8
その日紫鳳は久しぶりに夢を見た。
純白の鎧に身を包んだ彼女に黒い何かが絡みついていく。それは彼女のクラスメートであり教師であり父であり母であった。皆必死の形相で彼女にしがみつき昇ろうとする。
「お願い、放してっ」
足元に広がる黒い沼は彼らを引きずり込むだけ引きずり込んで、決して浮かび上がらせはしない。流動体にあるまじきその強度で彼らの四肢を胴体をからめ捕る。
彼女がその翼で無理に飛び上がろうとすると、彼らはそろって金切声をあげた。そしてその腕に一層の力を込めて彼女にしがみつこうとする。
「みんな、お願い…」
だが彼女の声を誰も聞いていない。皆自分が助かろうという意識に呑まれ、他人のことなどかまっている余裕はどこにもない。
「お願い、誰か助けてっ」
空を拝み叫ぶも、エコーすら返ってこない。
「お願いっ」
白い鎧は黒い枯れ木と泥に塗りつぶされてゆく。
「誰か…」
そうして泥の中へと堕ちてゆく。
「助けて…」
真っ直ぐ空に伸ばされた手はただ虚空を掴むだけ。
夜とはいえ真夏。しかし彼女はその中で抗いようのない寒気に震えていた。葵が建てた結界が効いているはずなのに、枯れ木に似た黒い触手が首筋を昇ってきている。
叫びたくなるのを唇を噛みしめて耐えた。
壊したくなるのを両手を握りしめて耐えた。
彼女は何かを守るために戦い、そしてその何かに殺された。それは彼女が信じてきたものであり、彼女を信じてくれていたものだった。
それが敵の奸計だったことは理解できる。だが未だに残る体にしがみついた彼らの感触がすべてを許してくれない。
そして彼女は魔に堕ち、ふと気が付けば倒すべき相手だった冥王そのものになってしまっていた。
何度消えようと思ったか分からない。しかし自害して冥王が消えてくれる保証はない。自分の意識だけが死に、魔力がこちら側の世界にあふれる可能性の方がずっと高い。だからずっと我慢してきた。それこを少年に会うまでずっと。
そして少年に会って、おかしなやり取りがあったのは確かだが、あの一言を貰えた。だから彼女はこの世界にいてもいいとやっと思えたのだ。
けれどそれは彼のシアワセを食いつぶして吐かせた言葉だと知ってしまった。
噛みしめた唇から嗚咽が漏れる。すぐ上であの少年が寝ているはず。彼女は必死でそれを堪えようとした。けれども一人きりの寝室にすすり泣きはいつまでも響いた。
いつも通りのはずだが、なんだか少し違う気がする。キッチンに立つ紫鳳の後ろ姿を見て青介は感じていた。どこが違うと言われても具体的には説明できないし、またいつもというには同居し始めてから日も浅い。妹達も別に気にする様子もないし、自分の気のせいだろうと青介は結論付けた。
「それでは午前十時に担任の先生が見えられますので」
「うん、大丈夫」
振り向いて微笑む彼女はいつも通り、のはずだ。
朝食を済ませ皆自室に戻る。宿題を早めに終わらせようと机に向かっていると、妹二人が出かける声がした。急な家庭訪問だしうるさいのがいなくなったほうが話が早いかな、などと考えていたらいつの間にか時間になっていた。
ちょうど十時にベルが鳴る。出迎えてみれば鴻巣が腕まくりのワイシャツ姿でそこに立っていた。
「すまんな。こう暑いとな」
いつも通りの大人の笑みでラフな格好を釈明した彼は青介に促されるまま客間に入って行った。
続いて紫鳳がやってくる。彼女が鴻巣にぺこりと頭を下げるが、彼は彼女の姿を見てしばし硬直していた。はっと我に返って、またいつもの笑みを浮かべる。
「これは失礼。…想像していたよりずいぶんとお若かったもので…」
そして青介が座りその隣に紫鳳が来る。正面に鴻巣が座ると彼は青介の方を向いて少しすまなそうに片手で礼をした。
「少し大人の話になるんで、本庄は席を外してくれるか」
青介は担任の言われるまま、何の疑問も持たずに自室に戻って行った。
少年がいなくなるとにこやかに笑っていた教師の目がいきなりきつく細められる。
「教師としてではなく、この町を根城にする一魔術師として話に来た。魔王よ」
紫鳳は少しだけ驚きはしたものの、それ以上何かの動作をしなかった。
「お前が本庄にとり憑いている理由が知りたい」
敵対する必要はない。彼女には彼が自分の望みをかなえてくれる存在だということが予感できていた。
「あの子が居場所をくれたから…それだけですよ…」
紫鳳は静かに答えた。彼女の声にはまるで覇気がなかった。対峙してまざまざとその魔力を見せつけられてしなければ、鴻巣には彼女が魔王などとは信じなかった。
家全体に厳重な結界が張り巡らされている。一般的な社をはるかに上回る強度で構築されたそれは、異界化に準ずるほどのものだ。
