騎士たちに平和を、彼の者には愛を
盛り上がってしまったお方々用に設えてある裏口からこっそりと夜会を抜け出した二人が出てくる。
フードの付いたマントを目深に被り、こそこそと裏路地へと消えていく姿ははっきりいって怪しい。
しかし、夜会場のダンスホールのど真ん中で騎士と乙女の『忠誠の誓い』を行った二人が、堂々と揃って帰路に着くのも貴族的にはよろしくない。
アストラードはそれでもいいと思ったが、シュイリュシュカはそうはいかない。
また、やっと手に入れた女をあれこれと詮索されるのも腹立たしいことである。
そこでアストラードはシュイリュシュカの脚のことも考え、屋敷から離れた場所で馬車を拾うことにした。
「辛かったら早めに言えよ」
「だから、大丈夫ですって」
脚が痛むわけではないが、シュイリュシュカが一言でも痛いと言えば有無を言わさず横抱きするに違いない。
何故か不満そうに鼻を鳴らしたアストラードは横抱きこそはしなかったが、マントの下から手を伸ばしてシュイリュシュカの右手を掴んだ。
「…そんなことしなくても逃げませんから」
一方的に握られているので『手を繋いで歩いている』とは言い難いが、誰かに見られたらと思うと恥ずかしい。
「どうだか。お前の考えそうなことくらいお見通しだ」
シュイリュシュカが密かに企てていた、『理由をつけて叔母夫婦宅に帰る』という計画はアストラードによって白紙に戻されてしまった。
シュイリュシュカとて十代の生娘ではないのでこの後の展開はわかり過ぎるほどわかってはいるのだが、色気だだ漏れのアストラードが相手では期待よりも不安の方が大きい。
しかも、今宵のアストラードは二年半分の溜まりに溜まった想いとやらで、かなり危険で獰猛だ。
シュイリュシュカは虚勢を張る代わりに掴まれた手を捻って、アストラードの指と自分の指を絡めて繋いだ。
いわゆる『恋人繋ぎ』と呼ばれるものだ。
手段としては生温いが、何とか主導権をこちらに持ってこようと必死に考えた結果だ。
不意打ちを食らわせるための苦肉の策だが、失敗すればますます煽るはめになる。
「私は逃げませんから、もう少し丁寧に扱ってください」
「……悪かった」
筋力が落ちてより女性らしく、細っそりとした身体になってしまったシュイリュシュカに、アストラードははっと目が覚めた。
これでは帯剣すらままならないのではないだろうか。
騎士団に復帰するにもこの細さでは新隊員よりも厳しい状況にあるかもしれない。
「シュイ、一つ聞くが…サーベルは握れるのか?」
「全盛期より筋肉はないですが、剣技の腕は落ちていないと思いますよ」
「そうか……よし、行き先を変更する」
「変更するも何も、どこに行くのかすら私は知りませんけど」
シュイリュシュカがぶつぶつと文句を言っているがアストラードはこの際無視をする。
気になる不安材料は潰しておいた方が無難だ。
アストラードは素早く今後の算段を立て始めた。
さっきよりは随分切羽詰まった感がなくなったように思える。
主導権は未だアストラードにあるが、どうやら気を紛らわすことに成功したシュイリュシュカは小さく溜め息をついた。
魔導力も元に戻っているようなので時間稼ぎにはなりそうだ。
最も、アストラードが何を考えどこに行こうとしているのかわからないので対策のしようがないのだが、シュイリュシュカは浮ついた心を落ち着かせ冷静になろうと試みる。
今夜はあり得ないことの連続で、アストラードに翻弄されっ放しだ。
売り言葉に買い言葉のようについ「騎士団に復帰する」と言ってしまったが、アストラードの『忠誠の誓い』についてははっきりと返事をした覚えはない。
まあ、心の中でこの男の傍にありたいと思ってしまったのは事実でありその思いに嘘はないが。
シュイリュシュカは左環指の付け根についた歯型をちらりと確認した。
白い指にはまだ赤く線が入ったままだ。
大体あれはパフォーマンスではなかったか。
シュイリュシュカを動揺させ騎士団に戻らせるために一計を図った結果の行為では?
甘い言葉でシュイリュシュカの感情をかき乱し、聞きたい言葉を導き出す罠だとしたら…だとしたらあの庭園での口付けは?
