10.繭美と香
人類滅亡まで、残り五日と迫ったその日。
僕はお寺の本堂で座禅を組んでいた。この寺を訪れるのは、僕を除いて香以外にない。それはもう、ずっと変わらないでいた。
静かな時間が寺に流れる。世界は墓石のように動かず、沈黙を保ったままだ。主観と客観を自分の中で少しずつ統合させていく。
――どうして僕は、ここにいるのか。
その過程で生まれた雑念を、雑念のままに手放しにした。恐らく僕は、ある種の甘い空虚に寄りかかり、自分を許し過ぎたのだろう。
――今も、何所かで、僕は……。
「イサム君、未だ繭美のことを待ってるの?」
その声に、ゆっくりと目を開く。
「香……?」
振り返ると、境内に面した本堂の入口付近に香が立っていた。
いつもとは違って深刻そうな気配を纏い、険しい顔をした彼女が。
最期の日が近づくに連れ、寺で座禅を組む回数が増え、殆ど習慣化していた。香もそれに合わせ、毎日のように顔を出していた。しかしここ暫く、香は僕の前に姿を見せていなかった。思い返せば、皆で花火を見た翌日辺りから。
「香……どうした? ちょっと、いつもと雰囲気が違うぞ?」
そう声をかけると、香は目に見えて表情を曇らせた。会えば必ず視線を合わせようとした彼女が、焦点を目の前の僕に結ぼうとしない。
「香?」
本堂内に満ちる静寂には、彼女の苦悶がそっくり漂っているかのようだった。
「どれだけ待っても、繭美は来ないよ……絶対に、絶対に」
不可解な風が僕の心を上滑りするように吹き、通り過ぎる。何とも嫌な疑惑が脳裏を掠め、こめかみからじっとりと嫌な汗をかく。
「……どういうこと?」
思わず立ち上がる。二人の距離を推し量るように尋ねると、香は鼻を啜った。
「はぁ、可笑しいな。結構、人の生き死にには慣れてきたと思ってたんだけどな」
口を無理やり笑顔の形に引き絞り、全てを諦めながらも、悲哀の色は隠しきれない瞳で僕を見る彼女。また鼻を啜る。
「それってまさか……」
言葉は風のように空虚だ。恐れのようなものを抱きながら、僕は先を促す。
すると香はいつものように、僕の瞳を真っ直ぐに見据えた。そして――
「うん。繭美はもう……死んでた。心中だってさ」
瞬間、全身を冷たく貫かれたような錯覚に陥る。自分と云う陶器がひび割れる、乾いた音を聞いた気がした。目は自然と見開き、手足から力が抜ける。
――繭美が……心中……?
「美雪って覚えてる? 同じ小学校だった」
作った、下手な笑顔で問いかける香。
僕は瞬きを忘れたまま、かろうじて頷く。山の中腹にある寺全体が柔らかい自然の調子を失い、何か残酷な、無機物の集合のように感じられた。
「彼女、看護師になっててさ。たまたま繭美と同じ病院にいたんだよね。といっても、大きな総合病院だし、所属してるも課も違ったみたいなんだけど」
美雪という女の子のことは、僕も記憶の片隅にあった。だがその時まで、繭美と同じ病院に勤務していたことなど、知りもしなかった。知ろうともしなかった。
鼻から息を抜いた香が、透明な、僕の背景を見つめているような表情で言う。
「私が地元に戻って来たのって、どうしても繭美と話したいことがあったからなんだ。もう最後だし、それで……色々と探してて、友達から、美雪が繭美と同じ病院に勤めてたって聞いて、連絡取って話を聞いたの。それが、イサム君と会う前のこと。ごめんね、ずっと……黙ってて」
唾を飲み下し、からからに乾いた喉でどうにか言葉を発した。
「……それで?」
一瞬の躊躇いの後、香は促されるままに話を続けた。
「繭美、年上の男の先生と逃げた後……その人の長野県の別荘で、青酸カリで心中したって。病院内でも、一部で噂になってたみたい。繭美の家に連絡が行ったらしいけど、お父さんが、それは家の娘じゃないって、そう言って……死体を受け取り拒否したみたいで」
声が震える。
「ま、繭美の……う、受け取り拒否?」
口にする言葉の一つ一つが、身の内の空洞をぐわんぐわんと反響する。そんな錯覚を抱いた。今度は僕が、香と視線を合わせることが出来なくなっていた。
