8.死の受容
それからも大輔は、よく分からない感じで様々な海外の番組に「あ、どうも」といった感じで登場し、失笑や爆笑や顰蹙を欲しいが儘にしていた。
ニュースサイトや動画サイトを通じ、僕たちはその姿を見て笑っていたが、世界は徐々に笑っていられない状況になってきた。隕石の地球到達まで、残り一ヵ月を切る。刻一刻と増していく不安の水嵩が、うねりを伴った洪水となり堤を切った。
小康状態に綻びが生まれたのだ。
最期まで平穏に過ごそうとしている人々がいる一方、ストレスの限界を超え、逸脱した行動をとる人間が、若い層を中心に再び増加した。
各地で自暴自棄的な暴動が増えた。見境ない放火、殺人、破壊行動。ただ空虚を見つめないようになされる一連の事件。不安は煽られ、草原の焔のように広がる。
等しく訪れる終焉。地球という名の沈みゆく船。現実は冷ややかで、どこにも逃げ場はないにも関わらず、「終わり」だけは確実にやって来る。その事実に耐えられなくなる人間が多くなっても、何も不思議じゃない。自然なことだ。
僕らの地域でも治安維持が大きな問題となった。路上で死んでいる人が発見されたり、市街地で放火が頻発する等の噂を耳にし、僕らは静かに目を合わせる。そうやって無言の儘に戦慄していたんだ。遂に、恐れるべき事態が来てしまったと。
一人で出歩かないよう注意が出され、町が息を潜めた。台風が過ぎるのを待つみたいに。一方、自衛隊が暴徒に対し再び鎮圧作戦を各地で実行に移す。今日もまた、どこかで誰かが死ぬ。誰かが誰かを殺す。
こんな状態が、いつまで続くのか……。
だが予想とは裏腹に、自体は徐々に収束していった。人々が正気に戻ったのではない。虚脱状態に陥ったのだ。そして本当の意味で、死ぬことを受容し始めた。
嵐の夜が去り、人々は恐る恐る外に顔を出す。破壊の爪痕はしっかりと刻まれていたけど、あかたもゲームが終わったチェス盤のような静けさが、町にはあった。
それは日本だけではなく世界的な兆候らしかった。その時になって僕は、終末を迎える人間の心的状態が、「死を宣告された末期患者の心的状態」に類似しているという、最近書かれた、ユニークな英語の論文をネット上で見つけた。
1960年代後半。末期患者にインタビューを行い、その研究結果を「死の受容五段階モデル」として発表した、スイス人の精神科医の女性がいたらしい。死を受容していく心理的過程を五段階に分け、モデル化したものだ。
末期患者の第一段階の態度は「否認」。死の運命という事実を拒否し、否定する。自分が死ぬと知らされても、冗談でしょう、とか、何かの間違いだ、と、死の事実を受け入れようとしない。終末初期の世界でもよく見られた状態だ。
続く第二段階は「怒り」。否定しきれない事実を前に、やがて人は「死の根拠」を問いかける。何故、この実存的な、生をありありと実感している自分が死ななければならないのか? どうして? その理由は何だ?
当然ながら、形而上学的な根拠など見つかる筈もない。答えの不在に対し、人は怒りを覚える。自分の生の無意味さに腹を立て、自暴自棄的な行動を取る。完全に一致しているとは言わないが、終末初期の暴動もそれに類したものと考えられる。
第三の段階が「取り引き」。どれだけ死を否定しても、怒っても、「死に行く定め」は変化させることが出来ない。それでも尚、救いを模索するのが人間だ。
神仏に縋ってみたり、長年の思いを実現しようとしたりして、生に意味づけを行う。死の受容を考え、取引を試みる。終末の世でも、エベレストへの登頂やヨットで世界一周を試みるなど、劇的なことをする人間がいたことを思い出した。
そして第四段階が「抑鬱」に当たる。僕たちが享受していた、束の間の平和に近い。一つの小康状態だ。どのように足掻いても、自分はやがて死ぬということが感情的に理解される。何を試みても死の事実性は消えない。閉塞感が訪れる。
その結果、深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込むことになる。ただ日々を徒に過ごし、無為にやり過ごす期間。言語化して目の前に提出され、思い知る。状況こそ違えど、まさに僕が、これに似たような状態であったと。
しかし論文では、「死の受容五段階モデル」に於いて、この段階が最も大事だと主張されていた。この世との別れを覚悟する為に、他人から癒されることのない、絶対的な悲しみを経験する必要がある。人間存在を見据え、そう綴られていた。
やがて訪れる最後の段階、「受容」。自らの終焉を見つめる段階だ。死の事実を反芻する際、死は「絶望」であり「暗黒の虚無」だという考えが、ひょっとして間違っているかもしれない。と、そんな考えに人は出会うことがあるらしい。
感じ方は千差万別ではあるが、死の意味合いの変質を人は経験する。生命という大きな流れの中、死もまた自然な営みだという認識に達する時――心に平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。
現在、人類が直面している事態。巨大隕石の衝突によってもたらされる「死」は、自然な営みと考えることが難しい。論文執筆者はそう語る。だがそうであっても、生ある限り「死」は自然なことである。同時にそうも語っていた。
そこで僕は論文に這わせていた目を休めた。自前のノートパソコンから視線を転じると、竜也とタカちゃんが室内で賑やかにゲームに勤しんでいた。
