見よ諸君、女神の帰還に希望の祈りを
ああ、もう朝なの?
薄暗い寝室のベッドの上でシュイリュシュカは目を瞬いた。
何だかとても幸せな気分であるが、ひどく身体がだるい。
まどろむ時間はあるだろうかと時計を探すが、何処にも見当たらない。
しかし、まだ暗く日の出の気配がないところから朝にはまだ早い時間だと判断する。
確か目覚ましは6時半にかけていたので、もう少しだけうとうとできそうだ。
もう一眠りしようと毛布に潜り込み身体を横に向けると大きく温かなものが邪魔をした。
それはシュイリュシュカを後ろから抱き込みすり寄ってくる。
ああ、この温もりはアストラード…隊長ね…。
シュイリュシュカは昨夜に起こった様々な出来事を思い出し、身体から力を抜いた。
きっとあられもない姿をしているに違いない。
そしてそのことがはしたなくも幸せだと思えるのだ。
昨晩、その激しい言葉とは裏腹に優しく抱き締めたアストラードの腕はシュイリュシュカに飽くなき情熱と惜しみない安らぎを与えてくれた。
欠けていた身体の一部を取り戻したような感覚に溺れ、求め合ったことを後悔はしていない。
求めても求めても足りなくて、むしろますます離れ難くなってしまった。
しかしそれはいい、たいした問題ではない。
問題なのはシュイリュシュカの体力がかなり落ちていることにある。
昨晩はアストラードもこれでも手加減していると言っていたが、シュイリュシュカは息も絶え絶えになり気を失うようにして眠ってしまったのだ。
今日から始まる訓練に着いていけるかしら…。
回された太い腕に顔をすり寄せると男らしい香りがした。
アストラードの腕の中がこんなにも落ち着ける場所だとは夢にも思わなかった。
もう自分の左環指の付け根にアストラードが付けた痕はなくなってしまったが、思い出すとチリチリと熱くなる。
お返しに付けてみようかしら。
アストラードの左手を取りその指を噛もうとして、シュイリュシュカはまた今度と思い辞めた。
アストラードは気持ちよく眠っており起こすのは偲びない。
あれこれ色々と考えているうちにシュイリュシュカに再び睡魔がやってきた。
今日は大事な一日なので少しでも体力を回復させようとぼんやり考えたシュイリュシュカは、アストラードの心地よい体温に誘われて眠りについた。
その日、アストラードはいつになく穏やかに目を覚ました。
窓の外が薄っすらと明るくなっており朝を告げていた。
喪失感もなく、不快感もない爽やかな朝だ。
隣で小さく丸くなって眠るシュイリュシュカの頭に掠めるようなキスを落とすと静かにベッドから滑り出る。
もう少しだけ眠らせてやらねば今日一日辛いかもしれない。
本当は一日中ベッドで過ごしたいくらいであるが、今日は大事な日だ。
どこかあどけない表情ですやすやと寝息を立てるシュイリュシュカを昨夜散々疲れさせてしまったのはアストラードである。
あまり激しくしていないつもりだが、つい夢中になり過ぎてしまった感は否めない。
チラリと覗く肩には赤い点が幾つも散らばってアストラードを誘っており、グズグズしているとまた襲い兼ねない。
鋼鉄の意識を作動させ、床に落ちたシャツを羽織るとアストラードは音もなく部屋を出ていく。
と、扉を閉めた時にふわりと甘い香りが漂い顔を綻ばせた。
シュイリュシュカの滑らかな素肌や妖精の絹糸のような髪から香り立った匂いが移ったのか。
どこもかしこも甘いシュイリュシュカの肢体を思い出したアストラードはまたもや熱くなりはじめた己を鎮めるために冷たいシャワーを浴びる。
見られることを恐れるかのように装着していたサポーターも外させ、件の傷に丹念に口付けた。
右脚の傷は形成手術を受けたのか比較的綺麗なものであったが、まだ本人は酷く気にしているようだ。
それくらいの傷で嫌いになどなるはずがないというのに。
動かす時の補助を行うサポーターだと言っていたが、もし可能なら外して欲しかった。
名誉の負傷を恥ずかしがる必要はない。
毎日口付けていれば信じてもらえるかもしれないとアストラードは機嫌よく今後の計画を立てはじめたのであった。
シュイリュシュカはガバッと身を起こした。
窓から太陽の光が差し込み、朝であることを告げている。
恐る恐る時計を見ようとして、ここが自分に充てがわれた客室でないことに気が付く。
そうだった…昨日は隊長と…。
真っ裸で毛布に包まっている自分の状況と昨夜の甘い夜の営みを思い出し、顔が真っ赤になる。
まだ早い時間に目が覚めて一眠りした気がするが、よく思い出せない。
じゃなくて、時間は?!