「うん。話を聞いた時は信じられなくて、それで私、ずっと迷ってたんだけど、お兄ちゃんの四駆借りて、確認してきたの。ガソリンも、治安隊やってる人から分けて貰ってさ。だから、ここ数日いなかったんだ。写真を持って、火葬した人とも、お寺の住職さんとも会って……。繭美は、無縁仏として葬られてた。繭美、奇麗だからさ。火葬した役場の人も、よく……覚えてて。だから、間違いないよ」
白紙のような顔で香が話す最中、突き上げてくる無力感が僕の膝を危うくする。香が渇いた声で「は、ははは」と笑い、声が強張る。
「ロ、ロマンチストだよね。放っておいても隕石で死ぬっていうのに。でも、そういう心中、当時は流行ってたみたい。他にも何件もあったって、そう聞いた」
僕はそのことには感想を挟まず、ただ「そうか」とだけ言った。
繭美の儚くも危うい横顔が脳裏を過る。瞑目することで、静かに世界と断絶していけたら……。祈りに似た思いで、瞼を閉じた。
ゆっくりと息を吐く、吸う。それを何度も繰り返す。
「有難う……教えてくれて」
再び二つの眼で世界を捉える。目の前の女性を見据えながら応じた言葉も、直ぐに死んで灰となり、風に吹かれて消えていくようだった。
香が頭を、ゆっくりと横に振る。
「有難うだなんて。そんな……これを作り話と捉えるか、事実と捉えるかはイサム君次第だよ。でもね、ここにいても、繭美は来ない。それだけは間違いないよ」
そこで僕は、香の声音にある異変を感じ取った。
注意を凝らすと、彼女の瞳には水の膜が張られていた。ゆらゆらと光り、やがてそれは自身の重さに耐えきれず、涙となって頬を流れる。
「香……お前……」
「え? あ、やだなぁ。格好悪い」
香は涙を拭うと、泣き笑いの表情となる。それから意を決したように告げた。
「私ね、繭美のことが……大嫌いだったの」と。
少なからず衝撃を受けながらも、僕は黙って頷いた。確信はなかったけど、何処かでそれを感じ取っていた、とでも言うように。
繭美と香の関係性は、説明することが少し難しい。二人は友達だったかと表面的に問われたなら、多分そうだったろうと答える。が、本当にそうかと追及されたなら、ひょっとして違ったかもしれないとも答えただろう。
香が痩せて明るくなってから、二人は静かにお互いを意識していたような気がする。香は誰にも分け隔てなく接していた。それこそ、自分を苛めていた女生徒にも。クラスで孤立状態にあった繭美に対しても、それは変わらない。
『おっはよう! 繭美ちゃん』
『あぁ……うん』
二人が小学生として持つ、外見に現れている特徴は対照的だった。でも二人は共通して、何か闇のようなものを抱えていた。それは女性特有の闇なのかもしれない。男が伺い知れないような深いものが、彼女たちにはある。
二人は特にその闇の部分が深く、色が濃いような気がした。中学生になっても変わらない。穿たれた何かが黒く染まり、本心は決して見せない。そんな……。
『私、苛められてよかったと思ってるの』
『お父さんに、怒られるから』
それは一つ、彼女たちが揃って、小学生という多感な時期に、漠然と今まで信じてきた人間存在を疑う契機を、同級生や父親を通じて挟まれたからかもしれない。
「はっきり言うとさ、繭美が好きな同級生なんて一人もいなかったよ。だって、だってさ! あの娘、全部持ってるんだもん! 医者の娘に生まれて、頭もよくて、なのにあんな美人で! 友達なんか欲しくないって顔してて!」
香は自分自身の感情を整理するかのように、言葉をその場に並べた。僕の悲しさは、香の痛々しいまでの感情に呑まれ始める。
「私が、私が腹の底で繭美を嫌ってたのは、繭美も多分、気付いてたと思う。それでも、小学校の時は普通に話しかけて、中学生になっても、一緒の部活に入って友達面したよ!? でも、私……見ちゃったの……中学三年の、夏に……」
「何を?」
