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本庄青介と冥王の問題  作者: 三宮勉
第一話
2/16

2


 空を見上げればどこまでも薄暗い。太陽のようなものは出ているが、周りの闇に押しつぶされるように自分だけ白く光るにとどまっている。

 そんな中を彼女は落ちていた。まっさかさまに墜落する彼女はかっと目を見開き、その真下を睨みつける。

 彼女は純白の鎧を纏っていた。右手に穂先が五つに分かれた長槍を構え、その先端は小さく放電し彼女の怒気に呼応して震えている。しかしその槍は彼女の落ちる先に向けられてはいない。

 彼女の落ちる先には沼と呼ぶにはあまりに広大な泥水の海が広がっている。その水面一歩手前で止まるべく、彼女は翼を広げた。真っ白な一対のその翼は、天を覆う勢いで横に伸びていく。

 海面から何かを拾おうとしていた彼女のその翼に、その何かが一斉にからみついてくる。黒いそれは白い翼を浸蝕し、彼女から浮力が失われる。がくんと揺れる身体。

「放してっ!………!………!」

 彼女はひたすらもがく。その槍を振るうことはせずに、ただ身体を揺さぶる。

「お願いっ!………!………!」

 彼女はその黒いもの達に叫び続けるが、翼を超えて彼女自身も浸蝕し続ける。

 やがて彼女は海面に落ち、泥の中へと沈んでいく。空を掴もうと投げ出した手に黒いものが覆いかぶさる感触がした。


「ぐああああああああああああああああああ」

 自分の叫び声で彼女は目を醒ました。上に見えるのは真っ白い天井。仮宿にしているホテルのものだ。現実へ戻ってきたことに彼女は安堵する。

 じっとりと首筋を汗が伝う。それを拭おうとするが、腕が動かない。腕だけではない、足も腰も何かに囚われている。彼女は自分の身体が縛られていることにここで気が付いた。

 かろうじて動く首をぐるぐると動かして周りの様子をうかがうと下着姿の自分の足元に葵が立っていた。

「おう、目が覚めたか」

 そういう少女の手からは何本もの荒縄が伸びていて、それが彼女の身体をがっちりと緊縛していた。

 そしてそれとは別にその縄は彼女の身体から生える蠢く黒い枯れ木のようなものをぎちりぎちりと縛り上げ、蜘蛛の巣のように部屋中に張り巡らされていた。

「それが冥王の本体なんじゃな?」

 葵の問いに彼女は小さく首を振った。

「こんなのただの搾りカスよ…」

 葵が拘束を解くと、彼女はベッドからゆっくりと起きた。彼女が体を動かすたびに、ぶつりぶつりと枯れ木が千切れ、霧散していく。足を床に付けると同時に最後の一本が音もなく掻き消えた。

 夢見が悪かったせいか、体が重い。窓に近づき、日光を補給しながら背伸びをすると髪の中にたまっていた汗がうなじを垂れていき、下着に吸収される。

「シャワー浴びてくる」

「んー…」

 荒縄を片づけながら葵が適当な返事を返す。その少し丸まった背を見ながら、彼女はバスルームに入って行った。


 蛇口をひねるとシャワー口から冷水が噴き出す。ぼーっと眺めていると、それに湯気が混じりだす。指先でその温度を確認してから、彼女はその中に入った。

 頭から温水をかぶると、ざらついた汗が一気に流れ落ちる。しかしそこまでだ。胸の中にふつふつと沸きあがる不快感は、べとっとこびりついてそこに留まる。

 原因は簡単だ。さっきの夢のせい。

 体にまとわりつくあの黒い感触が今も鮮明に思い返される。そしてあれと同じものが自分の体の中にもある。

 彼女はぐっと唇を噛みしめ、拳を握りしめた。それは何かの決意の表れではない。頭を垂れたまま、ただ恨めしさをにじませてそこで終わるしかないものだった。

 握った拳を胸に当てる。その手には心臓の拍動は伝わってこない。

 彼女は冥王。死者の王。

 この止まった鼓動が、あの夢が現実に合ったことだと彼女に突き付けてくる。

 彼女は俯いたまま叫ぶように大口を開けると、ただ深く息を吐き出した。


 バスルームから彼女が出てくると、葵は空き缶空き瓶の山に囲まれて絨毯の上にそのまま寝そべっていた。

「ぶはははははは、紫鳳、お前、下ぐらい履け」

 髪を拭くためのバスタオルしか彼女は被っていない。しかしそれを咎める葵も袴がめくれあがり白いふとももまで見えている。そんな葵を一瞥し、彼女は備え付けの冷蔵庫の前に屈み、中身を確認した。