一緒に眠ったはずのアストラードがいないことから6時半は過ぎているのだろう。
寝過ごしてしまったようだ。
シュイリュシュカは慌てて夜着で胸を隠し、自分の客室へ脱兎の如く戻っていった。
「すみませんっ、寝坊しました」
15分で仕度を終えたシュイリュシュカがダイニングに入るとまたしてもアストラードが食事を準備していた。
「おう、早かったな。後はカフェだけだから座ってろ」
早いと言ってももう7時を過ぎている。
ホカホカのパンと野菜のスープ、ハム卵にフルーツが並ぶ食卓にシュイリュシュカは驚いた。
「用意していただいてもらっておいてなんですが、いつからこんなにマメになったんですか?」
昨日の夜食もそうであったが、本来は面倒臭いとやらで自分で台所に立つことなどしなかったと覚えていたがそれは間違いだったのだろうか。
「そりゃあアレだ、家事のできる男はモテるからな」
カフェを運びながら答えたアストラードは何故か得意気だ。
「……へぇ、そうですか。それはそれはおモテになることでしょうよ」
昨日散々シュイリュシュカを追い詰め迫ったアストラードの口からよもやそんな答えが返ってくるとは。
そのことが面白くないシュイリュシュカはこざっぱりとした顔のアストラードをジト目で見やる。
「…何を怒ってるんだ。俺がモテたいと思う女はお前しかいないぞ?」
「えっ」
「だいたいお前が言ったんだろうが。『結婚するなら家事のできる男がいい』ってな。忘れたとは言わせんぞ」
「あ…」
そう言われて思い出した。
いつだったかの飲み会の席で結婚観について話題になった時に確かにシュイリュシュカはそう言った。
「覚えていたんですか…」
「当たり前だ。長い間お前に恋い焦がれてきたんだからな。他の女など入る隙があるかよ」
やはり昨日の忠誠の誓いとアレンヴィル男爵夫妻の前でした宣言は本気であったのだ。
求愛も結婚宣言も。
結婚したら毎日こうやって二人で食卓を囲むのかしら。
ううん、ダメよ!!今はまだ考えられない。
悔しいことにアストラードの料理は昨日も今日も美味しかった。
シュイリュシュカは具沢山の野菜スープを飲みながら、いつか訪れるその時のために自分も料理の腕を磨こうと決意したのであった。
「ところでシュイリィ」
「なんですか?」
「目覚めの口付けがまだなんだが…」
「……時間がありませんから、また今度」
「いってきますの口付けは?」
「…一緒に出勤して一緒の職場で働くのに必要ですか?」
「なんだよ。昨日はあんなに熱く求め合ったというのに…冷たいな」
「そこまで言うなら起こしてくださいよ。目覚ましも時計もないなんて…」
「……ちっ」
そんなやり取りをしている間に本当に時間がなくなり、途中まで走って出勤したことは内緒の話である。
アストラードとシュイリュシュカが警務騎士団本部に到着したのは8時半近くであった。
勤務は9時からだが、将校があまり早く出勤すると部下の迷惑になるらしい。
昨日言われた通り私服で来たが慣れていないので落ち着かない。
「ほ、本当だ…トレヴィルヤン副長だ」
「ご無事だったんですね!よかった〜」
「でも随分細くなったみたいだな…大丈夫なのか、あれ」
「大丈夫になったから戻ってきたんじゃないのか?っつうか、大丈夫じゃないと俺たちが困る」
「だよな…。特務長を制御するって結局副長以外の適任者がいない仕事だもんな」
「おい、お前何拝んでんの?」
「いやぁ、この先の日々の平穏を女神様にお願いしておこうと思って…」
「……そうだな、俺も祈っておくか」
大小の差はあれどガタイがいい騎士たちが揃いも揃って手を胸の前で組み祈りを捧げる。
祈りの対象は騎士の一人が『女神様』と呼んだシュイリュシュカであった。
警務騎士団は他の騎士団と違い女性騎士の比率が割合高いのであまりちやほやされることもないのだが、特務騎士たちにとってシュイリュシュカは別格だった。
何故なら、あのヴェストランディア第一特務長を御すことができる数少ない存在であるからだ。
特にここ最近、唯我独尊状態のヴェストランディア第一特務長を持て余し気味であった第一特務部隊の隊員たちはシュイリュシュカの復帰を大いに歓迎した。
「どうした?」
難しい顔をして隣を歩くシュイリュシュカにアストラードが怪訝そうにしている。
