第三話 初夜
「ユーキ、まずはこれを食え」
フェンリルが指でつまむように青く透明な宝石のような物を示した。
「何だ?これは」
「飴だ」
フェンリルがそう言うと、おれの口の中へ、フェンリルが、飴を指でねじ込んだ。
「んぐっ、冷たっ!」
味は特に無かった。ただただ冷たい。氷のように。
「これを飲むと一体どうなるんだ?」
おれがそう聞くとフェンリルは、「簡単だ」と言ってから、「鏡を見てみろ」と、勉強机に置いてある。
渋々鏡を見ると、フェンリルの姿は無く、おれの顔だけがちらっと見える。
「これで、透過魔術を使っても優希は直視なら確認できる。それだけだ。」
「さぁ、乗れ。」と、フェンリルは背を向ける。気は向かないが、力はフェンリルの方が圧倒的に上だ。そう言い聞かせて、おれはフェンリルの背中に乗った。乗ってすぐ、フェンリルは隣の民家の屋根へと飛翔する。力の流れは普通にジャンプをして着地するだけだ。けれど、その力の規模が遥かに違う。けれど、着地は、猫の着地と同じように、衝撃を感じなかった。次第に、遠くから金属音が聞こえてくるのが分かった。この音は、確かに剣と剣が打ち合っている音だ。一体琴音と誰が......。まさか──。
*
ハーデスとオリヴィエの鎌と剣が打ち合い、薄暗い道に、赤茶色の火花が散る。
「やれやれ、騎士相手に近接戦じゃ折れてやくれないか。」
ハーデスはそう言い、一歩後退する。オリヴィエは次の一手を察し、身構える。
「即席砲火──」
ビームが、ハーデスの目先の位置から打ち出される。
「シールドモード」とオリヴィエが唱えると、さっきまでの両手剣が、大盾へと変形する。そして、ハーデスのビームを受け止める。
射出位置は変わっておらず、オリヴィエへと打ち出され続ける。その間ハーデスは距離を詰め、鎌の刃を打ち付ける。金属音が、周囲に響き渡る。ビームの射出が終わると、オリヴィエはすぐさま盾を剣に変形させた。ハーデスは鎌の鎖を、オリヴィエの剣に絡める。そして、自分の背よりちょっと高い位置から、二発ビームを射出する。オリヴィエは剣で鎖を瞬間的に切り、後ろへ跳躍する。
「チッ、つまんねぇな」
不満げにハーデスは呟く。けれど、懲りずにオリヴィエの剣へと鎌を打ち付ける。
「いつまで逃げ腰で戦うつもりだい?」
ハーデスはオリヴィエに問いかける。オリヴィエからの返事は無かった。
「フッ。まぁいいや、」
今も尚、二つの刃が打ち合う音が、夜空の元、響く。誰にも気付かれぬまま。
*
「到着だ」
フェンリルがそう言い。おれは屋根へと足を付けた。一戸建てでも、僅かに三階があるからか、小さく突起した部分のある家だった。おれとフェンリルはその突起している部分の影に隠れ、そこからオリヴィエと黒いフード付きのマントを被った従属者と戦っているのを見ていた。二人が打ち合う姿はすぐそこに見え、二人が戦いに集中していなければバレていただろう。オリヴィエの後ろに少し離れて琴音が居るのが見えた。相手方の主は見えなかった。まさか一人で......。そんなことはないはずだ。
(!!)
