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本庄青介と冥王の問題  作者: 三宮勉
第一話
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1

聖暦二○○六年七月



 全開の窓から外を見ると太陽はもう半ばほどまで上がっている。まだ一限も始まっていないのに、今日もお日様は元気だ。首筋を伝う汗を人差し指でなぞりながら籠原六実(かごはらむつみ)はうなだれた。

 カレンダーを見れば、誰がつけているのか知らないが赤いペンで×印が一日一日潰してある。高校生活最初の夏休みまであともうわずか。指折り数えたくなる気持ちは彼女も分からないではないが。

「休みはいいけど、こう暑くなるといろいろとダメだわ…」

 重力になんとか逆らいながら上半身を起こすが、だるさに勝てない。そのまま仰け反り、背もたれに引っかかる。

「おはよう、籠原さん」

「ああ、おはよう、本庄君」

 彼女の眼に逆さまの少年が映る。ぐるんと体を戻して、隣の席に座る彼の方を向いた。

 彼はれっきとした彼女のクラスメートなのだが、周りの連中と比べると頭一つ背が低い。小学生が紛れ込んできたようにも見えなくはない。ぱっちりとした眼。さらさらと風に揺れる黒い短髪。細い腰。なのにちょっとほっぺはふっくらしている感じもする。

「今日も暑くなりそうだね」

 そういう少年は汗一つかいていない。彼の周りだけ初春のような雰囲気が漂う。彼女がその存在しない情景に見とれていると、突然彼の若草茂る草原のような毛髪がばかでかい手に蹂躙された。

「おはよう、アオ」

 少年が振り返り、見上げると金髪を刈り上げた大男がそこに立っていた。

「おはよう、トシ」

 少年の頭が動いても、大男は気にせずわしわしと撫で繰り回し続ける。

「わはは、今日も小さいな、アオ」

「トシが大きすぎるんだよ」

 確かに少年は小さいが、彼と対比しなくても男は大きかった。周りの男子生徒たちから頭どころか肩まで飛び出ている。年度最初の身体測定で一八○センチに届いたの届いていないだの話していたが六実の耳にも届いていた。

 そんな大男が、いたいけな少年の頭をぐりぐりと無遠慮にいじり倒すのは彼女には非常に不快だった。知らず知らずのうちに苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「なんだ、籠原。朝から機嫌悪いな。ああ、せい…」

 彼が何か言いかけたところで、獣と見間違うかの跳躍を見せた彼女の、全体重を乗せての英和辞典による鉄槌がその脳天に炸裂した。

「ふぬぐぉ…」

 しばらく彼は両手で頭を押さえて小さく唸りながら震えていた。ゆっくりと面を上げた彼の眼にはうっすらと涙がにじんでいる。

「いてぇな、コラ。俺様の大事な頭が悪くなったらどうするんだ!」

「それ以上悪くなるわけないでしょ、バカ!」

 今度は彼が苦虫を潰したような顔で六実を睨む。が、すぐにため息を吐き出すとともにもとの脳天気な笑顔に戻った。

「アオの周りは乱暴な女ばっかりで、苦労するな」

「そんなことないよ。みんな優しいよ」

 少年は心からそう思っているのだろう。六実は目の前の太陽のような笑顔を浮かべる少年がとても貴重な存在に思え、ついつい頭を撫でてしまう。それと同時にどうしてこんなデリカシーのない男がこんなにも無垢な少年と友達なのかと呪い憐み、また大男を睨む。彼はその視線をスルーした。

「乱暴っていや、ヨーコのことなんだけどさ…」

「あはは、またヨーコに怒られるよ」

「あ、いや、なんかヨーコに彼氏で来たらしいんだけど、アオなんか聞いてるか?」


 授業中、六実の隣の少年は固まったままだった。あの男に変な質問を投げかけられてから、まるでそれが金縛りの呪いだったかのようにピタリと固まってしまった。教科書をめくる。プリントを回す。そういう最低限の動作はするが、それだけだ。

 少年の名は本庄青介(ほんじょうしょうすけ)という。大男は岡部寿夫(おかべとしお)。二人は小さいころからの親友で、ずっといっしょだったと大男の方が言っていた。いわゆる幼馴染という間柄だそうだ。さらに付け加えると幼馴染の枠にはもう一人ヨーコと呼ばれる女性がいて、三人でずっと一緒だった。

