そして少女は青年と出会った 1
秋穂がPUPPYに無様な負け方をした翌日は、平日だった。
そんじょそこいらの平日ではない。五月の大型連休の合間、平日を忘れることなかれと言わんばかりに、祝日休日に挟まれても赤く染まることなく生き残った平日だった。
そして東鎌ヶ谷高校1年1組出席番号十四番の立花秋穂は品行方正と成績優秀、そしてついでに眉目秀麗で通っており、こんな日であっても学校をサボるわけにはいかないのである。
大型連休の裏切り者に対して学校中のそこかしこで朝から不平不満が垂れ流されているのだが、目に見えて上機嫌な秋穂は普段より一層目立っていた。
「秋穂、なんか機嫌いいね?」
そんな秋穂に話しかけたのは早紀だ。手塚早紀。普段からグループを作っているクラスメイトは他にもいるのだが、早紀以外にその姿は見えなかった。
彼女はわざわざ一つ後ろの席から秋穂の目の前に回り込むと、
「何? とうとう彼氏でも作った?」
「いやいや、そんなんじゃないって。つーか早紀はあたしが男作る気ないって知ってるでしょ」
「秋穂のは単に相手へのハードルが高いだけじゃん。連休前には連日連夜コクられてたでしょ。誰かお目に適う相手はいた?」
早紀のその言葉に、秋穂は首を横に振ることで答えとした。
「どいつもこいつもサルばっか。顔と胸しか見てないわ。あと、それを言うなら『お眼鏡に適う』ね」
「さっすが成績1位で入学した立花秋穂サマだわ」
秋穂は苦虫を嚙み潰したような顔になり、ようやく今の学校の雰囲気に馴染んでいく。入学直後からやたらと告白されるのは、新入生代表の答辞で目立ったことも理由としては少なくはないだろうと考えたからだ。
「そんで、そんな機嫌がいいのはなんで?」
「そんなに変?」
「周り見てみなよ。みんな今日も休みだったらって愚痴ってるのに、秋穂だけ鼻歌まじりでニコニコ笑っちゃって」
「え、うそ」
秋穂は自身が機嫌がいいということは自覚していたが、鼻歌が出ていたのは無意識だった。ちなみに歌っていたのは、エアリアル・ファイター5のOPである。
「そんないいことあったの?」
「あったというか、これからあるというか」
秋穂のその言葉に早紀は目を光らせ、懐からメモ帳とペンを取り出す。手に持つペンをマイクに見立て秋穂に突き付け、「それでは立花秋穂さん、これから一体何があるのでしょうか?」と問いかけてきた。
早紀は新聞部だ。常日頃から何かネタになりそうなものがないかと探し回っている。
秋穂は果たしてこの女に明日の事を伝えても大丈夫だろうかと思い、一ヶ月という短いながらも知る限りの早紀の為人を考え、隠す方が逆に面倒になると結論した。
「ちょっと明日ね、憧れてる人と会えるようになって」
男か、という間髪入れずの早紀の言葉を否定する。
「そんなんじゃないって。ていうか性別すら知らないし」
その言葉に、早紀は目を瞬かせて首をかしげる。その仕草を、秋穂は同性ながらに可愛いと思う。早紀は少し考え、「……オフ会でもすんの?」と聞いてきた。
「うん。まぁ、そんな感じ」
と返すと同時、早紀は秋穂の両肩を掴み、真剣な顔を近付けて来た。
「鼻毛が出てないか気を付けて。
下着は上下を合わせた新しいのを出して。
あと、ちゃんと避妊しなよ?」
「だからそんなんじゃないって!」
●●●
高校生からは、秋穂は部活はやらなかった。
中学の時には短距離陸上選手、それも国体中学生部門の100メートル走を優勝という超好成績を残しているのだが、高校でも続けようとは思わなかったのだ。
燃え尽きた、というやつだろう。体を動かすのは好きだし、そもそも秋穂は負けず嫌いだ。結果として最優秀入学生として答辞を行ったし、日本一速い中学生になることも出来た。もし中学時代が不完全燃焼だったら、高校こそはと負けず嫌いを発揮して同じ競技を続けていただろう。