その上さらに彼女個人に首から下げるという形で五重の封印。並の魔物ならそれだけで圧殺されよう。間違って人が身に付けたら心が摩耗して廃人になるような代物だ。
それだけ抑え付けられていながら彼女からはなお禍々しいオーラが立ち上っている。
ただ逆に言えばそれだけだった。
ふわふわと流れる黒いストレートヘア。すっと切れた目尻。ツンととがる鼻先に薄く閉じられた微かに紅色を帯びた唇。万人が万人、美しいと評するものだろう。そしてそれは魔性とか薄暗いものでな決してない。極めて純粋な美しさだった。大人びて見えるが、毎日学生を見ている鴻巣には分かる。この女性はまだ子供だ。本来無垢であろうはずの彼女が全く似合わない黒い雰囲気を背負っている。
きっと彼女は生来の魔王ではなく、もとは人間だったはず。この話題に触れるべきか、本題に移るべきか鴻巣が迷っていると、紫鳳の方が先に口を開いた。
「私からも一つ質問良いですか?」
「…なんだ」
魔王のはずなのに偉く物腰が柔らかい。超越者としての余裕ではなく、普段接している生徒たちから感じるそれに近い。教師ではなく魔術師として自分を切り替えている鴻巣にとっては少しやりにくい感じではあった。
「あなたは私を殺せますか?」
階下から自分を呼ぶ声がしたので青介は玄関に向かった。
「話も終わったし先生はこれで帰るぞ」
時間にして三十分ほどだろうか。何を話していたのか知らないが鴻巣のいつもの笑みが少し曇っているような気がした。逆に紫鳳はすっきりしたような面持ちをしている。
「本庄なら大丈夫だと思うが、夏休みだと言ってあまり無茶なことはするなよ」
彼は少年の頭をぽんぽんと掌で叩くように撫でて本庄邸を後にした。
「いい先生だね」
「え?あ、はい」
少年が見上げると紫鳳は鴻巣がいなくなった後も彼の背中を見送るような視線を送り続けている。
「さてと、掃除でもしようかな」
両手の平を組みぐっと背伸びを一つして紫鳳は家の中に戻って行った。青介もそれにつづいてドアを閉めた。
昼ごはんも終わって暫くし、机の上に広げたままの宿題を切りのいいところまでやってしまおうかと読んでいた小説をぱたりと閉じた時、ドアが静かに少しだけ開いた。申し訳なさそうにこちらを覗く紫鳳を見て、葵の魔術のせいでこの部屋の防音状態が続いていることを思い出した。
「ノックしても返事がなかったから…」
「あ、はい。大丈夫です。これどうやったら外せるんですかね」
「葵さんに言うしかないんだろうけど、面倒くさいとか言ってすぐはやってくれなさそう」
珍妙な知人のことを思い出してか彼女はくすりと笑った。
「ところで晩御飯なにがいい?」
「なんでもいいですよ」
青介が即答すると紫鳳は少しだけ困った顔をして言い直した。
「じゃ、青介君て何が好き?」
「ハンバーグ…ですかね」
少年が答えるとまた彼女はくすりと笑った。彼が首を横にかくんと倒すと。
「似合ってるな、と思って」
彼女の言葉の意味がよく分からなくて、青介は首を逆側にまたかくんと倒した。
「それじゃあ、一緒に買い出しに行かない?」
「はい、いいですよ」
「じゃあ、着替えてくるから待ってて」
彼女は小走りに階段を降りて行った。
そうして現れた彼女は真っ白いワンピースに麦わら帽子をかぶっていた。昨日買ったものの内だろう。彼が二階に籠っている間に届いたらしい。が、そんな些末なことはどうでもよかった。
「こういうのは初めて着るんだけど」
スカートの裾をつまみそれをひらひらさせながら、右側からそしてこんどは左側から自分の背中の様子をチェックしようと身体をひねる。
「どうかな?おかしくないかな?」
少し照れくさそうに少年に確認する彼女は子供のようだった。
「あと…うっと…あの…かわいいです…」
「そ、よかった」
彼女は口を横にぐっと開いて笑った。いつもの濃紺のスーツを着て、優しく微笑む彼女とはまるで別人のようだった。
一緒に住んではいるが、どこか精神的に一本線を引かれているような気がしていた青介は、彼女のその満面の笑みが嬉しかった。もちろん恋人ではない。家族というのもまだ少し違うかもしれない。彼には的確な単語が思い浮かばなかったが、彼女のそばに寄り添っていてもいい関係に成れたと少年は感じた。
「それじゃあ、行きましょ」
紫鳳はいきなり青介の手を握った。とたんに少年の顔が真っ赤になるが、彼女はそれに気付いていないのか、気付いて無視しているのかぐいぐいと手を引く。
「えへへ…」
腿にでも括りつけてあるのだろうか、彼女が走るとカランカランといつもの絵馬の音が響いた。