4.望月香
女の子を助けた数日後。
僕は大輔と自分の家の中間地点にある、山の中腹にいた。主が去って久しい寺の境内の掃除をしていると、石段を昇って来る軽快な足音が聞こえる。
「やっほ、イサム君」
「ん? あぁ、やっぱり香か」
棟門から姿を現したのは、小さい顔に薄化粧を施した、田舎では珍しいタイプの美人。小学校時代の女友達、望月香だった。
僕の顔を認めた彼女はクスリと笑い、すっきりとした顎の輪郭が分かるショートヘアを揺らし、長い脚を運んで目の前までやって来る。そして――
「イサム君、まだここで待ってるの?」
「え?」
僕はその問い掛けをはぐらかすように視線を逸らした。
「いや、別に……誰かを待ってる訳じゃないけど」
すると彼女は両手をお尻の辺りに回しながら、僕に遠慮なく肉薄し、
「嘘、繭美のこと待ってるんでしょ? まったくロマンチストなんだから」
ハスキーな声で、下から見上げるような態勢で尋ねてきた。
「はぁ? 違うって。僕はただ、昔からお世話になってた寺だし、先生もいないから、だからまぁ、奇麗にしてるだけで」
脳髄を痺れさせる香水の甘い香り。グロスが引かれ、控え目に濡れた香の口元。そういった物に注意を向けないようにしながら、手にした箒をせかせかと動かす。
僕が掃除をしているのは臨済宗の寺で、簡単に説明すると一休さんの宗派に該当する。本堂の外観は方丈型の堂々とした造りだが、内部は修行場だけあって飾り気がなく、安置されている薬師如来は国の重要文化財だが、知る人は少ない。
家の都合で小学生の頃から足繁く通って座禅を組んでいたこの寺は、自分にとって心安らぐ、馴染み深い場所だった。また外界から遮断されたような位置にあり、人も少ない。繭美とも二人でよく来ていた……そんな大切な場所でもある。
「ふ~~~ん。まぁいっか、そういうことにしておいてあげる」
「あげるもなにも、そうなんだってば」
半眼を作って悪戯めいて笑う香に向け、気まずげに応じる。
この寺を任されていた和尚は、今らから一年ほど前、全国行脚の旅に出てしまい、彼の家族もそれに着いていった。その際、この寺の維持管理を僕が申し出たのだ。だからこうして週に二三度訪れては、暇潰しも兼ねて清掃を行っている。
もっとも寺は、慶長五年に創建された由緒ある寺でありながらも、観光客が「眩暈がする」と見上げては恐れる急勾配の石段の上にある。禅宗だけあって、とことんストイックだ。檀家も少ない。その為、訪れる人間は殆どいないのだけど。
「それで、この間から私が言ってたことは、考えておいてくれた?」
「え……?」
一刹那が刻まれる中、香が現れてから僅かに覚えていた気不味さが、僕の意識に蓋をした。沈黙が生まれ、茫然と過去の景色に想いを馳せる。
『ねぇ、イサム君。私と付き合ってくれない?』
一か月程前、突然この寺に現れた香は、僕に向けてそう言った。香とは実に八年ぶりの再会だった。いきなりやって来た彼女に驚きながらも、棟門から入って左手にある吹きさらしの休憩所に腰を落ち着け、お互いの現状を話す中――
『その、繭美とは……』
そう問われ、幼馴染の連中には言えなかったことを、吐露した後のことだった。
竜也もタカちゃんも、そして大輔も、僕が繭美と婚約していたことはよく知っていた。地元で挙式を上げる際には、結婚式のスピーチや余興を頼んでいた程だ。
しかし僕が終末の世界で一人でいることについては、彼等は触れないでいてくれた。僕もそのことだけは、何故だろう……アイツ等には、話せずにいた。
『そうなんだ。でも、いくら待っても繭美は来ないと思うよ。だから……』
「ねぇ? どう?」
それ以来、香は頻繁に寺を訪れては、同じようなことを問い続けてくる。
僕は無言で、香の端正な顔をじっと眺めた。
もう殆ど覚えている人はいないが、香は昔、地味な女の子だった。
今では想像もつかないが、太っていて、暗くて、小学四年生の頃には、学年で一つしかないクラスの女子から苛められていた。
そんな香とは家も近いという事情もあり、またなんとなく可哀そうという理由から、僕らはよく彼女と遊んでやった。最初に声を掛けたのも僕だ。
いや、内実を語れば、大輔がそう提案したのだ。
