婚約破棄による経済効果
「ミリアレア・ナロウッズ。僕は君との婚約を破棄し、ルル・ジャスティンと新たに婚約する!」
何を言ってるんだ?
というのがこの場の総意であった。
昼時の食堂である。ルルと楽しく食事をしていたルーファウス王子は、彼の行いを諌めに来た婚約者ミリアレアへそう通告した。
通告である。
決定である。
今日もおばちゃんの料理を堪能していた生徒たちは、手を止めて目で会話する。
(婚約破棄って……)
(何の冗談?)
「……それは王の意向ですか?」
皆と同じに困惑してミリアレアは聞いた。婚約というのは家の意向で結ばれるものであって、当人が結んだり破棄したりするものではない。
「違う。僕の意向だ」
「はあ」
ミリアレアは首を傾げたし、周囲もそうだ。
ここは貴族子弟の通う全寮制の学院であり、たいていの者には婚約者がいる。逆を言うと婚約者がいないということは、将来的に貴族社会から離れるという意味であり、この学院に通わせる意味がないのだった。
そのくらい、婚約者の存在は重要なものだ。
婚約を破棄するとは、家を出るという意味になる。
「では、王家を離れるのですか」
であるからミリアレアはそう聞いた。しかしルーファウス王子は「なぜそうなる」と不機嫌に顔をしかめた。
「僕が次代の王であるからこそ、次代の王妃を正しく選定せねばならない。ルルは僕に真心を捧げてくれた。しかし君は、僕に何も与えず、醜くもルルを侮辱した」
「はあ」
ミリアレアは曖昧に微笑んだ。
真心がどうとかいう問題ではない。王子に自身の婚約をどうこうする権限はなく、もしルル・ジャスティンと婚約したいのなら、王に要望し、それが通らなければ、諦めるか家を捨てなければならない。
そしてミリアレアは王族との婚約という大契約を守るため、ルルを排除しようとするのが当然である。己の貞節と、夫の種を守らねばならない。少なくともそうしようとする態度を見せなければ、何をどう利用してくるかわからない貴族社会のこと、こちらの契約不履行を追求されかねない。
周囲も同じ表情を浮かべた。彼らにとって当たり前のことを理解していない王子が、まるで異星人のように感じられたのだった。
「では、王に確認いたします」
異星人にどう対処していいかわからないので、ミリアレアはそう言った。
さて、問題はそれが通ったように見えたことだ。
婚約破棄宣言から三日が経った。王子は当たり前のように学院に来て、ルルと仲良く浮かれている。
もちろん王家や元老院はそんなスナック感覚の婚約破棄など認めなかったのだが、ルーファウスの親である王と王妃には楽観があった。彼らにとっても婚約破棄イコール家を出るということだ。学院内で王子が冗談を言ったのだろう、それはよろしくないが、厳重注意しておけばいいだろう。
そんな具合で流されていた。
ミリアレアは婚約が破棄されていないことを知っていたが、王子があまりに異星人なので、正直近づきたくなかった。彼女とてまだ十代の、それほど世界を知らない令嬢である。常識の通用しない相手をどうしていいのかわからなかったのだ。
そのようなわけで学院の者は思った。
「婚約破棄って、できるんだ」
革命的な出来事であった。生徒の誰もが将来は婚約者と結婚するのだと思っていた。それを打ち崩すことを、他でもない王子がやってしまったのだ。
王子の学友となるため、王子の出産に合わせて子供を設けた家も多い。
当然どの親も、王子とお近づきになるよう、王子に無礼のないよう、王子に従うようにと言い聞かせているのだ。
その王子が、婚約破棄した。
婚約破棄して平然としている。
「さすが王子」
「これからの時代は婚約破棄だ!」
などと思ったのかどうか、まず動いたのは位の低い女子であった。
なにせルル・ジャスティンは元平民であった。生粋の貴族である他の令嬢達は彼女の、マナーも暗黙のルールも知ったことではない行動に呆れていた。
しかしその彼女がシンデレラストーリーを見せた。
「あんなのずるいわ」
そう思った。はたから見ていれば彼女は、ルールを無視して目立っただけだ。そして自分たちをまとめるべき王子が、それを許容したのだ。
ルルは飛び抜けて成績がいいわけでも、美しいわけでもない。愛らしさはあるがそれは容貌というよりは行動が見せるもので、ようはいくらでも真似しようがあった。
「ねえ王子! ルルさんとの話を聞かせてくださらない?」
