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本庄青介と冥王の問題  作者: 三宮勉
第一話
4/16

4

 ホテルの椅子に浅く腰掛け、紫鳳は携帯のボタンを突いていた。目の前のテーブルにはマニュアルが広げてある。

 連絡先を選択すると一件だけ『葵さん』と丸いフォントで表示された。

 巫女服の少女が用事があると出て行ってからずいぶん時間が経つ。窓の外を見れば、太陽はてっぺんを過ぎ傾き始めている。そろそろお腹が空いてきた。

 試しに掛けてみようかと丸いフォントを突いたその時、ガチャリとドアがあいて少女が部屋に入ってきた。

「おかえりなさい」

「ん、ただいま」

 両手いっぱいにぶら下がっているコンビニ袋の中身は大体酒だ。そして短い付き合いながらも酒さえ与えておけばそれなりに葵は上機嫌でいられることが紫鳳には分かっていた。

 けれど今の葵は酒ではなく違うことに意識を飛ばしているようで、じっと紫鳳の方を観察している。

「なぁ、紫鳳」

「なぁに?」

 相手の話を聞くような口ぶりをしながら、葵のうっすらと怒気を孕んだような口調に、紫鳳は視線を携帯の方に戻した。

「あの小僧にあの後会ったか?」

「小僧って?」

 すぐに真っ赤な顔してぷるぷる震える少年の顔が浮かんだが、紫鳳は平然ととぼけた。嘘に気付いたか気付かないか、葵は一つ鼻でため息を吐くと、ずいっと彼女の方にすり寄ってくる。

「よいか。お前はもう特別な存在なんじゃ。一般人をこちらに巻き込むような真似はしてくれるなよ…」

「はぁい」

 紫鳳の生返事をじと目で睨んだ葵は、袖の中から紫鳳の物と同機種の携帯を取り出す。「用心するに越したことはないな」

 葵はにやりと唇をゆがめ紫鳳を見た。背筋を氷でなぞられるような悪寒に襲われるも、葵がこれからしようとしていることに見当がつくわけでもない。だからなにか行動を起こすこともできない。

 葵が邪悪な笑みを浮かべながらどこかに電話しているのに、涼しい顔して聞き耳を立ててみても、あれだのこれだの代名詞が多すぎて中身を掴めなかった。

 結局どこの誰に電話をしていたのかは分からずじまいだったが、内容は翌日ホテルの前に現れた捨てられた子犬みたいな目をする少年から推し量ることができた。


 青介の学校は土曜日は午前中だけ授業がある。基本的にそこで解放されるわけだが、部活がある生徒は午後も残ることになる。脳天気な笑顔で手を振り部活に行く親友に軽く挨拶していつものように青介は一人で学校を出た。

 午後が丸々空いている。時間に余裕があると思ったら、彼の足は自然と家とは違う方向に向いていた。

そして彼の前には高くそびえ立つ白い建物。彼女が滞在しているといったホテルだ。帝都の最高級ホテルからみたら数段落ちるだろうが、今の青介にはとてつもなく大きく感じる。地元民だから利用することもないのだが、例え自分が観光客だとしても、この手のホテルには泊まれないそんな気がするほど静かで重厚なオーラが漂う。

 彼が若干引き気味な姿勢でホテルを眺めていると、白衣に緋袴、首からゴルフボールくらいはありそうな数珠をいくつもぶら下げ、地面に着きそうなポニーテールをわさわさと揺らしながらコンビニ袋を抱えた少女が中に入っていく。

 すごい格好だけどここの宿泊客なのかななどと目で追っていくと、少女もまた彼の方を見、怪訝そうな顔をする。じーっと何とも言えない視線を送られるが、少女は歩調を変えることなくエントランスに消えて行った。

「帰ろう…」

 顔は見たいけれど、訪ねていいような間柄ではたぶんない。鞄を背負い直して、彼はとぼとぼと家路に着いた。

「ただいまー」

「「おかえりー」」

 迎えてくれたのは妹達。玄関にはその二人の小さい靴しか並んでいなかった。

「あれ?父さんは、出掛けたの?」

 青介が学校に行くとき父親はまだパジャマで寝ぼけ眼をしていた。今日は休みのはずだが、お昼時にいないなら何か食べ物でも買いに行っているのかなと思案していると。

「さっき会社から電話があって」

「慌てて飛び出てったよ」

「へー…」

 ならしばらく帰ってこないのかな。お昼ごはんどうしようかな、などと考えていると前に立ちふさがるように並ぶ妹達のお腹の虫がかわいい声で鳴いた。

 外食する財力もないし、妹達が急かすので、昼飯は冷蔵庫の中身と相談してチャーハンにすることにした。制服の上からエプロンを着る。慣れた手つきでフライパンを操ると、黄金色の米粒が空中できらきらと輝く。