「よくこの短時間でここまで飲めるわね」

 冷蔵庫の中にはもうソフトドリンクしか残っていない。彼女の心底呆れたといった声に下品な笑い声が返ってきた。

「こういうところのって普通より高いんでしょ?」

「こんな安酒、いくら呑んだところでたかが知れておるわ」

 今度は笑い声といっしょにそれに勝るとも劣らない音量で汚い空気の抜ける音がした。どうもゲップだったらしいだが、酔って目つきの柔らかくなった葵は身長相応の少女のように見えて、彼女はそれを少し認めたくなかった。

「庶民には分からない金銭感覚だわ…」

「庶民?」

 葵はそう言ったまま顔を伏せて小刻みに震えている?何か気に障ることでも言ったかと、彼女が恐る恐る葵に近づくと、少女はバネ仕掛けのように上半身を起こした。

「ぎゃはははははははははははははははは」

 可笑しいを通り越して苦しい表情で葵は爆笑し、手のひらで腿をぱんぱんと叩きながら転げまわる。

「魔王の一人に数えられるお前が、庶民て。うははははははは。庶民て」

 少女に向かって差し伸べていた手をゆるゆると引込めながら、転げまわる葵を眺める。この人に付いて行って本当に大丈夫なのだろうかと、眉をゆがめる。けれど彼女は自分に選択肢がないことは十分承知している。

 見た目では生きている人間と変わらないとしても、彼女の心臓はきちんと止まっている。それだけならまだしも、今朝のように寝てる間に可笑しなものがはみ出していたりしたら、どうしようもない。

 まっとうな人間の生活に戻れないことは理解している。しかしまっとうでない人間の生き方など彼女は知らない。図書館で調べてもみたが、化け物に対する伝承や対処法の類が民話としてのこっているくらいで、死者目線の書物など当然ながら一冊もなかった。

 困り果てたところにひょっこり現れたのが、ゲタゲタ笑いながら床を転げまわるこの青い瞳の少女だった。

 それが三日前のこと。

 彼女はまだ少女のことを良く知らない。背丈やちょっとふっくらとした顔の輪郭などから、彼女は便宜上葵を少女だと認識しているが、口調や装備など見た目通りの年齢ではないんだろうなとなんとなく察しがついている。大酒呑みだし。

「お前はワシと肩を並べるくらい偉いんじゃから、もっとどーんといかんかい」

起き上がり小法師が跳ね上がるように、一升瓶を片手に葵が彼女に近づいてくる。酒臭い。それを片手で制しながら、彼女は口も眉も捻じ曲げた。

「何度も聞いているけど、葵さんて一体何なのよ」

「ワシか?ワシは一番偉いんじゃ。うははははははははははははははは」

 せっかくシャワーを浴びたのに、今度は酒臭さがうつりそうになる。そうなる前に、彼女は葵を千切り放してソファに畳んで落ち付けた。

 何度か聞いたがいつも要領を得ない答えしか返ってこない。しかし魔道をかじっている時点でろくな人間ではないだろうと想像はしていた。それこそ冥王になった自分にはちょうどいいくらいの穢れた人間なんだろうなくらいの考えである。

「それで、今日はこれからどうするの?」

 ドライヤーで髪を乾かしながら葵に尋ねる。

「んー…そうさなぁ。さしあたってはお前の住むところを探すのが一番じゃろうなぁ」

 胡坐に座り直し、日本酒の小瓶をラッパ飲みでやる。

「ずっとワシが付いているわけにもいかんし。今朝みたいに魔力がだだ漏れになられては困るからのう。さっさと祀る場所を決めておかんとな」

「祀るて…」

 彼女が苦笑すると葵は酔ったまま神妙な面持ちをした。

「お前はいまいち自分のことを理解しとらんようだな。お前はもう人ではない。生きた死んだという意味ではなく魂の置かれる位置での話じゃ。人はもちろん妖精、精霊そう言ったものも超越しておる。出生は知らんが、魔王と呼ばれる者ならまず間違いなく神に分類される。そんなバカげた力、祀る以外に対処のしようがないんじゃよ」

