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中間テストをあと一週間に控えた五月下旬。
速水との勝負(催眠術による雫のお願い)に勝利するため、俺は自室でただひたすらに数式を解いていた。クリアしなければならない条件は二つ。
『中間テストで学年一位をとること』
『体育祭の選抜リレーで一位をとること』
普段の俺なら絶対に達成不可能な条件だけど……。
「あっくん。ここ間違えてるよ」
「……ほんとだ」
「間違えやすい部分だからもう一度教えようか?」
「ああ、頼む」
小さなちゃぶ台。そこに並ぶようにして、俺とりんこは座っていた。
一週間ほど前からこうしてりんこに勉強を教えてもらっている。
彼女の教え方はかなりわかりやすく、そして効率がいい。出題範囲を的確に読み、必ず必要な部分だけを重点的に教えてくれる。数学が苦手な俺でもこの前の小テストで九十点を獲れたくらいだ。
「……」
「どうしたの、暗い顔して?」
「ごめんな……りんこ」
俺はりんこに催眠術をかけた。勉強を教えてもらってる今もだ。
体育祭で速水に勝つ方法も、中間テストで学年一位を取る方法も、全部りんこに考えてもらった。
雫のために、俺は親友を利用しているのだ。催眠術で操って……。
「謝らなくていいよ」
そういうと、りんこは俺に顔を近づける。
「私はあっくんのために生きてるんだから、あっくんが望むことはなんでもしてあげる」
やわらかい何かが、右腕に当たる。
「ちょっ! りんこ! 胸が当たってるって!」
「気のせいだよ」
気のせいなわけがない。アルミ缶を潰せるほどのとんでもない質量。それでいて羽毛のように柔らかい。そんな矛盾を孕んだ独特の感触。
間違えるはずがない……ッ! まごうことなきおっぱいだッ!
「りんこ……! 胸をおしつけるな……! 何度言ったらわかるんだ……!」
俺はりんこに催眠術をかけ、そして命令した。
『俺のために生きろ』と。
故に俺の命令には絶対服従。にもかかわらず……。
「押し付けてないよ。当たっちゃうんだよ。不可抗力だよ」
りんこは胸を前に押し出し、俺の右腕にぐいぐい押し付けてくる。
や……やわらけぇ……ッ!
ここで俺が彼女に『おっぱいもみもみさせて』と頼めば、彼女は喜んで従うだろう。もみもみさせてくれるだろう。
「……私、あっくんの言いなりだよ……?」
上目遣い。上気する頬。やわらかそうな唇。地味目な幼馴染の強気の誘惑。
控えめに言ってもどちゃくそにエロい……ッ!!
「だ……だめだ……はなれろ……っ!」
鋼の理性で煩悩をぶち殺す。歯を食いしばりすぎて奥歯から血の味がした。
「…………はーい」
りんこは残念そうに胸を離した。
「なぁりんこ」
「どうしたのあっくん?」
「俺ってさぁ、お前に催眠術をかけたよな」
「かけたね」
「催眠術の内容は『俺のために生きろ』であってるよな」
「あってるね」
「俺の命令には絶対服従だよね?」
「服従だね」
「じゃあなんでたまに俺の命令無視しておっぱい押し付けてくるの? 催眠術かかってないの?」
「かかってるよ。それはもうこれ以上ないくらいにかかってるよ。むしろ催眠術が強力すぎて一生あっくんのために生きるし絶対服従だよ。そんな心持ちだよ」
心底楽しそうに、催眠されている幼馴染はそう言った。
催眠術にかかってる人ってこんなに生き生きしてるものなの? かかったフリしかしたことないのでわからない。
「ならいいけど……」
りんこが催眠術にかかっているかどうか、雫が俺の演技を見破れないように、俺もりんこが演技しているかどうか見破ることができない。
催眠術をかけたとき、手応え的なのは感じたような気もするので……おそらくかかっているんだろうけど……。
「じゃあ次の問題だね」
「ちょ! また胸が当たってるんですけど!」
「たまたまだよ」
「たまたまおっぱいを押し付けるな! 自分の体くらいちゃんとコントロールしろ!」
「ごめんごめん、今催眠中だからうまく体動かせなくてさ」
「催眠を言い訳に使うな……!」
そんなとりとめのないやり取りをしていると、部屋の扉が勢いよく開く。
「…………お茶。持ってきたわよ」
「し……雫……!」
額に青筋を浮かべた義妹が、お盆にコップを一つ乗せて、部屋に入ってくる。
ここ最近、俺は雫に催眠術をかけられていない。いや、正確に言えば、催眠術はかかっているが命令は出されていない。雫の認識で言えば、今の俺は中間テスト選抜リレー共に一位を目指し、雫の為に頑張るお兄ちゃんだ。雫自信がそう暗示をかけた。
だからその目標のために努力している俺を、雫は止められない。
たとえ雫が嫌いなりんこが同席していたとしてもだ。
「アンタたち、変なことしてないでしょうね?」
「し……してるわけないだろ……!」
「本当?」
「本当だ……!」
「じゃあ一つ質問するけど、アンタが一番大好きな人は誰?」
声音に棘がある。雫は、俺に質問したはずなのに、引くほどりんこの方をにらみつけていた。
この質問は踏み絵。俺がちゃんと催眠術にかかっているかの確認。解答を間違えれば腹に風穴を空けられてしまう……!
