遊園地
「なぎのすけー」
「……」
名前の主の反応はなかった。
唯一の話し相手の反応がよろしくないので、寂しさをまぎらわすためにテレビをつけた。
遊園地のCMがやっているようだ。もうすぐパレード期間らしい。歓声が聞こえる。
私にとって遊園地は、………………。
五歳くらいの記憶。私は遊園地の入り口に立っていた。両親どころか、知っている大人は近くにいない。キョロキョロと周りを見ていると大きなクマの着ぐるみに話しかけられた。
「君は何歳なの?」
ちゃんと自分の年齢を答えたと思う。クマは大袈裟な動作で恭しく礼をした。
「ようこそ。ここは子供の国。たくさん遊ぼう」
そう言ったクマは、私の手を引き、中に招き入れた。知らない人についていってはいけないと言い聞かせられてはいたけれど、そんな忠告はすぐに抜け落ちた。
きらびやかな装飾。たくさんの子供たち。楽しそうな表情と声。優しい音楽。見たことのない世界。初めての遊園地に一瞬で心を奪われた。
「ようこそ、お嬢さん」
いつの間にか横に立っていたウサギの着ぐるみに風船を渡された。赤いハート型の風船。今となっては遊園地にありがちな形だとわかるが、当時の私には珍しく、まるで魔法のようだった。
お礼を言って、前を見る。メリーゴーランドや観覧車、ボールプール、遊覧船など、小さな子供でも楽しめるようなアトラクションばかりだった。
その中でも特に私が気になったものは、メリーゴーランドだった。馬や馬車がゆっくりと回っている。まるでおとぎ話の一ページのように。近づいて熱心に見ていると、ネコの着ぐるみに声をかけられた。
「乗ってみるかい?」
あの中に入れるという驚きで言葉にならず、何度も頷いた。ネコは任せておけというように胸を叩いてメリーゴーランドを止めた。
「さあ、どうぞ」
アトラクションを囲むように設置された檻の一部が外れ、道ができた。私は迷わずに進み馬車の中に入った。
「三周したら交代だよ」
ゆっくりと景色が回る。三周はあっという間だった。感動で立てずにいると、ネコがこちらによってきて私を抱き抱えた。お姫様だっこ。何もかもが私をおとぎ話の一員にさせてくれる。とても幸せな気分だった。
「まだ乗っていたいかもしれないけれど、順番だからね。また並び直しておいで」
優しく言われて檻の外に出される。もう一度と後ろを振り返ると、多くの人が並んでいた。あんなに長く待てるだろうか。少し考えて、別の場所に行くことにした。入り口からは見えない場所もあったから。
少し歩くと大きな川があった。向こう岸は霧がかかっていてよく見えない。こちらの明るさがスクリーンのように映っていて、それがとても幻想的で綺麗だった。
近くには遊覧船もあり、誰でも入れるようだった。私は水が怖かったのであまり近くには行かずに来た道を戻ることにした。
観覧車は面白くなさそう。ボールプールは男の子ばかり。お化け屋敷は怖いから嫌。お金がないから何も買えない。メリーゴーランドは相変わらず並んでいる。
疲れはなかったけれど、ベンチに座って空を見上げた。明るいが、曇っている。ふと、両親が恋しくなった。楽しさを雲が吸い込んでいるかのように、急速に寂しくなってきた。
泣きそうだった。
「見つけた!」
声の方を振り向くと知らない男の人がこちらを見つめていた。肩で息をしている。
「お母さんもお父さんも心配してるよ。帰ろう」
お母さん。お父さん。そうだ、勝手にここに来てしまった。怒られるかもしれない。
帰りたい気持ちと、怒られたくない気持ちがせめぎ合い、なかなか返事ができずにいると手を握られた。
「ほら、行こう」
知らない人についていってはいけない。
両親に何度も言われた言葉がよみがえる。
「やだ!」
手を振り払う。怖くて前を見ることはできなかった。
「あ、お父さんに言われたことを守ってるんだね。えらいなぁ」
怒られると思ったのに褒められた。頭をわしゃわしゃと撫でられる。驚いて顔をあげると男の人はにかりと笑った。