見えた。塀の影から、戦場を縫って琴音に近づく存在が。あれは誰だ。その影を見つめると、影から確かに光る銀が見えた。間違いない。あれは凶器だ。そう分析しているうちに、その黒い影は、塀を挟んで琴音と最短距離の位置に立っていた。あれは琴音を殺す構えだ。おれはラケットカバーからラケットを取り出し、左手に硬式テニスボールを一つ持つ。
「何をする気だユーキ!」
小声で、フェンリルはおれの行動に口を出す。敵が増えてしまうのは確かだ。フェンリルから見れば何の得も無いだろう。けど、目の前の人を、ましてや身内なら、見殺しにしていい理由がない。もし外したら、なんてことは考えなかった。黒い影は塀から顔を出し、腰にナイフを構えたまま、琴音へと駆け出す。おれはボールを宙へと投げる。目を閉じ、イメージする。かつて居たテニス部のエース、竹垣の正確無比なサーブのフォームを。今は小さなポールほど的は小さくない。想像で離れた五感が、次第に戻り出す。
(今だ)
目を開き、宙から落下するボールを、黒い影へ向けて叩く。撃った後見た影は、女性の影で、ポニーテールだった。当たれ。と祈りながら着弾を見届けようとしたときだった。
「うおっ!」
フェンリルがおれの体を引き、腕を掴んだまま、おれを引きずり、戦場から、建物一戸離れた影へ引っ張る。
「何をするんだ!当たったかどうか分かんなかったじゃないか!」
「大当たりだ。......全く、そんなバカやってこっちに目線が来るから、ユーキを引きずり出す手間が増えるんだ。」
「......それで、琴音とオリヴィエは?」
「離脱できたようだ。あんな固い球を当てたんだったら主を殺せるほどの隙が生まれる筈だが......。惜しい奴らだ。もう一方の組も、どうやら撤退したみたいだ。」
琴音は死なずに済んだんなら、それでいい。おれはさっきまでの緊張感も抜け、壁に寄りかかって座り込んだ。
「立てるか?」
フェンリルは半分ぐらい心配したような声で言った。
「大丈夫。って言いたいけど、ちょっと休憩が必要みたいだ。」
「そうか。じゃあ少し重いが......」
フェンリルはおれの背中と膝をフェンリルの腕に引っ掛け......、お姫様抱っこでおれを持ち上げた。
「固い地面で座るなら、家で座ったほうがマシだろう。」
フェンリルはそう言い、屋根へと跳び、屋根伝いに、おれの家へと一直線に駆けた。
「着いたぞ」
三分ぐらいで、家の正面に着いた。
「ありがとう。もう大丈夫だ。」
少しふらつくけど、家の中で動くなら問題ないだろう。
「フェンリルは、疲れてないか?」
「別に、こんくらいの事は大したことない。それよりも、ユーキ自身が、私に言う前に、体を休めるべきだが。」
ごもっとものようだ。まずは風呂だ。お湯は......、追い焚きでいいや。着替えとタオルを用意して、浴室へ入る。
「いたたた.......」
お湯が傷に染みる。いくらフェンリルの力が有ったとしても、まだ回復しきってはいなかったようだ。
痛みの元をたどってみたが、どこもかすり傷程度に収まっていたからこの勢いなら明日には癒えるだろう。安堵と共に込み上げる疲労を抱え、湯船に浸かった。静寂の中に、水が滴り落ちる音だけが響く。
何気なく天井を見つめ、おれは今日一日起こったことを思い返す。遠ねえに宝石戦争について教わり、竹垣がそれを真実にし、おれはフェンリルを召喚して・・・。何もかもが非日常への第一歩だった。
これから一体何が待ち受けているのだろう。それはおれもフェンリルもわかりはしないのだろう。未来は真っ暗で、どこまでも深く、静寂の中にある・・・。そんな気がした。
「ははは......。何考えているんだ、おれは」
きっと疲れているんだろう。そうだ、節々が悲鳴を上げている。さっさと風呂から上がって寝よう。そうしよう。力を振り絞り、湯船から体を起き上げる。水面から肌が露出する時、沈んでいた痛みが再び音を上げる。
「あだだだ」
おれは浴室から出て、洗面所で優しく、タオルを当てるように水滴を吸い込ませ、寝間着に着替えた。洗面所から出て廊下を見渡す。どこにも人の気配は無かった。フェンリルも見当たらない。
「おーい。フェンリルー」
軽く呼びかげたが、返事は無かった。きっと彼女にも一人で休む時間が必要だろう。そう思い、二階の自室へ上り、布団を敷いて、中へと潜った。