 腹も膨れると妹達はさっさと自室に戻って行った。一人で食器を片づけていると、ポケットの中の携帯が鳴る。着信音で父親と分かると、彼はすぐに出た。

「青介、今家か?」

「あ、うん。家だよ。どうしたの、父さん。とりあえず先にご飯食べちゃったよ」

 電話先の父親はなんだか息遣いが荒い。青介は次の言葉を待つが、吐息ばかりが聞こえてきてなかなか本題に入らない。あの父さんがこんなに慌てるなんて珍しいなと思っていると父親は上ずった声で叫ぶように言った。

「父さん、帝都の親会社に栄転が決まった」

「え、ああ。おめでとう」

 栄転てなんだっけ。おめでたい事だった気がするけど、出世みたいなものだっけ。

「だからな荷物をまとめておいてほしいんだ。父さんもすぐ帰るけど。急で悪いんだが、二日後、月曜日には父さん向こうに行かなくちゃいけない。ふーちゃんとくーちゃんにも伝えておいてくれ」

「荷物?まとめるってなにを?」

「なにをって、全部だよ」

「え?」

 栄転が何か思い出せたが、それが何を引き起こすのか青介の頭の中に浮かんでは、それを打ち消そうとする自分がいる。だが、それも虚しく父親が丁寧に言い直してくれた。

「転勤だ、転勤。引っ越しするんだよ。家族みんなで。」

 青介の手からするりと携帯が抜け落ちて、フローリングにごとりとぶつかる。足元から父親の叫び声が聞こえてくるような気もするが、そんなことはもう彼にはどうでもいいことだ。


 どれくらい時間が経ったかはわからないが、青介が正気を取り戻し、携帯を拾うともう通話は切れていた。妹達の部屋に向かう間、頭の中はどうしようどうしようそればかりが回って、具体案どころか自分が何を悩んでいるのかもわからない。

 いつもならノックする妹達の部屋もついうっかりそのまま開けてしまう。

「「ちょっと、お兄ちゃん。ノックぐらいしてよ」」

 妹達の不満声も聞こえているようで頭には入ってこない。

「父さんから電話があって、なんか引っ越すから、荷物まとめておきなさいって…」

 それだけ言って、すぐにドアを閉めた。

 自分の部屋に行こうとくるりと振り向いたすぐ後ろでバーンとドアが開いて、妹二人が飛び出してきた。そのままわしっと抱きつかれる。

「ちょっとお兄ちゃん、今の何?」

「どういうこと?どういうこと?説明してよ」

「お兄ちゃんも詳しくは聞いてない…」

 慣れた手つきで二人を引きはがすと、そのままぽいっと部屋に投げかえしてドアを閉める。中でゴリラでも暴れているのではないかという音がするが、いつものことだ。青介はとりあえず自分の部屋に戻る。

 しかし彼は荷造りを始めずに、ぺたりとベッドに座り込んでそのまましばらく動く気にはなれなかった。なんとなく部屋を眺める。これも二日後には出て行かなきゃいけないのかななどと感慨にふけるだけで、彼の手はぺたりと腿の上に置かれたまま動かない。

 スチール製の机の上に辞書と教科書類が立てて整理してある。その横には三段のカラーボックス。天板に携帯の充電器がごろっと転がっている以外、入っているのは基本的に書籍ばかりだ。衣類などは押入れの中にケースごと入っているので、片づけと言ってもそんなに量はないはずだ。けれどもやる気が起きない。

 しようがないけどやらなきゃいけないのかな。そう思いはするのだが、身体が勝手に後ろに倒れこむ。バンザイの格好でベッドに寝そべり、ぼんやりと天井を眺めてそのまま数分なにもせずにいた。

 気が付くと青介は布団に埋もれたまま寿夫に電話をかけていた。しかし電話は通じない。考えてもみれば、彼はまだ部活の最中だ。出れるわけがない。

 電話を切ると、何やら急に意識が現実に戻ってきた。

「どこから手を付けようかなぁ…」

 改めて部屋を見回すが、片づけるというほどの物がない。そこで彼は家の物から始めるべく、台所に向かった。

 携帯で荷造りのコツなんか見ながら、作業を進める。余計なことを考えずに黙々と作業をしていたら父が息の荒いまま帰ってきた。走ってきたのだろうかネクタイが微妙に緩み曲っている。

「ただいま、青介。二人は?」

「伝えたけど、たぶんまだ何もしてないと思うよ」

「んー…しょうがないなぁ…」

 暫くして二階からなにやら妹達の叫び声が響いてくる。しようがない。明日は妹達の荷造りをしないといけないな。そのためにも今日のうちにここら辺は終わらせておきたい。そんな風に思案を巡らせ、残り時間を確認するために時計を見ると短針がちょうど真下に掛かるところだった。

