1.終末の世界
こちら、モテない男の巣窟です。
といった具合の、酒瓶などがゴロゴロ転がった六畳半の汚い部屋。二十代後半のそこはかとなくイケてない幼馴染の男四人が集まり、内二人は酒で爆睡。
――そんな状況の中、この物語は始まる。
「なぁ、あの隕石って打ち返せないかな?」
部屋の主でもあり、幼馴染でもある尾瀬大輔の唐突な問い掛けに、僕は驚いて眉を上げた。次いで奴の背中に視線を向けながら、その常識を疑う。
梅雨明け直後の真夜中。視界の端に映る卓上時計の針は、午前一時付近を指していた。奴は酒を飲めないので、酔っぱらっている訳ではないのだが……。
「隕石って……まさかコレのこと?」
目の前のテレビラックに乗った、馬鹿デカいテレビモニターを指して尋ねる。
同じ内容を繰り返し垂れ流す、テレビのニュース番組。そこに映る、無限の暗闇の中を光って進む小さな点――巨大隕石。
そいつは、あと二か月もすれば地球に落ちてくる予定のもので、人類を混乱に落とし込んだ元凶ともいうべき存在だ。
「それ……なんか、ブラスターホームランで打ち返えせそうな気がするんだよ」
部屋の隅に設えてあるデスクトップパソコン前に、でっぷりと座る大輔。奴が顔をこちらに向け、例の如くはにかんだように笑いながら答える。
短髪で愛嬌のある髭面。不思議と綺麗な肌。身長は百七十センチ後半で、やや肥満体。ファッションには無頓着で、二十八年間恋人無しの童貞。それが大輔だ。
「ブラスターホームラン? 何か聞き覚えがあるけど……なんだっけそれ?」
「これだよこれ」
思案顔で尋ねると、大輔はPCモニターを見るように促した。冬には炬燵にもなるテーブルから足を引っこ抜き、僕は腰を上げて奴に近づく。
「ほら、これ」
「これって……うわ、懐かしい。ザンブラスターだっけ?」
そこには、僕と大輔が小学生の頃にはまったロボットアニメが映っていた。
レオタードのような、変わったパイロットスーツを着た二人の少女。彼女らが超巨大ロボを操縦し、地球に迫りくる宇宙怪獣に立ち向かう……確かそんな内容だ。
「そうそう、このザンブラスターがさ、宇宙怪獣が放った隕石を打ち返すんだよ」
「あぁ、あったなそんな回。……って、なぁ、それアニメだろ? しかもザンブラスターって、全長何百メートルってなかったっけ?」
余りの懐かしさに一時的に感じ入った声を上げたものの、即座に現実に肩を叩かれた。声は途端に、呆れた感慨に塗り潰される。
そんな僕に「え?」と視線を寄越しながら、大輔がしれっと一言。
「えっと……まぁ、そうだけど?」
そうだけどって……。
二の句を継ぐのが難しい状況の中、胡乱な目つきで奴に尋ねる。
「そんなロボ、どこにあるんだよ?」
「いや、別にロボじゃなくてもさ、ブラスターホームランは出来るんじゃない?」
「はぁ? どうやって?」
「例えば……俺がやってみるとか」
「俺がやってみる…………って、はい? お前がブラスターホームランを?」
保育園からの長い付き合い。幼馴染の一人である奴の、濁りない目を覗き見る。無垢な子供のように瞳の光彩は穢れを知らず、純粋な光を宿していた。
「はぁ」
ため息が漏れ、これ以上付き合うのがアホらしくなった僕は元の場所へ戻った。「おい、イサム?」と上がる奴の声を「はい、はい」といなしながら着席。
麻雀が丁度出来るサイズの四角形のテーブルには、ウイスキーなどの酒瓶と共に、乾き物が乱雑に溢れていた。その中からスルメを見つけ口に放り込む。
大輔の視線を暫く感じていたが、直ぐにモニターに戻されたようだ。テーブルの左右に横たわって眠る男たちの鼾を聞きながら、酒をコップに注ぐ。
昔から変わらない、ゲームや漫画、対戦カードがそこらに溢れ返った二階の大輔の角部屋。保育園からの幼馴染連中とダラダラし始め、もう何か月にもなる。仕事も辞めた。職場が機能していなかったりと、他の奴らも似たり寄ったりな状況だ。
