07,弟子として励みたまえ
すっかり日も暮れた頃。
ミリーとゼレウスは小屋に入り、テーブルを挟んで対面して座っていた。
ミリーはゼレウスからもらった獣皮の雑な服をそのまま着用……する訳もなく。
変形・変質の魔術で、お気にの紅蓮ドレスに似た代物に仕立て上げていた。
そしてこれまた変形・変質魔術で整形した白い陶器(に見えるようにしたウグドラ製)のティーカップを持ち、優雅に最高級紅茶を嗜む。
一方、ゼレウスはと言うと……。
「……ちゃんとした魔術の練習って、こんな地味なのか……」
ゼレウスの前に広げられているのは薄い獣皮。
そこに刻まれたいくつかの魔文を、ゼレウスはひたすら大きな爪でなぞりまくる。
これが、師・ミリーから弟子・ゼレウスに与えられた最初の課題だった。
「魔術は芸術分野と言っただろう? 絵画や彫刻と同じだよ。地道にコツコツと、技術を体に覚え込ませるのさ。ちなみに基礎だけで覚えるべき魔文の数は三〇〇〇以上ある。あくまで基礎で、ね。魔術は便利だからこそ、使いこなすのは相応に大変なんだよ」
ミリーがニーラカーナを鼻で愉しみながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
対するゼレウスは辟易とした様子で、
「……それ、おまえの『基礎』の概念がぶっ飛んでるだけじゃあねぇだろうな?」
ゼレウスの御明察。
本来、新人魔術師が基礎として学習する魔文は、指導要領の改定で上下するが大体三〇〇~三五〇程度である。
あとはそれぞれがどの道の魔術師になるか決めた所で、各専門分野の魔文を覚えていくのだ。
平均的な魔術師が生涯で修める魔文は、多くても八〇〇から一〇〇〇前後だろう。
つまりミリーは平然と、標準的な上限の三倍強を「基礎」と喝破しているのだ。
「君は私の弟子なんだ。私の基準に合わせて育てるのが当たり前だろう?」
「おう。まぁ、それはそうだけど」
「魔力の操作訓練はもっと地味だぞ。最初の内はひたすら瞑想して自身の魔力の流れを観測する所から。だがこれをないがしろにすれば魔術師としての未来は無い。真の退屈はここからさ」
思い出しただけでも億劫。
そんな表情で、ミリーはやれやれと溜息を吐いた。
「おまえはよくもまぁ、こんな事を続けられたもんだな……」
「モチベーションがあるからね」
「モチベーション?」
「優れた魔術師として、雑魚魔術師を見下して大笑いする」
「モチベが清々しいほどにゲスいなおい」
「ゲスなものか」
ゼレウスの発言を、ミリーはきっぱりと否定した。
「私は最高貴族の出の魔術師だぞ。有象無象の上に立つのは当然なんだ。ただ、上に立ち続ける実力を獲得・保持し続ける事は血筋や才能があったって楽じゃあない。でもそれが当然でなければならない」
下の者は這い上がり続ける。上の者をゴールとして。
上の者も登り続けなければならない。
ゴールなど設定されていない壁を、ただ永遠に上へ上へ登り続けなければならない。
下の者に追い抜かれる恐怖だけを背負って、上へ、上へ、ただ上へ、ひたすら上へ。
追い立てられて、追い込まれて、上以外の選択肢を奪われた生の中で足掻き続ける。
「例え貴族と言えど、本質は人間。ただ苦しいだけの苦労に耐えられる人間などいないさ。それ自体を愉しめるように趣味嗜好を調整しなければ、やっていられないよ。つまり、私の在り方は上に立つ者の在り方のひとつとして正しいものだ。ゲスであるはずがない。以上。何か反論はあるかい?」
「……!」
ミリーに取って、今のはただの理詰めだ。
貴族制度の性質と人間の性質を論理的に述べ、それが共存する答えのひとつがこれなのだと淡々と説明したに過ぎない。
特別、何か愚痴や弱音のニュアンスを混ぜたつもりはない。
……だからこそ、ゼレウスは狂気を感じた。
人格や趣味嗜好までもを調整・改造しなければ成立しない貴族と言うものの在り方。
それを当然としてすべて受け入れて語る幼い少女の姿に。
いわゆる、ノブリス・オブリージュと言われるものだ。
貴人は貴人としての資質を常に求められ続ける。
ミリーも例外ではなくそうだった。
年端もいかぬ少女に課されるには過ぎた目標と重圧を背負い、それに潰されぬように足掻いた。
その果てに彼女が辿り着いた答えが、今の在り方なのだろう。
歳や見た目の可愛らしさに似合わない偉そうな喋り方も、魔術の技量も、その性格も。
望むか望まないかの話ではなく、必要だったから獲得したのか。
「そうだったのか……よく知りもしねぇのに、ゲスとか言って悪かったな」
「別に。的外れな批判なんて聞き飽きているからね」
「……………………」
「名誉にも拘らなければならない立場だから逐一訂正はするが、気にしてはいないよ」
「……おまえは気にしなくても、オレは気にした」
「そうかい。じゃあ、次からは気を付けたまえ。私には関係の無い、君の個人的な努力目標さ。せいぜい好きに頑張ると良い」
「おう」
そんなやり取りをしていると、どこからとなく「くぅ……」と捨てられた子犬の鳴き声めいた音が。
「……………………」
「ん? 何だおまえ、腹に子犬でも仕込んでんのか?」
「……そんな訳が無いだろう。わかりやすく空腹のサインだよ、これは」
思えば、色々とあり過ぎて忘れてしまっていた。
今日は朝食すらとっていない。朝食前に憲兵に拘束されて流れるように追放され現在に至る。
そりゃあ日も暮れた今、腹も鳴る。
「お腹が空いたと言う事さ。食事にしよう。しかし、まったく……乙女にこんな申告をさせるんじゃあないよ」
「おまえの乙女の基準はよくわからん」
「じゃあ、それを理解する事は、弟子としての君の努力目標だね。義務として精一杯に励みたまえ」
「魔術の練習よりキツそうだな、おい……」