 不意に携帯が鳴る。寿夫からだ。

「おう、どうしたー?」

 いつもと変わらない親友の声の後ろで多数の人の気配がする。たぶんまだ学校なのだろう。着信に気付いてすぐに折り返してくれたらしい。

「なんか、父さんが転勤になったとかで引っ越すことになったよ…」

「マジか?どこへだ?」

 スピーカーの向こうの声が急に上ずる。

「帝都…栄転だって喜んでるよ…」

「んぐ…で、いつだ?夏休みはこっちにいるのか?」

「…明後日だって」

「マジか…」

 電話の向こうの寿夫が黙るとそのギャラリーがざわつきだした。何か言っているのだろうが、全員バラバラに喋っているので内容は分からない。

「あー…アオ、子供のわがままだってのは分かってる…」

 そう言って彼は一呼吸声を貯めた。

「行くな」

 親友の声を聴いて青介の身体がふるっと振るえた。

「うん、ありがとう…」

 そう言って青介は電話を切った。

 僕だって行きたくない。それは確かだ。だから青介は父親にごねてみることにした。いつも妹達が先にごねるので、彼は自分の意見を押し殺してなだめ役に回ってきた。でも自分も子供だ。もう少しわがまま言っても、言うだけなら許されるんじゃないか。

思ったことは口にしないときっと後悔する。少し前の青介ならきっとそんな考えはしなかった。自分でもどうしてそう考えるのか彼にはよく分かっていなかった。

「父さん…」

 妹達の言葉の暴力にへとへとにやられた父親が台所にやって来た。

「僕も行きたくない」

 父は困ったなぁと言わんばかりに頭を掻いて、ため息を一つ大きく吐いた。

「そうは言ってもな、子供だけ残しておくってわけにもいかないしなぁ…」

 世間一般の話なら高校一年生ともなれば進路のこともあるし、家に残しておく例も多々ある。しかし、今彼の目の前にいる息子は実の父親である自分でさえ年齢を時々間違えるくらい幼く見える。ぷるぷる震えながら必死に目で訴えるさまはどうみても贔屓目で見ても小学校高学年だ。

「僕、別れたくない人達がいるんだ」

「なんだ?ヨーコちゃんのことか?」

 お隣さんの一人娘、息子の幼馴染のことを思い出し、お隣さんに面倒を見てもらえればなんとか、いやそこまで迷惑かけるわけにもいかないかなどと思案していると。

「違う人…」

 と、小さな息子が耳を真っ赤にして俯いていた。

 実際のところ最初青介の頭の中には男友達連中のことしかなかった。けれど不意に女性の名前を出され、ふっとあの彼女のことが脳裏に浮かぶとそれは一気に意識を占有し、彼の心臓をきゅーっと圧迫した。

 絶対に引っ越したくない。あの人に逢えなくなるのは、考えただけで息ができなくなる。彼は見ている父親の方が苦しくなるくらい、顔を皺くちゃにして赤くなっている。

 初めて見る息子の表情に父親は。

「ちょっとその人連れてきなさい。話はそれからにしよう」

 それは親心半分、好奇心半分から出た言葉だった。


 話のあらましを聞いて、あー、葵さんがなにかやったんだ、と紫鳳はすぐに感づいた。あの人本当に何者なのだろう、という勘繰りは取りあえず保留しておいて、まず解決しなければいけないのは目の前のいつも通りの捨てられた子犬みたいな目をする少年だ。

「それで…あの…ご迷惑でなければ父に会っていただきたいのですが…」

「ん、いいよ」

 彼女は苦笑しながら少年の頭を優しく撫でた。彼の顔がぱぁっと笑顔になる。

「十中八九、私の連れが仕出かしたことだから。今からでいいの?」

 こくこくと少年が首を縦に振ると、二人並んで歩きだした。

 少年は少し申し訳なさそうに背中を丸めて歩く。突き詰めれば彼に非は一切ないのだが、そんな彼女側の事情など想像もつくまい。きっと先ほどの言葉も額面通りは受け取れてはいないだろう。懐きかけの子犬みたいに何とも微妙な横顔で少年は彼女を見上げている。

 と、そこで彼女は一つ大事なことを忘れていることに気付いた。

「そういえば、私、君の名前まだ聞いてないわ」

「本庄青介と言います」

「ふーん…」

 介の響きが古風な感じもするが、目の前の少年のぽやんとした感じと重ならない。まぁ、それは置いておいて、人に名を尋ねておいてこちらから名乗らぬのも失礼だろうと、彼女は小さくかしこまって咳ばらいをした。

「私は高崎紫鳳。紫の鳳と書いて紫鳳。塩じゃないわよ。千代と同じアクセントで紫鳳」

 一気に喋り少年の様子を伺うと、彼はちょっと首をかしげていた。彼には一度違う名で名乗りを上げているのだ。

「あの、メイオウっていうのは?」

「あ、ああ、あれは肩書き。生徒会副会長とかそういうのと一緒」

 彼は納得したようでこくこくと頷くと。

「…高崎さん」

 確認するように彼女の方を見上げ直して笑った。

「えへへ…」

 彼女もなんとなく釣られて笑ってしまった。

 そこから先は特に会話もなく二人トコトコと歩いて行く。

 さて、お父様に何を言われるか。何を言ったら彼の引っ越しを阻止できるか彼女が考えているうちに少年の足が止まる。

 目の前には一般的な個人住宅がある。レンガ造りの塀の向こう、数歩でたどり着ける木製のドア。視線を横にずらすと、狭いながらも一応庭があり、子供用の自転車が三台並んでいる。