「…視線が痛いです」
既に勤務体制に入っている騎士たちが二人を遠巻きに見ながら何やらヒソヒソと囁き合い、敬礼ではなく何故か祈りを捧げている姿を見ていると自分が珍獣にでもなったかのような気がしてくる。
多分昨日会った正門警備の当直騎士がシュイリュシュカの噂を広めたのだろう。
「しばらくの辛抱だ。慣れろ」
「慣れたくありませんよ、こんなの」
第一何故祈られなければならないのか。
珍妙な行動をしている騎士たちの顔は皆何処かで見たような面構えの者ばかりだ。
流石に二年半の間に新しく入って来た騎士や地方から本部に赴任して来た騎士たちは普通に挨拶と敬礼でアストラードを迎え、シュイリュシュカには不思議そうな表情を見せている。
「裏口から入ればよかったわ…」
夜間は閉まる裏門も朝には開いていることを今更ながら思い出したシュイリュシュカは、視線と噂話を極力無視しながらひたすら前だけを見て歩いていった。
特務隊の執務棟に入り、奇異の視線を避けながらシュイリュシュカはこっそりと更衣室に辿り着く。
ここに来るまでに話しかけてきてくれる騎士はいなかったが、知り合いの顔をちらほら見るたびに何故か冷や汗が出た。
会って何を話せばよいのかわからなかったこともあるが、久しぶりにたくさんの騎士を見たので緊張し過ぎてしまったのだ。
本当、早く慣れなくちゃ。
アストラードから受け取った貸与品を将校用女性更衣室の棚に納めたシュイリュシュカはガランとした部屋を見渡した。
特務騎士の女性将校はシュイリュシュカを含めてたったの二人しかいない。
まだ来ていないようで挨拶は後からになりそうだと思い、先に着替えることにした。
真新しい将校用の裾の長い制服に袖を通す。
襟や袖の金モールの数が増え、階級章も豪華になった。
黒地のそれは金髪のシュイリュシュカの優しい雰囲気をキリッと引き締めてくれる。
ピカピカに磨かれた黒い編上靴の靴紐を始末し、上衣の上から帯革を留めて左側にサーベルを帯剣するとさらに気が引き締まる思いがする。
結局着替え終わるまでに女性将校は来なかったので後から挨拶に行くことにした。
室内なので着帽はしないが、特務騎士の徽章が付いた制帽を左手に持つと、シュイリュシュカは颯爽と更衣室を後にする。
いよいよ、騎士に戻るのだ。
「シュイ・トレヴィルヤン入ります」
第一特務長の執務室に入ると、昨夜とは違い常装を着用した見慣れた姿のアストラードが待っていた。
ちなみに今日はシュイリュシュカの方が復隊申告と賞詞を賜るために第二級正装を着用している。
「なかなか似合うじゃないか。どうだ?将校になった感想は」
アストラードはシュイリュシュカの制服をチェックしながらにやりと笑う。
「ありがとうございます。裾が邪魔ですけど嫌いじゃないですね。まだ仕事もしてませんので将校という実感はわきませんが」
「今までと仕事は変わらないと思うが、申告後に引継ぎを受けてくれ。副長代理を二人置いているんだが、お前のようにはいかなくてな…」
アストラードは苦虫を噛み潰したような顔をするが、シュイリュシュカはその二人に同情する。
どうせ無理難題を押し付けて事務仕事をサボっているに違いない。
「一人はお前も知っている。古参のジェイクリッドだ。もう一人は頭はいいが経験が少なくてな。鍛えるために指名したが中々に要領が悪い」
「可哀想なジェイクリッド…あまり虐めないでくださいね。あの子の胃にいつか穴が開いてしまいますよ?」
シュイリュシュカより二つ年下のジェイクリッド・キャニングは第三小隊からの付き合いだ。
いつまでたってもひょろひょろとした少年のような体格のジェイクリッドはシュイリュシュカの弟分のようなものだった。
特務騎士にしては気が優し過ぎで心配性であったのだが、今はどのようになっているのだろう。
「多少は神経が図太くなっていると思うが外見はあのままだからな。むしろ病人みたいな面構えに拍車がかかっている」
「あまり会いたくないような微妙な成長具合ですね…」
「そう言ってやるな。皆お前が戻ってくるのを首を長くして待っていたんだぞ?ロスコーの爺さんもガードナーもライモンドも」
アストラードが言った名前はすべて第三小隊からの同僚である。