 小学校も中学校も、そしてこの高校でも一緒でヨーコはクラスこそ別れてしまったが、それでも三人はずっとつるんでいた。事実トシに話されるまでもなく、六実もそういう場面を日常的に見ていた。

 そして第三者的に見て、寿夫はずっと楽しくバカやっている風だったが、残りの二人には男女の関係だと六実は思っていたし、誰が見てもそう感じていたはずだ。

 それは半分当たっていたのだろう。今のこの少年の魂の抜け具合から一目瞭然である。今彼から漂う空気は晩秋の荒野に似ている。

 終業のチャイムがなると、彼は音もなく教室を出て行った。

「あれ?アオは?」

 足音を響かせながらやってきたトシは六実の隣の空の席を見て言う。

「もう帰ったわよ」

「マジか?全然気が付かなかった」

 大男はその大きな掌で目を塞ぎ、上を仰いだ。

「さっきの話、本当なの?」

「んあ?」

 指の隙間から寿夫が六実を見下ろす。中途半端に開いた口は彼女が何について言っているのか分かっていない様子だったが、すぐに思い出した様子で顔をきちんと向きなおした。

「ホントもなにも、本人が言ってたことだからなぁ…」

「なんて?」

 六実からしてみれば端から信じがたい話ではあったが、疑ることなどできないことだった。彼は少年の親友なのだ。冗談をいうことはあっても、嘘偽りを吐くことは絶対にない。聞きたいのはただどうしてそうなったかだ。

「いや、夏休みの予定を立てようと思って都合の良い日をか聞こうと思ったら」

「思ったら?」

「彼氏ができたからあんたらとは遊べないって言われた」

「言われて?」

 彼女の疑問形に返ってきたのはハの字眉毛の間抜け面だった。

「だから、どこの誰だとか、どうしてそうなったのだとかは?」

「そこまで聞いてねぇよ」

「聞きなさいよ!」

 背伸びした自分よりなお高い大男を、彼女は迫力だけで押し切った。彼は金髪をぐしゃぐしゃと掻きながら何かぶつくさと言っているが聞き取れない。彼女がもう一度睨むと彼はため息交じりに言った。

「俺だって聞けてたなら聞いてたさ。ただキレ気味に言われたんで聞きそびれたんだよ」

 六実もこれ以上寿夫を責めたところで何も出ないことぐらいは分かっていた。ただ少年の笑顔がどこかに行ってしまったことが非常に気分を害してどうしようもなかったのだ。

「あ…」

 彼の視線に釣られ、六実も窓の外を見た。

 校門に向かって一直線に歩いているはずなのにゆらゆらと幽鬼のようなその足取り。青介の大きくない身長がさらに縮こまったように見える。

「あら、重症だな」

「ちょっと一緒に帰るとかしなさいよ」

「えー、俺これから部活だし」

 彼の予想外の言葉に思わず彼女は辞書を握りしめた。二度も殴られまいと、その腕をがっちりと抑え込みながら彼は笑って言った。

「大丈夫、大丈夫。ああ見えて、アオはけっこう根性あるから」

「何が大丈夫なのよ!」

「なははは」

 寿夫はからっぽな笑い声をあげ、彼女への拘束を解いた。それと同時に自分の席からバッグをもぎ取るように担ぐと、脱兎のごとく教室を出て行った。

「ちょ…」

 待ちなさいよ。彼女がそう言う前に彼の背中は廊下に消えていた。振り向いて校門の方を見下ろせば、少年の姿ももう見えない。


 毎日通る通学路。脳味噌が動いていなくても、帰るだけなら支障はない。少年は生前の行動を繰り返すゾンビのように通いなれた道を歩く。

 少年の思考回路は親友の言葉を聞いたところでぷっつり切れたままになっていた。

 幼いころからずっといっしょで、そしてこれからも未来永劫そうだと思っていた。人生を形作る何本かの柱のうち、確実にその一本であった。それも飛び切り太い。太すぎて改めて確認するまでもないほどの。

 この先が見えない。そればかりかこれまでやって来たことにも疑問符がつく。どうしたらいいのかわからない。どうしてきたらよかったのかもわからない。問題もあやふやで、答えの方向性も分からず、彼の頭はそこでフリーズする他なかった。

