10
茜色に染まる空。
地平線に沈まんとする太陽は、住宅街をとぼとぼ歩く俺と雫の背中をじわりと照らす。
雫がサイン本を受け取り会場を出た瞬間、俺はすぐさま控え室に戻り、メイクを落として駅前に戻った。
それから妙に機嫌の良い雫と合流し、電車を少し乗り継いで、夕陽に照らされながら帰路についているという次第だ。
「ねぇ……」
トイレから出てきた俺を終始無視していた雫は、人通りの少ない道に入った瞬間、ようやく口を開く。
「なんで、隠してたの?」
「……な、何のことだ?」
「市野先生の取材、もう知ってるんだから」
サイン会で吉沢さんに吹き込まれたホラ話を、どうやら彼女は完全に信じ切っているようだった。
ここでボロを出せばサイン会での七転八倒がすべて水の泡になってしまう……!
「……市野先生から聞いたのか?」
「うん。おにい……アンタが私との関係を先生に、取材で事細かに話してたこと、もう全部知ってる」
「……そうか。……ごめん」
俺は最新の注意を払って、雫の言葉を肯定した。
催眠術にかかったフリをはじめた当初より、だいぶ演技が上手くなったような気がする。
「……別にそれに関しては、謝らなくていい……。けど、私に嫌われたくないからって嘘をつくのはやめて。催眠術にかかっている間は、私のことを大好きなお兄ちゃんでいて、嘘も……なるべくつかないで……」
俺の上着の裾をキュッと握って、雫はボソッとそう呟いた。
「……わかった。ごめんな」
現在進行形で嘘をつき続けていることに、心が死ぬほど痛むけれど仕方がない。
催眠術にかかったフリがバレれば、雫は間違いなく俺の土手っ腹に風穴を開けるだろう。
それだけはなんとしてでも避けなければならないのだ……!
「そ、それにしても、アンタって本当にむっつりスケベよね! カタイモに書いてあるようなことをずっと前から考えてたなんて……! 本当に変態、不潔だわ!」
いやお前だけには言われたくない……!
そう言いたくなったけれど、ギリギリで堪える。
「あ、あれはだな、若干脚色して市野先生に伝えているというか市野先生が大幅にギャグ寄りにしているというか……!」
「えっ……」
俺の言い訳を聞いた瞬間。
雫の眉が、ハの字に下がる。
「……いえ、すべて僕が雫さんで妄想していたことです……」
濡れた子犬のような瞳に、俺は思わず嘘を重ねてしまった。
雫の表情は一瞬だけ真夏に咲く満開のひまわりのような笑顔に変わり、そしてすぐさま自分本来の属性を思い出して恥ずかしくなってしまったのか、眉をつりあげ、不機嫌っぽい表情に変わった。
「ふーん……アンタって、義妹のぱんつでお茶しちゃう変態だったんだ」
「い、いやアレは……! す、すみません……!」
「いつから?」
「へ……?」
「……だから、いつからその……す、す…………。私のことをそんな劣情にまみれた視線で見つめるようになったの?」
すから始まる言葉を口にしずらかったのか、わかりやすくツンツンする雫。
ここで回答を間違えれば今まで必死に積み上げたものがすべて崩れ去ってしまう。
歯を食いしばり、恥辱に耐え、雫が求めているであろう言葉を吐き出す。
「し、雫と出会った時から……です……」
「っ!」
あ、穴があったら入りたい……っ!
劣情にまみれた視線は言い過ぎだけど、雫と出会った時、俺はこんなにも綺麗な人が地球上に存在するのか? 本当は妖精か何かじゃないのか? と、本気で疑ったくらい彼女に見惚れていた。
その感情は、現在進行形。
催眠術にかかったフリをしているけど、先ほどの告白まがいのセリフは、近からずとも遠からずといった具合なのだ。
湯気が出るくらい耳が熱い。俺は恥ずかしさを隠すために、少しだけ歩くスピードを速くする。
「…………」
雫の方を肩越しに見つめた。
彼女はうつむいて、自分の影をふみながらとぼとぼと歩いている。
目を凝らすと、俺の耳と同じように、彼女の耳も真っ赤になっていた。
変態だとかシスコンだとか罵られると思ったけど、案外効いているのか……?
「……」
「……」
お互い無言のまま、オレンジ色に染まるアスファルトの上を歩く。
き、気まずい……。
これならいっそのこと罵ってくれた方が楽だ……!