あの言葉と行為が偽りだというのならアストラードこそ残酷だ。
直接聞いてみれば解決するのだろうが、聞いて傷つきたくはないと思う心と聞いて墓穴を掘りたくない心がせめぎ合い、シュイリュシュカの思考は冷静になることはなかった。
すれ違う人もいない暗い裏路地を進んだその先には辻馬車の待機厩舎があった。
アストラードは一人の御者に近づくと箱型の馬車を指差して行き先をつげる。
「親父、悪いがヴィクトリオン裏通りの風見鶏まで」
「へい、まいど」
余計な口を聞かれたくはないので前金を少し多目に渡す。
「へへっ、逢引きですかい?」
案の定御者は二人をーーー特にシュイリュシュカをジロジロと見ていたが、アストラードが渡した硬貨の枚数を見てその口を閉じた。
訳あり上客の相手に慣れているようだ。
二人の乗った馬車は大通りに出ると他の辻馬車に紛れ、ヴィクトリオン裏通りへと向かって行った。
「隊長、風見鶏って本部裏ではないですか」
「流石にこの姿では本部前には馬車をつけられんからな」
「そうではなくて、本部に行くんですか?」
シュイリュシュカはてっきり…まあ行くところに行くのだと思っていたのだ。
「期待を裏切ってすまなかった…まあ夜は長い、要件が済めばご期待に添えてやる」
狭い馬車の中で向かい合わせに座っていると、馬車が揺れる度にアストラードの長い脚がシュイリュシュカの脚にコツコツと当たり落ち着かない気分になる。
「期待なんかしていませんし、いりません!」
シュイリュシュカは顔をツンと背けたが、その頬をは赤くなっていた。
「連れないな…シュイ。俺はこんなにもお前に恋い焦がれているというのに」
トロンとしたアストラードの瞳がまた熱で燻り出す。
見つめられるとゾクゾクする瞳にシュイリュシュカは危うく絡め取られそうになるのを必死で耐えていた。
私は一体どうしてしまったのだろうか。
二年半の思いが溢れて決壊した途端にアストラードに引き寄せられていく。
嘘かもしれないというのに。
「何を考えている?…お前のことだから俺を疑っているんだろうが……だとしたら俺のことを全然わかっていないな、シュイリィ」
アストラードがシュイリュシュカのことをシュイリィと呼ぶ時は要注意が必要だ。
騎士団にいた時はシュイと略して呼ばれていたし、シュイリュシュカ自身もその響きが気に入っていたので普段はシュイ・トレヴィルヤンと名乗っていたのだが、アストラードはたまにシュイリィと呼ぶことがあった。
そんな時は大概、無理難題を押し付けられたり仕事をサボりたい時だったりとロクなことがなかったと覚えている。
「な、何ですか…?」
「俺が今、何を考えているか言ってやろうか?」
「遠慮しておきます」
「そう言うな。そうだな…とりあえずお前を復帰させる書類を作りに行くのが第一。明日朝一の決裁にのせるから、午後からは晴れて騎士団に戻れることになる」
意外なことにアストラードの口からは真面目な返答が返って来た。
そこまで考えていてくれていたなど、誰が想像しようか。
シュイリュシュカはその配慮に感激し、自分を恥じた。
邪なのは自分の方だ。
「ありがとうございます!!」
「第二に、お前の叔母夫婦に事情を説明する。誤解のないように根回しをしておく必要があるからな。心配はするな、お前の味方になるように仕向けてやる」
アストラードは自信あり気にニヤリと笑う。
「そして最後だが、最も重要なことだ」
これ以上シュイリュシュカに何をしてくれるというのだろうか。
この恩は必ず返さなければならない。
シュイリュシュカは最後の計画を聞き逃すまいと、固唾を飲んで待っていた。
「お前を俺の屋敷に連れて帰る。言っただろう?夜は長いと…」
前言撤回。
邪なのはあんたの方だ。
私の感謝の気持ちに謝れ。
押し付けの恩など誰が返すもんか!!