それで香は徐々に明るくなって、彼女の兄に影響されてミニバスケットを始めると、みるみる変わっていった。実は負けず嫌いだった香。痩せ始め、身長も伸びると、小学六年生の頃にはクラスの女子の中心的な存在になった。
そんな風にして、明るくて朗らかで物怖じしない――今へと通じる香となったのだが、僕は香と対面する度に、昔の彼女を何故か思い出してしまう。
「イサム君、人の話聞いてる?」
「あ、あぁ……聞いてるよ」
また、香とは中学を卒業して以降、高校も違った為に会う機会もなかった。連絡はあったが、勉強や同じ高校に通っていた繭美との恋愛に僕は忙しかった。
香の話を耳にしたのは、それから数年後、大学一年の秋のことだった。
『そういえば……香なんだけど』
香は繭美の数少ない友人だった。痩せた香が積極的に交友を求めたのだ。そして繭美の話によれば、香は高校卒業後には地元の工場で事務員として働いていたらしいのだが、それを止めて突然、大坂の繁華街でキャバクラ嬢になったという。
『ヤッホー、イサム君』
『お前、本当に香か?』
成人式の日には、派手な香に気後れしたものだ。彼女は僕らの前で二度変身を遂げた。同じように大輔や竜也も驚いていた。そんな香は待遇も良いが厳しくもある有名店で、売れっ子になっているとも噂されていた。
だけどつい最近になって地元に帰ってきた彼女からは、その派手さも抜けている。髪型も小学校からお馴染みのショートカットに戻った。格好も細見のジーンズに白いVネックシャツ、赤色のコンバースといった目立たない装いとなっている。
――ただ一つ……昔の彼女とは違う、積極性を身につけてはいるものの。
「それで、どう? 私と付き合ってよ」
僕は再び、黙ってしまう。
『どうして僕なんだ?』
理由を以前尋ねると、香は小学校の頃から僕のことが好きだったと言った。その言葉に僕は、嬉しさよりも困惑を覚えた。
香とは一時期、よく一緒になって遊んだ過去はあるものの、中学からはクラスも分かれた。部活も異なり、廊下などで顔を合わせれば話すこともあったが、距離は開いた。どちらかと言えば、香は竜也との方が親しかったような気もする。
だから時を隔てて再会し、付き合ってよと言われても、後ずさりしてしまう。
いや、困惑の原因はそれだけじゃない。奇妙な居心地の悪さ……。
僕は昔、香が苛められているのを見て見ぬフリをした。大輔が一緒に遊ぼうと言い出した時も、実際に遊び始めた時も、ドン臭い香のことを疎ましく思っていた。
それは彼女も、恐らく、いや間違いなく気付いていた筈だ。
それなのに、どうして……。
「その……香、悪いけど、僕は……」
「ふ~~ん、イサム君は私のこと嫌い?」
「は? いや、別に嫌いってわけじゃないよ」
「じゃあ好き?」
香の顔は、隠し絵みたいに様々な表情を含んでいた。柔和に微笑みながらも、切々と訴えるような寂しさを感じる。耳を澄ませるように、その顏を眺めた。
「…………そういう問題じゃ、ないんだ」
「じゃあどういう問題なの」
「いや、だから……」
すると香は、悲しそうに笑いながら言った。
「やっぱりイサム君……繭美のことが忘れられないんだね」
薄く微笑むだけで、僕はその問い掛けには何も答えなかった。ハードディスクのようにカリカリと、静かに過去が回転し、繭美の思い出が再生される。
僕は繭美のことが、小学生の頃から、一目見た時から気になっていた。
いつも一人な彼女。大人のような字を書き、大人のように世界を認識し、大人のように一人でいる。孤独を自ら選んでいるような、彼女のことが……。
繭美は地元で信頼を集めている開業医の一人娘で、美しく賢く、そして酷く無口な子供だった。無愛想で、話しかけられても興味なさそうに冷たい眼を向ける。まるで泡一つ内包しない、純度の高い氷のような表情。
繭美があまりにも完璧だった為に、クラスメイトは誰もが彼女を恐れていた。
誰も彼女の寂しさに気付けなかった。一人娘の彼女は父親から、小学生にしては酷な、厳しい教育を受けていた。学校医として、身体測定時などには学校にも遣って来る、とても優しそうで、話の分かる内科医の先生。