公爵家や伯爵家の令嬢と違い、彼女たちの育ちは平民に近い。ルル・ジャスティンのごとき馴れ馴れしさで近づくことはさほど難しくなかった。
今までやらなかったのは、そんなことをしても王子に眉をひそめられるだけだと思っていたからだ。
しかしそれは間違いであった。
王子はそういうのが好きなのだ。
であれば何のためらいがあろうか。
「まあ、私にも聞かせてくださいませ! 素敵な運命のお話なのでしょう?」
「いや……なに、そう大したことではない」
女子に馴れ馴れしくされるのが好きな王子に否やはない。ましてやルルとの恋に舞い上がっており、そんなの誰にでも聞いてほしかったのだ。
「えっ、落ちてきて……?」
「なんてこと。まるでルルさんはルーファウス王子の天使のよう!」
「やだ、ルーファウスったら、そんな」
ルル・ジャスティンは今まで冷たい目で見てきた令嬢達の豹変に驚いた。しばらくは硬い表情を崩さなかったが、あまりに持ち上げられるので慣れてしまった。
彼女だって褒められるのが好きだ。それに異性に褒められるのと、同性に褒められるのはわけが違う。自分の中身を認められたようで嬉しいのだ。
「ねえルルさん、それ素敵ね!」
「やっぱりルーファウス王子の贈り物なのね。お似合いだわ」
「王子ってセンスもよろしいのね!」
教室の一角は毎日きゃあきゃあと盛り上がった。
王子の席の周りにぐるりと集まって、窮屈に話をするのだ。親しい空気と共に距離も近くなる。王子についた側近候補も、まだ学生の身分であり、だんだん慣らされてなあなあになっていた。
そもそも元平民の女子とべたべたくっつく王子だ。警戒のしようがない。機嫌を損ねれば将来に関わる。
「あっ、ルルったら、寝癖があるわよ」
すっかり仲良くなった女子のひとりが身を乗り出した。ルルの髪をにこにこと撫で付ける。ルルも友達の親しさにまんざらでもないが、彼女は王子を挟んでルルの反対側にいた。
「む……」
ひっそりと王子が声をあげた。
身を乗り出した彼女の胸が、王子の腕にあたったのだ。
いや、あたったどころではない。むにむに、むにむに、何度も押し付けられた。
「……」
さすがの王子も品のなさをたしなめようと思った。思ったのだ。しかしもう少し、もう少しよいか、と結局はむにむにさせる一方だった。
生まれてこのかた周囲の女性に褒められ讃えられてきた王子だが、周囲の女性とは高貴な立場の女性だ。こんな直接攻撃には耐性がなかった。
「おい、いいのかよ」
きゃあきゃあと騒がしい一角を見ながら、男爵家次男が伯爵家三男の肩をつつく。
「おまえの婚約者だろ?」
「婚約者って言っても……」
そう、この学院の生徒のほとんどに婚約者がいる。つまり王子の周りできゃあきゃあ言っている彼女達にも、それぞれ婚約者がいるのだ。
「ろくに話したこともないんだ」
それは嘘ではない。あの女子の集団を見て、どれが自分の婚約者か、よく見なければわからないほどだ。
「そうなのか? まあ……そんなもんか」
「そうさ」
家を継ぎ、表に出る長男ならともかく、次男三男の縁談などゆるいものだ。尊い血を減らしてはいけないという、薄ぼんやりとした貴族社会への責務感しかない。
「遊びだろ。別にほっとけば……どうせ結婚することになるんだ」
王子が本気で相手をするとも思えない。しかし伯爵家三男の言葉に、男爵家次男がにやりと笑った。
「どうかわからないぜ?」
「……」
三男はちらりと王子とその周囲を見た。
どうせ自分と結婚する。けれどもちろん愉快なことではない。他のものと同じに婚約を守ったというのに、自分に与えられる妻が恋を楽しんでいたなどということは。
とはいえ、彼女自身への執着などないのだ。
「婚約破棄か……」
「なんだって?」
「考えてみれば、俺たちの結婚なんてそう大したものじゃない。王子の結婚なんかよりずっと、どうでもいいことのはずだ」
それを自分ばかりが守っている。
やっていられないと三男は感じた。婚約者は楽しそうに王子に笑いかけている。そりゃあ、こんなどうでもいい結婚をするよりは、王子の愛人にでも引っかかったほうがいいだろう。
だが自分だって、選べるのならば例えば……。
女子の行動開始からしばらく後、同じように考えた男子が動き始めた。
彼らには王子のようなわかりやすい標的はいない。それぞれ自分の好みの、かわいい、やさしい、好ましい相手と距離を詰め始めた。