静かな口調で尋ねると、香は口を戦慄かせて応じた。
「ま、繭美の……虐待の跡……。背中にあって、あの娘、必死に隠してて! 吹奏楽部の練習が終わって、二人で片付けしてたの。あの娘、暑いのにシャツを制服の下に来てて、それで、悪戯しようと思って、捲ったの。わ、私、知らなかった。あの娘が、そんな、そんな風になってるなんて……私は、何も! 何も!?」
そこで僕は、自分の悲しみから自由になった。自分以上に苦しんでいる人と対面すると、人は自分の悲しみを一時的に手放すことが出来る。
その跡の存在を、僕は大学生の頃に知った。聞けば繭美は、痣となったその跡を、小学校の頃から懸命に隠していたようだ。誰にも知られず、一人で……。
父親が小中と揃って、学校医だったこともよくなかった。繭美に刻まれた、幾つかの消えない小さな痣を思っている間にも、香は言葉を重ねる。
「だけど、よく分からないけど、その跡を見た時……私はちょっと満足だった。凄くショックだったけど、何か、笑っちゃったの。でも、私が薄ら笑いしてると、あの娘、見ているこっちが居た堪れなくなるような顔をして……傷ついてる顔だった。あぁ、この娘、こんな顔も出来るんだって。ひょっとして、人と仲良くならないのは、それを見られるのを、避ける為かもしれないって……そう思ったの」
僕は「うん」とだけ、会話に必要な飛び石を置く。
「わ、私は、私はそれがずっと心残りで! でもやっぱり、繭美のことは認められなくて! あの娘、それからも順調に進学していって!」
香の声は、通り雨にでも打たれたかのように、濡れ細っていた。
それでも絞り出すようにして続ける。
「キャバ嬢になったのだって、繭美に比べて自分の人生に何もないのが、なんだか突然嫌になったから! 何か一つ欲しかったから! 名誉みたいな、人とは違う何かが!? それで……私は、少しは満足出来た。あの娘が知らない世界を私は知ってるんだって! 辛い思いだってしたよ。でも自分で進んでやったことだもん。後悔なんてしてない! 高級なものだって一杯、一杯!?」
香は前髪で表情を隠し、嗚咽するような呼吸の中、身を震わせ、また泣いた。
「繭美のことなんて、嫌い! 大っ嫌い! でも、でもね、本当は……仲良く、仲良く、したかったの……。憧れ、だったから。私が苛められてる時も、あの娘は、私と同じ一人で。だけど、全然、全然、動じてなくて。孤独で、完結してて、強くて!? なのに、なのに! あの時、繭美は傷ついた顔してた。いつか、あの時のことを謝りたかった。それがずっと心残りだった! だから戻って来たの。私の大事な物は、大切な物は、全部、全部、ここにあったって気付いて。それを取り戻さなくちゃって、そう……思って。けど、死んじゃうなんて、心中なんて……信じられなかった。信じたく……なかった」
香の全ての言葉は、僕の中にぽたりと、雫のように落ちた。
静けさの中で極まった何かが、言葉の届かない遠い所へと、僕を静かに運ぶ。
「香……」
名前を呼ぶと、香は不安そうな面持ちで僕を見た。昔の彼女がそこにいた。色んなことに傷つき易くて、いつも怯えているような彼女。
「ありがとうな」
僕は迷った末に、そう言った。
その言葉が、その場面では一番相応しいと思ったからだ。
すると香は、思わぬ言葉を聞いたとでも云う驚いた表情になり、「えっ」と言葉を漏らした。一呼吸の間を挟み、口が一度大きく震え、顔をくしゃくしゃにする。
硝子に打ちつけられた雨のように、雫が頬に線を作った。
「い、イサム君って、駄目だよね。もしこれが、同情を引く為の演技だったとしたら? そんなこと、考えないんだ? ダメだよね」
荒々しい呼吸を飲み込み、苦しそうに笑って彼女は言う。
「あぁ、ダメだ、僕は……本当に」
諦観のようなものを抱きながら、鼻から柔らかく息を抜いて応じた。歩を進め、香の横を通り過ぎる。素足に地面の冷たさを感じながら、視線を空に転じた。
凪いだ海原のように、何処までも青い寂寥が上空に広がっていた。