「も、もちろん雫に決まってるだろ。こうして俺が勉強しているのも、全部お前の為だ」
「き、キッモ! このシスコン!」
表情とは裏腹に、とろとろに溶けそうなくらい頬を紅潮させて雫はそう言った。
……どうやら俺の解答は誤りではなかったようだ。
「ほんときもい! ……ま、まぁそれだけ私のことが……私のことだけが大好きなら、隣の部屋でいかがわしいことをされる心配はないわね!」
「あ、あぁ、もちろんだよ」
雫はどや顔でりんこに視線を送りつつ、お茶を一つだけちゃぶ台に置いた。
「そういうことだから。勘違いしないことね、地味女」
嫌味たっぷりに義妹はそう言う。俺に催眠術をあまりかけなくなったとはいえ、りんことの関係は依然険悪だ……。
「……本当、雫ちゃんってかわいいね」
先ほどの優しげな声音はどこにいったのか、りんこは声のトーンを落とす。
「……どういう意味よ」
「そのままの意味だよ」
りんこは、机の上においてある俺の右手に、そっと左手を重ねて。
「偽物の気持ちで満足したフリをしてる。偽物だから、そこから先なんてないのにね」
いままで見たことがないくらいのしたり顔で、そう言った。
「ちょっ! りんこ……!」
そんな表情をすれば、セリフを吐けば、雫がブチギレるのは必至。案の定、雫は白い肌を真っ赤に染め上げて。
「……クソ兄貴。今すぐ私のほっぺにキスしなさい」
怒りのあまりわけのわからないことを口走る。
「えっ!?」
「はやくッ!」
「……は、はい」
俺は雫の言われるがまま、彼女の頬に顔を近づける。
催眠術をかけて言いなりにさせている幼馴染の前で、催眠術にかけられている義妹にキスをするとかいう混沌シチュエーション。
何度も言うように俺は雫に逆らうことはできない。催眠術にかかってないことがバレてしまうからだ。
りんこに催眠術をかけてまで、催眠術にかかったフリを続けているのだ。今更キスくらい……いやめっちゃ恥ずかしいけど……! ボロを出すわけにはいかない。
唇をあてる。火照った彼女の頬は、俺の乾燥してさかむけた唇を、しっとりと濡らした。
俺の唇が離れた後、体をこわばらせていた雫は、水を得た魚のように激しくりんこを罵る。
「……どう地味女? 悔しい? 今どんな気持ちか教えてよ、遠くから吠えることしかできない負け犬の気持ちって興味あるからさ。アンタが何を考えてどう思おうと、もうお兄ちゃんは私にぞっこんなの。これ以上ないくらい惚れてるのよ! だから潔く諦めなさい!」
まくしたてる義妹に、無表情でそれをにらみつける幼馴染。りんこの気持ちを知る前であれば冷や汗をかきながら静観を決め込んでいたところだけど、今は違う。
りんこの想いも、覚悟も、俺は知っている。
「雫、ちょっとこっちに来なさい」
細い手首を強めに握り、強引に雫を部屋の外に連れ出す。
「ちょっ! 待ちなさいクソ兄貴! 私はまだこいつに言いたいことが!」
抗議の言葉も無視して、ドアを閉めて、壁に握った手首を押し付けた。
「……っ。何よ、痛いじゃない」
雫は、怯えている。催眠術にかかっているはずの俺が、予想外の行動をとって驚いているのだろう。
けれど見逃すことはできなかった。
あの状態のまま放っておけば、罵り合いではなく肉弾戦にまで発展してしまう。そんな勢いだった。
「……」
「……」
無言が続く。俺は意を決して、この修羅場を切り抜けるための唯一のカードを切る。
「雫……そ、その、俺はお前のことがす、好きだ。……愛している」
瞬間。赤くなっていた雫の頬は、さらに汗ばみ、紅潮する。
「っ! そ、そんなの……あ、あたりまえよ」
物腰が一気に柔らかくなるパイルバンカー系義妹。
雫はなんだかんだ言って押しに弱い。それも好意を明確にされる方面は特に弱い。
催眠術にかかったフリをしつつ、りんことの仲を取り持つ、様々な修羅場を乗り越えてきた俺にとって、そんなに難しいことじゃなかった。
「そう、あたりまえなんだ。俺とりんこがふたりきりになって不安になる気持ちも分かるけど、だからってりんこを傷つけていい理由にはならない……だろ?」
「……だ、だけどおにいちゃん! あいつすっごいしたり顔でこっちみてくるもん! 負け犬のくせに生意気なんだもん!」
若干、言動が幼くなる。ここまでくればもう一押しだ……!
「……いいか雫。俺はお前の為に頑張ってる。お前の為だけに、だ。だからりんこに悪態をつくのはもう少し抑えてくれ。俺は今の雫も好きだけど、大人な雫ももっと好きなんだ」
本当の気持ちを脚色して、義妹に伝える。
「…………わかった」
雫はしぶしぶといった具合で納得した。我ながら嫌になる。俺は、りんこにも雫にも、本音でぶつかっていない。催眠術という突飛な方法の陰に、自分の本当の気持ちを隠している。
『あっくんは、なんで雫ちゃんの催眠術があっくんに効かなかったか、理解してる?』
催眠術をかけた日、りんこのセリフがずっと喉につかえていた。
俺は雫の兄だ、それ以上でもそれ以下でもない。
「ねぇ、おにいちゃん」
「……どうした?」
「おにいちゃんの私を思う気持ちも、私の催眠術が生み出したもの、偽物なのかな……?」
悲しそうな顔をして、雫はそうつぶやく。
「…………」
俺は、ただ黙っていることしかできなかった。
『毎日死ね死ね言ってくる義妹が、俺が寝ている隙に催眠術で惚れさせようとしてくるんですけど……!』
書籍第一巻、三日後の『9月25日金曜日』発売です。
雫の思い、りんこの行く末、すべて書ききったつもりです!
よろしくお願いします!
WEB版の更新も頑張りますので、評価ブクマ感想よろしくお願いします!