行儀よく育てられた子息であるので、そこまでわかりやすい動きではない。しかしあきらかに教室の空気が変わった。
どこか馴れ馴れしく、甘酸っぱい空気だ。
重い荷物を持ち、微笑みかけ、隣に座って話をする。それだけのことなのだが、今までの教室にはありえないことだった。
「……あら、どうしたの?」
王子を囲む会の端で、ひとりの令嬢が友人に声をかけた。彼女はこのところ元気がない。
「いえ、なんでもないわ」
「そう?」
王子を囲む会の女性たちはそれほど仲が悪くはない。もともとが同程度の位の令嬢であるから、友人なのだ。
それに暗い顔をしている女子を放っておいてはいけない。王子は大変に気まぐれな優しさで、落ち込んだ女子を慰めたり、優しい女子を大げさに評価することがある。
「ええ、ありがとう」
目立つところのない彼女は礼を言いながら、ぎゅっと拳を握った。
彼女の視線の先には婚約者がいる。近頃、特定の女子と一緒にいることが多い彼だ。
(私には声をかけることもないのに)
しかし今、彼女は王子を囲んでいて、とても責められる立場ではない。わかっている。わかっているが、ショックだった。
彼女は本気で王子の側室や愛人になれるとは思っていなかった。だが王子が少しでも彼女の名前を覚えてくれたなら。婚約者が家を継ぐわけでもない彼女の将来の生活は、夫次第でいくらでも転落する。縁は大事だった。
(半端な考えでいるから、罰が当たったんだ)
彼女は悲観的になり、それから前向きになった。
(なんとしても王子に私を覚えてもらうわ)
はしごは外されたのだ。もはや婚約者と慎ましい結婚をする未来もない。
「ごきげんよう」
「……ごきげんよう。ねえ、なんだか今日は、それは……」
「素敵な色でしょう?」
覚悟を決めた彼女は翌日、鮮やかな色のドレスを身にまとっていた。
「ええ……そうね、素敵ね」
友人は曖昧ながら許容した。
それは実に際どいラインであった。鮮やかな色だが、形は特段目立ったところのない、普段着用のドレスだ。学院に着てくるドレスではないわ、と責めるまでにはいかない。
しかしとにかく色が目立つ。
その効果はすぐに現れた。
「ルルはどうした?」
「まだお会いしていませんわ。遅れてらっしゃるみたい」
「昨日、女子寮で騒ぎがあっただろう?」
「ふふ。庭に犬が入り込んだのです。心配には及びませんわ」
「おっと、次の授業は……」
「歴史ですわ」
この日、王子は彼女に三度も質問した。昨日までにはなかったことで、服が目立った結果だというのは間違いなかった。
王子にとって自分を囲む女子は有象無象である。より目立つ相手に声をかけるのは自然なことであった。
そうして彼女は王子に意識されることに成功したが、こうなれば他の女子も黙っていない。
彼女に嫌がらせをして黙らせる、などやっている場合ではない。上流の令嬢達のお遊びとは違うのだ。そんなことをしている暇があったら、自分たちも真似るのだ。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。……それは……少々派手なのではなくて?」
「まあ。そうかしら……気をつけますわ」
「ごきげんよう」
「ああ……」
「どうかしたかしら?」
「いえ、そうね、そうでもなかったかしら……」
令嬢達は互いの顔色を見ながら、おかしくないギリギリの派手さを競っていく。
だがそんな曖昧なラインは、もちろん少しずつずれていくものだ。これが親元から通うのならまだしも、この学院は全寮制である。そして令嬢の衣装を担当する針子は変化を歓迎した。流行に敏感なファッション関係者にとって、変化は喜ぶべきものだ。
そしてドレスの色はより鮮やかになった。
形は前衛的になった。
露出が増えた。王子がわかりやすく露出に目を向けるからだ。
「近頃、風紀が乱れているようだ。学徒としての自覚を持って過ごすように」
教師の注意が入った。
問題ない。教師の目がある間はストールなりをして、ここぞという時に外せばいっそう刺激的だ。
一見品よく見えて、ふとした隙のある衣装を針子達が競ってつくった。平民の服を参考にすれば簡単だ。
この頃になると女子寮に商人が呼ばれるようになった。派手な布や珍しい布が求められている。もちろん女子寮であるから、商人も女性だ。もともとファッション関係者には女性商人が多いのだ。
「まあ、アリシア様、それは……」
「ずいぶん……」
