謀は愛と真実と少しの嘘を
「早速だがこれを読んですべてにサインしてくれ」
アストラードは執務室の机の抽斗から分厚い書類を取り出しシュイリュシュカに手渡した。
「随分と用意がよろしいんですね」
ずしりと重いそれを確認すると、復職願と書かれた書類の他に貸与品目録と受領書、福利厚生関係の書類が抜かりなく揃えてあった。
さらに何故かここにあるはずのないシュイリュシュカの診断書まで含まれているではないか。
しかもご丁寧に完治報告書までもが添付されている。
「あのー、これって…」
「ん?当然俺が持ってきたに決まっている。報告書についてどこか辻褄が合わないところがあったら教えてくれ」
書類に次々とサインをしていきながら、シュイリュシュカはアストラードのあまりの手際の良さに空恐ろしくなった。
一体いつから計画していたのだろうか。
そもそも自分が今夜決断しなければどうしていたのだろうか。
アストラードを見れば、鍵付き棚の扉を開けて中から貸与品の数々を出して目録と付け合わせていた。
その中の階級章が下士官のものから将校のものに変わっていることに気が付いたシュイリュシュカは、自分は既に階級が上がっていたのかとぼんやりと思う。
休職していた間に連絡があったはずだというのに、まったく知らない。
シュイリュシュカは父親の所業の酷さに無意識のうちに歯を食いしばっていた。
「これで最後です。私が言うのも何ですが、書類は完璧ですね」
「当たり前だ。すべて俺が揃えたんだからな……よし、決裁欄に不備もないな」
アストラードは嬉しそうに書類を整えると、それを机の抽斗に閉まって鍵をかけた。
「隊服が少しだぶつくと思うが、しばらくはそれで我慢してくれ。まあ、明日から訓練だ。体型を元に戻す方が早いかもな」
隊服も将校用になっている。
怪我をする前の体格で採寸されているらしく、確かに余りそうだ。
シュイリュシュカは貸与品を一つ一つ確認していきながら、あることに気が付いた。
愛用していたサーベルがない。
やはりあの内乱の時に失われてしまったようだと残念に思うがこればかりは仕方がない。
新しいサーベルをその手に取り、少し抜いてみる。
重さ、長さはシュイリュシュカにピッタリだ。
魔導文字が刀身に浮かび上がることから、かなりの業物であろう。
「これ…すごいものですね」
「お前用に作らせてある。今は少し重いかもしれんが、じきに慣れるさ」
「これも将校用ですか?」
「……そんなもんだ」
実はアストラードが私財を投じて特別に作らせたものだが、そのことは言わないでおいた。
魔導文字はアストラード自身が刻み込んだもので、サーベルの強度を高め、いざという時には持ち主を護る呪い(まじない)が込められている。
以前にシュイリュシュカが使っていたサーベルは、現在アストラードが二本目として帯剣しているが、これも気が付くまで言わないでおこう。
「明日の朝に更衣室に移すから今日はここで保管しておけ」
「制服もですか?」
シュイリュシュカは制服で出勤する派であったので、いつも持ち帰っていたのだ。
「将校の制服は目立つぞ?面倒なことに巻き込まれたくないなら私服で出勤した方が無難だな」
「そうですね…わかりました」
「よし、問題ないならここでの要件は終わりだな」
アストラードは懐から懐中時計を出して時間を確認する。
それを見ていたシュイリュシュカはアストラードの左胸に見慣れない勲章があることに気が付いた。
「隊長、なんですかそれ?」
「これか?ただの御守りだ…。さて、まだ少し早いが、次に行くぞ」
「え、も、もうですか?」
シュイリュシュカは慌てて貸与品を確認しながら棚に仕舞っていく。
「叔母の家はまだスプリングス通りにあるのか?」
鍵がかかっていることを確認したアストラードがシュイリュシュカの手を引き歩き出す。
「はい、スプリングス通り16番地の1です」
「アレンヴィル男爵夫人だったな」
「…よく覚えておいでで」
シュイリュシュカの目が半眼になる。
どれだけ把握されていればいいのだろうか。
「そんな目で見るな…。それで、恋愛結婚なのか?」
夫であるアレンヴィル男爵とは何度か会ったことがあるが、親しいわけではない。
「確か、そうだったと思いますが。それが何か?」
「説得するのに必要な情報だ。で、子供は?」
「残念ながらいません」
「お前とは仲良がかったと聞いているが、ルドニコフ子爵とはどうなんだ?」
「あまり良い関係だとは…。騎士になるとき私の後見人になってくださった方ですし…」