「承諾し兼ねます」
「決定事項だ、もう覆らん」
「断固拒否いたします」
「……そんな風に断言されると流石の俺も辛いんだが。俺が嫌いか?シュイリィ」
アストラードの瞳が翳り、哀しそうな顔になる。
これもまたアストラードの策略であろうか。
しかし、シュイリュシュカは即座に「嫌いです」とは返すことができなかった。
アルコールは飲んでいないはずなのに、今夜は感情を上手く制御することができない。
黙ってしまったシュイリュシュカに、アストラードは狭い馬車のなかで上体を傾けその顎を取った。
「どうなんだ?俺が、嫌いか?」
「い、意地悪な人は、嫌いです」
「意地悪などした覚えはない。俺は本気でお前の復職を望み、お前自身を渇望している…」
アストラードの親指がシュイリュシュカの唇をゆっくりとなぞる。
「何度でも言ってやる、お前が信じるまで」
その時、馬車がガタンと大きく揺れてバランスをくずしたシュイリュシュカがアストラードの胸へ飛び込んできた。
「す、すみません隊長」
シュイリュシュカは態勢を整えようとしたが、アストラードがその身体をがっちりと抱きとめているため身動きが取れない。
「隊長、あの、離してください」
「…細いな。今にも折れそうだ」
アストラードの手がシュイリュシュカの背中や腰を遠慮なくまさぐっていく。
「隊長ってば!!」
その感覚に耐えられなくなってきたシュイリュシュカは必死にもがくが、ビクともしない。
「隊長、いい加減に…」
しなさい、と続けるはずの言葉はしかしながら発せられることはなかった。
シュイリュシュカの唇は温かく柔らかい感触の何かで塞がれる。
今度の口付けは強引に、荒々しく。
「残念、時間切れだ」
短く、しかし強烈な口付けを落としたアストラードが凶悪な笑みを漏らす。
「お客さん、着きましたよ」
頭の中が真っ白になっていたシュイリュシュカは御者の声で我に返った。
「隊長の、隊長のばかぁ…」
こんな不意打ちの口付けで腰が立たなくなるとは、シュイリュシュカにとって一生の不覚であった。
「どうした?」
警務騎士団本部の正門の前で立ち止まったシュイリュシュカにアストラードも立ち止まる。
「もう二度と来ることがないと思っていたので、少し…」
口付けの余韻も冷め、シュイリュシュカは少しむくれたように答えた。
アストラードから数歩離れて歩いているのはせめてもの抵抗である。
「そう警戒するな。怪しまれるぞ」
アストラードはすでにマントを脱ぎ去り、第二級正装の制服姿を晒している。
悔しいが、かっこいい。
シュイリュシュカはドレスなので顔が見えるようにフードをとっただけである。
特科警務騎士の制服は体格のいい人によく似合うデザインになっている。
もうすぐその制服に身を包むことができるのだと思うと誇らしいが、果たして今の自分に似合うのだろうかと少し心配になった。
アストラードが先に正門に入ったため、シュイリュシュカもやはり数歩後からついて行く。
「ヴェストランディア特務長、ご苦労様です」
正門横の警備待機所から当直の騎士が慌てて出てくる。
「おう、お疲れさん」
アストラードが軽く手を挙げて応えると、騎士は慌てて右手を胸に当てて略式敬礼を返した。
「何かありましたか?」
「いいや、特には」
「あ、そちらのお方は…」
騎士はシュイリュシュカを訝し気に見ている。
どこかの貴婦人のようであるが、夜会の帰りに揉め事にでも巻き込まれたのであろうか。
「ん?ああ、彼女はトレヴィルヤン第一特務副長だ」
「え?……ええっ?!」
アストラードの言葉に口をパカリと開けてシュイリュシュカを凝視する。
この儚そうな貴婦人が?と言いた気な視線が痛い。
「…どうも、お疲れ様です」
何と言ってよいかわからなかったので無難に挨拶をする。
この騎士の名前は覚えていないが、顔は見たことがあるので相手もそうなのだろう。
「明日から復帰することになってな。行くぞシュイ」
「えっと、それでは頑張ってください」
「…はい、はいっ!!」
可哀想なまでに鯱張る騎士に、シュイリュシュカは頭をぺこりと下げてアストラードの後について行った。
二人の姿が建物の中に消えるまでぼーっと見送っていた騎士であったが、はたと気付くと一目散に待機所に戻る。
「…………トレヴィルヤン、第一特務副長だって?…嘘だろ……グスタフ!!グスタフーっ!!」
そのまま仮眠室の扉を開けた騎士は中で仮眠を取っていた相方の騎士の名前を連呼し、その身体をガクガクと揺さぶって起こしにかかった。
「な、何だ?奇襲か?!殺しか!!」
グスタフと呼ばれた騎士は相方の尋常ではない様子に一気に覚醒する。
「違う、戻って来た」
「……誰がだよ。っつーか、ピョートル…ンなことでいちいち起こすなよ…」
グスタフは相方のピョートルをジト目で見た。
くだらないことで起こされるのは激しく腹立たしい。