五月になったからという名目の席替えで秋穂がつかみ取ったのは、窓際の最後列だ。そして一年生の教室は三階にあるという東鎌ヶ谷高校の特性を十分に活用して、窓から運動場を走る生徒たちを見下ろしていた。
そんな光景を見ていたから、昔の栄光を思い出したのだと秋穂は思う。
大型連休の隙間という平日に行われている体育だ。生徒達にやる気はこれっぽっちも見られず、全身全霊でこんな日に体育をやらせるなと不平不満を表現していた。その姿は、正直言ってみっともなかった。一度やり始めたのなら、さっさと気合を入れたほうが気分的にも実際にも早く終わるだろうに。
あとこの胸だな、と視線を自分自身に向けた。セーラー服をこれでもかと持ち上げる、平均を大きく上回る乳房。走る上での悩みの種。中学の現役の頃にはまだ微笑ましいサイズだったのだが、引退後は色々と困る勢いで成長してくれたのだ。
もし今、全力で走ったら凄く痛い。入学最初の体育は体力測定で、久しく全力で走っていなかった秋穂は、そのことを身をもって学習することになった。これが決定打となり、秋穂は高校での陸上継続を断念した。
続けて視線を教室に向ければ、空いた席は全部で五つ。サボりだ。席替えに参加できなかった五人のクラスメイトは、きっと休日明けに自分の席はさてどこなのかと困ることになるのは明らかだ。そして多分だが、サボった面子からして秋穂が助けることになるのだろう。
黒板の上、いじめ対策のため実はカメラが隠されていると噂されている壁時計は、十時二十四分を指している。
教壇に立つのは社会教師にして1年1組担任教師の市原奈央子二十七歳独身。チョーク片手に板書を解説していたが、既知の内容だったので再び視線を窓の外に戻した。
教室を見ている間に、正門には白いバンが止まっていた。バンからは男子用学生服を着用した何者かが降りてくる。今日が休日ではなく平日だと遅れて気付いた生徒だろうか。よもや男子生徒に扮して不法侵入目的の不審者谷口信三(仮名)五十五歳男性初犯などではないだろう。
そして、正門から玄関口までの通路の横には、巨大で丈夫で武骨な建造物が鎮座してした。
下総地区第二防空壕だ。
十五年前の負の遺産。当時は「いつか戦争になるぞ」と噂されていたのに、一度も活用されることなく、ある日突然「戦争が終わったぞ」と用済みになった無用の長物。
東鎌ヶ谷高校の敷地に建造された防空壕は、地下の物資搬入通路が国連軍の駐屯地である下総基地と繋がっているらしい。そのせいで解体もできなければ放棄も出来ない。日曜日には数週間置きに討論番組で、核シェルターは税金の無駄遣いだいや必要だと大激論を繰り広げる自称有識者の姿が、十五年前から今日まで飽きることなくお茶の間に流れ続けている。
こんな施設が日本全国、北は北海道から南は九州の鹿児島まで、アメリカ合衆国の属州であるオキナワ州を除く四十六都道府県に存在するのだ。
戦争が終わったのは、秋穂達が生まれたかまだ生まれていないかという時期の出来事だ。なのに秋穂がこの一連の内容を知っているのは単純な理由で、担任教師市原奈央子が現在進行形で解説しているからで、小中学生の頃に何度も平和学習で教えられているからで、ついでに言えば日本における一般常識であるからだった。
―――突然、教室の扉が音を立てて開いた。
教室中の視線が音源に集中する。そこに立つのは男子用学生服を着ていて、つまりは先程、白いバンから出てきた人物だと秋穂は気付いた。
南波だ。南波迫。高校一年生なのに十八歳。高過ぎず低過ぎずの平均的な身長に、黒髪黒目の凡庸な見た目。彼は教卓に向けて悪びれることなく、
「すみません。遅刻しました」
とだけ言った。
またか、と秋穂は思う。
南波は遅刻と早退の常習犯だ。月に数度どころか週の半分は遅刻しているし、早退の頻度も遅刻に負けていない。