 そこまで一気にしゃべって、また瓶をグイッと傾ける。

 葵の目は酒も入ってだいぶ座っている。そんな視線を避けるように彼女は向きを変え、自分の掌を見た。ぐっと力を込めると黒い靄のようなものが滲み出てくる。

 こんな穢れたものがそんな大層なものには彼女には思えない。でも、放っておくことができないことも確かだ。封じる的な意味合いなのかな。そう結論付けてもう一度少女の方を見ると酒瓶を持ったまま、こっくりこっくりと首を垂れていた。

「葵さーん」

 頬をぴしゃぴしゃと叩くが夢の世界から返ってくる気配がない。

 こうして眺めているとただの少女のようだ。尋常でないほど酒臭いが。無垢なその寝顔を邪魔するのが忍ばれて彼女は音をたてないように衣類を身に着けた。

 テーブルの上に散らかしたままの絵馬の束を手繰り寄せ、首に掛ける。

 足元で転がっている葵をベッドに移すと彼女は部屋を出て、静かにドアを閉めた。


 チャイムが鳴る。

「じゃあな。気を付けて帰れよ」

 金髪の親友がさっさと部活に行ってしまい、青介はいつも通り一人で帰ることになる。

 少年の足取りは軽い。それは授業から解放されたからではない。もうすぐ夏休みが来るからでもない。帰り道はまたあの人に逢えるかもしれないという期待からだ。

 そんな彼の陽気に水を差すように空がゴロゴロと鳴きだす。真っ青だった空が一気に暗くなる。しかし彼は慌てず鞄から折り畳み傘を広げると、同じ調子でまた歩き出した。

 彼は行きも帰りも徒歩だ。だからバス停があっても、普段ならただ通り過ぎてしまう。ただ今日は違った。

 いつも通り通過しようとしたのだが、視界の端に映った人影に引っ張られるように首がおかしな角度で曲った。

 烏の濡れ羽色としか形容できない黒いストレートヘア。強い意志を感じさせる切れた目尻。清潔さを湛えた薄紅色の細い唇。夕立の騒音の中、そこだけ空気の波が押しとどめられているかのように彼女は超然として立っていた。

淡い期待を抱いていたものの、実際に逢えて青介は目を丸くした。対する彼女はさも当然と言った表情で少年を見て、薄く笑っていた。

「こ、こんにちは」

「こんにちは」

 低く静かな声が彼の耳をくすぐる。それだけで背中に羽毛を当てられるような感覚に包まれ、身体が震える。

「あの…バスを待っておられるんですか?」

 緊張のためか妙な敬語が出て顔がさらに赤くなる。

「いいえ。ただの雨宿りよ」

彼の言葉にゆっくりとした口調で彼女は答えてくれる。この前の別れ際、あの冷たいテンションなどなかったかのように優しい声で返してくれる。

 そしてそれは条件反射に近かった。雨宿りという単語が脳に届くと同時に、尋常でないほど思考が駆け巡りその結果彼は自分の傘をまっすぐ彼女に差し出していた。夕立が彼の頭を直撃するが、そんなことは今の彼の意識の中では些細なことだ。むしろ熱くなった頬を冷やすのにちょうどいいくらいかもしれない。

「あのっ…使ってください」

 花束でも渡すようにまっすぐ伸ばされたその腕を彼女は不思議そうに見ていた。それから視線を少し前にずらすと豪雨にさらされている少年の顔が目に入った。

 くすっ。あ、あの人が笑った。少年もつられて顔をほころばせた瞬間、傘がまっすぐ伸ばされていた腕ごと優しく押し戻される。それと同時に鼻孔をくすぐる甘い香りがふわりと。隣に並んだ彼女の香りだ。