「大きな飾りですのね」
露出に限界が来ると、なぜか髪飾りが大きくなり始めた。これは商人の売り込みによるものだ。ドレスだけでは儲けが少ない。さすがに令嬢であっても、ドレスを毎日仕立てるわけにはいかない。
髪飾りを付け替えれば、同じドレスでも印象が変わる。下級貴族であり、学生の身分である彼女達にはさすがに宝石類は手出しがしづらい。よって、髪飾りは大きくなり続ける宿命だった。
「大きすぎやしないか?」
さすがの王子も違和感を持ったのだろう、ひとりの女子の羽飾りを見て、そのように言った。
「ええ。元は大きな、美しい鳥なのだそうですわ」
「ほう……」
「とても高く飛び上がって、矢のように落ちてくるのだそうです」
「それは危険ではないか?」
「でも数はとても少なくて、めったに会えるものではないそうですわ」
王子と会話ができたのだから、髪飾りの効果は充分だった。やはり目立って、そして雑談ができるものがいい。
「大きな髪飾りは控えるように」
教師が言った。
大きな髪飾りをつけた令嬢の後ろの席から、教師が見えない。真面目な生徒から苦情が出るのは当たり前だった。
そして大きな髪飾りの流行は強制終了となった。
「そんな……困りましたわ」
「視線が下がってしまいますわね」
髪飾りのいいところは目立って、しかも視線が上がるところだ。ドレスが派手でもその派手さだけが印象に残りがちだ。髪飾りであれば視線が上がり、王子が令嬢の顔を見る可能性が高いのだ。
しかし落ち込んだ彼女たちを王子が慰めた。
「大きければよいというものでもないだろう」
そう言って財力に物を言わせ、小さくとも高価な髪飾りを全員に与えた。
「まあ!」
「王子、ありがとうございます」
「王子!」
「嬉しいですわ!」
大喜びで受け取りつつ、彼女たちはまた困った。この髪飾り、全員が同じものではないが、似たようなものだった。これでは目立てない。かといってこの髪飾りをつけないという選択肢もない。
一方で王子は大変に満足した。
自分を囲う女子が全員、自分の贈り物を身に着けているのだ。ちょっと今まで感じたことのなかった満足感があった。
これを期に王子は彼女達にさまざまな贈り物をした。
髪飾りから始まって、ネックレス、大人気のストール、靴、それから学用品のペン、ノート、手紙。
結果、王子の取り巻きが増えた。
なんといっても目に見えるメリットは強かったのだ。惜しげもなく与えられるそれらはどれも高級な品物であるし、王子がくださったものだ。たとえば困窮した時など「いつかこれを頂いたものです」と話を通せば、王家に融通をきかせてもらえるかもしれない。
それを持っているというだけでも、周囲のものに忖度させることができる。この学院にいないものにとっては、それが気まぐれに与えられたものか、特に気遣って与えられたものかなどわからないのだから。
「王子」
「王子」
「ねえ王子」
「ルーファウス様」
「さすがですわ」
「まあ、それ、素敵ですわ」
「いただけるのですか?」
「嬉しいですわ! 夢のよう」
王子をいい気分にさせて物をもらう。彼女たちに罪悪感などはなかった。王子を敬い、ご機嫌を取るのは当たり前のことで、叱られるようなことであるはずがないのだ。
そして手ずから物を頂いたのだ。誉である。
危機感を深めたのは男子である。
王子の周囲をあまりにも多くの女子が囲い、王子もまんざらではないようだ。女子全員に贈り物をする、などという前代未聞の行為を行っている。
まさか全員を側室に、などということはありえないだろうが、愛人ならばあり得る。となればどうなるか? 年回りの合う女子の数が減るのだ。
さほど良い家柄でない次男三男の結婚相手が見つからない、ということになる。彼らとて、インパクトのありすぎるドレスや髪飾りを身に着けた女子は御免被りたい。しかし令嬢と結婚できないということは、家の援助は期待できず、ひとりで身を立てねばならないということだ。
そんな彼らの中のひとりが動いた。
「エルティ、どうかこれを」
決死の覚悟で彼はエルティ嬢に髪飾りを差し出した。
「えっ、なによ、アルバート。急に」
彼とエルティ嬢は婚約しており、それなりの関係を築いている方だった。しかしエルティ嬢の髪を飾るのは、王子から賜った髪飾り。
「僕には王子ほどのものはあげられない。だが、王子でないからこそ、君に捧げられるものがある」
