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今日から夏休みであり、窓からの日差しがくーの顔面を直撃しようと彼女はそれをガン無視し惰眠を貪り続けた。全身を包むほどよい倦怠感まかせタオルケットを抱いたままゆっくりと寝返りを打つ。ああ、シアワセだぁ。しかしそれは謎の轟音に中断される。
「んあ?」
寝ぼけ眼で音の方を見ると、一昨日からいきなり同居することになったほぼ知らない人がフライパンをお玉で叩いている。
「なにしてんの、紫鳳さん」
「家族を起こすのはこれがスタンダードスタイルだって」
一件知的に見える紫鳳だが時々すごく世間知らずな一面を見せる。どこぞの巫女服姿の少女にでも吹きこまれたのだろう。おもしろいから訂正はしないが。
「朝ごはん出来たよ」
「ふぁーい…」
パジャマから着替えようとするくーをおいて紫鳳は先に部屋を出ようとする。エプロン姿も振り向けばいつものリクルートスーツ。一昨日も昨日もたしかこれだった。
「紫鳳さんてさ、荷物鞄一個しかなかったけど、服とか持ってこなかったの?」
「うん、落ち着いたらそこらへんで調達しようと思ってるんだけど」
「じゃあ、今日行こうよ。折角いいスタイルしてるんだから、そんな味もそっけもない格好ばかりじゃもったいないよ」
くーが紫鳳の腰に抱きつく。服の上から見ただけでも綺麗にくびれていることは分かってはいたが、実際に触ってみると尋常でなく細い。子供一人くらいが飛びついた位ではビクともしないくらい体幹の筋肉がついているのに、女性的な柔らかさはきちんと維持したその腰つきは同性同士でも艶めかしく感じる。
不意に羨ましいと妬ましい気持ちが沸きあがり彼女のすまし顔を壊したくなる。
抱きついたままのくーの顔に浮かんだ笑顔に紫鳳がどことなく見覚えがあったのは、葵がときどきする悪いことを考えているときの表情に似ていたからだ。
「うひゃははははは…」
不意に脇腹に走る衝撃に紫鳳は身を悶えた。思わず後ずさると、くーの指が不規則に蠢いている。
「もう。早くしないと御飯冷めるわよ」
「うふふぇ」
少し不満げに部屋の外に出るも、紫鳳の心の中は表情ほど曇ってはいない。むしろ上機嫌といえるほどだ。上の妹は彼女のことをあまりよく思っていないようだが、青介とこの下の妹は紫鳳の感じる限り客ではなく同居人としてごく自然に接してくれている。彼女はこのコミュニティに受け入れられていることが、たまらなく心地よかった。
「それで僕は荷物持ちなの?」
白いシャツにカーキ色のショートパンツ。グレーのパーカーを羽織った青介が玄関先で待っていた。
「そうよー。紫鳳さんとのショッピングに同行させてあげるんだから、光栄に思いなさーい」
遅めの朝食をマッハで平らげ、素早く身支度をすませたくーが優雅な調子を演じながら出てきた。紫鳳が玄関で待っているが、人はそこで終わりらしい。
「ふーちゃんは?」
紫鳳が家の中を覗くも、気配がしない。
「たぶん、もう部活に行ったんだと思います」
「ああ、そう」
挨拶されなかったのが少し寂しかったが、それが普通の反応だと割り切った。紫鳳は青介とくーの頭をぽんぽんと叩いて、出発を促した。
紫鳳としては近場で適当に住ませたかったのだが、くーが妙にごねるので少し遠出をすることになった。
着いたショッピングモールはこの近辺では最大のモノ。取り扱っているものも帝都と比べて遜色はないはずだが、もともと服飾に疎い紫鳳にとっては正直どうでもいい。勝手にテンションを高め中へと進んでいくくーに二人は後ろから付いて行った。
お目当てのテナントに着いたらしく、くーが激しく手を振り紫鳳を呼ぶ。妹の見立てで紫鳳たちが買い物をしている間、青介は店の外で待つことしかできない。
「お兄ちゃんも入ればいいのに」
イヤらしい笑みを浮かべる妹に。
「無理だよ」
彼は苦笑いしか返せない。
少年を待たせるのも悪いかと紫鳳は極力買い物を早く済ませることにした。具体的な対策としてはくーの選んだものに異を唱えない。くーが二点で悩んだら両方買う。そうして出来上がった服の山を二人で抱えてレジに持っていく。
葵に王がケチケチしていては下の者が成り上がる夢を持てないと口を酸っぱくして言うので、あえて金額には目をつむってみた。しかしレジで目を丸くするくーをみて少しやりすぎたかなと思ったが、後の祭りだ。もっとも妹が驚いたのは買い物の総額ではなく、紫鳳が懐から取り出したブラックカードを見てのことだ。紫鳳はクレジットカードが黒い事の意味など知らない。
そんなこんなで買い物をできるだけ早めに済ませ、青介のところに戻ろうとすると少年は女性の一軍に囲まれていた。皆同じくらいの年の頃のようで、見たところ中学生か高校一年ぐらい。そしてそのうちの一人と紫鳳の目が合った。
