18,狂演
一〇〇年以上も前の話だ。
――【邪神傭兵】と呼ばれた男がいる。
名をヴァンドゥ・ダクター。
前触れなくふらりと戦地に現れては、陣営を無視した殺戮を行う狂戦士。
災害のようにふってわく殺戮者。
そのやり方は、ただ目についた動くものを破壊しているだけとしか思えない無差別。
ヴァンドゥ・ダクターの殺戮には誰の利益も見えない。
つまり、誰に雇われている訳でもないだろう。
もしもあんなものを雇い、あんな事をさせるような奴がいるとすれば。
それはきっと、邪神に違いない。
だから、邪神に雇われた戦士。
ヴァンドゥ・ダクターは邪神傭兵と呼ばれるようになった。
彼の最期は、知られていない。
当然だ。
彼はまだ、終わっていない。
◆
とある国の地下施設。
端的に言って、牢獄。
事実上の処刑場。
この国には死刑制度が無い。
故に、現在における最上級の刑罰は「即死は免れないような手法を以て、かろうじて一命をとりとめたとしてもまず生き残れはしない危険区域へ向けての国外追放」。
しかし、一〇〇年ほど前までは違った。
国外追放よりも上の刑罰が、この牢獄での終身刑である。
地下牢獄の内部は非常に清潔だ。
もう一〇〇年も使われていないはずだのに。
ここには、一切の可食物が存在しない。
のっぺりと加工された石室に、囚人が裸体ひとつで放り込まれ、死ねばその一切の痕跡を残さず洗浄する。
それがこの牢獄の鉄則。
この場所はただ、囚人を死なせるためだけの場所だったのだ。
食せる物質の存在など、必要が無い。
石と空気しかない空間が、どう汚れようか。
「ここが例の牢獄か……」
不気味なほどに澄んだ空気が溜まる牢獄。
ランプひとつのか細い明かりで足元を照らしながら、若者が行く。
実に貴族然とした衣装に身を包んだ黒髪細目の男。
名をデモンド・ゼーベン。
装い通り、貴族の若者である。
この地下牢獄に訪れたのは、仕事の都合だ。
デモンドは国の運営に携わる政府機関、中枢貴政院のメンバー。
世襲制の職務であり、ゼーベン家の担当は文化財の保護・保全。
この悍ましいほどに清らかな牢獄も、現在では立派な文化財として扱われている。
つまりこの場所のあらゆる管理業務が、デモンドの職務に含まれる。
正確には、本日より含まれる事になった。
デモンドはまだ若い。
父から職務を引き継いでいる只中なのだ。
「…………………………」
空洞の石室が並ぶ。
一体、何人……いや、何百、何千人がこの場所で飢え、渇き、惨めに朽ち果てていったのか。
その痕跡をも一切残さない当時の徹底ぶりが、異常なほどの清潔感からひしひしと感じられる。
罪人はあらゆる権利と尊厳を奪ってから死なせる。
そしてその穢れた血も肉も、骨の粉のひと粒も、この世には残させない。
悪足掻きに壁や床を掻いた者もいただろうに、その痕跡は薄筋一本残っていない。
寒気すら覚える。常軌を逸した悪への憎悪を感じる。
ここに在ったのは、正義の成れの果てにある狂気。
使われなくもなるはずだ。
……いや、正確には、使われていない事にされるはずだ。
デモンドは知っている。
この場所を管理してきたゼーベン家の歴代当主たちは、知っている。
地下牢獄の最下層の最奥。
その壁には仕掛けがある。更に下層へと続く階段が隠されている。
王族すらも知らない、とある事実。
確かに、この地下牢獄は一〇〇年前にその機能を凍結され、もう新たに囚人を収容する事は無くなった。
だが、凍結される前から収容されていた囚人が、野に放たれた訳ではない。
……たった一人。残っているのだ。
罪人の存在を微塵も許さない意思を持つはずの牢獄の中で。
一〇〇年以上も存在し続ける罪人がいる。
デモンドが本日ここを訪れた理由は、視察。
付き人を連れる事も許されず、ただ一人で。
かの殺戮者の存在を、ゼーベン家の当主以外が知る事は許されない。
長ったらしい隠し階段を下り切って。
デモンドは息を呑んだ。
