正しいバイクの盗み方はスマートフォンと共に 2
連休明けの朝、いつもより一時間以上早く家を出た。こんな早朝に出歩くのは、中学で朝練をしていた頃以来だろうか。
犬の散歩をしているご近所のおじさん。
朝練に行くのであろう、秋穂が卒業した中学校の制服を着て自転車をこぐ男子。
迷彩模様をした自衛軍の幌車とは何度もすれ違った。
塀の上を猫が歩いているのを見つけ、何とはなしにスマートフォンで写真を撮る。
そうしてたどり着いたいつもの駅は、全く異なる印象を与えてくれる。
静謐。
人がいないわけでもないのに、誰しもがこの雰囲気が壊れないよう、静かに過ごしているのだ。
だが場所が場所だ。じきに構内放送が、そしてすぐに来るであろう電車がこの空間を完膚なきまでに破壊するだろうことは想像に難くなった。
だからこそ、だ。
だからこそ、この貴重な一瞬を自らの手で壊さないように、誰しもがそう務めているのだろう。
それはまるで、戦争を知っているからこそ平和の大切さを理解できるようだと思えて、
そして秋穂は、その豊満な胸を後ろから両手で鷲掴みにされた。
その手は大胆にも上ではなくセーラー服の下からその手を差し込み、ブラジャー一枚隔てた双丘を遠慮なしに揉みしだく。
突然の凶行に秋穂は声も出せない。
早くやめろと耐え忍ぶが、両手はその意を理解することなどない。両手は防壁の上から先端を探り当て、執拗に攻撃を繰り返す。
秋穂が声すら上げずに耐え忍ぶのに焦れたのか、両手はさらに大胆な手段に出てきた。
直接攻撃だ。両手の波状攻撃で緩んだ隙間から内側へと侵入し、その先端部に直に触れようというのである。
それは、さすがに我慢がならなかった。
秋穂は下着がズレるのもお構いなしに後ろを振り向き、
自分より頭一つ低い、秋穂と同じ制服を着た少女へ全力で拳骨を落とした。
鈍い音が、そして怒りを押し殺した一人の少女の声が、広々とした駅に響いた。
「怒りますよ、先輩」
そう言って秋穂が見下ろすのは、同じ高校に通う一つ上の先輩、水国瑠莉奈だ。
頭頂部にはいつものカチューシャ。まるでネコミミのように見える三角形の集音器を二組装備。
側頭部には痛みに耐えるため、先ほどまで秋穂の双丘を揉みしだいていた両手が添えられている。
先端までキューティクルの効いた水国ご自慢のツインテールは、秋穂の一撃で膝をついたせいで先端から地についてしまっている。それを少し申し訳ないと一瞬思い、いや自業自得だろうと考えて、秋穂は自分の中に浮かんだ気持ちを無視することにした。
そしてしばらく悶絶した後、ようやく顔を上げた水国は完全に涙目で、
「もう怒ってるじゃんか~」
「この前やった時に、次やったら怒りますよって言いましたよね?」
忘れたとは言わせないと、見上げてくる水国に対して腰を曲げて睨みつけた。
「だってしょうがないじゃないか~」
水国はそう言い訳し、
「ボクの同類だと思っていた秋穂ちゃんがさ~、一年ぶりに再会したらそれはそれは見事に育ちやがってさ~」
痛みから立ち直り、
「だからこれは裏切り者に対する正当なる断罪行為である~。ボクは悪くないんだ~」
だから許して~☆と、全く悪びれずに胸を張る水国は、どこがとは言及するのを避けるが、それはそれは悲しいほどに真っ平らだった。
ベルが鳴る。
もうすぐ電車が来るから黄色い線の内側に入るなと構内放送が響く。
そして遠くから、巨大な構造物が音を立てて侵入してくるのが聞こえる。
平穏と静寂は、完膚なきまでに破壊されていた。
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件の人物、水国瑠莉奈について紹介しておこう。
東鎌ヶ谷高校の二年三組で出席番号は三十一番。秋穂の友人である手塚早紀と同じく、新聞部に所属している。身長は自称150センチで、秋穂はそれを聞くたびに毎回「少なくとも5センチ以上は上にサバを読んでいるな」と思っている程度には背が低かった。
こんなナリでもバイクの免許を持っているらしい。絶対に後ろに乗りたくない。そんな日が来ないことを強く願う。