 処理の出来ない問題がどんどん頭の中にたまっていくたび、死んだようだった顔に表情が戻る。もちろんそれは彼本来の明るいものではなく、寒空に捨てられた子犬のようなくたびれ鳴く気力もないといった有様だった。


 天下の往来を闊歩する二人組の女性がいる。周りの視線が二人に絡みつくのは甲高く鳴り渡る下駄の音のせいだけではない。

 一人は小柄な女性だった。ぼさぼさの髪を天頂で一つ、チョンマゲのように結った腰まで届くポニーテール。それをわさわさ揺らしながら道路の真ん中を突き進んでいる。下駄の音は彼女のものだ。真っ赤な袴に白い襦袢に白衣。しかし首からジャラジャラとゴルフボールほどある数珠を二重三重にぶら下げている様は巫女というより天狗や山伏のようだ。

 しかし注目の的たるのは彼女の珍妙な格好のせいではない。もう一人、彼女の隣について歩く女性の存在だ。

 その女性もまた首からいくつも絵馬をぶら下げているという世間的には少しずれた格好をしてはいたが、あまりそれは問題にならない。

 身長は170センチほど。濃紺のリクルートスーツに包まれていても隠し切れない大きな胸のふくらみと、しっかりと絞られた腰のくびれ。パンツルックだからこそわかる臀部からふとももにかけての無駄のないゆるやかなライン。彼女というモデルが歩くだけでただの道路がランウェイに変わってしまったかのようだった。

 竹のようにすらりと真上に伸びる身体の上には輪郭の細い顔が乗っている。薄紅色の唇。ピンとするどい鼻筋。夏の熱気に照らされ少し赤らんだ頬。すっと切れた目尻。きょろっと大きな瞳はじっと遠くを見るような眼差しをしている。

 突然舞い上がった風にふわりと黒いストレートヘアがなびく。それを無造作にその五本の指でふわっと上へかきあげた。

「今日も暑くなりそうね」

 隣の女性を見下ろす彼女の口からは、低く静かに響く声が発せられる。

 彼女の見てくれは、すれ違う女子高生達と年の頃こそ同じくらいに見える。ただ周りの子たちとはかけ離れた美しさ、気品、そして威厳が醸し出されている。

「それにしてもみんな葵さんを見ていくわね」

 ただ彼女自身はまだその風格とかオーラと呼ばれるものに気付いていない。葵と呼ばれた女性は、そんな彼女のかわいい無知さに小さく頬を緩ませた。

「それで、これからどうするの?」

「そうさな。まずは腹ごしらえといこうか。紫鳳(しお)、お前、食い物はヒトだった頃と同じでよいのか?なにか特別なものがいるなら用意させるぞ」

「ええ、基本的には変わらないわ。ただ…」

 目を細めて彼女は少しこわばった笑みを作った。そして、何か言いかけたところで曲がり角から出てきた小さな人影にぶつかった。


 ふよんとした感触に道を阻まれ、青介の歩みが止まる。見上げるとカラコロと絵馬がいくつも揺れていた。

「ごめんね、大丈夫?」

 場違いな絵馬のせいもあり謝罪を述べるその顔を見ても、目の前にある濃紺のでっぱりが女性の胸だと理解するにいたらない。そうでなくても、今の彼に余計なことを考える余裕はない。

 ぶつかったのはお互い様だが、彼の口から謝罪は一切出てこない。しかし幸か不幸か目の前の彼女には彼の気分が色として見えていた。仏頂面のまま黙り込んでいる彼に気分を害するどころか、彼女は目を光らせた。

「私、こういうのも大好物なの」

 彼女は後ろに誰かいるのであろう人物に振り返ってそう告げ、正面に向き直った時には飛び切りの笑顔になっていた。

「いただきます」

 少年の耳に彼女の背後から「おい」だの「やめろ」だの聞こえてくるが、その時には彼女の唇が彼の額についていた。


 その瞬間のことを彼はよく覚えていない。気が付いたら目の前に女神かと見まがう、素敵な女性が自分に向かって微笑んでいたくらいのことしかわからない。

 自分がどうしてここにいるのかも彼は忘れていた。見慣れたはずの通学路なのに彼にはここがどこなのかすら分からない。今彼の意識は目の前の女性でいっぱいになっていた。

「人は生きているだけで幸せなのよ。そうでしょう」

 それまで何が詰まっていたかも思い出せない胸の中。そこに彼女の笑みが、優しさが、微かに触れたその温もりが一気に流れ込んでくる。短い半生ではあるが、今まで感じてきたどんな高揚をも遥かに超えるそれが脳細胞に直接エネルギーを送り込んでくる。