「ここが家です。どうぞ」

 玄関を開けて青介が先に入っていく。父を呼ぶために奥の方に消えていくのを目で追うと、途中で青介と同じか少し大きいくらいの女の子が二人角から顔をのぞかせているのが見えた。姉か妹だろう、そう思い彼女が頭だけ下げると、少し背の高いウェーブのかかった髪の子が睨み返し、ボブカットの子が愛想よく手を振りかえしつつ大きい方をずいっと引っ張り姿が見えなくなった。

「お邪魔します」

 靴を脱いで上がると、青介をそのまま大きくしたような男性がにこやかな笑顔で迎えてくれた。どう考えても彼の父親だ。この人が攻略すべきターゲットかと彼女もにっこりと笑顔を浮かべつつ、細めた目で相手をじっくり観察した。

「どうぞ、お待ちしておりました。こちらへ」

 ダンボールが積み上げられた廊下を抜け、客間に通されると、そこには誰もいない。次いで青介の父親が入ってくると、彼はふすまをきちんと閉めた。

 二人きりの話になるなら、彼女としては好都合な展開だった。お互い名前もついさっき知ったような間柄だ。連携プレイなど望むべくもない。事を有利に運ぶために多少話を盛らせてもらうつもりだった彼女にとって、感情が顔に出やすい青介は正直なトコロ、隣にいられては困る。

 彼女は薄く笑みを浮かべ、まずは父親の話を聞くところから始めた。


「あれ、誰?」

 ウェーブヘアの妹が立ち上るオーラだけ兄を壁に押し付ける。身長差がほとんどないどころか妹の方が少し高いくらいなので、兄としては非常に情けないのだが、普通に怖い。

「た、高崎さんていうんだよ」

 耐えかねて顔を横にして視線をずらそうとするが、見えないひもでくっついているかのように、妹の眉間にシワのよった、そう言えば般若って怒った女の人のことだったなーなんてことを思い出させる、双眸ががっちりと付いてくる。

「どういう関係?」

「ど、どういうって…た、たたただの知り合いだよ」

「たーだの知り合いが引っ越しの準備でクソ忙しい時になんの用なのよ?」

「いや…それは…」

 どこかに救いの手はないものかと視線をそこらじゅうに走らせるが、目に入るものといえばダンボールの山と心配そうに二人の間に割り込んでくる柴犬くらいなものだ。

 ずいーっと寄ってくる妹の目がパコンという軽い音とともにぎゅっと閉じた。

 二人の後ろにボブカットの妹がお盆を持って立っていた。

「お姉ちゃんはまだ何も手ぇ付けてないでしょう。忙しい忙しいというのなら油売ってないでさっさとやるやる」

 木製のお盆とはいえ結構な勢いで叩かれれば相当痛いはずだ。ウェーブの方の妹は頭を撫でつつ、ぶつぶつ文句を言いながら自室に帰っていく。その様子を見ていたら、いつの間にか下の妹がさっきまで上の妹の位置に立っていた。

 ただその表情は真逆で、嬉しさがはみ出してたるみ切っていた。

「ど…どうしたの?くーちゃん」

「うふふぇ…面白いことになってきたねぇ、面白ことになってきたねぇ」

 ただ少女らしい純粋さはかけらも見えない。酷く下衆な、自分が幸せなのではなく、他人のトラブルが美味しいといったちょっと子供としてそれはどうだろうという笑みだ。

「さっき茶菓子を出してきたんだけどね、お父さんあの人のこと相当気に入ったみたいだよ。とりあえず私たちの引っ越しはなくなる方向で話が進んでるみたい」

「え?」

「うふふぇ」

 そしてまた妹はにやんと黒い笑みを浮かべて、兄の肩に手を置いた。

「お兄ちゃん、よかったねぇ…うふふぇ…」

「え?なにが?」

 お盆で笑いをこらえながら立ち去ろうとする妹。呼び止めようと手を伸ばしたその時後ろから父親の走るような足音が聞こえてきた。

「青介、寿司とるぞ、寿司」

「え?」

 昨日と同じテンションで父親は叫ぶ。

「ささやかだが歓迎会やるぞ」

「え?なんで?」

 高崎さんのだというのは分かるが、ちょっと見えた客相手に頑張りすぎではなかろうかと、青介が考えていると。後ろで妹が吹き出した。

「なんでって、一緒に住むんだ。最初が肝心だろう」

 父は呆然とする息子の前を通り過ぎ、家電の前でしゃがむと「寿司屋寿司屋…」と呟きながら電話帳をぱらぱらめくりだした。


 威勢のいいあんちゃんが「まいどー!」といって玄関を出ていく。客間を覗けば、テーブルの上に鎮座した漆塗りの寿司桶。寿司の詰まり具合もさることながら、桶自体のでらっとした黒光り加減は、たぶん特上とかそういうやつなんだろうなと青介に思わせるに十分だった。