「濡れてるよ」

 堪えきれないといった表情で笑みを漏らす彼女の顔が目の前30センチにある。突然のことにどうしていいか分からない青介は、結果として逃げ出そうとしてしまった。

「だから濡れちゃうってば」

 しかし少年が足を一歩引くよりも早く、彼女の左腕が彼の身体をぐるっと包んでいる。彼女の体温が布越しに伝わる。全身がカチコチに固まり、逃走という言葉が頭から消えたあたりで彼女はそっと腕を放した。

「コンビニまででいいから入れてって」

「は…はい」

 拘束は解かれたが、さして大きいわけでもない普通の一人用傘に二人で入るとなるとスペースが厳しい。彼がまた濡れないようにとの配慮なのだろう。彼女は彼にぴたっと寄り添うように歩いた。

 右半身を襲う悦楽に彼は必死に耐えた。気を抜くと背骨が溶けてふにゃりと曲がってしまいそうになるが、二人の身長差のせいで腕をぴんと伸ばしておかないと傘が彼女の頭にぶつかるのだ。それを知ってか知らずか、彼女は密着したまま離れない。

 この幸せな地獄だか不幸な天国だかからなんとか逃れようと青介は意識を右半身以外のどこかに散らそうと視線を四方八方に走らせた。そして彼女が右手にファイルを裸のままで握っていることに気が付いた。

「これ?」

 少年の視線に気づいて彼女がそれを目の前に掲げる。薄青色の紙製ファイルはまさに開けたて新品といった感じで汚れ一つない。

「不動産屋さんでもらってきたの。いいとこがあるかなと思って」

「引っ越しされるんですか?」

 少年のテンションが急に下がると、彼女は首を横に振ってくれた。

「私、この町にまだ住むところがないのよ。今は仮住まい。駅前のあのホテルにいるの」

「あ、そうなんですか」

「私この町に住むことになるんだけどどこに何があるかがまだ全然分からないの」

 彼女はぱちゃぱちゃと水たまりを蹴った。その仕草がどこか子供のようで、青介は改めて彼女の横顔を眺める。スーツ姿もあって大人びて見えるが、同年代に見えないこともない。その視線に気付いて彼女が「ん?」と彼の方を見る。別にやましいことではないのだろうが、女性の年齢を詮索しようとしたことがいけないことのように思えて彼はさっと視線を逸らした。赤くなったままの彼の耳を見て、まだ照れているのかなと気にせず勝手に喋りつづけた。

「キミはさ、友達と遊ぶとしたらどこら辺で遊ぶの?」

「遊ぶ?」

「そう。学校帰りとか。休日の日とか」

「学校帰りは大体一人でまっすぐ帰ります。友達部活やってるんで」

「部活?」

「あ、はい」

「珍しいね」

 彼女が首をかしげた理由が少年にはよく分からない。メイオウさんの国では部活をやっている高校生は少ないのかな。やっぱり外国の人なのかななどとすっと通った鼻筋などを眺めながら考えた。

「休みの日は僕の家で遊んだり、あとはゲーセン行ったり。友達の部活が午前中で終わりだと合流してラーメン食べに行ったり」

「へぇ~」

「駅前のラーメン屋の大将がいい人で、僕が行くと半チャーハンおまけしてくれるんです」

 彼女はじっと少年の顔を見下ろして。

「餌付けかな…」

 と呟いて一人でうんうんと頷いていた。

「あの…メイオウさんは、お休みの日とかどうされているんですか?」

 彼女は一瞬目を大きくして止まったが、すぐにその眼を細めまた一人で頷く。

「私はね、ずっと勉強してた。今思い出してみると、遊んだ記憶ってないわ」

 一拍おいて彼女は視線を遠くにやった。青介も釣られて視線を前にやるがいつも通りの街並みが見えるだけ。けれど彼女には違う風景が見えているように少し憂いたような面持ちをしていた。