「僕はなぎの……なぎ! なぎだよ。お父さんに頼まれて君を迎えに来たんだ」
知っている名前に近い。勝手に親近感を抱き、その時点で知らない人ではなくなった。
今思うとかなりよくない思い込みだ。
「うちのわんわんはなぎのすけっていうのよ」
「僕の名前と似ているね」
「とてもいいこなの」
にこにことこちらの話を聞いてくれる彼に悪い感情はなくなっていた。うちの飼い犬についての自慢を終えるころには手を繋ぐことに疑問を持たなかった。それどころか、こちらから手を出しているくらいで。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん!」
今思うと、彼は高校生くらいだったのだろうか。大人というには幼かったように思う。それでも、五歳の自分にとっては十分大人の範囲だったのだけれど。
他愛のない話をしながら入り口まで戻っても、出口らしきものはなかった。
自分より、彼より高い柵があるだけだった。
「……」
険しい顔をしている彼。私は不安で泣きそうだった。確かにここから入ってきた。確かにメリーゴーランドが見える位置に入り口はあった。それなのに。
「泣かないで。大丈夫だよ」
「なぎ兄さん……」
「きっと時間が来たら開くんだよ。少し時間を潰そうか。何かに乗ってみる?」
なぎ兄さんは明るく振る舞っていた。それを見た私は納得して遊びに思考を向けた。
大人がそう言ってるのだからそうなのだろう。
子供らしい無知を存分に発揮していたのだ。不安は飛んで、また幻想的な風景に見とれた。
そうだ、大人がいる。今なら買い物ができるかもしれない。そう思った私は露店が並ぶ区画へと足を運んだ。
「クレープはどうだい?」
「わたあめもあるよ!」
「チョコバナナ、おいしいよ!」
色々な甘いものがあって目移りしてしまう。なぎ兄さんの手をしっかりと握りお店を行ったり来たりする。
「お嬢さん、食べますか?」
チョコバナナを目の前に出された。思わず受けとりそうになったが、さっとなぎ兄さんがそれを奪った。
「結構です」
にこやかに、それでいて強く断る。私は悪いことをしたような気分になり、謝罪した。
「謝ることないよ。でもね、ここのものは食べちゃダメだし、何かをもらってもダメだからね」
「どうして?」
疑問を口に出せばなぎ兄さんは困った顔をした。
「えーと、おかね、そう、お金がないからだよ。ここを出たら、お父さんに買ってもらおうね」
なぎ兄さんもお金を持っていなかったのか。少し残念に思いながら、買い物を諦めた。見てるだけならいいよと言われたけれど、買えないなら意味がない。何か欲しくなる前にお店を後にした。
少し歩いて、またベンチに座った。入り口は まだ柵のまま。歩き疲れてしまった。不思議と喉の乾きや空腹はなかった。
メリーゴーランドは未だに人が並んでいる。
「上から見たらわかるかもしれない」
なぎ兄さんが観覧車を見てそう言った。そうだ、二人なら楽しいかもしれない。
「のりたいっ」
私は無邪気に状況を楽しんでいた。高いところから見る世界はどんな感じなのだろう。地上からの眺めは飽きてしまった。
幸いにも観覧車にはほとんど人がおらず、並ばずに乗れた。
「……わぁ」
少しずつ空へと近づいていく。上を見ても下を見ても面白い。ブランコのように揺らすとなぎ兄さんが震えた。これも面白かった。
てっぺん近くになってから下を見ると、アトラクションのある場所が光っている以外は濃い霧に満たされていてよくわからなかった。雨が降るのかもしれない。
「たのしかったね」
地上について感想を述べた。雨は降っていない。でも、いつ降ってもおかしくなさそうなくらい暗くなってきている。
雨が降るから暗いのか、それとも単純に夜が近いのか、私にはわからなかった。
「ちょっとここで待ってて。すぐ戻ってくるから」