その眼は明らかに敵意を含んでいる。紫鳳がかつて対峙した敵のそれを思い出させる目付きは、彼女に忘れていた感情を思い出させるには十分だった。紫鳳の歩みが自然と遅くなる。
少女達はちょうど話を終えたところらしく、少年に手を振って去って行った。入れ違いに紫鳳達が青介の隣に立った。
「おまたせ」
彼女は努めて平静であろうとする。そして少年は何も気づかない。
「はい」
にこやかにほほ笑み返してくる少年に妹が荷物を無理やり渡す。
「思ったより多くなっちゃったから、これ発送しよう」
身軽になった妹はピューッと一人でサービスカウンターの方に飛んで行ってしまった。
慌てて二人は付いて行くが、目当てのサービスカウンターについても妹の姿は見えない。そこに青介の携帯が何かの着信を告げた。
「なんて?」
紫鳳にはメールの差出人に当てがあった。
「見たいものがあるから回って来るそうです」
兄はしょうがないなという顔をしながら妹に返信を返す。呆れた中にも少し心配を混ぜたような表情が紫鳳には少し羨ましかった。
「私の荷物だし、あとはやるからくーちゃんのこと探してきて」
「え?でも…」
「大丈夫。終わったらあこで待ってるから」
そう言ってベンチを指差すと、青介は申し訳なさそうに頭を下げて小走りに人ごみの中へと消えて行った。
言った通りに発送の手続きを終え、ベンチに腰掛ける紫鳳。ぼんやりと人の行き来を眺めているが、もちろん知っている人など通りがかることはない。彼女はこの街では来訪者でしかない。
仲睦まじく体を寄せ合いながら歩く恋人たち。子供の手を引きゆっくりと歩く親子。同じ方向へと走っていく学生たち。
何か良くないことを考え始めている自分を止めようとするが、うまくいかない。そんな彼女を現実に引き戻しのは、きついヒールの音だった。俯く彼女の目に明らかに自分の方を向いて立っている人物のつま先が目に入った。
見上げれば、先ほど青介と会話をしていた一団の中から自分を凝視していた少女がそこにいた。顎を少し浮かせ、汚いものを見るような眼で彼女を見下ろしている。
「消えて」
激しい口調だった。短い言葉だからこそ、恨み辛み妬み嫉み憎しみ敵意が凝縮されて彼女にぶつけられた。
「彼の前から消えて」
返す言葉の見つからない彼女に少女は畳みかける。
反論する意志は微塵もわかなかった。ただ逃げたかった。少女の言葉に自分が汚れた存在だといことを思い出さされたのだ。魔王である自分が人間に混じって生活するなど、無理があると分かっていたのに忘れていたことを。
それと同時にどうしてこの子は自分にこれほどまでの敵意を向けてくるのか、不思議でしようがなかった。しかしそれを探ろうにも殺意にも似たそれはあまりにも一方通行で少女の何も探れない。
「お前がいなければ彼は幸せになれるのに」
説明されなくても彼が誰を指しているかはすぐわかる。
「彼にはずっと心に決めた人がいるの。それをお前が邪魔している。お前がどこのだれかなんてどうでもいい。まったく興味がない。すぐ消えろ。今すぐ消えろ。彼の記憶から欠片すら残さず消えろ。そうすれば彼は幸せになれる。すぐに全部元通りになる」
「君は青介君のことが好きなの?」
「その汚らわしい口で彼の名を呼ぶな!」
声のトーンががくっと下がる。魂を下から鷲掴みにされるような呻きに似た声だった。
「彼のことを嫌いな人間なんていない。彼は主人公なの。そして彼にはヒロインがいる。お前みたいな下衆なフェロモンをまき散らすような人じゃない。太陽のようにどこまでもまっすぐで力強い人」
見れば少女は泣いていた。感極まるといった感じで涙を垂れ流していた。
「私なんかじゃ絶対に敵わない…」
そうして少女は電池が切れたように俯いて動かなくなった。
少女が青介に並々ならぬ好意を抱いていのは紫鳳にも分かる。それが歪んで黒く渦巻いていて立ち上るのが紫鳳には見えた。そしてそれは最初に会った時に青介が立ち上らせていた気配に酷似していた。
その時初めて紫鳳は自分が青介からなにを奪ったかに気が付いた。
「ほんともう、お兄ちゃんなんで私の方に来んの?バカじゃないの?バカじゃないの?」
一人でふわふわとショッピングモールの中を移動する妹を見つけたら、いきなり切れられた。まぁ、妹達は二人そろっていつもわりと理不尽なので青介はこれくらいのことではダメージを受けない。
「はいはい、用事が済んだなら帰ろう」
紫鳳が待っているだろうと、妹の手を引き待ち合わせ場所へと急ぐ。
彼女はきちんとそこにいた。ベンチに腰掛け俯いている。ぱっとみ寝ているようにも見えたが、青介達が近づくと彼女はすっと顔を上げた。
「お待たせしました」
「…うん」
「では、帰りましょうか」
「…そうね」
いつも通り優しく微笑んでいる彼女だが、少し目が赤い。すぐに彼女が歩き出したのできちんとは見えなかったが、一瞬そんな風に見えた。