秋穂と知り合ったのは、秋穂が中学に進学してすぐの事だった。その時にも一悶着、どころか数悶着あって、立花秋穂の名は新入生全員をはじめとして先輩方にまで知れ渡ることになったのだが、ろくな記憶ではないので秋穂は思い出さないように努めた。
そしてここからが重要なのだが、
秋穂の知る限り、水国瑠莉奈は最も気を許してはいけない女子高生である。
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六時二十三分発の電車に乗った東鎌ヶ谷高校生は、秋穂と水国の二人だけだった。そして残念なことに、水国の手によってずらされたブラジャーを整えに行く時間もなかった。ポジションが合ってない着け心地の悪さを、秋穂は胸に鞄を押し付けて誤魔化した。
「そんで秋穂ちゃんはどうしたの? いつもは七時三十三分のに乗ってなかったっけ?」
「教えたこと無いのに何で知ってるんですか……?」
「ふふん、瑠莉奈ちゃんに隠せる情報があると思うなよ~?」
実際、その通りだと思うから質が悪い。
水国は中学生の頃でも新聞部だったのだが、当時からどんな手段で手に入れたの分からない情報を知っていることが多々あった。
例えば、秋穂が中学一年生の時、二年一組担任教師の谷口大吾三十三歳既婚は、キャバクラ通いが嫁にばれて絶賛夫婦喧嘩の真っ最中だとか。
例えば、同じく秋穂が中学一年生の時、三年三組担任教師の大村裕子四十一歳の一人息子である二年一組出席番号二番の大村啓介イガグリ頭の万年補欠野球部員は、母親によって隠していたエロ本を机の上に置かれていたのが原因で、春休みの間から絶賛家出中で、今でも野球部の仲間たちの家を渡り歩いて世話になっていることとか。
そして例えば、三年一組出席番号三十三番バレー部員の山越唯は三年一組担任教師で体育教師でさらにバレー部顧問である安藤直人五十三歳に強姦され、その時の写真で脅されて長い間その体を好き放題に汚されていたとか。
その証拠となる動画が正義感溢れる匿名の誰かによって警察に届けられたら、隠蔽工作に走った校長が女子高校に腕を組まれてラブホテルに入っていく写真が、今度は中学生とは思えない情報収集能力を持つやはり匿名の誰かによって大量に警察に届けられたとか。
そして最後に、一体どうやれば中学校の入学式に期待で胸を膨らませている秋穂の元を訪ねて、
「秋穂ちゃん、右の乳首の近くに可愛いほくろが二つあるんだね~」
などという悪魔の囁きをすることが出来るのか。立花秋穂にとって中学校の入学式とは、小学校の六年間で鍛えたちっぽけな正義感が、同じ胸に秘められていた巨大な羞恥心によって敗北した日でもあった。
実は新聞部というのは世を忍ぶ仮の姿で、実際は学校にも世間様にも認可されていないゲリラ活動を行う諜報部ではないのだろうか。
そう思うからこそ秋穂は、今日という日の朝に水国と会ったのが単なる偶然だと楽観視することは到底できなかった。
秋穂が今日だけ早く出るという情報を手に入れ、駅で張っていたと言われた方が余程信じられるのだ。
「先輩はいつもこの時間なんですか?」
「そうだよ~」
心の底から嘘だと思う。
「それで秋穂ちゃんは何かあるの~? 放課後デートならぬ始業前デートとか~?」
やっぱり南波のことも知っているんじゃないだろうか。
だからと言って馬鹿正直に尋ねるなんて出来るわけが無いのだ。藪をつついて蛇、もとい猫の好奇心を刺激してしまうわけにはいかなかった。
「実は連休中に生活リズムを崩しちゃって」
「おや~、真面目と正義感が服を着て歩いてる。そんな秋穂ちゃんにしては珍しいね~?」
その正義感をへし折って協力という名の脅迫をしたり、色々とグレーというかブラックな技法を教え込んだ張本人は、首を傾けて疑問を呈した。
「まぁそれで、この時間の学校って行ったこと無かったなって思って」
「うんうん、好奇心旺盛だね~。いいことだよ~」
そして、それはそれは太陽のような輝きで笑うのだ、この先輩は。
ツインテールにカチューシャ型集音器、そして本人のこの容姿に加えてとどめに新聞記者が人見知りして生きていられるかと言わんばかりの怪物じみたコミュニケーション能力。
