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沈み込む体。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
少し暗いリビング。
俺は、死ぬほど嫌われているはずの義妹に、ソファーの上で押し倒されていた。
「ねぇ……お兄ちゃん……」
妖艶な声を出しながら、俺の目の前で五円玉をゆらゆらと揺らす義妹。
「ど、どうした雫……? お兄ちゃん、今ならなんでも言うことを聞くぞ……?」
義妹との関係をこれ以上悪化させたくなかった。
その為に、俺は雫の催眠術にかかったフリをしたんだ。
彼女のストレスが発散されるなら、いくらでもサンドバッグになってやろう。
そういう覚悟で望んだんだけど……。
「キス……して……?」
「へっ……?」
どうしてこうなった……?
五円玉を自信満々にゆらゆら揺らす義妹に押し倒されながら、今日この事件が起こるまでの事を、俺は走馬灯のように思い出していた。
* * *
超がつくほどの美少女と、一つ屋根の下で暮らす。
ラブコメジャンルのライトノベルにありがちな、誰もが羨むシチュエーション。
俺はそんな突飛な状況を、今まさに現実で経験している。
俺の今の境遇を羨ましいと思う男性は、世の中にごまんといるだろう。
そんな、夢見る男子諸君に、ひとこと言いたい。
……現実は、そんなに甘くはないぞ?
「…………邪魔」
玄関でローファーに履き替える兄を、まるで道端で死んでいるカエルの死骸を見るような瞳でにらみつける妹、
市ヶ谷 雫。
艶やかな黒髪、両耳にはピアス、爪には可愛らしいマニキュアを塗っている。
化粧をしなくても百人が百人美少女と呼んでしまうような端正な顔立ちに、彼女は自然で目立たないようなメイクでさらに磨きをかけていた。
高校生には見えないくらい大人びていて、その可愛らしさ、美しさを武器にすれば芸能界入りだって夢じゃないほどの逸材。
控えめにいって、俺の義妹は超絶ウルトラ美少女だ。
「じろじろ見ないで、気持ち悪い」
「……すまん」
しかしながら妹としての立ち振る舞いは、地獄の悪鬼に負けず劣らずの鬼畜具合である。
「学校では絶対に話しかけないでよね。私、アンタと兄妹なんて思われるの死んでも嫌だから」
「はいはいわかってますよ」
「分かってるならさっさと退きなさいよ……本当にグズで鈍感なんだから。馬に蹴られて死ねばいいのに」
俺の背中に膝をぶち当てて、雫は玄関から飛び出していった。
血の繋がらない妹と、二人きりで、一つ屋根の下で暮らす。
……残念ながら現実はこんなもん。
洗濯物は別々に、お風呂は必ず俺が後、箸や食器でさえも妹専用が用意されている。
お兄ちゃんが大好きな義妹など、妹がいない男どもの羨望によって生まれた悲しい幻想に過ぎないのだ。
「はぁ……」
大きくため息をつきながら妹に蹴られた背中をさすりつつドアを開ける。
小学校に上がる前に両親を亡くし、親戚であるうちに引き取られた雫。うちに来た当初はかなり憔悴していて、表情もうつろだった。
俺と彼女にほとんど血縁関係は無いんだけど、彼女のいたたまれない境遇を知っていたのと、ずっと一人っ子で弟か妹が欲しいと思っていた俺は、雫に本当の家族だと思ってもらえるよう自分なりに努力してきたつもりだ。
けれど、結果はご覧の通り。
俺の無駄な気遣いは雫の心を癒すどころか、ダイアモンド級に硬いイバラに猛毒を塗りたくったようなある意味強靭な心に進化させてしまった。
雫を叱ろうと思った時期もあった。
けれど、雫を叱ったとしても、彼女は燃え盛るマグマにニトロをぶち込んだくらいの勢いで逆ギレするだろうし、頼みの母親に相談しても『あら、雫ちゃんアンタに懐いてるじゃない』と、意味のわからないことを言うのだ。
「詰んでるよなぁ……」
今日二度目のため息を吐きつつ玄関をまたぐと、俺のじめじめした気持ちとは反対に、春の暖かな陽光が全身を照らした。
義妹に理不尽な罵倒でメンタルを削られていなければ、清々しい気持ちで新学期を迎えられたことだろう。
「あ、あっくんおはよう」
背後からぽやぽやしたような声が聞こえる。
振り向くと、春の軟風に赤みがかった綺麗な茶髪をくゆらせる可愛らしい女の子が立っていた。
俺の数少ない女友達であり、そして幼馴染の佐々木 凛子だ。
「おう、おはよう」
栗毛色の髪の毛をおしゃれな感じでカールさせ、頬に少し赤みがかかる程度にメイクをしている彼女。
俺が言うのも失礼だけど、りんこはあまり目立たない。
