2
「…………っ」
春は一瞬で過ぎ去り、季節は五月の下旬。
まだ午前八時過ぎだというのに、ギラギラと照りつける太陽にうんざりしながら、俺は学校に向かっていた。
寝ている隙に義妹に催眠術をかけられそうになったり。
催眠術にかかったフリをしなきゃいけなくなったり。
義妹が俺の小説の熱狂的なファンだったり。
サイン会とデートがダブルブッキングしたりと、四月から本当にいろいろな出来事があった。
どれもこれもが胃に穴が空くレベルで重たいイベントだったけれど、俺と義妹の関係はそれだけじゃ終わらず、さらに新たなフェーズへと移行していた。
「……」
「……」
俺と雫は、朝日が眩しい通学路を無言でとぼとぼと歩いている。
実を言うと、サイン会の日の夜に雫が俺の催眠術を解除してからは、一度も催眠術をかけられていない。
あれだけことあるごとに催眠術をかけて、無理難題をふっかけてきたあの雫が、たったの一度も、だ。
催眠術をかけられなくなったということだけを見れば良い兆候だと言えなくもないんだけど、あの雫がそれだけの変化で終わるはずもなく……。
「……なぁ雫。そんなにぴったりひっつかれて歩かれるとお兄ちゃん歩きづらいんだけど……」
「……は?」
「……な、なんでもないです」
催眠術をかけてこなくなったパイルバンカー系義妹は、俺の背中に自分の胸が当たるくらいぴったりくっついて、背後を歩いている。
進行方向を変えようにも、たとえ止まっても、彼女は某RPGのNPCのように俺の後ろをついてくるのだ。
雫が俺に催眠術をかけなくなってからおよそ二週間ほど。
彼女はこうして、催眠術無しでも俺と謎の肉体的接触を増やそうとしてくる不思議系義妹に変貌してしまったのだ。
ある時は、俺がトイレで用を足しているところに入ってきたり(鍵をかけていたはずなのに何故か進入された)
ある時は、俺がシャワーを浴びている最中に浴室に入ってきたり(自分から入ってきたくせに顔を真っ赤にして変態と俺を罵りながら腹パンしてきやがった)
またある時は、俺が階段を上がって自室に向かおうとする時に、狙ったように必ず上段を歩いたり(パンチラ不可避)
とにかく。
催眠術を使わなくなった途端に奇行が増えたのだ。
それもこれも、サイン会ダブルブッキングのせい。
俺が書いた義妹小説の内容は、すべて俺自身の願望、妄想によるものだと雫が勘違いしたせいだ。
催眠術にかける以前から、自分に好意を寄せていた兄。
催眠術がなくても、自分のことが大好きな兄。
そんな誤った情報を手に入れた雫は、シラフの俺に対して誘惑するような奇行を重ねるようになってしまったのだ。
「……」
「……」
通学路。
ぴったり並んで歩く兄妹。
側から見ればマジでドラ◯ンクエストかファ◯ナルファンタジーなので正直言って誘惑できているかどうかは不明だ。
肩から雫の方を見ると、彼女は若干してやったりな表情を浮かべていた。
パンチラさせてみたり牛乳こぼしてみたりする誘惑ならわかるけど、こういう胸を押しつけてやったり的な誘惑は雫と相性が悪いのでは?