何も知らない男子生徒はこの笑顔に、見た目に、そして交わした会話に騙され、スマートフォンという文明開化の鐘を聞きながらも耳をふさぎ、わざわざ貴重な紙資源をラブレターに変えて水国の下駄箱に「どうかお兄ちゃんと呼んでください」と願いを託すという最悪の愚行に走るのだ。
卒業式の日、水国瑠莉奈に告白した人がどんなシチュエーションでどんな告白をしてそしてその他にどんな恥ずかしいエピソードを持っているかという内容の卒業新聞が発行されるということも知らずに。
もっとも、何もしなくても全卒業生の迷エピソードが掲載されているので、傷が深いかより深いか程度の差しかないのだが。
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東鎌ヶ谷高校の最寄り駅の名前は、ずばり『東鎌ヶ谷高校前駅』という。
東鎌ヶ谷高校まで徒歩五分。まさしく目と鼻の先であり、これは下総地区第二防空壕の地下物資搬入通路が利用できない場合に備えて、貨物列車による物資搬入を行えるようにと配慮された結果であった。
だが秋穂はその五分が耐えられそうにない。ここに来るまでは電車が運んでくれるので立っているだけだからよかったのだが、そこから改札まで歩くだけで、その我慢は早くも限界を迎えようとしていた。
「先輩、すこしトイレに寄ってもいいですか?」
「いいよ~。なに~? お腹痛くなった~?」
「いえ、その……、整えたくて」
「何を~?」
人が少ないとはいえ、この内容を今までの音量のまま伝えるのは躊躇われた。だから秋穂は、水国のネコミミ集音器の性能を頼りに小声で、
「さっき先輩がずらした、……ブラジャーを」
予想だにしていなかった。そんな表情になった水国はまず秋穂の胸を見た。
そして丘と呼ぶにもおこがましい、自分自身の壁を見た。
その後改めて秋穂の胸を見ながら、
「……それ、撮影してていい~?」
「いいワケないでしょ!?」
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周囲に生徒がいないのをいいことに、どうしてボクのおっぱいは成長しないのかな~という水国の愚痴を聞きながら歩くこと五分と少々。
昇降口に到着し、そのまま付いてきた水国を気にせず下駄箱を開いたら、記憶にないものが一つ増えていた。
薄い青の封筒である。表面には男の子が書いたような筆跡で「立花秋穂さんへ」と書かれていた。
裏返せば、青と対比するようにピンク色のハートのシールで封がされている。
どちらにも、差出人の名前は書かれていなかった。
ラブレターだった。
昇降口に入る前、校舎に備え付けられた時計はまだ七時を指していなかったと秋穂は思う。
いくらなんでも早過ぎるんじゃないだろうか。
もしかしたら連休前に入れられたのかもしれない。部活動に参加する生徒のために学校自体は開いていたし。
「相も変わらずモテてるねえ~」
「そんなんじゃないですって。ていうか中学はお姉ちゃんの影響だって先輩も知ってるじゃないですか」
立花姉妹は同じ中学に通ったが、三歳の年の差もあって時期が重なることはなかった。
だが時期が重ならずとも、新入生に卒業した先輩の弟妹がいるという情報はいとも簡単に知れ渡ってしまう。
そして秋穂の姉は中学を卒業するころには既に大人顔負けのスタイルを誇っており、学校中にその浮名を流してもいた。
もし一番最初に接触してきた先輩が、この水国瑠莉奈でなければどうなっていただろうかと秋穂は思う。
秋穂が初めて告白されたのは、中学一年の時、当時のバスケ部長だった。イケメンと評判で、友人たちを始めとして学校中の女生徒から高い人気を誇っていた先輩だ。
秋穂が無知で、友人から聞いた評判をそのまま鵜吞みにしていたら、おそらくその求めに応じてしまっていただろう。
だが秋穂は既に知っていた。これは、姉に捨てられた哀れな男の報復であることを。
姉にこっ酷く捨てられた仕返しに、その妹を手酷く振ってやろうと目論んでいることを。
だから秋穂は、
「女子更衣室に忍び込んであたしの服持ってキモ笑いしてる人はちょっと……」
と、水国の技術提供によって入手した必殺必勝究極兵器である一枚の写真を取り出した。
秋穂はスマートフォンの顔認証機能を利用して、秋穂以外の誰かが更衣室のロッカーを開いたら、自動で写真を撮影するように内部機能を仕組んでいた。