顔も整っているし、制服の着こなしもこれぞ女子高生といった具合でばっちり決めているんだけど、どことなく地味さが抜けない。
JKの王道を征くあまり、没個性になってしまっているような、うまく言えないけどりんこはそんな感じなのだ。
あまり目立たない没個性女子高校生と、あまり目立たない幸薄そうな男子高校生(俺)。
同じ属性を持ち合わせていたこと、クラスが十一年連続一緒になったこと、家がかなり近くで通学路が同じだったこと、マンガやラノベが好きだったこと、いくつもの偶然が重なって彼女と仲良くなった。
「あっくん、今日も目が死んでるね。また雫ちゃんにいじめられたの?」
「……お前には関係ないだろ」
「関係あるよ。だって私、結構あっくんのこと好きだし」
「はいはいありがとね」
毎日息を吐くように俺に告白する幼馴染。
まったく、俺が一流の童貞でなければ勘違いして告白し返して『えっ、そういう好きじゃないよ? 友達として好きって意味だったんだけど……』と、世界一気まずい空気を作り出してしまう所だ。あぶないあぶない。
「あっくんさぁ、雫ちゃんにもっとガツンと言った方がいいよ。こう、お兄ちゃん的な威厳をもっと出してさぁ」
「俺に威厳なんてもんがあると思うか?」
彼女いない歴イコール年齢の超絶非モテ非リア充。
対して俺の妹は芸能界からスカウトされまくるような超絶美少女スーパーリア充。
俺みたいなクソ陰キャが威厳(笑)をだしてガツンと言ったところで、逆に妹にガツン(物理)とされるに決まっているのだ。
「うーん、あっくんが本気で怒れば、雫ちゃん言うこと聞くと思うけどなぁ……」
「お前本気で言ってんのか? あの雫が俺の言うことを素直に聞くなんて天地がひっくり返ってもありえないと思うぞ」
あの完全無欠傍若無人義妹が「ごめんねお兄ちゃん」と素直に謝る絵面を想像しただけで、背中からなにやら冷たい汗が滲み散らかす。
「ありえないことないとおもうよ? だって雫ちゃん、たぶんあっくんのこと好きだし」
母親と同様にありえないことをのたまう女友達に、俺はゆっくりと、優しい口調で諭す。
「いいかりんこ、女の子は好きな異性に対して『馬に蹴られて死ね』とか言わないんだよ」
「ツンデレってやつだよ、きっと。だって雫ちゃん、あっくん以外には口も利かないし目だって合わせないんだよ? 罵倒されるだけ好かれてるってことなんだよ、たぶん」
「ツンデレ……? デレの要素皆無なんだけど? ツンオンリーなんですけど? あと罵倒の勢いが凄すぎて息できないんですけど?」
いや、ツンなんてかわいいもんじゃない。どてっぱらに風穴開けられそうなレベルでグサグサさしてくる雫の言葉攻めはさながらパイルバンカーのようだ。
パイルバンカー系ヒロインなんて今どき流行らないので今すぐにテコ入れしてほしい。
「とにかく、一度試してみたら?」
「何を?」
「雫ちゃんを叱ってみるとか」
「……お前は自分が忌み嫌ってる生き物から叱られて、素直に言うことを聞けるか? 例えばそうだな……巨大なゴ〇ブリから『もう理不尽に攻撃しないで!』と叱られて、はいそうですかと素直に受け止められるのか?」
「あっくん、自分の評価がゴキブリ並みだと思ってるんだ……」
「当然だ。雫の俺に対する扱いを見れば、簡単に理解できる」
「まぁ、校内一の美少女と一つ屋根の下だもんね。そりゃ多少なり痛い目見なきゃ割に合わないよ」
りんこは俺の前におどり出て、華麗にステップを決めたのち、にひひっ、と笑う。
こいつは俺が不幸な目に合うのがそんなに嬉しいのか。
「言っておくが、現実の義妹なんてただのデメリットでしかないからな。ラッキースケベなんてもんは起こらないし、起こったとしても俺は興奮したりしない、妹だからな!」
「へぇ~。そういえばあっくんの好きなラノベってなんだっけ?」
「エ○マンガ先生と、俺の妹がこ○なに可愛いわけがない」
「まごうことなき妹物だね」
ジト目で俺をにらみつける彼女。
……まったく、現実と創作を混同しないでほしいね。
義妹は創作の中でこそ輝くのだ。
だって主人公のこと好きだってわかりきってるもんね。
好きという前提があれば、多少なりツンツンされても許容できるというものだ。
「はぁ……幼馴染の方が絶対に良いのに……」
「ん? 何か言ったか?」
「……なんでもない!」
頬を少し膨らませ、俺の幼馴染は少し歩くペースを速める。
「お、おい! ちょっと待てよ!」
心地よい春風の中、数分後になるであろう始業のチャイムに肝を冷やしながら、俺は学校へ向かった。
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