 部屋の奥の方で紫鳳が青介に向かって苦笑いを浮かべている。手招きされたので、ちょこちょこと歩いて彼女の隣に座った。

「ごめんね。ちょっとがんばりすぎちゃった」

 彼女は青介の耳元でささやくと、ぺろっと舌を出して首を下に振った。

「あの…なんか一緒に住むって…」

「私が今ホテルを利用していることを伝えたら、それならここに一緒に住みなさいと言われて…もちろん断るわよ。安心して」

 ほっとしたような残念なような何とも言えない気持ちになるが、バクバク言っていた心臓はひとまず落ち着いた。

 それにしても彼女から漂う香りはなんなんだろう。シャンプーの香りなのだろうか、顔を近づけているせいで青介の鼻のすぐそこに黒いストレートヘアが来る。

 違う理由で心臓が高鳴り始めるが、いきなり正面から浴びせられた刺すような視線に、それが止められる。見ればウェーブヘアの方の妹が死合いに臨む侍みたいな目つきでこちらを睨みながらイカ、タコ、いくらに大トロ手当たり次第に胃袋に流し込んでいた。

 そして睨んでいたくせに、兄と目が合う前にさっと視線をそらし、今度はその凶器を父親に向ける。

「お父さんは準備があるんでしょ」

「ああ、そうだ。父さんは行かなくちゃいけないんだ」

 上機嫌なまま席を立つ父親の裾を青介がくいっと一回引っ張った。

「説明がないと状況が分からないんだけど…」

「父さんが単身赴任することにした。それでその間の青介達の面倒は高崎さんが見てくれることになったから…」

 急に神妙な面持ちになり、父がその場に正座した。そして深々と紫鳳に向かって頭を下げる。

「不肖の息子ですがどうかよろしくお願いします」

「あ、いえいえ。こちらこそお世話になります」

 目の前に父親と惚れた女性の後頭部がある。なんだろうこの図。青介がぽかんと眺めていると二人は頭を上げ、父の方は「ごゆっくり」と言い残しさっさと部屋から出て行ってしまった。