 熱い、苦しい。けれどこれを吐き出すことはもっと辛い。

でも言葉にして確かめなければ、それは夢か幻みたいになかったことになってしまうかもしれない。今の彼にはどうして湧き上がってくるか分からない、その不安感が小さな身体の内側を責める。


「好きです」


ありったけの勇気を振り絞って、震える、しかししっかりした声を吐き出した。

 そしてすがるような瞳で彼女を見上げるた。


 それに対して彼女は、まさに鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をするしかなかった。ぽかんと口を開け、何か答えたほうがいいのだろうが何も言葉が思いつかない。時々のどの奥から「あ…」だの「う…」だの漏れてくるばかり。

 青介も動かないが、彼女もピタリと硬直したままだ。

 その均衡が第三者、彼女の肩に後ろから伸びてきた手に崩される。

「まったく、阿呆めが。考えなしに」

 彼女と入れ替わるように青介の前に飛び出てきた珍妙な格好の少女は彼の前に右手の平を突き出した。

「小僧は小僧らしくガキのケツでも追っかけておれ」

 突き出した手の先、青介の目の前のなにもない空間にパチパチっと青白い火花のようなものが走ったところで彼の意識がまたあいまいになる。

 気が付けば彼女も、次いで現れた少女の姿も見えなくなっていた。


 葵に無理やり手を引かれ、彼女は通りをめちゃくちゃに走らされている。小柄な葵の身体からは想像もできないスピードで人ごみの中を抜けていく。彼女も引っ張られながら人を避け避け引きずられる。ちょっとしたアトラクションのようだ。

 だが彼女はそれを楽しむような精神的状況にはない。

「ちょっと!」

「黙っとれ!」

 そんなやり取りを何度繰り返したか、道をいくつ曲ったか思い出せなくなったあたりで葵の足が止まった。気が付けば人通りも途切れ、あたりには誰もいない。

 軽くジェットコースターでもこなした後の心境で、彼女は大きく深呼吸をした。それに対して葵は汗一つかいていない。それどころか呼吸もだんだん静かに、深く。それに合わせるようにぼさぼさの前髪から覗く目が細くなっていく。

 葵がなにやら怒っていることは彼女にもわかった。理由もなんとなく察しが付く。けれど対処法も解決案も知らない彼女は、照れ笑いを浮かべながら頬を描くぐらいのことしかできない。

「えへへ」

「えへへ…じゃないわ!阿呆が!」

 自分より二回りも小さい葵の剣幕に彼女は思わず後ずさる。背格好は小学生の群れに紛れそうなくらいなのに、彼女を睨む蒼い瞳は肉食獣のように鋭い。しかし不意打ちで押されはしたものの、彼女にとってこれくらいの怒気はなんともないらしい。何とも気まずそうな笑みを浮かべていると、葵の方が先に折れた。葵は大きな大きなため息を彼女に見せつけるようにゆっくり吐き出した。

「あんまり面倒を起こしてくれるな。お前をどうしようかということだけで、こっちはてんてこまいなんじゃ。その上一般人まで巻き込まれたら、うちの連中が潰れてしまう」

「あ…」

 一般人と言われて彼女は思い出した。

「さっきの子に何をしたの?おかしなことはしてないわよね」

 眉を垂れ下げて訴える彼女に葵は生暖かい目を向ける。

「ただ少し意識を混濁させただけじゃ。前後数分の記憶はあいまいになろう。お前のことはたぶん忘れるはずじゃな」

「そう…」

「で、お前はあの小僧になにをしたんじゃ?」

「感情を食べたのよ。なんかすごく苦しそうだったから。そこをまるごと」

 そして彼女はその味を反芻するように小さく唇を舐めた。上品な顔つきの彼女には似合わない、その少し下卑た仕草に葵は鼻でため息を吐いた。そしてどこに行くのかふらりと足を動かしだす。

