9.静かな日々
「ふぅ……」
掲示板のコメントから目を離し、息を吐く。何をしたという訳でもないのに、深夜には疲労感が澱のように沈殿する。背を床に預け、ゆっくりと瞼を閉じた。
甘く優しい闇の中。直ぐにでも忘れてしまいそうな淡い、奇妙な夢を見た。
セピア色の世界。僕は明日にも命を失う病人という設定だった。横たわった病院のベッドの傍らにはテレビがあって、野球の中継画面のようなものが映っている。
バッターボックスに立っているのは、太っちょの見知らぬ男。
へっぴり腰で、なよなよとしたスイングスタイルを持つ変な男。
ソイツは今から、地球に降って来る巨大隕石を打ち返すらしい。実況やスタンドの歓声から、そういったことを知る。無感動にテレビ画面を眺めながら思った。
馬鹿だなぁ、と。
だがその馬鹿さ加減とは、何故かじっと見ていたくなる馬鹿さ加減だと気付く。ソイツも間違いなく、死ぬのだ。それなのにスタンドに立ち、一人で生を信じている。自分が隕石を打ち返せると、頑なに信じている。
まったく、馬鹿だなぁ。
もう一度、そう思う。それと共に優しく苦笑している自分を発見する。そこにいる僕は、どうやら久しく笑っていなかったみたいだ。
あぁ、自分はこんな馬鹿げたことで笑っているのかと、そのことに小さく驚き、鼻から息を抜いて、また薄く笑う。
絶対に……打てよ。
テレビ画面を見ながらそう考える。と、その太っちょは心の声が聞こえたかのように、こちらを向いた。そして親指を上げる。はにかんだ風な顔で、笑いながら。
僕はそこで初めて、男の正体を知った。
は、はは。なんだ、お前か。誰かと思ったら、お前じゃないか。
よぉ、元気してるか? それで、どうだ……隕石は、打ち返せ……そうか?
なぁ、だい……す、……け……。
――そうやって、巨大な車輪が回るように、終末の日々は過ぎていった。
僕らは大輔が英雄となっていく様を、爆笑しながら見ていた。それが終末の世界に残された、数少ない楽しみでもあった。ある意味、奴は本当に救世主だった。
また、大輔の不在が僕たちの意識にどんな作用を及ぼしたのかは分からないが、僕らは大輔がいなくなった後でも、暴漢に女の子が襲われている所を目にすれば、取りあえず助けることにした。
槍の装飾がすっぽ抜ける等のハプニングに見舞われ、脅しが効かなくなったこともあった。そんな時でも三人で物干し竿を振り回し、どうにか撃退した。襲われていた女性に感謝の言葉を述べられると、気恥ずかしく思ったりもした。
隕石が地球に落ちてくるまで、残り三週間。
僕らの間には、短い期間にも、まぁそれなりに色んなことがあった。
竜也が女の子と付き合おうとするのに協力したり(結局、失敗した)。タカちゃんが父親を探しに行くのに付き合ったり(結局、見つからなかった)。知り合いが……不幸な事故で命を落したり(結局、何も出来なかった)。
その他にも、とても悲しいことがあったけど、それは終末の世界ではそこら中に溢れていることだ。敢えて多くを語ろうとは思わない。
それでも僕らは、夜になると主不在の部屋に集まり、馬鹿話をしながら酒を飲んだ。それが僕らの安らぎで、静かな幸福だった。そこには満ち足りたものがあった。良きものだけを集めた、力強い何かが。
「あっ、花火だ」
香を含めた四人でお酒を飲んでいる時に、薄暮れの中で花火が上がっているのを見たことがある。僕らには僕らの物語があるように、別の“ 僕ら ”にもまた、同じように物語がある。終末の世に咲く儚い打ち上げ花火に、僕らは暫し口を噤んだ。
息苦しくない無言に体を委ねながら、終末に逆らい続けている奴のことを思う。今、奴は何処で何をしているのだろうか? 今、何を感じているのだろうか?
夜明けには世界に等しく陽が満ちる。その当たり前のような奇跡も、もう数回しか拝めない。原始の朝、初めての太陽を迎えた人類から今日まで続く営みを思い、僕らはひっそりと、それぞれの終わりについて考えていた。
「大輔、マジでブラスターホームランするのかな?」
その静寂の中、竜也が誰にともなく問いかける。
「さぁな。兄の俺でもアイツはよく分からんからな……。でも、昔から、嘘だけは言わなかったよな、アイツは」
僕は竜也とタカちゃんの会話に耳を傾けながら、窓辺に立って空を仰いだ。地球に向けて接近中の隕石をも含んだ、広大な宇宙を。
そこでふと、大輔がこの部屋にいた頃、好んで見ていたアニメを思い出す。ザンブラスターではない。もっと新しいアニメだ。あまり興味がなかったが、そのアニメに用いられているエンディングテーマの歌詞が印象的で、記憶に残っていた。
不機嫌そうな美人――かなり前に「君に聞こえた音楽」という歌で流行ったSHIBUMIという歌手の歌で、確かこんな内容だ。
地球が誕生する遙か以前のこと。宇宙でビッグバンという現象が起こり、様々な欠片が集まって地球になった。無機物から生まれた地球。そこに生まれた命。
宇宙の塵やガス、そういったものに出自を持つ人という存在。それが持つ心。
人が心を持つのなら、また、宇宙にも心があるのだろうか。
人はその宇宙から、一体、何を感じられるだろうか。
永遠のような、その美しさ……。
歌だからこそ、科学的な正しさというものはそこにはない。しかしその歌は、不思議と僕を厳粛な気持ちにさせ、心の奥底に潜む何かをゆさぶった。
そうやって黙って感慨を深めている僕を、香が視界の端でじっと見ていた。