入学式早々に遅刻し、クラスメイト全員の自己紹介の真っ最中に扉を突然開き、教室にいる全員の視線を集めて、やはりその時も悪びれることなく「すみません。遅刻しました」と言い放った男だった。
秋穂は、南波に対していい感情を持っていなかった。どうしてこう幾度となく遅刻するのかとか、遅刻するのならその原因を解決しようとは考えないのかとか、自分たちより三歳も年上なのはその遅刻癖が原因なのではないかとか。
端的に言えば、秋穂は『だらしのない人間』が嫌いなのだ。
だというのに市原は注意もしない。「南波君ね。連絡は受けているわ。席に座って頂戴」と、市原を始めとする全ての教師が、彼の遅刻を何ら問題行動として取り扱わないのだ。そして南波は自分の席に着席し、授業が再開するのが、この一ヶ月の常であった。
しかして、今日はそうはならなかった。
「重ねてすみません。私の席はどこでしょうか?」
という南波の言葉に、市原は露骨に「しまった」という顔をした。席替えを行ったのはつい二時間ほど前のことだが、五つの空席のそれぞれには誰が座るのかをもう覚えていないらしい。
授業の進行が停止する。誰もが何も言わず、だが秋穂は市原が持たない答えを知っている。
そして、秋穂は自分が出来るのにそれをやらないという立ち振る舞いが、どうにも卑怯に思えて我慢ができない人間だった。だから、
「南波くん、こっち。あたしの右前の席」
と、手を挙げることに躊躇はなかった。
秋穂にとって南波は気に入らない男だが、だからといって困っている相手を無碍にすることを、その性根が良しと選べなかった。
「ありがとうございます。立花さん」
だが、己が信念に基づいた行動によって当の南波から礼を言われても、どうにも秋穂の心が晴れることはなかった。
きっと、南波の言葉に露ほども感謝の気持ちがこもっていなかったせいだと思った。
●●●
「一体なんなのよ、あの男は」
昼休みの教室には、弁当を突きながら早紀に愚痴る秋穂の姿があった。
「あの男って、南波のこと? あ、だし巻き卵貰っていい?」
「そう! その唐揚げとトレードなら許す」
「うーん……交渉成立! 秋穂が悪口言うのって珍しいね」
そう言われて、確かにそうだと秋穂も思う。だがこれは単なる一個人への評価、悪口じゃないって、ということで押し通した。
「だって今日で何度目よ、あいつが遅刻するの」
早紀は「えーと」という言葉と共にメモ帳を取り出ししばらくページをめくり、「ちょうど10回目だね」と答えた。
「……なんでメモってんの?」
「センセーショナルな記事と言うのは日々の蓄積から生まれるのだよワトソン君」
探偵なのか記者なのかどっちなんだ。そんな目を向けていたら教室のスピーカーが「ブツン」と音を立てた。続けて鉄琴の音が鳴り、『えー1年1組』という自分たちのクラスを表す言葉が聞こえて、秋穂達をはじめ教室に残る生徒が校内放送へと一応程度の意識を向けた。
『1年1組の南波君。南波迫君。田中さんからお電話です。至急、職員室まで来てください』
校内放送は同じ内容をもう一度繰り返し、再度の鉄琴の音の後に沈黙する。そして皆、放送の前にしていた会話に戻っていった。
いつものことだ。この一ヶ月、同じような放送で南波はもう何度も職員室に呼び出されていて、誰もかれもが気にしなくなってしまった。
件の南波自体、毎日昼休みも早々に鞄片手に教室を出ていく。今日も放送が始まるより前から、やはり教室にその姿はなかった。はてさて、それでは南波は一体どこに向かうのかと後を追おうとするものもいやしない。この一年間の主要な友人というのは、最初の一ヶ月でほぼほぼ決まってしまうものだ。九年間の学生生活で誰しもがそのことを理解していて、よりにもよって教室の異物相手に貴重な時間をドブに捨てる愚行に走るものはいなかった。
そして南波を話題にしていた最中に当人が呼び出されるという事態に、二人の間は妙な沈黙で包まれ、
「今更だけどさ、これ変な放送だよね」