ランプの頼りない明かりが照らし出したその鉄格子の奥に、殺戮者は静かに佇んでいる。
「……おや、知らない顔ですね。新しい出会いは三〇年ぶりの経験だ」
響いた声は、若かった。
デモンドよりも幼いと言う印象を受ける。
まるで、少年の声。
実際、そこにいたのは少年だった。
金髪に白い瞳の、小柄な少年。
ここに収容される者の習わしとして全裸なので、小さなランプの明かりだけでも肉付きがよくわかる。
飢えている者の肉付きではない。
肥え過ぎず、痩せ過ぎず。
素人目に見ただけで健常な肢体。
「……君が、邪神傭兵か」
邪神傭兵、ヴァンドゥ・ダクター。
一〇〇年以上も前に世を騒がせた殺戮者。
それが、この全裸少年の正体だ。
……齢一〇〇を超え、一〇〇年以上もこの牢獄の中。一切飲食をしていなかったはずだのに。
実に健常体のヴァンドゥが、幼な顔を歪めて笑った。
「その異名にはいくつかの異議がありますが……ええ、いかにも。善神に選ばれし正義の使者、ヴァンドゥ・ダクターです」
「……善神?」
「愚かなあなたたちが邪神なぞと言うトンチキなものと同一視している、我が至高の神です」
父から聞かされていた通りだ、とデモンドは若干引く。
神代の頃、神託を賜る巫の者たちがいた。
法師や巫女と呼ばれた特殊職の者たちだ。
ヴァンドゥは、それを……いや、『それらを越える存在』を自称している。
測る事もできない遥か昔、この星を去った神々の声が聞こえると宣う。
真性の異常者だ。
……だが、その身は、本当に神の恩寵を受けているかの如く。
どれだけの時が経とうとも、ヴァンドゥの姿は変わらない。
成長しない、老化しない、飢えない、渇かない。
一〇〇年前から、その姿のままここにいる。
「やれやれ……そもそも邪神は神ですらないと言うのに……無知はこれだから。まぁ、良いでしょう。して。察するに、ゼーベンの子息ですね。今回はまた妙に若い。長い付き合いができそうで」
鼻唄なんて歌いながら、ヴァンドゥはゆっくりと手を打つ。
歓迎する、と言わんばかりの拍手だ。
「……………………………………」
「おや、どうしました? 別に興味も無いので名乗ってくれとは言いませんが、裸体を無言で眺めるのはさすがに無礼では?」
「昨夜、父に君の事を聞いた時から、ひとつ、心に決めていた事がある」
「?」
「――外に出たいか、邪神傭兵」
「……ほう。実に刺激的なフレーズが聞こえましたが……もしや、善神様の信徒ですか?」
「この際、どうでも良い。邪神でも善神でも、その神を信奉すれば手を組むと君が言うのなら、俺はそうしよう」
「素晴らしい。詳しく話を」
「死なせてあげたい人がいる」
デモンドの細目が、見開かれる。
普段は隠されている青い瞳は、酷く濁っていた。
「綺麗な目をしていますね」
貴族の戯れなどではない。
デモンドの目からそれを悟ったヴァンドゥは、前かがみになった。
「刺激的な誘惑に同志の頼みと言う要素を加えられれば、僕はそれを無下にはしません。できようもない。さぁ、教えてください。どこの誰を、そんなにも殺……いえ、死なせてあげたいのですか?」
「邪神霊園」
「……? あの場所に、人がいると?」
「ああ、絶対に生きている。彼女がそう簡単に死ぬはずがない。わかるさ。わかるんだよ。俺は彼女の一番の理解者だから。感じるんだ、例え星の裏側にいたって、その生を」
狂い濁った四白眼で虚空をうっとりと眺めて、デモンドは恍惚。
「彼女を死なせる事が、俺の目標なんだ」
「しかし場所が場所、自分で行くにも、誰かを差し向けるにも苦労する、と」
「君なら問題無いだろう、邪神傭兵」
「もちろんですとも♪」
「最高の返事だ」
つい先ほど出会ったばかりだのに。
デモンドとヴァンドゥはまるで、旧来の友人がごとく意気投合。
性根のイカれ具合が似たようなものなのだろう。
「頼んだよ、邪神傭兵。俺の企みで、今度こそミリー・ポッパーを超えてみせる」