特務騎士は三、四年ごとに異動があるため地方に転属になることも多々あることなのだが、異動は免れたようだ。
「早く皆に会いたいです…でも本当は少し怖いのかもしれません」
一度も連絡を取っていない負い目にシュイリュシュカはどんな挨拶をすればよいか考えあぐねていた。
久しぶり…なんて、白々し過ぎるよね。
「心配はいらんぞ?大まかな事情は奴らも知っている。…何より早くお前を迎えに行けとせっついたのは奴らだからな」
「そうなんですか?!」
それは初耳である。
てっきりアストラードが暴走したのだと思っていたが、彼らが発破をかけたとはにわかに信じ難い。
シュイリュシュカは知らない。
アストラードを制御することなど到底できなかった面々が、シュイリュシュカに助けを求めてアストラードをけしかけたことを。
申告のために警務騎士団総司令官の執務室まで移動するアストラードとシュイリュシュカを見かけた元第三小隊の面々が、大きくガッツポーズを決め、歓喜と、これから自身に訪れる安寧にむせび泣いたことを。
「申告!!シュイリュシュカ・ツム・トレヴィルヤン三等騎士尉は、不死鳥の月二十四日から警務騎士団特科警務騎士隊第一特科警務部隊副部隊長として復隊を命ぜられました。慎んで申告いたします」
シュイリュシュカは申し分のない模範的な敬礼をし、噛みそうな肩書を間違えず言えたことに胸を撫で下ろす。
いつもながら緊張する。
警務騎士団のトップである総司令官など、滅多に拝見できない雲上の人だ。
シュイリュシュカも将校になったのだからこれから会う機会が増えていくのだろうが、出来れば避けたい人物である。
「うむ、先の内乱での采配は見事であった。その身に受けた傷も回復したと報告は受けている。特務騎士として更なる活躍を期待しているぞ」
「勿体無い御言葉を賜り恐悦至極に存じます」
シュイリュシュカは敬礼を解き顔を上げると、総司令官を見た。
二年半前のでっぷりと太った総司令官とは違う凛々しい顔立ちである。
この男、名をイグナシオ・カスティーリャと言い、若かりし頃は近衛騎士団に所属していたのだという。
加齢と共に自身に衰えを感じて精鋭の近衛騎士団を辞し、警務騎士団に入り直したという異色の経歴を持っていた。
「畏まらず肩の力を抜いて欲しい。君のことはそこのフォースフィールド司令官長とヴェストランディア特務長から聞いておってな。一人の愚か者によって、優秀な騎士の未来が奪われることは大変嘆かわしいことだと、心を痛めておる」
優秀な騎士が自分を指すとは思えないが、愚か者とは父親のことだとシュイリュシュカは思った。
総司令官ねすべてを見通すような黒い瞳に何故か背筋が寒くなる。
それはシュイリュシュカに向けられたものではないのだが、魔力でも篭っているのかとても抗えない強い何かがある。
「君は自分の力がどれだけ稀有なものであるかわかっているかね?指揮官としての判断力もその魔力も…何よりヴェストランディア特務長が忠誠を誓ったときている」
「そっそれは…」
何故それを知っているのか。
アストラードを見るが咳き込んでいるところを見るとどうやら知らせてはいないらしい。
「久しぶりにいいものを見せてもらったよ。私も若かりし頃に同じように忠誠を誓った相手がいてね…流石に求愛はしなかったがね」
総司令官のいたずらっぽい含み笑いにアストラードもシュイリュシュカも何も言えない。
ただひたすら顔を赤くして総司令官と微妙に目を合わせないようにすることで精一杯である。
「君は護るべき価値のある騎士だ。君に騎士団に骨を埋める覚悟があるのなら、全面的に援護しよう…どうかね、トレヴィルヤン三等騎士尉」
「もとよりその覚悟にございます!!」
シュイリュシュカは迷いなく答えた。
今度は目を逸らさず真剣に総司令官の目を見返す。
どのくらいの時間がたったのだろうか。
総司令官の瞳がふっと揺らぎ、遠くを見つめるように目を細めた。
「迷いがないな…覚悟は本物か。復隊おめでとうトレヴィルヤン三等騎士尉」
「ありがとうございます」
総司令官の差し出した右手をシュイリュシュカは両手で握り返す。
レトレンの内乱から約二年半。
シュイリュシュカ・ツム・トレヴィルヤンはようやく特科警務騎士として復帰を果たしたのであった。
不死鳥の月……四月くらい。