でも――繭美に向ける顔は、それとは異なっていたみたいだ。
それに僕が気付いたのは、小学四年生の頃だった。今もって、それが早かったのか遅かったのかは分からない。
『帰らないの?』
夕日が家路を染める、放課後の帰り道。繭美が家に帰らず、公園のブランコで一人揺れている姿を僕は見かけた。図書当番で、帰りが遅くなった日のことだった。
『……うるさい』
話し掛けると、彼女は僕を見もせずに、不機嫌そうに応じた。その言葉に臆したようになりながらも、何故だろう、僕には途方もなく彼女が寂しそうに見えた。
意を決し、隣のブランコに並んで座る。
『どこか行ってよ。イサム君のこと好きじゃないし。傍にいられると……邪魔』
その直接的な一言に、小学生の僕は驚き、そしてとても悲しくなったことを覚えている。それでも頑なに隣に居続けた。そうする必要があると思った。
『放っておけない』
『……え?』
『繭美ちゃんのこと……放っておけないよ』
無言が横たわり、暮れ色が深まる。そのままそうしていると、嗚咽する声が聞こえた。驚いて視線を移すと、繭美がぽろぽろと涙を流していた。
僕の繭美への印象は、その時から変わらない。
一人で苦悩を抱えようとする、強くも弱い女の子。
本当はそんな彼女を、彼女自身、誰かに見つけてもらいたかったんじゃないか。今なら、そう思える。自分を見抜いて欲しくない人間なんて、一人もいない。
涙の理由はテストで百点を取れなくて、それで父親に叱られるからというものだった。我が耳を疑う位に、時代錯誤な程に……強く。泣いている彼女の手を取って家まで送る途中、繭美の口からそう聞かされた。
「はぁ……、ねぇイサム君。今、繭美のこと考えてるんでしょ?」
香の嘆息交じりの問いかけに、僕は慌てて応じる。
「えっ? いや、別に……」
そこで香は鼻から息を抜くと、一種、清々しいような微笑を浮かべた。
「まぁ、いいや。それでも私は諦めないから」
「悪いけど……その、何度来ても一緒だよ」
どうしてそこまで意固地になっているのか、自分でも分からない。
香との間にある気不味さを見ないフリして、楽しめばいい。双方の同意の元なら、情欲に溺れたって良い。終末の世界では、全てが許されている筈だ。
それなのに僕は、繭美との間にあった絆を信じたいのか、ここで……。
「ふ~~~ん。でもいいの。最後は自分に素直になって生きるって決めたから。それにこうやってイサム君と話せるの、自分にとっては楽しいし」
思考の海に潜っていた僕に、香は楽しそうに笑ってみせた。それだけで人が救えそうな、迷いも曇りもない美しい笑顔だった。
――素直になって……か。
僕は彼女の顔を、眩しい物を見るような目で眺める。
香は” 最後 ”と言った。当然、最初もあれば、途中もあるんだろう。彼女はそれまで素直に生きていなかったのだろうかと考え、成人式の日の香を思い出した。
楽しそうに笑っていたが、僕には何処か、無理しているように、辛そうに見えた。
それが今は、随分と自然な空気を吸っているように感じる。自由で幸福な人のように、片意地を張らず微笑んでいる。正直な話をすると、告白された当初は、彼女にからかわれているのではないかと疑問を覚えもした。
『私、本気だから』
だが、そう言った彼女を今は疑うこともない。
「香は、本当……変わったよな」
「それって、小学校低学年の頃と比べて?」
その呟きが意外だったのか、香は少しだけ目を丸くしていた。
僕は苦笑しながら続ける。
「あぁ、あの頃とは、本当に……大違いだ」
すると香は、自分自身の悲しみを見つめるような目をして下を向いた。ジーンズの後ろポケットに両手を突っ込みながら、静かに言う。
「私、苛められてよかったと思ってるの」
「え?」
次いで顔を上げて薄く微笑むと、遠くを見るような眼差しで……。
「そういう経験をすることで、人間を見る目が養えたと思ってるから。それは私の人生の財産。キャバ嬢やってる時にも、凄く役に立ったの。知ってる? 実はかなり売れっ子だったんだよ、私」
その瞬間、僕は香の強さを垣間見た気がして、そのいじらしさに目を細めた。同時に、彼女の瞳に僕はどう映っているのだろうかと、少し寂しくも思った。