人類の滅亡が目前だと言うのに、最期の時間を一緒に過ごすのは、男ばかりの幼馴染四人。誰一人として、破滅の時を共に過ごす異性はいない。
ある日に集まったのが切掛けで、こうして同じ時を積み重ねている。男としては、情けない話だ。でも今は、それでよかったんじゃないかと思う。
『ごめん……なさい』
繭美が最後に告げた言葉を思い返しながら、酒を一気に呷った。
繭美と僕の関係は、説明するのがちょっと難しい。簡単にいえば、繭美は小学校のクラスメイトで、初恋の相手で、中学二年からの恋人で、婚約者でもあった。
僕は彼女との間に絆みたいなものを感じていたし、彼女もそうだったんじゃないかと思う。少なくとも、僕はそう思っていた。
だが、あの日……二年近くも前の話だ。隕石の衝突は免れないと分かり、世界各国でにわかに暴動が始まり、日本でも各地の騒動がニュースで流れ始めた頃。
彼女から携帯電話へと、連絡があった。
『繭美か、どうした?』
向こうから掛けてきたにも関わらず、彼女は何も言わなかった。
数秒の沈黙の中で、僕は嫌な予感を覚えた。受話器からよくないものが這い出てきて、突如として僕の生活を、ひいては人生を脅かす。そんな予感だった。
『ごめん……なさい』
『繭美? 繭美!?』
電話が拒絶するようにブツリと切れ、僕の問い掛けは虚空に吸い込まれた。
その瞬間、刺す様な痛みを伴って、僕は全てを理解した。
――繭美は……あの男を選んだんだ。
繭美は厳格な父親に育てられた常として、ファザコンを患っていた。
そして隣町にある有名な総合病院――繭美は呼吸器専門の医者だ――で、家庭持ちの男と以前、関係を持っていた。だがその男とも縁を切った……その筈だった。
でも僕は分かっていなかったのだ。彼らが重要視していたのはモラルではなく、世間体だったということを。終末の世界に訪れる、一つの必然を。
繭美はその日、勤務先の病院から行方をくらました。以降、連絡が取れなくなった。繭美の父親の話によると、件の男も消えていたらしい。
破滅の運命を前にして、残された最期の時を最愛の人と過ごしたい。それは誰もが抱く願いだ。何故なら僕が、そうだったから。
そう、僕にとってその相手は繭美だった。
しかし、繭美にとってその相手は僕ではなかった。
それだけ、ただそれだけのことだ。なのに僕は未だに、自分の現状について、存在の数値について、折り合いを付けられないでいる。
繭美によって穿たれた、大きな空洞。欠落という名の臓器を宿してしまった僕は、そこを酒で満たすように杯を重ねた。一杯、一杯、もう一杯と。パソコンに接続されたスピーカーからは、絞った音で、ザンブラスターの活躍が聞こえてくる。
チュドーン。ドバーン。チュドーン。ドバーン。
――地球に隕石がぶつかる?
そんなこと、もうどうでもよかった。
繭美から連絡があって二週間もしない内に、世界は混乱と焦燥と狂気の宴会場となった。人々は恐怖に現実を直視できず、食糧があるコンビニやスーパーが尽く襲われ、放火や強盗、殺人といった犯罪がそこかしこで起こった。
僕は日本国の歯車の一つで、国家公務員として教育政策に従事していた。隕石衝突予測による混乱が生じる少し前の時期からは、県の教育委員会との連絡係として、地元の県庁へと出向していた。
それなりに高い県庁ビルから眼下を見下ろす。ひっきりなしに救急車や消防車、パトカーが道路を行き交う。目に見えない敵に襲われているように、町は黒い煙を休むことなく吐き出していた。
今日もまた、誰かが死ぬのだろう。今日もまた、誰かが殺すのだろう。
人間の自然状態についてホッブスの信奉者だった僕は、その光景を前に、法治国家の限界を感じた。一つの共同幻想が現実の前になす術もなく崩壊していく。
『どうして人を殺しちゃいけないの?』
その問いに「それを許してしまうと、国家が運営出来なくなるからだよ」という答えしか持っていなかった僕は、色んな誘いを断って職を辞した。
法治国家の限界? 共同幻想の崩壊?