そんな悲しい現実を俺は心の中にしまって、雫の足を踏まないよう気をつけながら歩く。
「あ、あっくんに雫ちゃん。おはよ〜」
聞き覚えのあるぽわぽわした声。
幼馴染のりんこが、栗毛色の髪の毛を風に揺らして、こちらにやってくる。
「おう、おはよ」
「……」
軽く会釈した俺と、バッチバチに無視を決め込む雫。
「雫、あいさつはちゃんとしなきゃダメだぞ」
「……チッ」
少し注意すると、パイルバンカー系義妹は自分の属性を思い出したように激しく舌打ちをして、りんこをにらみつける。
陽だまりのように微笑む幼馴染と、それ以上喋ればぶっ◯すと言わんばかりににらみつける義妹。
カフェの一件からずっとこの調子だ……。
「あれ、今日は魔法は効いてないみたいだね」
「っ!」
幼馴染の鋭すぎる一言に、核心を突いた一言に、俺たち兄妹は戦慄する。
おそらく彼女は俺のわずかな挙動、言動で催眠術にかかっていないことを見抜いたのだ。
いつもの催眠術にかかっている状態なら、俺は雫に注意したりしない。
少しでも反抗すれば催眠術にかかっていないんじゃないかと、疑われるからだ。
少しの違いを。
空気の違いを。
賢すぎる幼馴染は見抜いた。
催眠術という手法までは掴んでいないけれど、それを魔法という代替えの言葉で表現して、そして俺たちに何食わぬ顔で指摘してきた。
俺と雫は思わず表情を少し歪める。
「へぇー。そんな顔するんだ」
終始笑顔。
けれどりんこは、材料をひとつひとつ手に入れて答えへと着実に近づいているぞと、そう言わんばかりの雰囲気を纏っていた。
話してさえいればそれだけで催眠術という俺を言いなりにさせる魔法を、タネを、見抜いてしまう。
今の彼女にはそういう凄みがあった。
「クソ兄貴、来なさいっ!」
「ちょっ!」
雫は俺の首根っこを掴んで走り出す。
りんことこれ以上接触すれば表情から何からいろいろなものを観察され、情報をとられることを危惧したのだろう。
「ふふっ。逃げるってことは、図星なんだね……」
暗い笑みを浮かべるりんこ。
小さく呟いたその一言を、俺は不思議と聞き取れた。
* * *
「ちょっ! 雫っ! 息がっ!」
雫は俺の襟首を掴んで通学路を爆走、そして校門をくぐり、そのまま昇降口まで来てしまった。
りんこの姿がいないことを確認すると、雫は思い出したように俺への拘束を解いた。
「かはっ! はぁ……はぁ……っ!」
マジで死ぬかと思った……。
乱れた襟元を直しつつ、呼吸を整える。
雫も額に汗を浮かべて、顔を少しだけ歪めていた。
催眠術という秘密に、刻々と迫るりんこ。
焦らないわけがない。
雫のアドバンテージは、俺を言いなりにさせている手法を、りんこにバレていないということだけ。
りんこに催眠術のことがバレれば、おそらく彼女は俺が演技していることを見抜き、そしてそれを雫に伝えるだろう。
そうすれば、俺と雫の関係は破綻する。
兄を催眠術でいいなりにさせようとした義妹と、その義妹に嘘をつき続けた兄。
仲直りどころか関係は悪化し、もう二度と雫は俺と口を聞かなくなるだろう。
雫はそれを危惧しているのだ。
そうなれば、本当に終わりなのだ。
「……」
不安げな表情で、前髪に顔を隠す雫。
今の俺は催眠術にかかっていない。だから彼女を励ますことはできないし、味方をすることもできない。
もどかしい……。
俺は雫の催眠術のせいでいろいろと苦労した。それなのにこの関係を、催眠術が無くなることを恐れている。
相反する感情。それに名前をつけることを躊躇っていると、雫は下駄箱からシューズを取り出し、履き替える。
「……雫」
思わず、名前を呼ぶ。
「……」
彼女は少し悲しそうな顔をしながら、肩越しに俺を一瞬見つめて、そして教室の方へと早足で歩いていった。
悲しげな表情の意図。想い。
それを俺は知っているはずなのに何もできない。
何かしようとすれば催眠術にかかっていないことがバレてしまう。
「……俺は、どうすりゃいいんだ……」
誰にも聞こえないような小声で、俺はそう呟く。
「おい」
うつむいていると、背後からドスの効いた声が聞こえた。
「……き、君は……」
「よう市ヶ谷くん。ちょっと顔かしてくんね?」
金髪ピアス。
校則を無視したそんな頭髪の青年が、俺の肩を掴む。
こいつ……いつも俺を引くぐらいにらんでくるクラスメイトだ……。
名前は覚えていないけれど、もちろん良い印象はない。
「……て、手短に頼むよ」
薄ら笑いを浮かべて、金髪に肩を掴まれながら俺は人気のない校舎裏に連れて行かれる。
いつの間にか取り巻きまで増えている。
胃が痛い……!
りんこと雫の関係だけでも手一杯だってのに……!
キリキリ痛む腹部を押さえる。
先ほどまでうざいくらいに快晴だった空は、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。




