記憶喪失
太陽がちょうど天頂に鎮座する頃、地上に届く光に同調するように気温も上昇し、活気溢れる街の人々も額から汗を滴り落としていた。
猥雑の一言に尽きる町並みだったが、その中でもちゃんと住み分けはされているようで、街の中心部には商店街のような空間があった。
多くの人が行き交うその場所の中で、ひとりだけ様子の違う少年がいた。
服はボロボロで、肩から下げている鞄の中には食料はなく、水筒も空で、紙幣や硬貨のようなものもなかった。そして何より――――記憶がなかった。
ここは何処なのか、自分が誰なのか、何をしようとしていたのか、何処へ向かっているのか――――何ひとつ、思い出せない。
記憶がないと言えども、人間の生理的欲求はしっかりと機能しており、香ばしい匂いが鼻孔を抜ける度に少年の胃はキュルキュルと音を立てて食料を要求してきた。突き抜けるような晴天もいまばかりは喉の渇きを促すだけで、決してありがたいものではなかった。
少年は地面や壁を貫くように成長した巨木の地面からせり出した根に座り、もう一度鞄の中やポケットの中を確認するが、結果は同じ。唯一ポケットから出てきたのは砂だけだった。
そもそも、当初はどうやって商品を買えばいいのかもわからなかったが、街の人の様子を見ているうちに、そのあたりのシステムを理解した。
そうして街の様子を見ながらそこに座り続けていると、ひとりの恰幅のいい中年女性が彼に近付いて来て声を掛けた。
「どうしたんだい? ずっとここにいるみたいだけど。誰か待ってるのかい?」
少年は暫し考え込む。
(僕は誰かを待っているのだろうか……)
しかし、どれだけ考えてみても何も思い出せなかった。
仕方なく、少年はそのままの事実を言葉に換えて伝える。
「……わからないんです。僕がどうしてここにいるのか、何をしたいのか、僕が……何者なのかさえ」
その言葉を聞いて、恰幅のいい中年女性の表情が曇る。
「記憶喪失、ってやつかい?」
少年は力なく頷いた。
恰幅のいい中年女性は、うん、と頷いて、そそくさと何処かへ行ってしまった。
彼女が何かしようとしてくれているのか、それとも面倒になって自分を置いていったのか、願わくは前者であって欲しいが、そう都合良くはいかないものだ、と少年は半ば諦めていた。
しかし、先刻の女性は小走りで少年の元へ戻ってきた。
「ほら、これ持ってきな」
そう言って差し出したのはごつごつしたパンと、コップ一杯の水だった。
それを受け取ったまま、動かない少年を見た恰幅のいい中年女性は、
「遠慮しないで食べな! 腹が減ってちゃ何もできないよ!」
と威勢よく言った。
「……ありがとうございます」
擦れた声で礼を告げると、少年はまずコップを口許へ持ってくる。
コップは少年の顔ほども大きなものだったが、一気に飲んでしまいそうな勢いで半分近く飲み干す。唾液すらも乾いてカサカサしていた喉は潤い、霞んでいた視界が明瞭になってきた。
次いで、こちらも掌の三倍はあるパンを食欲に任せて貪る。
おそらく、相当久しぶりに摂食したのであろう。胃が満たされる感覚と同時に吐き気が込み上げてきたが、少年は喉まで上ってきた胃液ごとしっかりと飲み干した。
たったそれだけの補給でも、少年の体には確かに力が戻って来ていた。
一心不乱にパンを食べ、水を飲み干した少年を見て、恰幅のいい中年女性は嬉しそうに声を上げて笑った。
「はっはっは、本当に腹が減ってたんだねえ」
「あ、あの、本当にありがとうございました」
少年は恭しく頭を下げた。
「気にしないの。困った時はお互い様だよ。ウチも貧乏だからこれくらいしかしてあげられないけどねえ。……そうだ! この先の坂を上ったところは工業区になってるんだけどね、そこの頭はおっかないけど、気のいい人だから、きっとアンタの力になってくれるはずだよ! 騎士に頼むと面倒な事もあるから、まずはそうしてみな」
「……はい、そうしてみます」
「なんなら、少しウチで休んでいってもいいんだよ?」
「いえ、大丈夫です」
そして、その頭だという人がいる工場の場所を詳しく聞いた少年は、力なく立ち上がる。休みたいのは山々だったが、なぜかすぐに動かなくてはならない気がした。
もう一度、親切にしてくれた恰幅のいい中年女性に頭を下げ、少年は彼女が言っていた場所を目指す。彼女は少年の背中に向かって「頑張りなよー」と声をかけた。
こんな状況だけど、いい人に出会えてよかった、と少年は少しばかり思考を前向きに軌道修正した。
活気溢れる商店街を抜けると、そこには確かに言われた通りの坂があった。
しかし――――
「どこまで続いてるんだ……」
少年は呟き、目を凝らす。
その坂は傾斜こそ緩いものの、大きく右に湾曲しながら長く伸びており、その先にある工業区というのが微かに見えるほどだった。
少年は意を決し、ゆっくりとその坂を上り始めた。
一歩一歩その坂道を上っていくが、体力が僅かばかりしか残っていない少年にとっては酷く長い道に思えた。
人通りは商店街と比べると極端に少なかった。
そして、たまに行き交う人達は皆、底の平らな、跨って乗るタイプの乗り物か靴型の機械を使用しており、それらは地面から少し浮いていて、そのまま移動できるようだった。そうして人々が何かしらの移動手段を使って行き交っていることからわかるように、その坂は自らの両足を頼りに進むには聊か長かった。
空から降り注ぐ陽光と、地面がそれを反射して放つ熱は容赦なく少年の体力を奪い、先刻摂取したばかりの水分も汗となり体外へと流れ出ていく。
遠退く意識をどうにか繋ぎ止めながら、左右の足を交互に前へと動かす。
少年の体感覚からすればずいぶんと時間がかかり、ようやく頂上が見えてきた。
そこには幾つもの工場が屹立しており、地響きのように低い音から、超音波のように高い音まで様々な音が少年の鼓膜を揺らし、鼻孔をつくのは鉄と油の香りだった。
あの恰幅のいい中年女性の話では、この辺一帯に立ち並ぶ工場を取り仕切っている人物は突き当たりの一際大きな工場にいるはずだ。
少年は鉛のように重くなった足を動かし、さらに奥へと向かう。
もう少し、もう少しと、折れてしまいそうになる心をどうにか支えながら進むが、既に少年の体は限界を越えて半ば精神力だけで稼働しており、遂には――――――――
ばたり、とその場に倒れ込んでしまった。