――そうか、繭美は一足先に、逝ってしまったのか。
出来ることなら、僕が繭美の孤独を癒してやりたかった。本心から思う。でも僕では駄目だった。存在の重さが、足りなかったのだ。小学校からの付き合い。いつも傍にいたつもりだった。色んなことを、分かり合えているつもりでもいた。
しかし繭美の心を、いつもどこか、遠くに感じていた。
だが僕は諦めなかった。ふとした瞬間に、例えば彼女の好きな料理を二人で分け合っている時や、温泉宿でのんびりとした時間を過ごしている時。安心と呼べる時間が、二人に訪れることがあったからだ。
そういった時間が、二人の生活の中に流れればいいと思った。
淡い絆が形を変えて習慣の中に潜み、そのことに僕も彼女も深い安心感を覚えられるような……。そんな二人になれればいいと、心から思っていた。
空気を深く吸い込み、ゆっくりと吐く。
新しい空気が、肺を通じて、僕の心にまで触れるようにと願いながら。
――だけど、もう、繭美はいない。
僕は何所かで期待していた。最後は繭美が、僕の所に戻って来るんじゃないかと。そんな幻想を抱いていた。そんな訳、ないのにな。繭美の父親の口ぶりや母親の態度から、繭美がどうなっていたのかは、気付いていた筈なんだ。
でも弱さから、僕はそれを見まいとしていた。現実から逃げ回っていたんだ。隕石の衝突と同じように、何処にも……逃げられやしないというのに。香がこうして告げてくれなければ、きっと繭美を待ち続けながら、僕は最期を迎えたんだろう。
『ごめん……なさい』
そして今なら分かる。ひょっとしてあれは、彼女なりの別れを惜しむ挨拶だったのかもしれないと。例えばあの時、「行くな!」と叫ぶことが出来たら、何かが変わっていたんだろうか? そんなことが出来ない僕だから、繭美は……。
――ごめんな、繭美。僕じゃ、駄目だったんだよな。
理由はどうあれ、残った方は大事に生きていかなくちゃいけない。人知れず、終末の世界の片隅で旅立っていった彼女の最後の瞬間に、せめて安らかさが訪れていたことを祈る。
僕や皆の記憶の懐で、君は一つ。時は止まったまま。ずっとそこに……。
空から降る眩しさに、目がじっとりと痛む。それは泣きたい時、涙をこらえている際に感じる痛みに、とてもよく似ていた。地球に隕石が衝突するというのに、太陽は燃え尽きる気配もなく、生命の王者として天上で燃えていた。
目を閉じると、その場のあらゆるものを感じることが出来た。全てがないからこそ、全てがある。心は一種、そんな気持ちに包まれる。
もうこれで僕は、完全になくなった。そう思った。だからこそ、これからは積み上げていくばかりだ、とも思った。残された僅かの時間を、終末の世界で。
「なぁ、香」
「ん……何?」
目を開いて振り返ると、泣き腫らした目を持つ香がそこにはいた。苛められては泣いていた、幼い頃と変わらない彼女が。僕は新しく生き直すことが出来るだろうかと、遠くを眺めるように目を細め、香を見ながら考えた。
「僕さ、実をいうと気不味いんだ」
「え?」
「僕は……君が小学生の頃、苛められているのを見て見ぬフリをした。丁度同じ頃に、僕は初めて繭美の心に触れて、色んなことに、自分自身に必死だった。どうすれば、彼女に相応しい人間になれるか。人を構う余裕なんか無かった。君を僕たちの遊びに誘ったのは、声をかけたのは僕だ。でも助けようと、一緒に遊ぼうと言い出したのは、僕じゃない、大輔なんだ」
口元に苦笑を刻みながら、そう告げる。
あの日、とぼとぼと歩く香に声をかけた時のことを思い出す。ぽっちゃりとしていて、目の前の美しい人とは似ても似つかない。だが、その瞳は変わっていない。
言葉を投げかけた後、香は暫く瞬きを繰り返していたが、
「馬鹿だね、イサム君は……」
ある瞬間になると微笑み、そう言った。
「そんなこと……知ってたよ」と。
僕は香の言葉を見失いかけ、怪訝な表情でその名を呼ぶ。
「香?」
すると口角を引き絞り、今日初めて彼女は自然に微笑んだ。
