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下半身を押さえつける柔らかな感触。
俺は今、リビングのソファーで義妹にのしかかられている。
死ぬほど嫌われているはずの義妹に、寝ている隙に、押し倒されている。
まったくもって、意味がわからない。混沌ここに極まれりだ。
「……たしかはじめは、寝起きじゃないと催眠術にかからないんだったよね……」
しかも、その混沌を生み出している張本人は、催眠術とかいう物騒で非現実的な単語をぶつぶつと呟いている。
……マジでどうしよう。
これで俺が起きていることが雫にバレようものなら、羞恥に悶え怒り狂う彼女に物理的ダメージ(深刻)を与えられることは確実。
雫が何を考えているかはわからないけど。とにかく、彼女を刺激する行為は愚策。
俺は寝たフリに徹する! 嵐が過ぎるまで耐えてみせるぜ……!
そうして寝たフリを決め込む俺、すると、パラパラと本をめくるような音が聞こえてくる。
雫は何やら本を読みながらうんうんとうなっていた。
「えーと、なになに……一度催眠術にかかった相手は、完全にアナタの言いなりです。アナタが裸になって町内一周しろと言えば喜んで行動にうつしますし、催眠術にかかっている間のことを忘れろと言えば、完全に忘れます。最初は寝起きの状態でなければかかりませんが、一度かけてしまえばそれ以降は寝起きでなくともかかります。しかし、一度催眠術にかけるのを失敗してしまえば、以降対象者は催眠術にかからなくなりますので十分にお気をつけください。手軽に奴隷をつくりたいそこのアナタ、是非素敵な催眠術ライフを……か……なるほどね」
えっ……雫さん……? 何がなるほどね、なの?
その偏差値死ぬほど低そうな本どこからもってきたの?
……いやいや落ち着け俺。
雫はもう高校生だぞ? 俺と一個違いでもう今年で十七になる立派なJKだ。
そんな大人の階段を登りつつある彼女が、催眠術なんて胡散臭いものに手を出すと思うか?
答えは否。
眉目秀麗プラス成績優秀とかいうチート性能義妹だ。
勉強ももちろんできるし、要領もいい。
かかるともわからない催眠術をかけようとするなんてポンコツ系ヤンデレ義妹じゃあるまいし、賢い雫さんがそんなことするわけないのだ。
あーあ、心配して損したぜ。
「ふぅ、催眠術さえかければこの鈍感クソ兄貴も終わりね」
いやめっちゃかける気マンマンで草。
「友達にも完璧に催眠術かけれたし、練習は十分にした。命令できる範囲、かけられる時間、記憶が消えるかどうかの検証、すべて情報は得た」
いやめっちゃ頭よくて草。
「……ふぅー…………それじゃあ、起こしましょうか」
ゆさゆさと俺の体を揺さぶる妹。
ま、まずい! このままじゃ催眠術をかけられかねない!
俺のことが大嫌いな雫が、俺に催眠術をかけようとする理由。
サルでも簡単に予想できるだろう。
雫は俺を社会的に殺すつもりなんだ……!
もし本当に催眠術がかかれば、ただ一言命令するだけで俺の人生は終了してしまう。
『大声で叫びながら下半身丸出しで校庭十周しなさい』
冷ややかな声で、俺にそう命令する雫の顔が目に浮かんだ。
いくら俺のことが嫌いだからって普通ここまでするか!?
ここは多少強引でも寝たフリを敢行するしかねぇっ!
「……もう、おなかいっぱい」
アニメキャラクター寝言ランキング第一位に君臨し続けているであろう王道なセリフを吐きつつ、寝返りをうとうとする。
けれど。
「動くな愚兄」
「えぐっ!?」
膝で脇腹の辺りをグリっとされて悶絶しそうになる。
そういやこいつ護身術だとか言って柔道習ってたんだった……っ! 死ぬほど痛ぇ……っ!
「まったく、これだけしても起きないなんて、本当に鈍感すぎて腹が立つ……」
細くて温かい何かが、まぶたにあたる。
「まぁ寝たままでもいいわ。視覚情報さえ脳に与えられれば催眠術はかけられるし」
雫は細くて綺麗な指で、俺のまぶたをゆっくり開けた。
ここで不自然に目を閉じようとすれば、彼女に寝たフリがバレてしまう。
俺は抗うこともせず、雫の暴挙を受け入れる。
ま、まぁ大丈夫だろ……! 実際催眠術なんてかかるわけないし……! 雫の友達だって、お遊びでかかったフリをしてあげていたに違いない……! いやそうであってくれないと俺が社会的に抹殺されちゃう……!
