5
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
切れる息、流れる汗。
朝焼けの中、俺はBluetoothイヤホンから流れる英単語を聞きながら坂道をダッシュで駆け上る。
かれこれ一週間ほど、朝と夕方にうんざりするようなキツい坂を何往復も走っていた。
なんで俺がこんなことを……っ!
頭の中は、行き場のない感情と破れそうな肺の痛みでいっぱいだった。英単語なんて聞くどころではない。普段、全力疾走からかけ離れた生活をしている俺からすれば、朝六時に起きてそれからすぐに坂道ダッシュを決め込むことは本当に異常な行為だった。
けれどやめるわけにはいかない。俺は今、異常なのだ。正常な判断能力を失っているのだ。
なぜなら、毎日死ね死ね言ってくる義妹に、催眠術をかけられているのだから。
* * *
「この五円玉を見て」
ゆらゆら揺れる五円玉。
金髪にブチギレをかました後、人気のない校舎裏で俺に催眠術をかけようとする雫。
「し、雫さん。もう授業が始まりますのでそろそろ教室に戻った方がぐあぇっ!」
優しく諭そうとする兄の頬を鷲掴みにして、義妹は揺れる五円玉を無理やり見せる。
一定のリズムを刻んで揺れる五円玉。
「いい? お兄ちゃんは体育祭選抜リレーで一位を獲り、期末テストで不動の一位である地味女を抜いて学年トップの成績を収めるの、わかった?」
無茶言うなよ……ッ!!
そう叫びたくなる心に蓋をして、俺は心なしか申し訳なさそうに揺れる五円玉を見つめつつ、催眠術にかかったフリを開始した。
おそらく今ここで『そんなの無理に決まってんだろ! お兄ちゃん足が遅くて勉強ができないタイプの陰キャラだって雫ちゃんは知ってるでしょ!』とブチギレれば、催眠術がかかっていないことに気づいたパイルバンカー義妹は羞恥の感情と共に俺の腹に風穴を開け葬り去るだろう。
それだけは避けなければならない…っ!
「選抜リレーで一位? 学力テストで学年一位? 余裕なんですけど?」
「……どうやら成功したようね」
雫は満足げにうなずく。体育祭は足を引っ張りまくるせいでそもそもリレーのメンバーに選ばれないし、テストの成績は下から数えた方が早い。
陸上部の精鋭に走りで勝ち、のほほんとした空気を醸し出しながらも化け物みたいに賢いりんこに俺が勝てるはずもないのだ。
だが……やるしかない……っ! 雫にお願いという名の催眠術をかけられたからには……やるしかない……っ!
「あんな二酸化炭素を吐くことしかできない血袋共にバカにされないで、アンタは私のお兄ちゃんなんだから……わかった?」
「も、もちろんさ。俺は雫のお兄ちゃんだからな……っ!」
虚勢をはると、雫は嬉しそうにはにかむ。
「……じゃあ私は教室に戻るから、アンタも時間をずらして戻りなさい」
「おう」
クラスメイトを血袋呼ばわりする義妹を尻目に、俺はこの無理難題をどう解決するか思案していた。
* * *
そんなこんなで、朝六時半に汗だくで坂道ダッシュをするというなんとも奇怪な場面へと戻る。
雫の無理難題に応えるため、俺が最初に考案した作戦がこの坂道ダッシュだ。
『まずは普通に努力してみる』
巨大な壁を前にした主人公は、友情努力勝利でその壁を乗り越える。それが古くから伝わる少年漫画の習わしだ。俺は腐ってもラノベ作家。もちろん漫画だって読む。残酷な作者からありとあらゆる苦難を与えられ続け、そしてそのことごとくを打ち倒し夢や希望的な何かを手にしてきた少年漫画の主人公の手法(むっちゃ頑張る)を用いれば、残酷な催眠義妹が建設した強大な壁を乗り越えられると考えたわけだ。
俺みたいな落ちこぼれだって……必死に努力すればエリート(リア充陸上部)を超えられるかもよ?
頭の中で大好きな漫画、主人公のセリフを反芻しながら、坂道をよろよろと駆け上がる。
「……も、もう無理吐きそう……っ!」
おろろろろろっ! と、なんとも汚い音を立てながら、俺は道端にある溝に吐きまくった。
……現実はこんなものだ。たしかに少年漫画の主人公なら、ヒロインからのお願いを努力や友情で乗り越えられるけれど、俺は少年漫画の主人公じゃないし、ただの陰キャなラノベ作家だった。主人公補正はない。
もし仮に、本当に催眠術にかかっているのであれば、雫のために失敗など恐れず嬉々として努力したんだろうけど、今の俺は素面。もうシンプルに地獄だった。
「……あっくん、なにしてるの……?」
溝に顔を突っ込んで絶望していると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「……おはようりんこ。今日もいい朝だな」
短パンにTシャツ。右手にはリード。おそらく彼女は、愛犬の朝のお散歩中なのだろう。
ラフな格好のりんこの足元には、可愛らしいミニチュアダックスフンドが体勢を低くして、飼い主を絶対に守るといったような決意が感じられるまなざしで、俺の方をこれでもかというほどにらみつけていた。
「道端で吐いている幼馴染さえ見なければ確かにいい朝だったよ。あっくん」
「勘違いするなよりんこ。これはただゲロじゃない。その……あれだ……汗と涙の結晶的なアレだ」
「汗と涙の結晶がそんなにどろどろで酸っぱいにおいがするなんて嫌だよ……」
珍しく表情をゆがめるりんこ。まぁ確かに、気持ちの良い朝の散歩中に、道端で吐いているクラスメイトを見つければ嫌な顔もしたくなるだろう。
「で、最初の質問に戻るけれど、あっくんは今なにをしてるの?」
「……あ……えっと……」
雫に催眠術かけられちゃってさぁ。今度の体育祭の選抜リレーで一位を獲らなきゃいけなくなったんだよね!