 ふすまが閉まるのを見てから、紫鳳が青介の方に向き直る。

「同居の話はさすがに辞退させてもらうけど、ああ言われた以上は出来るだけ近くに住処を探すことにするわ…」

 青介を見つめていた瞳が少し横にそれた。そして彼女は何かを思い出しているのか、肩をすくめて一瞬小さく震えた。

「ささいなことだけど、ちょっと問題があるから、あまり頻繁にはこれないと思うけどね」

 言いたいことを言い終えたからか、彼女は席を立った。手振りで留めようとする青介に同じく手振りで返す。

「そのちょっとした問題があるから、長居できないのよ」

 彼女はすっと一歩踏み出すと、そのまますたすたと玄関に向かう。青介が見送ろうと後を付いて行くと、ボブカットの妹だけちょろちょろと追っかけてきた。

「それじゃあ、おやすみなさい」

 玄関で靴を履き、彼女はドアノブに手を掛ける。

「はい、今日はありがとうございました。おやすみなさい」

「またねぇ、紫鳳さん」

 二人が手を振ると彼女も振り返って軽く手を振った。後ろを向いていたせいで、彼女は玄関先に立っていた人物に気付かず、青介が止める間もなくそのままぶつかる。

「あ、ごめんなさ…げっ!」

 手を振って別れるはずの彼女はドアをバタンと閉め、また戻ってきた。ドアノブをぎゅっと握ったまま眉をへの字に曲げて明らかに困ったという表情を浮かべていた。

「開けんかこりゃ!紫鳳、お前なにをやっとるんじゃ、こりゃ!」

 外からドアをドンドンと叩く音とともに、ガラの悪い少女の声が響く。

 紫鳳が陰になって顔は見えなかったが、外に立っていた人物の格好、白衣に緋袴そしていくつもの数珠、に青介はどこか見覚えがあった。

「怒らないからでてこんかい、こりゃ!」

 説得力の欠片もない交渉に紫鳳の口から乾いた笑い声が漏れる。きっと笑うしかないという状況なんだろうなと青介にもなんとなく察しがついた。

「あの…裏から逃げますか?」

「んー…それをすると近所迷惑が続きそうだから…正面突破で逃げる!」

 言うや否や、彼女は一気にドアを開けて外へ飛び出した。当然外にいた人物はドアの直撃を喰らう。

紫鳳が門をひょいっと飛びぬけるも、巫女服姿の女性は額を抑えて悶絶したまま、動かない。改めてその姿を見て昨日ホテルの入り口で見た人物だと分かる。

「あの…」

 心配そうに青介が声を掛けようとするも、いきなり復活した少女はイノシシみたいな突進で紫鳳をおいすっ飛んで行った。

「お兄ちゃんも追っかけたほうがいいんじゃない?」

 玄関の中から妹が兄を見下ろしている。

「紫鳳さんきっと、うちに来たことで怒られてるんだよ」

 それもそうだ。青介は妹に「ちょっといってくる」とだけ伝えて、とりあえず二人の消えたほうに走っていくことにした。


 あんなに軽そうな身体なのにドドドドという擬音が聞こえてくるような勢いで葵が追いかけてくる。

「またんか、こりゃああああああああああああああああああああああ」

 紫鳳もかなり全力で走っているのだが、なかなか千切れない。ストロークにかなり差があるはずなのに間隔を維持するので精一杯だ。

「わかった、わかったから。その煙管は仕舞って」

 相手がただ追いかけてくるだけなら、紫鳳も速めに止まる予定ではあった。だがいざ追いかけっこが始まると、葵はそでから長さ30センチはあろうかというゴテゴテした金ぴかの煙管を袖から取り出し、それを振り回しながら走ってくるのだ。紫鳳にはどう頭をひねっても、それを平和利用する姿が思いつかない。

「ぐぬうううううううううううううう」

 二人の間隔が微動だにしないことにいら立ちを覚えているのは、紫鳳の方だけではなかった。葵は頭から湯気を出しながらも、その場に立ち止まった。そして煙管をペンのように扱い、空中に円を描く。その軌跡が青白い光となってそのまま宙に留まり続けている。

 彼女はそのまま続けてその円の中を掻き毟るように煙管を動かすとそこには一つの魔法陣ができていた。すぐさま彼女はその陣の中にひょいと飛び込む。

 脇目も振らずに走り続ける紫鳳の目の前にいきなり草履が現れた。空中にいきなり浮かび上がったそれはずるりと足首まで現れ、続けて緋袴が滲み出てくる。慌てて方向転換しようとするも、その肩を掴む手は万力のようにがっちりと食い込んで離れない。

「あ…葵さん?」

「覚悟はできておるだろうなぁ、紫鳳」

 葵の握る煙管が紫鳳には微かに揺らいで見える。それが熱による陽炎だとわかったのは、金属部分がブスブスと音を立てだしたからだ。

「ちょっ…本気は止めて。それ痛いじゃ済まないんだから!」

「るっさいわ、ぼけがああああああああああああああああああああ」

 その小柄な身体が紫鳳を飛び越えるほど舞い上がり、そしてまっすぐ落ちてきた。つい見上げてしまった紫鳳の額に煙管の容赦ない一撃が襲い掛かるが、避けられないと踏んだ彼女は全力で受け止めにかかる。

「一般人を巻き込むなと何度言ったらわかるんじゃ」

「葵さんこそこんな街中で魔術使うとかちょっとどうかと思うけど」

 バチバチと煙管と紫鳳の額の間の空間が文字通り火花を散らす。そしてその閃光を喰らう様にずぶずぶと闇がにじみ枯れ木のような触手が紫鳳の周りに浮かび上がってくる。

「はっ。バレなきゃいいんじゃ」

「そういうことなら私だって」

 煙管はいよいよ熱だけでなく炎そのものを吹き出す。実体化した触手がその煙管をからめ取ろうと二人の間に伸びるが、葵はさっと紫鳳の顔面を踏み台にしもう一度宙に舞う。

 ふよふよとそのまま何もない空間に漂いながら葵が紫鳳を見下ろしている。

「懲りん奴じゃな。もう一度伸されたいらしいな」

「ぐっ…」

 葵の顔から怒気は消えている。しかし変わりに薄暗い笑みが浮かび、そのねっとりとした視線が紫鳳に向けられている。極上の酒を前にしたときあんな顔してたなぁと紫鳳は肩をすくめた。

 紫鳳としては本気で喧嘩を売るつもりは微塵もない。事の発端が自分にあることは重々承知している。ただ本気で打たれると痛いどころでは済まないので、それを避けたかっただけなのだ。しかしこうなってしまったからには、彼女も臨戦態勢を整えるしかなくなってしまった。ある程度の防御をするためにも攻撃をおろそかに出来ない。

 紫鳳が両手をゆらりと持ち上げ構えた直後、葵が狂犬のように大口を開けて落ちてきた。


 青介は目の前のやり取りをただ見ていた。

 映画でも見ているような気分だ。赤よりも白に近い炎が舞い、なんだか黒い枯れ木のようなものが植物にあるまじき速度でうねる。その中心で紫鳳と巫女服姿の少女が何度も何度も交差する。その度に白と黒はぐるっと巻き合いお互いを塗りつぶしていく。

 青介も近寄ろうとはした。しかしあるラインで足がぴたりと止まる。小刻みに震える足を一歩踏み出すことがどうしてもできない。それが恐怖から来るものだと、今の少年にはまだ理解できない。

 紫鳳の手は握られてはいない。ただその掌は触れればアスファルトが抉り取られるほどに硬い。巫女服の少女はそれをひらりひらりと避け、右手に握った煙管で殴りつける。

 長さ30センチほどのその煙管は滑らかな曲面を持つ円柱状。しかし紫鳳が防御のつもりで伸ばしたであろう巨木のような触手を、その煙管はバターでも切るかのようにたやすく切断した。滑らかな切断面を伝い、末端部分がずれ落ちる。