アルバートは彼女の前に跪き、剣を持って己の胸に押し付けた。
「君に僕の剣を捧げる。生涯君だけを守ろう」
「アルバート……!」
これが流行った。
まず女子の評判がいい。
「素敵……」
「羨ましいわ、エルティ様、そんなに愛されるなんて」
「ええ、きっと生涯忘れられないでしょうね」
たとえ金がなくても地位が低くても、少女たちにとって愛は憧れだ。
「あいつ、やりやがった」
「ああ、あれ……」
「格好つけてるだけだろ」
「こう、剣をだな」
「俺ならもっとこう……」
女子に良い格好するのはともかく、騎士は男子の憧れである。もちろん抜刀はしないが、教師に隠れて鞘つきの剣を打ち合わせていることなどしょっちゅうだ。
アルバートが騎士家の子息だったというのもあり、自分もやりたい、とこっそり練習を重ねる者が多かった。
そして婚約者の気を引きたいというのも確かにある。王子にどうこう言えない以上、彼女を引き戻すのは自分だ。そして王子が恋敵であり、自分が恋の勝者になるというのは、そう悪いものではなかった。
「ルーシア!」
「まあ!」
「ルリア! 君に剣を」
「まあ!」
「捧げる!」
「……ごめんなさい」
毎日のように誰かが剣を捧げていた。
婚約者相手だけでなく、王子を囲んでいない女子も人気が高かった。特に、王子を囲む女子の間で、やたらと目を巨大に描くメイクが流行り始めてからはあきらかである。
教室は乱れた。
王子を囲む女子達が派手な服装をし、王子を囲まない女子を囲む男子が強い言葉を吐く。どちらもどこか刹那的で、情熱的だった。
そして王子にも変化が起こった。
「ルル、君との婚約を破棄する。君は僕への真心を失ってしまった。シルヴィこそが僕へ本当の真心を捧げている」
「……」
ルルはなんとも言えない気分で半笑いになった。
うっすらと理解していた。全力でドレスを仕立て顔を描いてきた女子達に比べ、自分はあまりにも地味で、動かせる金が少なく、大人しすぎたのだ。
「そうですか……」
ルルは疲れを覚えた。
平民からこの学院へ来て、いろいろなことが起こりすぎた。そして気づいてみれば、わりともう王子のことなどどうでもよかった。
王子は婚約をホイホイ破棄するような人間だ。であれば、結婚後もどうなるかわからない。後ろ盾のない身、永遠に王子のご機嫌を取り続けなければならない。王子を狙う女はたくさんいる。
夢も希望もない結婚生活が見えてしまった。
金はあるかもしれないが、もはや新しいドレスも装飾品も、なんだか見たくもない気分だった。自分が夢見た王侯貴族の世界は、もっと優雅なものだったはずだ。
ルルと同じことを考え、去っていくものがいれば、これこそチャンスだと思う女子もいた。二度あることは三度ある。王子の婚約者を狙える、こんなチャンスは誰にでも訪れるものではない。
ましてやシルヴィという彼女は、ルル以上に、成績も容姿もぱっとしない女子であった。ただひどくうっかりもので、何もないところで転んだり、噴水に落ちたりしていた。
「まあシルヴィ様、お気をつけになって」
「そこ、段差ありますわよ」
「大事なお体ですから」
シルヴィを新たな王子の婚約者と認めた彼女達は、先手を打って彼女の動きを制した。王子は満足そうに頷く。
「君たちの優しさのおかげで、シルヴィは平穏に生活できているようだ」
「当然のことですわ」
にこにこと彼女たちは笑う。
そうして王子はシルヴィにあまり構うことがなくなった。かわりに、とびきり大きな目をした少女が、豊かな胸を押し付けて、王子の隣にいることが増えた。
「シルヴィ、君との婚約を破棄する」
「アリーチェ、君との婚約を破棄する」
「リリアナ、君との婚約を」
短期間に王子の婚約者は次々に変わった。彼女たちは、王子は馬鹿なのではないか、と薄々気づいている。どうせ婚約者になってもすぐ破棄されてしまうので、常に二番手で、長く王子といた方が勝ちなのではないかと思えてくる。
そして王子も、さすがにおかしな気分になってきた。
(この女も違う気がする)
何度婚約破棄をしても、これぞという相手にたどり着けない。
しかし新たな相手を選ぶ時には、いつもこれこそはと思っているのだ。
少なくとも今の婚約者よりよいと思うから、入れ替えているわけなのだ。どんどん良くなっていくはずなのに、そうと思えない。
「まあ王子」
「素敵ですわ」
いつものように自分を囲む女子達を見た。
(どれも同じではないか?)