「そうか、よい人なんだな…。次、ロマンスとやらは好きなのか?」
「本当に必要なんですか?そんな情報…」
「必要なんだよ。どうなんだ?」
「家に叔母様のロマンス小説コレクションがありますから好きなはずです…ってどさくさにまぎれて腰を触らないでください!!」
「減るもんじゃあるまいに、少しくらいいいだっ、いてぇぞ!」
「自業自得です」
二人の問答は叔母夫婦の家に着くまで続いたのであった。
夜会場を抜け出した時に伝言は残していたものの、スプリングス通りにある叔母夫婦の別邸は大騒ぎであった。
突然帰ってきたシュイリュシュカとその隣にいるアストラードの姿に取り次いでくれた執事までもが大慌てである。
「奥様、奥様ーっ!!お嬢様がお戻りになられました!!」
執事が室内に向かって叫ぶやいなや、リビングであろう部屋の扉が勢いよく開く。
「まあぁぁぁっ、シュイリィ!!わたくし心配していましたのよ?」
頭に色とりどりの鳥の羽根をくっ付けたど派手な装いの五十代前半くらいのふくよかな貴婦人がシュイリュシュカ目掛けて突進してきたかと思うとガバッと抱きついた。
「リーリヤ叔母様、申し訳ありません」
「シュイリィちゃんは謝る必要はないのよ」
シュイリュシュカにすがりついた叔母のリーリヤは横に並んで立っていたアストラードをキッと睨む。
「貴方、どういうつもりですの?返答しだいではただではおきませんからね!!」
「夜分に申し訳ありませんレディ。シュイリュシュカ嬢は私の我儘に付き合ってくださっただけです。責任はこの私に」
アストラードはまたもや完璧な騎士になりきっているようだ。
馬車の中で整えた髪とクラバットには少しの乱れもない。
「私は警務騎士団第一特科警務部隊部隊長のアストラード・ヴェストランディアと申します」
アストラードの隙のない敬礼に、リーリヤは不服そうではあるが名乗り返す。
「わたくしはリーリヤ・ファン・デラ・ベルデ。アレンヴィル男爵夫人です」
流石は貴族というべきか、先ほどの取り乱した態度を改めてツンと顎を上げ、右手の甲を上にしてアストラードへ差し出した。
アストラードはその手を恭しく取り、口付けるフリをする。
これは典型的な貴族の挨拶であり、アストラードの流れるような所作にリーリヤはおやと思った。
庶民出身の騎士にしては中々できる部類のようだ。
「シュイリュシュカ嬢の名誉に関わることだと、わかっておりました」
「だったらどうして?いくら特科警務騎士といっても、トレヴィルヤン家の足元にも及ばないことは事実ですのよ」
幾分態度を軟化させたリーリヤにシュイリュシュカは気が付かれないように詰めていた息を吐く。
とそこでリーリヤの夫であるアレンヴィル男爵が開け放たれたリビングからこっそりとこちらを覗いていることに気が付いた。
アレンヴィル男爵もシュイリュシュカの視線に気が付き手招きをする。
シュイリュシュカは火花を散らす二人からそっと離れ、アレンヴィル男爵の所に歩み寄った。
「叔父様、ごめんなさい」
「いいんだよシュイちゃん。私はいつでも君の味方だからね」
髪に白いものが交じってきた壮年のアレンヴィル男爵はシュイリュシュカの頭を優しく撫でた。
「それにしても、ヴェストランディアの倅を捕まえてくるとは中々見る目があるじゃないか」
「叔父様、知っているのですか?」
「私は彼の父親と仕事をしていたことがあってね。今じゃあお互い隠居の身でただの飲み仲間だが、昔は切れ者の公衛騎士だったんだよ」
アレンヴィル男爵は政府高官であったので、アストラードの父親はその警護をしていたらしい。
それにしても公衛騎士とはアストラードの父親は随分と優秀だ。
「彼がまだ騎士学校に入っていた時に何度か会ったことがあるが、随分立派になったものだ」
「叔父様、あの人は私の上司なんです。私なんかのために、無茶をして…騎士団に戻してくださって…」
「おやおや、もうそんなに話が進んでいたのかね。でもいいのかい?後悔はしないのかな?」
アレンヴィル男爵はシュイリュシュカの顔を覗き込んだ。
「私が望みました。騎士でありたい…あの人の傍にいたいと。だから、ごめんなさい…」
アレンヴィル男爵はもう一度シュイリュシュカの頭を撫でた。
ルドニコフ子爵から頼まれ後見人として社交界に連れ出したものの、ふさぎ込んだままのシュイリュシュカにずっと心を痛めていたのだ。
首都にあるこの別邸から見える警務騎士団本部の建物を眺めては辛そうに顔を歪めるその姿にアレンヴィル男爵はどうしてやることもできなかった。
だがしかし…。