「だって、大ちゃん優しいもん」
それから一度視線を足元に向けた後、こちらを向き、朗らかに笑んで続ける。
「イサム君はちょっとひねくれてて、私に声を掛けてきた癖に、一緒に遊ぶと何だか不機嫌そうだったよね。そういうの、ちゃんと分かってた。男の子って面白いよね。何か生き急いでるっていうか、それなのに臆病で、直ぐに虚勢を張ってみたり、かと思えば急に落ち込んで、全部バレバレでさ……でも、そういうところ、何か可愛いと思えちゃうんだ」
全てを見抜かれていたことに、僕は場違いな深い安堵を覚えた。
「そっか……」
参ったな、とでもいうように笑い掛ける。
香もまた、自然で自由な人のように笑った。
「うん。それで私、頭に来てたんだ。何だよ、あのイサムって奴はって。昔からイサム君は繭美ばっかり見てて、私は繭美とは全然違うから、だから私のことを見下してるんだと思ってた」
「別に、見下してなんか――」
その言葉を遮るように、香は首を横に振った。
「いいの、事実だから。私は泣き虫で、ウジウジしてて、自分の人生を楽しく出来るのは、自分だけだってことに気付いてなかった。だから、絶対に変わってやるって思った。この野郎、今に見てろよって。それで……そのことで強く意識しすぎちゃったのかな? 気付くと、イサム君のことばっか考えてたんだよね。あと、私が憧れてた繭美の心を、イサム君だけが分かってる気がして、それを繭美も知ってて。なんだろう、グチャグチャで、よく……わかんないや」
笑おうとしたけど失敗したような、出来そこないの顔で僕は香を見た。
「じゃあ、錯覚だな。僕を好きになったのは」
そんな僕に、香は鼻を啜り、指で目を拭うと臆面もなく言ってのける。
「人を好きになるってのは、つまりは錯覚でしょ? だって、人間は自分が一番好きだもん。他人を好きになるなんて、錯覚だよ」
彼女の哲学に触れ、意表をつかれた思いの僕は、今度は困ったように笑う。
「そっか」
それに対して、彼女は明るく笑った。
「うん、そうだよ」
「そうかも……しれないな」
「うん、きっとそう。そこに良いも悪いもないよ」
多分、僕らはその時初めて、素の自分たちを交換したんだと思う。それぞれの顔に浮かべた、笑顔と共に。そのまま見つめ合っていると、空から絹糸のような細い雨が落ちてきた。
「えっ、雨?」
晴れた空から降り出した突然の雨から、屋根の下へと逃れる。夏の終わり。それから本堂の縁に二人で腰掛け、にわか雨がさわさわと降る様を黙って眺めた。
雨は茂る葉を、草を、石畳を濡らし、その場の空気を磨き抜くかの様に、透き通る程に澄ませた。一人ぼっちの二人の間には、大きな欠落が、久しぶりの無言があった。その中で香が、意を決したような息遣いをみせ、口を開く。
「ねぇ、イサム君」
顔を向けるも、彼女は前を見ながら押し黙っていた。優しい雨の音が、二人の間に横たわる。永遠とは延長ではなく、時間の欠落であると言った文学者の言葉を思い出していると、香が僕を見つめ、以前と全く同じことを尋ねてきた。
「私と」
「え?」
「私と、付き合う気ない?」
僕は内心の複雑な思いに、優しく苦笑するような表情を作る。
繭美を亡くしたことに対する二人の悲しみは、雨が時間と共に姿を消すようには、簡単には無くならないだろう。しかし僕らは一人ではなく、お互いの存在を、その吐息を感じられる程に近くにいた。何よりも二人には、寂しさがある。
だが今、彼女の想いに応えることは卑怯だとも思っていた。
「僕は……」
躊躇いがちに口を開くも、結局その後に言葉は続かなかった。それにも関わらず、香はそれを乗り越えてきた。いたずらに微笑みながら、僕と視線を合わせる。
「イサム君は本当にヘタレでチキンだから、私がチャンスをあげるよ」
その一言に口元を綻ばせ、彼女から放たれた軽口を迎えた。
「チャンスって、どんな?」
そこで香は楽しそうに笑った。視線を再び、降りしきる雨へと転じ――
「私と付き合う気ない?」