 それから何度ぶつかり合ったか。時間にすれば一分もなかったであろうが、ただ見ているだけの青介にはそれはあまりに濃密な時間だった。しかし終わるのはほんの一瞬。

 紫鳳の右ストレートを頬に受けた巫女服姿の少女がきりきりと横に回転しながら吹き飛んでいく。その背中を追撃せんと、左手を振りかぶり地面を蹴り上げた。

 しかし彼女はそこで自分の意に反し地面にぴたりと付いたままの足に、全身のバランスを崩されその場に転倒した。受け身を取ろうとした両手に白い炎がぐるりと巻きつく。炎はそのまま彼女の身体を這いまわり、全身を覆い尽くすと、かわりに太い縄を残してふっと消えた。

「なにか言い残すことはないかぁ?」

 ぐるぐる巻きに縛られた紫鳳の上にどかっと腰を下ろして少女が煙管を吹かす。

「…ごめんなさい」

「かっかっかっかっかっ」

 愉快痛快といった調子で笑う少女には左手首から上がなかった。それがじんわりと実体化してくると、紫鳳の足を縛り付けていた力が抜ける。

 二人からはもう先ほどの重圧は感じられない。青介はてくてくと二人に歩み寄る。

「あの…」

 青介の声は決して大きくはなかった。しかし二人はがばっと振り向き、そろって鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。

「小僧、いつからそこにいた?」

「いえ、なんか二人が喧嘩してる時から」

 少女が自分の目頭をぴしゃりと平手で打ち、見た目の年齢に合わないしわしわの落胆顔を見せた。

「あー…油断した。まっとうに考えたら小僧が追いかけてくるのも当然のことじゃ…」

「葵さん、大丈夫」

 踏みつけられたまま、紫鳳が少女を見上げると、返ってきたのはこいつアホじゃなかろうかといった蔑む目だった。

「この子、地獄蝶見えてるし」

「はぁ?」

 葵と呼ばれた少女は人を馬鹿にするものいい加減にしろといった調子でぐいーっと尻に体重を掛ける。

「本当だってば」

 紫鳳が苦しそうに呻くと、鼻で一つため息をついてひょっこりと起き上り、葵は青介の前に立った。

 二人の身長はたいして変わらない。ただ青介がぽやんと子供的なオーラを出しているのに対し、葵は眉間にしわを寄せ猜疑心の強い老婆が纏うような雰囲気を醸し出している。その少女の手がいきなり青介のやわらかい頬を両方からつまむ。

「ほにゃにゃ!?」

 驚き後ずさろうとする彼の動きを、少女は頬の引張だけで止める。上下左右に引っ張りながらも目を細めてじっと少年を観察している。蛇に睨まれたカエルはきっとこんな気持ちなんだと、少年の額に脂汗が滲み出てきた。

「こんな小僧が魔に触れておるわけないじゃろうが」

 最後にぴっと引っ張り柔らかい肉をつまんでいた指を放し、葵は縛られたままの紫鳳の元に戻る。

「本当だってば」

「ならお前が地獄蝶だしてみぃ」

 紫鳳の拘束を解きながら葵がぶつぶつ文句を言う。

「自在には無理」

「はぁ…しようがないのう…」

 その縄を片づけ終ると、紫鳳と葵はぽかんと突っ立ったままの青介の前に並んだ。

 葵が煙管で中空に円を描くと、その軌跡が青白く光った。続けてそのまま中に何かを書き込んでいく。一通り書き上げたのか少女は煙管を袖の中にしまうと、右手を腕まくりしてそのままその魔法陣の中に腕を突っ込んだ。

 中空に伸ばされているはずのその腕が、魔法陣を境に消えていく。指から手首、そして肘まで消えたあたりで少女は腕を引き戻した。その指先には真っ黒な小さな蝶が止まっている。蝶はふわふわっと飛び立ち、紫鳳の肩の上に止まり直して羽を休める。

 青介がその蝶の動きを目で追うのを少女はじっと見ていた。

「たしかに見えておるようじゃなぁ…」

「でしょう」

 誇らしげに言う彼女の肩から少女は蝶をつまみ少年の目の前に持ってくる。

「これ、どんなふうに見えておる?」

 蝶の羽はペタンと一枚の膜のようにただ黒い。そしてこの前は気付かなかったが胴体や手足が異常に細かった。ほとんど糸と変わらない。

「なんかすごく細い蝶ですね」

「手足も見えておるのか。輪郭まできっちり見えておるとなると、けっこうなもんじゃな。これはな普通の人間には見えてはならんモノなんじゃよ…」

 少女はふんすと一つ鼻を鳴らすと、蝶をまた魔法陣の中にしまう。

 そして少女と彼女がなにやらひそひそと背中を丸めて話し出した。青介は黙ってこの場を離れるわけにもいかず、かといって内緒話に加わるわけにもいかず、その場に取り残された。