言葉と同時に頭を撫でられた。なぜかその行為にほっとしている自分がいた。
なぎ兄さんは何をしにどこへ行くかは言わなかった。聞く暇もなくいなくなってしまった。
「きゃっ」
人混みの中心で立ち止まっていたせいで、誰かにぶつかってしまった。転んだと同時に大事に持っていた風船が飛んでいく。せっかくもらったのに。
「う、うぅ……」
涙で視界を歪ませていると誰かが近寄ってきた。なぎ兄さんだろうか。顔を上げると知らない男の子が目の前にいた。
「ごめん! これやるから、泣かないで」
差し出されたのは袋に包まれた飴玉。普通のものより大きめだ。
「ごめんな!」
男の子はそれを押し付けて人混みに消えてしまった。
何かをもらってもダメだからね。
さっき言われたことが頭の中で反響する。
どうしよう。
男の子を追いかけて返そうか。でもここにいる約束だ。迷っていると声をかけられた。
「ごめん、遅くなったね」
「あっ……」
反射的に飴をポケットに隠してしまった。なぎ兄さんは気づいていない。
……お店の人にもらったわけじゃないから、大丈夫だ。
そう言い聞かせて飴のことは気にしないようにした。
「出口が見つかったよ。こっちだ」
なぎ兄さんはなぜか小声でそう言った。人差し指を口の前に持っていき、秘密の呪文を言うように。
連れてこられたところは遊覧船だった。
水が怖い。何かあったという記憶はない。でも怖かった。
固まっているとなぎ兄さんが手を握ってくれた。冷たい。驚いて手を引っ込めようとしたけれど、強く握られていて離せなかった。
「この船であっちに渡るよ。その先に出口があるから」
「はいってきたのは、あっちだよ?」
変だ、と思った。入り口があった場所と遊覧船は逆方向にある。それに、向こう岸は見えない。本当にこちらでいいのだろうか。
「なぎに」
「出口なんかないよ」
途中までしか言えなかった。私は突き飛ばされて船の上に転がった。
起き上がったときにはもう、乗り降りするためのための板がなかった。私は泳げない。どうにもできない。
なぎ兄さんは岸でこちらを見ていた。
騙されたんだと悲しくなって、持っていた飴を投げつけたけど、届きもしなかった。
私の心と呼応するように雨が振りだした。
「見つけた!」
同じやり取りをしたのがずいぶん前のことのように思う。
顔を上げるとなぎ兄さんの泣きそうな顔があった。
「勝手にどこかに行っちゃダメじゃないか!」
そう言って私を抱きしめた。ここまでつれてきたのはなぎ兄さんなのに。
「においも途中でかき消えて声も聞こえないからいっちゃったのかと思った……。よかった……」
声が震えている。
「こんなところにいちゃダメだ。出るよ」
「うそつき」
「……え?」
「わたしはずっとここからでられないんだ」
帰れないんだ。迎えに来たなんて嘘だったんだ。私が言いつけを守らなかったから、捨てられたんだ。
声をあげて泣いた。雨が強くなる。
雨の音はすごいのにあまり濡れないなと気づいたのはしばらく経ってからだった。
目を開けると、なぎ兄さんがコートを広げて傘代わりにしていた。こちらの視線に気づくと、笑いかけてくれた。
「何があったかわからないけど、帰る方法は必ずあるよ。それには君の帰りたいって気持ちが必要なんだ。一緒に帰ろう。ね?」
その笑顔はとてもあたたかくて、もしかしたらさっきまで一緒にいたのは偽物だったんじゃないかって、考える余裕も出てきた。
もう一度、このなぎ兄さんと出口を探そう。それでダメだったら、自分だけで頑張ろう。お母さんにもお父さんにも会いたい。
「うん、元気が出てきたね。じゃあ、この船を出ようか」
「どうやって?」
「僕につかまってて。跳ぶから」
雨が降っていて視界も足場も悪い。大丈夫だろうか。
「大丈夫だよ」
そう言われたら、何となくうまくいく気がする。ぎゅっと体を密着させる。
「今度は離さないから!」
宣言通りに私をかばって着地したので、なぎ兄さんの服は汚れてしまった。傷は不思議となかった。