「うおぉぉぉ!? 自殺ワープ航法ぉお!」
「ちょ、タカちゃんそれ無しだって!?」
スペラソカーのタイムアタックを行っているらしい。
変わらない奴らを思って笑みを零した後、一人思考を巡らせる。その中で考えた。自分にとって「死」とはどういう問題だろうかと。
世の中で「死」という観念が扱われるとき、多くの場合、時間を媒介としている。或いはこうも考えられている、時間の終末に来るものが「死」であると。
しかし、それは間違いなのだ。今日も、昨日も、そして明日も、人は時間とは無関係に死んでいく。事故で、自然災害で、他者に死を刺し込まれて。生のあらゆる瞬間に、「死」は同時性を持っている。人はいつ死んでもおかしくない。
そうやって考えると、「死」とは、一つの確認に過ぎないのかもしれない。
人間が、生の各瞬間において死につつあったことへの。僕らが生まれた瞬間から、完璧に「死」に引き渡されていたことへの。
終末が目前に迫り、やはり自暴自棄になる人間もいた。それに追従し、暴れる人間も生まれた。だが圧倒的に多くの人間は、水たまりのようにそこに存在している「死」を受け入れ始めていた。最後の暴動は、精一杯の自我の反抗ともいえる。
そうだ。死とは結局、自我を、唯一の”この自分”を諦めることでもある。
当然ながら、「死の受容五段階モデル」も仮説だ。末期患者と終末を迎える人間の心的状態がリンクするという説に、完全に寄りかかるつもりもない。人は必ずしも最終的な受容に到達できるとは限らず、途中の段階で死を迎える人もいる。
だけど、死が近づくと人が無意識に「死」を悟るという考えは、事実のような気がした。実際、生き残った人間は静かな終わりを待ち望んでいたからだ。
隕石の落下を待つまでもなく、そうやって人の世は静かな死を迎えていた。
「なのに……まったく、お前って奴は……」
苦笑と共に考えを打ち切り、別タブに留めてあったネット記事をクリックする。
人の世がそんな状況の中で、突如として脚光を浴びた一人の男がいた。ネット上で連日取り上げられる、完全にネタな存在。
――救世主DAISUKE。
秘書の女性は言葉通り、大々的な謎の宣伝活動を展開した。内容はタカちゃんが編集したあの動画を大掛かりにしただけの、ド直球なものだ。すなわち――
「救世主DAISUKEが、巨大隕石をブラスターホームランする」
当初一部の層に大爆笑と共に迎えられた他、時に批判の対象にしかなっていなかったそれは、世界が静かに死を受容する中、奇妙な浸透性を発揮していった。
隕石を打ち返す。荒唐無稽な話だ。
そもそも、その方法論すら開示されていない。無根拠に無鉄砲に、ただ打ち返すとだけ言っている。人類は最後の最後になって、ついに狂ってしまったのか? 極東の島国に育った良く分からない主張をする男を、英雄の如く取り上げるなど。
誰もが一度はそう思った。奴の言葉を信じる人間なんて、一人もいない。
しかし大輔は、どこまでいっても大輔だった。周りの反応など気にしていない様子だった。「本当に隕石を打ち返すことが出来るのか」と質問をされれば、何のてらいもなく、若干恥ずかしそうに、照れながらも常にこう応じる。
「あ、はい……出来ます」
無茶苦茶だ。失笑ものだ。世界が「死」を受け入れつつある中、コイツは何を言ってるんだ? 皆が「死」を信じる中、一人だけ頑なに「生」を信じている。
その構造は、本当にコメディだった。
だからだろうか……。何故か見てしまうのは、気になってしまうのは。あまりにも平然とした態度に、大輔を取材したとあるメディアの記者はこう語っていた。
「貴方は特大のライスボールを完食できますか、という質問をしてしまったのではないかと、思わず自分を疑った」
そんな飾り気のない大輔に、徐々に関心が集まっていく。
世界的に有名な心理学者や哲学者、小説家、果ては神学者までが、大輔の行動に対し、好意的な解釈で意味づけを行うことで、それは更に加速した。
今思えば、大輔には死の受容五段階モデルは全く当てはまらない気がした。奴は抑鬱状態になることもなければ、自暴自棄になることもなかった。常に平常運転だ。終末の世でも女の子を助けたりと、アイツはとことんアイツだった。
『もうコイツが救世主でいいんじゃね? 何かワクワクしてる俺がいるんだが』
『嘘とか本当とか、どうでもいい。だって死ぬんだから。だからもっと俺を笑わせろ。くだらねぇって、笑わせろ。その限りではアイツは俺の救世主だ』
徐々にネット上で、そんなコメントが目立つようになって来る。
竜也とタカちゃんが寝静まった深夜。パソコンからの光が無限に寂しく青々と漏れる室内で、そんな発言を眺める。座禅の習慣か、思考の海へと潜る癖がある僕は、それらを通じ人間の不幸と幸福について思いを馳せた。
人は自らを不幸にすることに長けた生き物だ。直ぐに自分を追い込んで、不幸を演じ、そこに甘え、寄りかかる。世界を認めず、進んでおかしな方向に行く。
滅び行く運命を前に、今、幸福だと感じられる人間がどれだけいるだろう。
死を受容し始めたとはいえ、圧倒的に多くの人間が、来るべき終わりを前に不安を感じている。眠れずにいる人も大勢いるだろう。自分も酒の力を借りなければ、眠れるかどうか自信がない。
「ふっ、」
――そんな現状の中、とびきりの馬鹿がいる。