と、また言った。
「期間限定で」
再度、僕を見ながら。
「期間限定? それって……いつまで?」
目を細め、彼女の言ったチャンスという言葉を飲み込みながら尋ねる。
すると、落日の瞬間の水平線のように、香の目が光った。
同時に、ある種の音階が僕の魂に響く。何かが常に終わろうとしているが、まだ何も終わっていない。そんな終末の日々を、一変させる音が。
香がゆっくりと答える。
「地球が、滅びるまで」と。
そのままあどけない少女のように、屈託のない顔で香は笑った。あはは、という声が聞こえてきそうな顔で。
僕もつられて笑った。観念したとでも言うように。君には参ったとでも言うように。何かを答える代りに、そっと彼女の手を取りながら。
恐らく世界の到るところで、今も多くのドラマが生まれようとしている。人の数だけ恋や愛があり、その営みに纏わる思い出が、物語があり、笑顔や涙がある。
この瞬間にも世界のどこかでは愛や奇跡が始まっていたり、終わっていたりするんだろう。地上には人々の想いが溢れている。
――いつか、二人になる為の一人。いつか、一人になる為の二人。
僕はある感慨を噛み砕き、その苦味を笑うと、繋いだ手に力を込めた。それと同時に、なぜか大輔の顔が脳裏に浮かんだ。
大輔が今、何処にいるのかは分からない。ただアイツは一人、生を信じて、終末の日にはバッターボックスに立つのだろう。多くの人に見守られながら。
『必ず……打てよ』
あの日、夢で見た不思議な光景を思い出す。すると想像の中のアイツは、例の如くはにかんだ顔で、親指を僕に向かって立てた。
「今、誰のこと考えてるか当ててあげようか?」
「え?」
「繭美のこと、考えてるんでしょ?」
その問い掛けに薄く笑って首を横に振る。「え? それじゃ……」と戸惑う彼女に向け、素直に「大輔のことだよ」と応じた。
「大ちゃんの?」
「あぁ、何故かな」
「ふふ、そっか」
繭美のことを、簡単に忘れることなど出来ない。それは香にとっても同じだろう。再び視線を雨に戻した僕ら。横目で盗み見た彼女は、追憶の最中にいる人のように、何処か気弱そうで……きっと繭美のことを考えているんだろう。
彼女は「ごめんね」と言えなかった悔恨を引きずり、僕は僕の不甲斐なさを引きずり、残された日々を送る。
だが僕は、新しく生き直そうと思う。英雄の活躍を見守りながら、奴と一緒に、最期の最期まで、精一杯生きてみようと、そう思う。
そうしている間にも雨が止む。止まない雨はない。始まりの前に終わりがあるという説を僕は信じる。陽が射し始めると、辺りは一面、金粉が撒かれたように光り輝いた。自然の美しさに、僕らは暫し言葉を無くす。
自然に指と指を絡ませ合うと、二人揃って視線を空へと転じた。
「大ちゃん、本当に隕石をブラスターホームランするのかな?」
「香も知ってるだろ? アイツは昔から、嘘は言わないんだ」
「え? それじゃ……」
「あぁ、きっとやってくれるさ」
それから僕と香は、手を繋いだままお寺を後にした。行き先は大輔の部屋だ。竜也とタカちゃんに、付き合い始めたことを報告に行こうという話になった。
その途中、近くの公園で少年たちが野球を行っている光景を目にした。
小学生の頃よく五人で遊んだ、公民館に隣接した公園だ。少年たちは終末を気にすることなく、元気に声を張り上げている。奇しくも人数は五人だった。
ファーストとセカンドの間には、運動神経が良さそうな、利発そうな少年。セカンドとサードの間には、自由闊達そうな、笑顔の似合う少女。キャッチャーは彼らの中でお兄さん格のような、落ち着いた丸坊主の少年。
今、少し大人びているけど、どこかひねくれた顔をしたピッチャーの少年が投球フォームに入り、球を放った。ストレート。バッターボックスに立ったでっぷりとした少年が、その球めがけ、思い切りの良いスイングをする。
「ブラスタァァァァァホームラン!!」
乾いた音を立て、白球が、青い空へと吸い込まれていった。