「私は君が決めたことであれば、どんなことであっても応援するよ。覚えているかい?君が18歳になってすぐに『騎士になる』と言ってこの家に転がり込んできた時のことを」
今のシュイリュシュカは、父親であるルドニコフ子爵から顧みられることもなく、半ば勘当されたような状態でアレンヴィル男爵の元にやってきたあの時と同じ目をしている。
強い決意を秘めた目だ。
「あの時は流石に反対したが、君はどんなに辛い時でも泣き言を一つも言わなかったね。だから私も、君の父親が何と言おうとも君を応援したんだよ。まさか君が特務騎士になるとは思っても見なかったがね」
アレンヴィル男爵には子供はいない。
まだ小さな頃から何かと面倒を見てきたアレンヴィル男爵にとってシュイリュシュカは娘のようなものである。
「私は君を、君の選んだ道を誇りに思うよ。きっと彼もそんなところに惹かれたんだろうね…おめでとう、シュイリュシュカ」
「叔父…様。あ、ありがと…ございまっ」
「おやおや、まだ泣くのは早いよ。その涙は彼が無事にリーリヤを陥落させてから流しなさい」
涙を滲ませたシュイリュシュカにアレンヴィル男爵はおどけて見せた。
こうでも言わなければ自分も泣いてしまいそうであったから。
…しかし半分は冗談ではない。
アレンヴィル男爵の妻であるリーリヤもまた、シュイリュシュカを実の娘のように溺愛しているのだ。
リーリヤを納得させることができなければ、アストラードもそこまでの男である。
「私はもう八年以上前からシュイリュシュカ嬢をお慕いし、影からその身を護って参りました…しかし、あの憎きユースタスの策略により引き離された一瞬の隙に先の内乱で怪我を負わせてしまいました……これでは騎士失格ですね」
アストラードとリーリヤの攻防は静かに続いていた。
しかし、アストラードの真摯な話にリーリヤはしだいに引き込まれていく。
色恋の話…特にロマンスが好物なリーリヤにとっては胸踊る展開だ。
「あの子も貴方も騎士なのですから十歩譲って仕方がないことだとは思います。しかし、貴方はおろか他の騎士の誰もあの子の見舞いにすら来ませんでしたわ」
これにはリーリヤも驚いたのだ。
やはり貴族と市井の民の間には根深い溝があったのだと思い、意気消沈しているシュイリュシュカの姿に酷く心を痛めた。
「私はすぐに駆けつけたのです!!ですが、シュイリュシュカ嬢は貴い身分のお方…父君に取り合うも会わせては貰えず、手紙さえ彼女の手に渡ることはなかった…」
アストラードは悲痛に顔を歪めた。
端正な男らしい騎士が哀しみにくれる姿はなんと絵になることか。
それにしても、あの兄がそんな酷いことをしようとは。
リーリヤとルドニコフ子爵はその考え方から仲は良くない。
爵位と名誉を重んじ、私欲に走るルドニコフ子爵に対しリーリヤは愛と自由を何よりも尊び、女性の地位向上を目指す革新派である。
シュイリュシュカの後見人を務めた事情もそこにあった。
「私は彼女を諦めることはできませんでした。ならば相応しい者になろうと、ナイト・オブ・オリオールの称号を賜ったのです」
「まあ!!貴方でしたの?!あの内乱でナイト・オブ・オリオールの称号を得る名誉を頂いた騎士は貴方でしたのね!!!素晴らしいわ」
あの時は社交界でもかなり噂になったものだ。
今はまだ仲間の追悼をとの本人の意向から式典も行われず、お披露目もされなかったが、その事実が知れ渡ると彼の騎士としての株は益々上がった。
それから現在に至るまで、彼の騎士は社交界で姿を見せたことはなく謎の人物として扱われていた。
この騎士が嘘をつこうともすぐにわかることであるし、不利になる。
リーリヤはナイト・オブ・オリオールの勲章を見たことはないが、黒い制服の左胸に輝く皇家の赤い薔薇を頂いた盾に重なる交わったサーベルの勲章がその証なのだろう。
「ありがとうございます。しかし、彼女の父君は私を認めては下さらなかった。私も彼女も共にあることを望んでいたというのに、それでも彼女に会うことは叶いませんでした」
「陰険な兄がやりそうなことだわ。貴方も辛かったでしょう…ごめんなさいね、私も今になるまで知らなかったわ」
「いえ、辛いのは私ではありません。彼女が、シュイリュシュカが一番辛い思いをしていたのです…あろうことか、父君は彼女に騎士を退団させたと嘘を告げ…追い詰めていたのです!」
「何ですって?!!本当なの?シュイリュシュカ!!!」
リーリヤは声を荒げた。
リーリヤ自身もルドニコフ子爵からシュイリュシュカが退団したと聞いていたのだ。
それが嘘?
何のために?