「いい、この五円玉を見つめるのよ」
糸に吊るされ、ゆらゆら揺れる五円玉。いや古典的だなー……。
それでも、何故かはわからないけど、自然と視線が吸い寄せられる。
「体の力が抜けてきて……貴方は私の言いなりになる……」
雫の声。
鈴の音のような綺麗な声。
その声は、不思議と俺の脳に染みてゆく。
「ふふっ、どうやら第一段階はクリアしたみたいね」
頭がぼーっとして、意識が朦朧としている。
体を動かそうにもまったく動かない。
そんな……ありえない……っ!
本能でわかる。
何か異常な力が、体内に入り込み、俺の意識を刈り取ろうとしている……!
「えーと、ここから暗示をかければいいのよね……」
ダメだ……今この状態で、雫の言葉に抗える気がしない……っ……。
「こ、こほん」
可愛らしい咳払いをして、義妹は、俺の瞳をじっと見つめる。
「いい? クソ兄貴……い、いえ、お兄ちゃん」
何年ぶりだろう、雫にお兄ちゃんって呼ばれるの。
朦朧とした意識の中、俺はそんなどうでも良いことを考えていた。
艶やかな黒髪を耳にかけ、唇を小さな舌で濡らし、彼女は顔を真っ赤にしていた。
あぁ……俺の人生、これでおしまいか……。
雫の心の傷も癒せず、結局嫌われたままで終わってしまった。
俺がもっと、頼りになる兄貴だったら、彼女をここまで追い詰めることはなかっただろう。
幼い頃から一緒にいた雫との記憶が、脳内をフラッシュバックする。
彼女はいつもしかめっつらで、一日もかかさず俺のことを攻撃していた。
結局、一度も笑顔にしてやれなかった。
本当、お兄ちゃん失格だよな……。
ごめんな……雫……。
薄れゆく意識の中、雫の表情が、未だ色あせることなく、網膜に焼き付く。
雫は、頬をリンゴのように真っ赤に染め、うるうるとした瞳で、俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと、口を開く。
この暗示で、俺の人生は本当の終わりを迎えるだろう。
せめて終わる瞬間は、自分の意識がないことを祈りつつ。俺は雫の言葉に耳を傾けた。
「お兄ちゃん、私のことを、これ以上ないくらい……だ、大好きになりなさい……っ!」
「へ……?」
瞬間。
体が、脳が、意識が、解放される。
感覚で理解した。
雫が俺に暗示をかけようとしたその時、催眠術は解除された。
なんらかの理由により、失敗に終わったのだ。
いやそれよりも……。
雫が、俺を……惚れさせようとした……?
まったくの意識外。まったくの予想外。
そんな彼女のセリフに、俺は呆気に取られていた。
寝たフリをするのも忘れて。
「……クソ兄貴……催眠術、ちゃんとかかってるよね?」
驚きのあまりパッチリ目を開けてしまっている俺に対して、雫は不安そうにこちらを覗き込んでいる。
そうか、雫はこれまで催眠術に失敗したことがない。だから、かかってない場合の反応を知らないんだ。
今なら……催眠術にかかったフリをすることができる……。
雫の暗示の意味を今はよくわからないけど……これだけはわかる。
俺は、雫が左手にもっているものを、視界の端にとらえていた。
黒々とした大きな金槌。
もし催眠術がかからなかった場合、彼女は俺の記憶の消去(物理)を行う気なのだろう。
流石はパイルバンカー系ヒロイン、その辺りのアイテムも抜かりないぜ……!
「質問に答えなさい……! もしかかってなかったら、アンタを殺して私も死ぬから……っ!」
雫の目は本気だった。
流石はパイルバンカー系ヒロイン、ツンのレベルが他の属性と一線を画しているぜ……!
彼女の鋭い眼光に若干おどおどしながらも、俺は催眠術にかかったフリをする。
「お、おう。かかってるぞ……むにゃむにゃ」
いや催眠術かかったフリとかどうやってやるんだよ! わっかんねぇよっ!
「ふーん、かかってるんだ……」
訝しげにこちらを見つめる義妹。
俺は目をそらして苦笑いを浮かべることしかできなかった。
そんな俺に、雫は可愛らしく頬を染めながら、さらなる試練を課す。
「じゃあ、キスして」
「へ……?」
こうして、俺の長きにわたる催眠術にかかったフリがはじまったのだ。
次話はパイルバンカー系ヒロインの可愛らしい一面が見られると思います!
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