分の心さえも捻じ曲げ、そして苦しめるのだ。
嘘で塗り固められた関係に、先は無い。りんこはそう雫にくぎを刺し、そして雫はそれに苦しめられている。
「……ごめんね、お兄ちゃん」
そう言って、雫は立ち上がり、家に戻る。俺は雫が戻るまでの間、何も言えなかった。
催眠術がなくたって、俺はお前のことを……。
そんなことは、口が裂けても言えない。俺は初めから嘘をついたのだ。雫の気持ちから逃げ、催眠術にかかったフリをするという選択をしたのだ。それを守るために、汚いこともたくさんした。
催眠術にかける側と、催眠術にかかった側、立場は違うのに、同じ理由で苦しんでいる。
やるせない気持ち。それに蓋をして、俺はまた、暗闇に歩を進める。
体育祭までもう数日しかない。もうここまで来てしまった。後戻りはできない。
最後まで、道化を演じよう。それくらいしか、俺にはできない。
心底苦しそうな雫の言葉を、彼女のことが大好きなお兄ちゃんは、忘れなければならないのだから。
更新遅れてすみません。
催眠義妹のコミカライズを担当(自分自身で漫画を描く)させていただいているため、小説の執筆時間が取れず遅れてしまいました。
感想欄で、エタるのはどうのこうのと、厳しいお言葉をいただきました。
申し訳ないですけど、私は専業作家です。お金になる仕事をいただけたらそちらを優先的に進めなければ生活ができないのです。
もう一作のほうも、催眠義妹も、更新したいのは私も一緒です。
できる限り頑張りますので、これからも両作品をよろしくお願いします。