「そんなことじゃないって!!戻って来たんだよ、あの人が…トレヴィルヤン副長が!!」
「は?お前寝ボケてんのか?」
トレヴィルヤン副長といえば内乱で受けた傷の具合がよろしくないということで、休職中であったはずだ。
ピョートルは立番をしながら居眠りでもしていたのだろう。
「寝ボケてなんかないってば!た、たった今ヴェストランディア特務長と一緒に、戻って来たんだって!!」
「マジか?!」
「本当だよ!!明日から復帰するって、二人で本部の中に入っていったんだ!!」
興奮するピョートルにグスタフも完全に目が冴えた。
トレヴィルヤン副長が戻って来たことは朗報だ。
朗報だが、しかし。
「特務長が来たんならその前に起こせよ、この馬鹿野郎!!」
本部の中は意外にも騒がしかった。
「警務の奴らが何か捕まえてきているようだな」
建物の真ん中に位置する警務隊の執務棟の部屋からたくさんの人の話し声が響いており、時折部屋から騎士や関係者らしき人影が出入りする姿が見える。
「相変わらず忙しそうですね」
「まあな。この首都も人口が増え続けているし、外部の人間の出入りも激しいからな…警務の奴らも人出が足りないとぼやいているよ」
警務隊の棟を通り過ぎると流石に静寂に包まれた。
灯りが落とされた薄暗い廊下は二年半前と変わりなく、ところどころ煤汚れている。
「そういえば隊長は昇任されたんですね。おめでとうございます」
先ほどの当直の騎士から『特務長』と呼ばれていたので間違いない。
以前は第一特務部隊の第三小隊長であったから大出世である。
「あの内乱で面倒なことになったからな……乗り気じゃないが仕方がない。それに、お前も特進しているんだぞ?俺の副官の第一特務副長だ、喜べよ」
聞き間違いではなかったようである。
「なんですかそれ。私は何もしていませんが…」
内乱で負傷しただけで特に何もしていない。
「お前なあ、そこで謙遜するなよ。あの状況で領民を護りきったんだ、特進は当たり前だ…本当は宮廷騎士団から打診があったんだが、俺が断っておいた」
「あ、ありがとうございます」
ヴェルトラント皇国の騎士は三つの騎士団によって構成されている。
一つは近衛騎士団。
別名宮廷騎士と呼ばれる騎士たちのことで、貴族の子弟で構成された皇族の護衛騎士であり、エリート中のエリートたちが揃っている。
主に皇族の住まう宮廷で活動している精鋭部隊で、市井の民からここに選出されることは最高の名誉だ。
二つ目は公衛騎士団。
国の政治を司る議会や官公庁の警備や、政治家、官僚、貴族を警護する騎士でここの構成員も半数が貴族の子弟である。
また、市井の民の中でもエリートしか在籍できないため貴族階級の騎士との間には能力の差があり、しばしばそれによって対立しているので貴族騎士の評判はあまりよくはない。
最後は警務騎士団。
三騎士団中最も構成員が多く、その多くが市井の民であり、国の秩序と治安の維持と、犯罪者の取締りや救助の任を負っている。
警務騎士団はさらに細分化されており、主に犯罪者の取締りを行う警務騎士隊、救助を行う救務騎士隊、そして大規模な犯罪組織の取締り、暴動、内乱の鎮圧を行う特科警務騎士隊ーーー通称特務隊に分かれているのだ。
ここの騎士は地方派遣もあり、各都市の自警団と共に治安の維持に務めている。
アストラードとシュイリュシュカは特務隊に所属しており、アストラードは五部隊ある特務隊の第一特科警務部隊部隊長という肩書きを持っていることになる。
そしてシュイリュシュカはその副官である第一特科警務部隊副部隊長というわけだ。
さらに言えば、アストラードは勝手にシュイリュシュカの栄誉ーーー近衛騎士団行きを断ったのであるが、これにはシュイリュシュカは感謝してもしたりないくらいであった。
シュイリュシュカは貴族だが、貴族騎士たちが大嫌いであるのだ。
「…でも、大丈夫でしょうか」
戻ってきていきなり昇任とは重圧である。
特に体力が戻っていないシュイリュシュカに務まるのかわからない。
「大丈夫なようにするんだよ。明日から特訓だからな」
やはりきたか。
薄々わかってはいたことであるが、気が重い。
さらに今の時期は新しく騎士になった者たちが血反吐を吐きながら訓練しているはずだ。
「まさか、新隊訓練に参加しろと?」
「おっ、察しがいいな」
「勘弁していただきたいのですが…」
「ちなみに俺も参加している。一緒にいるから安心しろ」
この時シュイリュシュカは、アストラードの肩書きに鬼畜と書き加えた。
昨日は想像だにしていなかった刺激的な毎日が送れるなんて……神様、私、何か悪いことしましたか?
今期の新任騎士と自分自身に平和が訪れる日はやってくるのだろうか。
シュイリュシュカも年であるしブランクもあるのでリハビリと同等に、もしかしたらそれよりもきついかもしれない。
これから三ヶ月間は筋肉痛に悩まされるだろうと、シュイリュシュカは半ば諦めるのであった。