誰もが似たような姿をしている。ずっと自分を取り囲んでいるので、見慣れてしまった姿だ。派手なドレス、派手なメイク、耳障りのいい言葉。
王子は彼女達から視線を外して教室を見た。
(ミリアレア……)
彼女は美しかった。
王子達のことなど知ったことではないとばかりに、品のあるドレスを身に着け、流れる髪だけで容貌を引き立て、背を伸ばして机に本を広げている。勇気を振り絞ったように男子の一人が彼女に話しかけ、彼女の微笑みに追い返されていた。
(いや、まさか)
ミリアレアよりもルル、ルルよりもシルヴィだったはずだ。
王子は気づいていないが、人間には絶対評価などできない。そしてどんな相手にでも慣れ、飽きていくものだ。
彼は古いものを捨て、新しいものを手に入れてきただけである。
「王子?」
「どうなさったの?」
考えてみればミリアレアには、一度も贈り物をしていなかった。あの凛とした彼女が自分の贈ったものを身につける。それはとても素晴らしい想像だった。
「ミリアレア」
「……ああ王子。なにか?」
ミリアレアはとてもよい気分だったので、微笑んで王子に相対した。
それというのも、女をとっかえひっかえする王子の所業にミリアレアの父が王家に苦情を申し立てた。いくら王の姻戚になっても、冷遇されたのでは家格が落ちる。
王家もきちんと調査して、王子の所業を認めた。近々婚約は本当に破棄になるだろう。馬鹿な王子のおかげで、馬鹿な王子と結婚せずにすむ。
王家もこちらに詫びる姿勢であるから、ミリアレアの家が不遇となることはない。
「君には悪いことをした」
心にもないことを言う王子にも、気分良く対応できた。
「まあ王子。よいのです。ただ、できるだけ早くお支払いくださいませ」
「うっ……うむ。わかっている!」
ミリアレアの所領では宝石が産出される。そのいくつかが王子によって購入され、どれかの女子に贈られたのだ。
よいことだ。それを売り払えば、彼女たちの将来の足しになる。
そして王子が婚約者に贈った石として、宣伝文句も充分である。おかげで父はご機嫌であり、いくつかの婚約の申し出の中から、好きに選べと言われている。通常ならこの年での婚約など、まともな相手は残っていない。
しかし今回の諸々の波及により、空いている子息がそれなりにいた。あの王子を見たあとでは、地位が低くても誠意ある子息を選びたいものだ。普通の貴族令嬢では得られない選択の自由を、ミリアレアは手に入れたのだった。
なお、王子はその後、風紀を乱したとして王命で学院を去ることになった。自由に過ごせる若者としての日々は失われ、借金返済のためにも、早くから公務に就くことになったらしい。
そのようなことから、王子の使う金の流れは、歴史上かつてないほど透明化された。
婚約者にもしっかりものの令嬢が選ばれた。彼女は王子に一銭の無駄金も許さず「だめです。買いません」は平民の流行語として広まることになった。
どうせ遊びに使えないのならと、王子は金を慈善事業に投げ始めた。孤児院の幼子達に囲まれ、少し疲れた顔で微笑む王子の絵が、後世に伝わっている。