家までまだ少し時間がある。
俺はどうこの場をつなごうか頭を悩ませていると、急に襟を引っ張られた。
「催眠術、解除する」
「えっ……?」
雫はそういうと、俺を強引に壁に押しつけて、瞳を見つめる。
「今日の出来事は、アンタは駅前に服を見に行ったついでにご飯を食べに行っただけ。私のことは一切覚えていない。わかった?」
「えっ、ちょっ!?」
パンッ! と、大きな音が閑静な住宅街に響く。
雫が俺の目の前で手を叩いたのだ。
その行動は、催眠術の終わりを告げるもの。
催眠術中の行動のほとんどを忘れ、いつも通り険悪な兄妹関係に戻るという合図だ。
このタイミングで催眠術を終わらせる……?
いつもの雫なら、俺の恥ずかしいセリフを聞いてヒートアップし、催眠術にかこつけて何かしらのおねだりをするはずだ。
それなのに、何もしない。
何もしないどころか、雫にとって特別な出来事であるはずの今日を無かったことにした。
俺にとっては忘れることができるなら忘れ去りたい黒歴史だけど、それはサイン会で正体がバレそうになった時だけであって、その前の雫との食事をしたり服を選んだりしたあの出来事は別だ。
俺は、楽しかったのだ。
でも雫は、その思い出すらも無かったことにしようとしている。
「……」
無言で自宅の方へ走る雫。
「……そりゃ嫌われるよな」
何を勘違いしていたんだ……俺は……。
普通に考えれば、雫は、兄から自分への劣情を事細かに記されたラノベを熟読していた。してしまっていたのだ。
普通に読めば主人公のコメディシーンだって、自分に向けられた劣情により生み出されたシーンだと知れば、気持ち悪いと思うに決まっている。
俺は、走り去る彼女の背中をぼーっと見つめることしかできなかった。
* * *
雫の催眠術解除後、自販機によったりコンビニによったり、フラフラと時間を潰して、時刻が午後七時を回った頃。
俺は玄関のドアノブを握ったまま、動けずにいた。
雫に恥ずかし過ぎるおねだりをされた時よりも、はるかに大きい精神的ダメージを俺は受けていた。
「はぁ……」
なんだかんだで楽しかったのかも知れない。
毎日死ね死ね言ってくるはずの義妹が、俺のことを催眠術で惚れさせようとしてくるほど、好きでいてくれたこと。
雫があの手この手を使って俺と距離を縮めようとしてくれたこと。
隙間だらけだと思っていた家族の関係が、催眠術という突飛な出来事で、だんだん修復されていくような、そんなあたたかい時間が、俺は嫌いじゃなかったのだ。
「……」
サイン会での正体バレは回避したけど、おそらくサイン会ダブルブッキングイベントで、雫の俺への評価は大きく変貌した。
『ずっと前から、私のことをエロい目で見ていた義兄』
嫌われる。
確実に、嫌われたに決まっている。
兄からスケベな目で見られて喜ぶ義妹なんて存在するはずがないのだ。
「……くそ」
無理やり脳内のネガティブなイメージを振り払う。
いつまでも玄関前でうどうど考えても仕方がない。
俺はゆっくりと音を立てないよう家に入り、スリッパに履き替える。
「ん?」
磨りガラスから溢れる淡い光。
リビングに誰かいる。……誰かと言っても家には雫しかいないんだけど……。
ゆっくりとリビングのドアに手をかける。
催眠術のせいで、俺はサイン会での出来事を忘れていることになっている。だから素直に謝ることさえできない。
今雫と接触すれば、さらに関係が悪化してしまう可能性があるけど、それでも俺は彼女の顔色をうかがわずにはいられなかった。
催眠術にかかっていない時でも、俺は雫と、家族として仲良くしたい。
嫌われたに決まってるけど、それを理由に距離をとれば、俺たち兄妹の距離はさらに広がってしまう。
それだけは、なんとしてでも避けなければならない。
「……た、ただいまー」
意を決して、リビングに入る。
「……」
返答は無し。
雫は、ソファーで雑誌を読んでいた。
「……っ!?」
いつもの関係に戻ってしまったと、落胆しそうになった刹那、俺は信じられない光景を目にする。
ソファーに座って、雑誌を読んでいる雫。
いつも通りの光景と言えばそうなんだけど、問題なのは雫の姿勢である。
彼女は死ぬほど短いスカートを履いて、太ももを少し開いているのだ。
そしてその際どい服装、姿勢により、淡いピンク色のおパンツが見えてしまっているのである。
「……っ」
困惑。
ただひたすらに困惑した。
雫はそんなにガードの緩い女の子じゃない。
ずっと一緒に暮らしてきたけど、今の今まで俺は雫の下着を見たことが無かった。
それほどまでに彼女はそういう事に関して徹底していたのだ。
だが今!
あまりにも無防備におパンツを晒している!
晒してしまっている!
俺は催眠術にかかっていないのに……!
「……」
催眠術にかかっていない時に訪れるはじめての受難。
俺の胃はまた、キリキリと悲鳴を上げつつあった。