……とは言えるはずもない。催眠術の件がりんこにバレれば俺と雫の関係は終わる。いや、終わらされる。
「…………いや、ちょっと足速くなりたくてさ……ほらあれじゃん? 足の速い男子ってモテるじゃん?」
「なるほど、雫ちゃん絡みなんだね」
「なんでそうなるんだよ……っ!」
苦しい言い訳もむなしく、秒で看破される。
「だってあっくんが何かを頑張ろうとするときって、大抵雫ちゃんの為じゃん」
「そ、そんなことねえし!?」
「大の運動嫌いの君が、朝早くに坂道ダッシュ。大方、またいつもの魔法でお願いされちゃったんでしょ?」
澄んだ瞳。何もかもお見通しだよと言わんばかりに、りんこは俺の顔を覗き込む。
「あと、もう少しなんだよ」
意味深な一言。正解までもう少し。魔法の正体を見破るまでもう少し。彼女はそう言いたいのだ。
「…………と、とにかく! 俺は最速の男を目指すんだよ! 世界を縮める勢いなんだよ! じゃあな!」
これ以上りんこと話せば必ずボロが出る。俺は登ってきた坂道を下ろうとすると。
「手伝ってあげようか?」
「へ……?」
「体育祭の選抜リレーで一位になって、なおかつ中間テストでも学年一位にならなきゃいけないんでしょ?」
背筋がゾっとした。その暗示は俺と雫しか知らないはずだ。
「お、おまッ! なんで知ってるんだよ!」
大慌てする俺を、じっと見つめるりんこ。しばらくして、口を開く。
「だってウワサになってるよ? 速水くんとの勝負なんだよね」
「……ウワサ?」
「陸上部のエースと、学校一の美少女。相思相愛の二人。それを邪魔するシスコン『雫と付き合いたければ兄である俺を倒してからにするんだな! グヘヘ!』ってな感じのウワサを聞いたんだよね」
……そ、そうか! 速水が雫との約束を広めたのか!
なんでも言うことを聞くという部分が、速水と付き合うという条件に変わっている。
その他の部分も奴が都合のいいように改変されていた。
「バレてしまっては仕方がないな! そ、そうなんだよ! どこの馬の骨とも知らない輩に雫をやるわけにはいかないからな! そのための特訓だ!」
僥倖! 少し癇に障るけど、ここは奴が作ったウワサ話に乗っかるしかない!
「でも、リレーで陸上部に勝つなんて相当難しいんじゃない? 成績だって、あっくん下から数えたほうが早いし」
「うっ……!」
痛いところを突かれる。
けれどやるしかないのだ。勝たなければ雫は奴にいいようにされるし、催眠術にかかったフリがバレる。
精神的にも肉体的にも死んでしまうのだ。恐ろしい。りんこは、足元でじゃれていた子犬を抱える。
「だから私が手伝ってあげる。私があっくんを手伝えば、学年テストはともかく、体育祭はほぼ確実にあっくんは勝てるよ」
いつもは謙虚な彼女が自信満々にそう言い放つ。聡明すぎる彼女なら、この八方塞がりの状況をどうにかするすべを知っているのかもしれない。
「ほ、ほんとか!? なら手伝っ」
「ただし、条件があります」
喜ぶ俺を、幼馴染は食い気味に制止する。確かに今のままではりんこに何のメリットもない。働き損だ。
「………条件?」
恐る恐る彼女の顔色を窺う。正直言って俺一人の力じゃ雫にかけられた催眠術、その条件を達成するのは難しい。九割以上の確率で失敗するだろう。したがって、りんこの協力は絶対に必要……!
ごくりと唾をのみ込む。提示されるであろう条件を、幼馴染は真剣な面持ちで呟いた。
「私とゲームして遊んでください。場所はあっくんの部屋で」
「…………えっ。それだけ?」
シリアスな空気を醸し出したにしては、あまりにも簡単な条件に拍子抜けする。
「うん、それだけ。ついでに勉強も見てあげるよ。どう? 悪い条件じゃないと思うけど」
「……いや別にいいけど、なんでゲーム? そんなのいつでもできるだろ?」
「だってあっくん、最近雫ちゃんにかまいっきりで全然私と遊べてないじゃん。だからたまにはのんびりゲームでもして遊びたいなーって」
によによと笑いながら、りんこはそう言った。たしかにここ最近は坂道ダッシュしたり勉強したりでりんこと接触する回数は少なくなっていた。俺とりんこはひいき目無しで気が合う友達だ。
そんな友達が少しだけ疎遠になって、彼女は寂しかったのかもしれない。
「わかった。その条件をのもう」
「やた!」
ゲームをするだけでりんこという人外級のブレーンを手に入れられるのはかなり大きい。
それに、ここのところ勉強や特訓漬けだった。たまには息抜きをするのもいいだろう。
「さっそくだけど、今日の放課後でもいいか?」
「うん! もちろんいいよ」
満面の笑みでそう答えて、彼女は愛犬を連れて帰路についた。
「よし……ラスト一往復……!」
ジャージの袖で汗を拭い、震える足を引っ叩いて、坂道を駆け下りる。
「……」
少しだけ、胸の奥に感じる違和感。
そんな違和感に見て見ぬふりを続け、流れる汗もそのままにして、俺は降りた坂道をまた同じように駆け上った。
更新が滞ってしまいすみません!
九月二十五日に催眠義妹一巻が発売予定です!ウェブ版の続きも収録!
詳しくは僕のツイッターアカウントをチェックしてみてください!(田中ドリルと名前検索したら出てくると思います)