 それはアクション映画を見た後に、なんとなくシャドーボクシングをしてしまうような心境だった。

 青介が指で中空に円を描く。もちろん青白いものなどでるわけがない。そしてその中でもにゃもにゃと指を動かし、最後にその中にゆっくりと指から突っ込んでいった。

 腕が消えることを当然と思いながら指を伸ばす。だから彼は最初自分に起きた異変に気付かなかった。はっと改めて自分の腕を見た時には手首まで消えている。

「うわわわ」

 ありえないことが起き、彼は動転した。反射的に腕を引き戻そうとするが何かにつっかえて手首から先が抜けない。

 そこでようやく彼女たちは少年の異変に気付いた。

「なんじゃこりゃ?」

 葵が手首から先のない腕を持ち動かそうとするが、空中に固定されていてぴくりとも動かない。その様子を見て少年の危機感が一層増す。渾身の力を込めて抜こうとすればするほど、腕はがっちりと食い込み締め付けられる感覚が強くなる。

 その様子を見て、葵が少しためらいながら紫鳳に言った。

「あー…紫鳳、お前後ろから引っ張れ。引っこ抜けた反動でどこかに飛ぶといけないから、できるだけ密着して。ゆっくりでいいからな」

「あ、うん。わかった」

 覆いかぶさるように青介の後ろから紫鳳の手が伸びる。先端の消えた右腕を引っ張る左手に添えるように彼女の白い指先が絡みつく。滑らかな指先の感触もさることながら、背中に当たる二つの柔らかい物質と、首筋をくすぐる彼女の前髪が手首に集中していた少年の意識をいやが応にも持っていく。

「じゃあ、引っ張…」

 彼女が踏ん張る前にスポンと彼の右腕は抜け、そこは元の何もない空間に戻っていた。


 青介が落ち着いてから、紫鳳は葵に自分がどうして彼の家にいたのかの釈明という名の説明をこと細かくした。父親の転勤の原因を葵の差し金と決めつけたうえで、先に折れるだけ折れ、葵にも説明を求めた。

 すると葵は自分に都合の悪い部分をまるごと無視して。

「ならちょうどいい。一緒に住んだらいろいろ丸く収まるわい」

 とすまし顔で答えて紫鳳を見上げた。

 普段から何を企んでいるのかいまいち掴めない少女だが、今回のことも紫鳳にはまるで意図が読めない。この少年を自分から遠ざけるために、一連の騒動を起こしたはずだ。なのに彼の家に押しかけることを止めてくれるどころか勧めてくるとは。紫鳳が露骨に困った顔をすると、少女はやれやれと言った調子でゆっくりと話し始めた。

「この小僧、お前が目覚めさせたと考えるのが普通じゃろう」

 葵はまたグイッと少年の頬をつねり、引き寄せる。

「昔から魔に触れてたヤツがこんな脳天気な顔できるわけがない。どう見てもここ数日の話じゃな」

 少女が指先に込めていた力を不意に緩める。抗っていた力と釣りあっていた力が急に無くなり青介がバランスを崩すと、紫鳳がやさしく抱き留めてくれた。が、紫鳳も意識が半分葵の話に飛んでいる。青介が抜けだそうとしているのにも気づかず、その腕には微妙に力が入ったまま。少年は無理に腕をどかすのも恥ずかしく、そのまま俯いて黙っていることにした。

「するとここからが大変じゃ。これから色々なものが寄って来るのに、小僧はそれから逃げる術を知らん。そのままなら早くて一か月じゃな」

「一か月?」

「肉体を喰われるか、精神を喰われるか。よしんば生き残れたとしてもこんなα波が出ておるような表情はもうできん」

 少女の指がまた少年の頬をつねろうとする。それを紫鳳はぐいっと少年を包み込む上半身ごと捻じり拒否した。

「じゃから、巻き込んだ責任とってお前が見張れ。しかも能力まで身に着けておる。空間を割るとなれば、おそらく超三次元系。レアものじゃ。このまま朽ちさせるなど龍の卵を豚の餌にするにも等しい」

 少女はまた悪いことを考えている笑みを浮かべて、中空で指をうねうねと動かしている。あの動作はソロバンを弾いているものだと紫鳳には分かっている。

「それにあの家、家主が一人抜けるんじゃ。お前が入るにはちょうどいいではないか」

「抜けるって、葵さんの仕組んだことじゃない」

「いいから、入れ、一緒に住め。でないと、この小僧が一か月後には廃人じゃぞぉ」

 両手をぶわっと上げて化け物が襲い来るようなジェスチャーをする。紫鳳には通じないが、腕の中の少年はなんだかぷるぷる震えていた。しようがない。考えてみたら遠慮する以外に拒否する理由もないし、仕事も学校もないなら子供のお守りくらい引き受けるか。そういう心づもりにさせられた。

「わかったわよ…」

 そう言って腕の中に視線を下ろすと、少年はいつもの子犬みたいな瞳で彼女を見上げていた。


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