楽しげな音楽や電灯はもうなくなっていた。ぎぃ、と錆びたブランコのような音がするけれど、出所はわからない。あんなに人がいたのに今は誰の声もしない。雨が強くて十メートル先も見えないくらいだ。
雰囲気の豹変が怖くて、私はなぎ兄さんのコートのなかに隠れた。なぎ兄さんはコートの上からぽんぽんと頭を叩いてくれて、それだけで強くなった気がした。
「誰もいないと分かりやすいね。こっちだよ」
コートの中にいるのでされるがままに歩く。全く迷いのない足取りで入り口へと向かうなぎ兄さん。
でもそっちは開いてないよ。
疑問に思いながら突き進む。メリーゴーランドも通りすぎて、もうすぐだと言うところで、なぎ兄さんが口を開く。
「何があっても振り向いちゃいけないよ。まっすぐ進むんだ。ほら、光が見えてきた」
雨が強い。視界が悪い。その中でぼんやりと光が見えた。あそこに向かえば帰ることができるのだろうか。
「お客さま、そちらは関係者以外立ち入り禁止となっています」
感情のこもっていない、女の人の声が聞こえた。なぎ兄さんを見ると前を向けと目線で合図された。
「関係者以外立ち入り禁止となっています」
声は繰り返す。何度も繰り返す。それと同時に反響する。もはや何を訴えているのかわからなくなったとき、ピタリとやんだ。
その代わりに楽しげな音楽が流れてきた。
「おっきなふうせんだ!」
「ありがとう!」
「わたしにもください!」
同い年くらいの子供の声がする。風船がもらえるらしい。さっき、飛ばしてしまった風船を思い出す。横を見ようとすると、なぎ兄さんに頭を掴まれた。
「帰るんでしょ」
そうだ、風船ならお父さんにも買ってもらえる。早く、帰ろう。帰りたい。
「逃がすな」
低く響く声が聞こえた。たくさんの、背中に刺さるような視線。振り向きそうになる。
「ほら、もうすぐだ」
「出口なんかないよ」
声が重なって聞き取りにくくなってきた。
「走って」
「僕はもうダメだ」
コートの外に出され、背中を押される。本物のなぎ兄さんの声がわからない。でも、走る。光があたたかい。あそこが出口なのはなんとなくわかった。だから迷わずに走った。なぎ兄さんの足音もすぐ後ろに聞こえる。大丈夫だ。もうすぐ。
突然、すべての気配が消えた。光はあと十数メートル先だ。もうここには誰もいないように感じる。
私しかいないの? 一人じゃ帰れないよ。怖いよ。
もうすぐなのに、立ち止まって、動けなくなる。
「助けて」
なぎ兄さんの声。
思わず後ろを見てしまった。
黒い塊から手や足がたくさん出ていた。人間を粘土のようにこねたらこうなるのかもしれない。
大人も子供も、男も女も、動物の声すら混ぜたような不快な音でこちらに語りかけてくる。
「見たね? 見たね? 見たね?」
「ようこそようこそ! 歓迎するよ!」
「いらっしゃい」
「こどものくにへ!」
「大人はいないよ、ここは」
「見ちゃダメだ!」
目を離せないでいると、視界が真っ暗になる。なぎ兄さんのコートだ。気づいたときには手を引かれて走っていた。
「ごめんなさい……。僕が代わりに背負えたらよかったのに……」
泣きそうな声が聞こえる。コートの中にいるから外は見えないが、なんだかあたたかい。光の中に到達したのだろうか。
安心したからか、意識が遠くなる。抱き締められている感覚を最後に、私はこの世界から抜け出した。
事故で意識不明の重体になったときに見た夢だ。それから私は目が見えなくなった。だから、私の中の遊園地は、この夢のものでしかない。
なぎのすけも私も大ケガだったけど、無事に生還できたし、あまり夢のことは考えないようにしている。わからないものを考えたって仕方ないから。
ただ、なぎ兄さんのことは忘れたくない。命の恩人だ。
もしまた会うことができたら、ごめんなさいを覆してやるんだ。こんなに元気でやってるんだから、心配しないでって。