いや、内心を語れば、もうどうでも良くなってしまったんだろう。国家公務員の道を選んだのも、医者の繭美と自分を釣り合わせようと欲した結果だ。キャリアを積んだ後は、県庁でそれなりのポストを貰い、のんびりやるつもりでもいた。
遠距離恋愛がいけなかったのだろうか。時にそう考える。
小学校から大学卒業まで、僕は繭美の隣にいた。地元の愛知を離れ、東京の霞が関で働いていた時代も頻繁に地元に戻り、彼女との時間を設けた。
僕は繭美の隣に立つに相応しい人物であろうとした。それなりに頑張った。でもそれは僕が望んでいるだけで、繭美本人は望んでいなかったのかもしれない。ただ隣にあり続けることが……。
僕たちが”意志”と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われている。そう仮説を立てる文学者がいた。
だが人は、それを簡単に認めることが出来ない。
こういう人生における位相の歪みというのは、後になって分かる。そして多分、色んな所に溢れている。少なくとも今の僕には、そう思える。
同僚の中には、同じように仕事を辞める人間も多かった。反面、残った人間の目には使命感が焔立っていた。大幅な人員削減に伴い、省庁が合理的な形で再編される。その時になってようやく、何十年にわたる省庁間のわだかまりが解消された。
少しの後ろめたさがあった僕は、退職金の全てを、お金が意味を失わない内に有意義に活用してくれそうな幾つかのNPO法人に回した。それから地元に帰った。
田舎も悲惨な状況に見舞われていたが、特別法案で自衛隊を各地に駐屯させ、暴徒に対して射殺許可が出された頃には落ち着き始めた。
僕はどうにか生き延びていた。ただ、繭美がいなくなり、箒で掃いたように生きる理由は奇麗に無くなっていた。女性を求めたりもしたが、共に寝ることに何の感動もなかった。体の内を風が通り抜けるように、空虚さが通る。
話を現在に戻すと、残された時間を有意義に過ごそうとした結果が、この場所だった。幼馴染が集まった懐かしいこの場所。失った時間の亡霊に付き纏われていた僕は、力強い普遍的な関係性に安寧を見つけた。
「ありがたい」
胃に落とし込んだアルコールが、濃い桃色の酔いとなって全身を倦怠的に包む。ごろんと床に背を預けた。フローリングの固さが少し気になったが、薄明りのような眠気が忍び寄る。この生活の、惰性の底には、温かい泥のような平和があった。
「なぁ、イサム。やっぱりあの隕石、打ち返せる気がするんだよ」
遠い過去からの呼び声のように、大輔の声が何処からともなく聞こえた。
「はぁ……だから、どうやって、だよ?」
条件反射的に、沈殿し、まどろむ意識の片隅で僕は尋ねた。
米国主導による、レーガン政権時のスターウォーズ計画もびっくりの、ミサイルやレーザーを搭載した人工衛星の攻撃で隕石を撃ち落とす計画もあった。冗談が過ぎる。余りにも御粗末だ。当然のように計画は頓挫した。
人類の叡智もその程度だ。迫り繰る隕石を前に、どうすることも出来ない。
なぁ大輔。それなのに、ちっぽけな人一人に何が出来るというのだ。そんなことよりも、今を楽しもう。今はかろうじて小康状態を保っているが、死が近づけば人々は再び冷静さを失うだろう。だから、だから……。
意識の水面に辛うじて顔を出していた僕は、それからゆっくりと温かな海の底に落ちていった。その最中にまた、奴の声が聞こえた気がした。
「だからさ、ブラスターホームランで打ち返すんだよ」と。