「叔母様…本当なの。たい、アストラード様はずっと私の上司だったのよ。でも、休職届しか受け取っていないって…私、その休職届が出ていたことすら知らなかったわ」
俯くシュイリュシュカに隣に立っていたアレンヴィル男爵も驚きを隠せない。
「リーリヤ、中に入ってもらいなさい。久しぶりだね、アストラード君」
「アレンヴィル男爵…ご無沙汰しております」
固く握手した二人の後ろでシュイリュシュカはリーリヤに抱きしめられた。
「シュイリィ…あの騎士は貴方を助けてくれたのね?そうなんでしょう?」
「叔母様…。そうなの。私、たくさんたくさん助けてもらっているの」
シュイリュシュカはリビングに向かうアストラードを見上げる。
すると視線を感じ取ったアストラードが振り返り優しく微笑んだ。
今夜散々見て来た凶悪なほどの色気のある笑みではなく安心させるようなその笑みに、シュイリュシュカも微笑み返す。
「貴女はあの騎士を愛しているのね」
リーリヤは確信した。
そしてあの騎士もシュイリュシュカを愛している。
アストラードと名乗った男はシュイリュシュカの上司であるようだが、仲間意識や部下への思いとは別の、ただそれだけではない熱い想いが根底に見えるのだ。
リビングに通され、品のよいソファに腰を降ろした四人は侍女が運んできた飲み物には手もつけずに黙り込む。
当然のようにアストラードの横に座ったシュイリュシュカはアストラードの逞しい腕にそっと触れた。
アストラードもシュイリュシュカの手に反対の手を重ね、顔を見合わせる。
「大丈夫だよアストラード君。私もリーリヤもシュイちゃん…シュイリュシュカが騎士団に戻ることも…君たちの関係も反対するつもりはないよ」
アレンヴィル男爵は穏やかに話し出した。
「そもそも、私たちはシュイリュシュカが騎士団を辞めた…実際には辞めてはいなかったわけだけど、辞めたと聞いて釈然としなかったんだ。騎士であることに誇りを持ち努力を続けていた姿を知っているからね」
騎士学校に合格した日、無事に騎士に命じられた日、昇任した日…どの記憶のシュイリュシュカも誇らし気な笑顔であった。
それがあの日を境に失なわれるなんて、よっぽどのことがあったのだろうとは思っていたが…。
「わたくしは兄のしたことを許す気にはなれませんわ」
リーリヤはにべもなく言い放った。
兄を懲らしめるいい機会になるだろう。
「しかし、義兄上はしたたかだ。何か策はあるのかい?」
頼みの綱のシュイリュシュカの兄はいない。
そしてシュイリュシュカの母親もルドニコフ子爵の言いなりに等しい、か弱い人だ。
「そこでお願いがあります、アレンヴィル男爵、夫人」
アストラードは居住まいを正し、正面に座るアレンヴィル男爵夫妻を真っ直ぐにみた。
「彼女を庇護する権利を私に委ねてください」
そしてシュイリュシュカを見て頷くと、一呼吸置いて話を続けた。
「彼女は彼女の意思で騎士団に戻ります。また父君の妨害を受けるかもしれません…しかし、私はそれを阻止したいのです」
邪魔などさせるつもりもないが、協力者は多い方がよい。
この夫婦がシュイリュシュカの味方であるなら心強いではないか。
「いえ、必ず阻止してみせます。……そして、彼女との結婚を認めさせてみせます」
それは聞いていない。
今の今まではアストラードの策略通りに行っていたというのに、最後の最後で首謀者が計画を変更してどうするというのだ。
シュイリュシュカは呆気に取られた。
話が飛躍し過ぎではありませんか、隊長?
「んまぁぁぁぁ、結婚?結婚ですって?あなた、今すぐ対策を練るのです!!こんなに素晴らしいお方がわたくしたちの可愛いシュイリィのお婿さんになってくださるのですよ?!!」
リーリヤは興奮のあまり隣に座るアレンヴィル男爵に飛びつく。
「リ、リーリヤ!落ち着きなさい…」
案の定、ロマンス好きのリーリヤは食いついた。
アストラードに対する評価は合格点以上のようである。
それもそうだ。
話の内容は真実であるが、アストラード自身は日頃の不遜な態度を封印し、偽りに塗れた、強く、優しく、誠実な騎士に徹していたのだから。
誰もが憧れる騎士ーーーナイト・オブ・オリオールの称号を持った騎士の求婚に反対する女性はいないだろう。
「わたくしは賛成ですわ!この方ならシュイリィを護ってくださいますわよ!!ね、あなた」
「だから落ち着きなさい…ア、アストラード君、悪いね」
アレンヴィル男爵はリーリヤの勢いに…いや、ふくよかな身体に押され、ソファの上で斜めに傾きながら謝罪する。
「いえ、仲がよろしいと聞いてはおりましたが…噂以上でとても羨ましく思います」
アストラードは紳士的な態度で礼儀正しく、にっこりと笑った。