ついでに、万一にもその端末をセーフモード起動などの手段でロック解除されて撮影した写真が削除されてもいいように、撮った端から外部のサーバーへとFTPで送りつけるシステムまでも構築していた。
秋穂が使ったのは、その成果物の一つだ。
結果として、秋穂は中学三年生の男の子が泣きながら土下座で許しを請う姿を写真撮影するに至ったのだ。
これこそが、立花秋穂が歩んだ覇道の第一歩である。この日を境に、秋穂は並み居る告白者たちを水国の協力と自力で入手した情報でちぎっては投げちぎっては投げ、容姿端麗に成績優秀さらにはスポーツ万能のうえスクールカースト最上位という恵まれた立場にいながらも、恋人を作れたことがないという歴史を歩むことになったのだ。
苦い思い出だと秋穂は思う。そもそもなんで人生初の告白という本来なら胸がときめくはずのイベントで、やったことは嗚咽を漏らしながら地面に頭を擦り付ける先輩を被写体にしただけなんだろう。
「それに先輩だってあたしのこと言えませんよね」
「ふふん、この見た目で『お兄ちゃん、ボクの知りたいこと教えて欲しいの~♪』と媚びを売れば情報は集め放題だからね~。モテるのはその副作用で、本命じゃないんだよ~」
余談だが、水国が発行する羞恥爆撃卒業新聞が卒業生以外に知られることは殆どない。
なにせそれを他人に見せるということは、自身の恥部をも見せるということに他ならない。同じ痛みを共有する同級生以外にその存在を知られることだけは避けようとするからだ。
「それに秋穂ちゃん、立花先輩の影響がない下級生からもモテまくってたでしょ~?」
姉の影響じゃないんだったらなんなんだろうか。
姉妹そろって異性を引き付けるフェロモンでも出ているんだろうか。
それはそれとして、問題はこのラブレターである。
これは南波からの連絡なのかもしれない。封をするピンクのハートはどう見てもラブレターであると証明しているのだが、それを逆手にラブレターに見えるようにカモフラージュしたただの手紙という線だってあり得るのだ。
もしかしたら、ひょっとして、万に一つの可能性として、ただの手紙ではなく本当に南波からのラブレターという可能性もあり得るが。
決して南波からのラブレターだと期待しているわけではなかった。単なる一般論である。
初めてラブレターを貰った時以上に緊張しているかもしれない。
しかし、
「開けないの~?」
「いや、さすがに先輩に見られながらだとそれはちょっと……」
「いいじゃない~減るものでもなし~」
「そうですね減りませんねむしろ先輩にネタが増えますもんね」
いいから先輩も履き替えてきてください、と促せば、ようやく水国は上履きを取りに離れてくれた。
今だ。
封を開ける。
中には宛名と同じであろう筆跡で「突然、このような手紙を送り」との書き出しから始まっていた。
秋穂はそれを最後まで読むことなく、一番最後にかかれているであろう差出人の名前を探し、視線を動かしていく。
見つけた。
…………誰だこいつ。
全く覚えの無い名前だった。
気が抜けた。
南波でなくて一安心だと思うが、もしここに書かれているのが『南波迫』という文字だったらどう感じるだろうか。
多分、これは例のオフ会を見ていたクラスメイトの誰かが、というか十中八九あのたちの悪い先輩がいたずら目当てに入れたんじゃないかと不信を募らせただろう。
だから、ここに南波の名前がなくてよかったのだ。
さもなくば、この後南波とどんな顔で合えばいいか分からなくなって約束をすっぽかして、そして数日間は果ての無い犯人捜しという疑心暗鬼に捕らわれていたに違いないのだから。
馬鹿馬鹿しくなって、手紙を雑に鞄のサイドポケットに突っ込んだ。
上履きに履き替え、リノリウムの床に足を踏み入れれば、同じく下駄箱の壁の間から水国も出てきた。
目が合うと、水国は妙にばつの悪い顔になったのが見える。
その手には先ほどまで持っていなかった、しかし秋穂がついさっき見ていたのと同じものをぶら下げている。その顔はそして照れ笑いに代わり、
「にゃはは~、ボクの方にも入ってたよ~」
と、よく見えるように顔の高さまで持ち上げた。
ラブレターだった。
ストック切れた奴がおるらしい