「普通の学生生活を送っていたつもりだったけど、思い出に残っているようなイベントってないわ。それこそ学校行事だけよ。だからこれからは毎日遊ぶの」

 そう言って彼女は口を大きく横に開いてにひぃと笑った。

「毎日ですか?」

「そう毎日」

「お仕事は?」

「仕事なんかないわよ」

「あれ?学校ですか?」

「学校もないわよ」

 二人ともきょとんとした顔のまましばらく見つめ合う。数秒聞こえてくるのは雨の音だけになるが、それを破ったのは彼女の方だった。

「私は死んでいるのよ。学校もなにもないの。死者の王が生者のわけないじゃない」

「はぁ…」

 少年のぽかんとした顔に彼女は見覚えがあった。最初に名乗った時に返された表情と同じものだった。

 あ、この子。何にも分かってない。そう感づくや否や、彼女はてっとり早く自分が死人であることをわからせるべくアクションに出た。

 少年の彼女側の手、右手は傘を握っているので塞がっている。空いた手、左手を握るのに彼女は自分の利き手である右手を伸ばした。青介からすれば、彼女がいきなり覆いかぶさってきた体勢だ。心臓の拍動が一気に速くなる。その状態は一瞬で過ぎたのだがふわっとなびいた彼女の髪がなんとも甘い残り香を残し、彼の心臓を休めてくれない。

 だから彼はしばらく自分の左手にある感触に気付かなかった。

 ぐいっと引っ張られた感触の先にぽよんとした柔らかい重量感。重苦しいというものではない。本能的に諸手を挙げて大歓迎。そんな感覚が彼の手の上に乗っている。

 半分香りにやられたままの意識で自分の左手の先を見る。そして一瞬で覚醒した。

 みぞおちより少し上。まさに心臓の真上に自分の掌が押し当てられている。そして彼女の胸はそれを避けるにはあまりに大きすぎた。避けるどころか完全に下から鷲掴みしているような状態だ。

「はわわわわ」

 青介は顔を真っ赤にして何か抵抗を試みようとするも、右手は傘を持っていて動かせない。左手をどけることができればてっとり早く問題解決にいたるのだが、しなやかな指先からは想像もできないほどの力でがっちりと手首をホールドされていてまるで抜ける気がしない。今の彼にできることはなるべくソコを正視しないように顔を伏せ、そのままの調子で歩き続けることだった。

「ね、動いていないでしょう?」

 そんなことを言われてもその凶悪な柔らかさが感覚の許容量をぶっちぎりで超え、他のことなどまるで意識の中に入ってこない。それでも何か別のことを視線を泳がせると、彼女の肩に黒い蝶が一匹と待っているのが目に入った。

「蝶が、蝶が肩に止まってますよ」

 彼女がゆっくりと首を回すと確かに自分の肩に真っ黒い蝶が止まっている。彼女がそれに開いている方の手を近づけると、小鳥のようにちょんと飛んで彼女の指に止まりなおした。

「君、これが見えてるの?」

彼女は指先に止まった蝶をそのまま少年の目の前に持ってくる。大きさはモンシロチョウくらいだが、完全に黒い。クロアゲハのような模様もなく、ペタンと黒い二つの膜が羽として背中に閉じている。

「え?…見え?」

彼女の質問の意図が分からなく、蝶と彼女を交互に見返していると。

「そう、見えるんだ」

小さく唇を持ち上げて嬉しそうに彼女は言った。それと同時に彼の手を押さえつける力が弱まる。

 自称死人から解き放たれた手は触感こそ消えたものの、温もりと呼ぶにはあまりに熱い感覚が残っている。にこっと笑うその頬は微かに赤らみ、青介は彼女のわけのわからないジョークに付き合わされたと思い込むことにした。

 彼女は囁きかけるように蝶を顔に近づけ、嬉しそうに見ている。プレゼントをもらった子供みたいな仕草で、それを少し傾け右から見たり左から眺めたりしていた。


 それから先は何か話した覚えはあるが、ぼんやりとしか覚えていない。先ほどの衝撃で脳の回線がどこかショートしてしまったのではないかと思うほど、記憶があやふやだ。

 ただ彼女が何か楽しそうに話をするのに、適当に相槌を打っている間に時間が過ぎて行った気がする。

 どうやって別れたかもよく思い出せない。コンビニで傘を買うとかいって別れたような気もする。

 気が付いたら一人で家に着いていて、そのまま疲れて着替えもせずにベッドに倒れこんでしまっていた。


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