別の話題で、早紀の方から沈黙を破った。
「変って?」
「いや、うちの学校さ、別に携帯とか禁止されてないじゃん。南波、休み時間はいつも一人でスマホ弄ってるし。学校じゃなくて本人に直接電話すれば良くない?」
言われてみると確かにそうだ。授業中ならともかく、休み時間に携帯電話を使っても特に問題はないはずだった。
「それに気付いてる? 南波、放送で呼び出されるとほぼ早退してるって」
知らなかった。秋穂は南波の早退の頻度は気にかけていたが、放送での呼び出しまでは気にしていなかったからだ。
右前にある南波の席を確認する。学校指定の鞄は、デカくて明るい茶色でそして重い。サイズのわりに物が入らず、デザインが旧時代的で古臭く、つまりは学生に大不評の品である。その鞄はやはり、常の通り南波と共に残っていない。
変な放送ついでに言えば、南波という男も変な人物であった。
一ヶ月の入学式の日。あの男の自己紹介は簡潔だった。「南波迫。十八歳です。同級生なので、私に話す際にはタメ口で構いません」とだけだった。
遅刻した理由も言わなかったし、空白の3年間についても一切不明だ。それに、同級生にはタメ口でいいと言っておきながら、当の南波本人は同級生相手にでも敬語を使うのだ。これではあべこべだ。
一ヶ月前の体力測定の日。あの男の運動能力は圧倒的だった。およそ全てが高校生が出すような測定結果ではなく、例えば100メートル走ならば世界新記録かというタイムを叩き出した。
当然ながら運動部員が殺到したのを秋穂は教室で見ていたが、「私は入学時点で十八歳なので、高校生制限がある全ての大会には参加できません」という言葉で、殆どの相手が勧誘を断念したと聞いていた。
「その勧誘騒ぎだけど、まだ続きがあってさ」
「続き?」
「うん。それでもしつこいのが粘っていたんだって。そしたらさ、ドーピングしてるって」
「―――は?」
「日本一足が速かった元JCさんとしては、やっぱり許せない?」
「そうじゃなくてもズルはダメでしょ。てかドーピングってどういうこと? しかも学校の測定でとかどんだけ気合入ってんのよ」
「詳しくは分かんないんだけど、国連軍で新薬の人体実験のバイトしてたとか。で、その効果とか後遺症とかで運動能力が凄いことになってるんじゃないかって話」
その言葉で秋穂は眉をひそめた。
「あいつが三年遅れて入学したのも、そのバイトが原因って事?」
「さぁ、どーだろ。聞いてもはぐらかされたし。それに南波、孤立してるしさ」
つまりそれは、誰も南波について詳しく知る生徒がいないということだった。
そもそも、南波が孤立するのも当然だ。秋穂はそう思う。同い年が集まる教室に、一人だけ三歳も年上の異分子がいるのだ。周りから話しかけるにしては、三歳という差は心理的ハードルが高過ぎた。
南波に近付けば、体臭とも異なる独特の香りがする。秋穂と同年代の男たちには御用達の制汗スプレーとはまるで異なるし、かといって加齢臭のような悪臭というものでもない。香水だろうと秋穂は予想しているが、制汗スプレーではなく香水を選択しているという点でも、やはり強く差異を感じるのだ。
しかも男なのに一人称は『私』で、それもまた、南波と自分たちは立場が違うのだという圧力を覚えてしまう。
そして、南波の方からコミュニケーションを取ろうとする様子もなかった。休み時間などは誰とも話すことなく、一人スマホをいじっているだけなのだ。
立ち位置は完全に陰キャだ。だがしかし、秋穂が知る陰キャ特有の卑屈さを、南波からは全く感じることが出来ないのも謎めいていた。
考え事をしていたせいで、だし巻き卵がもう一つ減っていることに秋穂は最後まで気付かなかった。
高校生活が始まって、早くも一ヶ月。南波は、果たしてずっとこのままなのだろうかと秋穂は思う。
昼休みが終わっても、南波は教室に戻ってくることはなかった。