「まぁ、お前自身も何が起こるかようわかっとらんみたいだし、しばらくはヒトの食い物だけにしておれ。必要となればこちらで用意させるわい」

 彼女はその小さな背中にちょこちょこと付いて行く。


 翌朝、六実が教室に入るといつものように隣の席はまだ空いている。青介はまだ来ていない。彼女はほっと胸をなでおろした。少年に相対する上で、心の準備が欲しかったのだ。

 昨日、彼女は結局青介の後を追うことにした。住んでいる地区が分かっているので、通り道も察しが付いている。早足で、けれどなるべく足音と立てずに移動するとすぐに見慣れた小さな背中が見えた。

 しかしそれはいつもよりしょぼんと丸まって儚い。かける言葉も見つからず、彼女はそのまま後を付けることしかできなかった。

 そしてあの一部始終を目撃した。

 ぞっとするほど綺麗な女性が、いきなり彼にキスをした。そして彼はいきなり生気を取り戻した。ぱっと見そんな感じだった。

 少年の首の角度からたぶん唇ではなかったと思うけど、そんなことで元気になるなんて彼も所詮は男の子だったというだけの話。納得は行かないが、彼女はそう収めたかった。

 けれど六実はその時なにかずごく嫌なものが少年からその女性へ移動するのを見てしまっていた。視覚としてとらえたわけではない。ただなんとなく、あるのが分かった。彼女の語彙では雰囲気としか言い表せないものに、不確かだが気付いてしまった。

 杞憂だと流してしまうには、その女性の首から下がるいくつもの絵馬があまりに不気味だった。

 そしてとどめにその後に女性の背後から出てきた祈祷師のような恰好をした子供の存在。その子の手がなにやらチカチカと光るのを見て、彼女はその場から隠れた。

 あの二人はなにかおかしい。おまじないだとか催眠術だとかなにかそう言う類の妖しい団体の人かもしれない。

 恐る恐る元の通りに戻ると二人の女性も少年の姿もない。慌てて走るとすぐに少年は見つかった。けろっとした顔で道を行く彼の姿。むしろ上機嫌といった感じすらあった。

 そのまま声を掛けることもなく、彼が家に入るのを見送ると、六実はようやく自分の帰路に着いた。道中どころか家に着いても、湯船に浸かっているときも、寝床にもぐりこんでもなんだか悶々としたものが抜けない。

 そして今に至るまで、彼女は自分がどうしたいのかすらよく分かっていなかった。

 まずは第一声、彼に掛ける言葉を用意しておかないと。そう考えた矢先に。

「おはよう、籠原さん」

「うひぇっひゃへあぁ」

 聞きなれた高く柔らかい挨拶が耳に飛び込んできた。

「おは、おはよう、本庄君」

 飛び跳ね、不自然に体をひねり反射的に少年の方を向くも、心の準備ができていなかったせいか視線が真横に泳ぐ。

「どうしたの?」

「べ、べべ別にやましいことなんかないこともないわよ?」

 挙動のおかしい六実に青介は小首をかしげて隣の席に座った。それを横目で見て彼女も椅子にきちんと座り直す。

「あのさ、本庄君…」

「ん?なに?」

 背中を丸め下から覗きこむように彼の顔を伺うと、きょろんとまん丸い目で返された。

「昨日その、えっと帰り道に変わったことなかった?」

 少年はその眼をさらに大きく丸くした。二呼吸無言だったが、それから急に彼の顔に赤みが差してくる。リンゴみたいに熟れた後、今度は目をくしゃくしゃにして照れ笑いを浮かべた。

 それとは対照的に彼女の顔から血の気が引いていく。

 ああ、やっぱりこの子はあの二人に何かされたのだ。でなければ、想い人を失ってこんな笑顔ができるわけがない。

 六実には次の言葉も行動も続かない。そんな時、いつものように少年の頭をくしゃくしゃにする大きな手は、いらだちながらも少しホッとする部分があった。

「おはよう、アオ。今日は元気か?」

 寿夫が何も考えていなさそうな笑みを浮かべながら二人を頭上から眺めている。

「おはよう、トシ」

 そう言って青介が振り向くと、その顔を見て寿夫は首を横に傾げた。頭に置いていた手を額にずらしながら、首を反対方向に捻る。

「ん?あ、いや、元気ならいいんだ」

 彼は急にテンションを落ち着けて、自分の席に戻って行った。


 授業も終わり、寿夫がさっさと部活に行ってしまうと、青介は一人で帰ることになる。いつもと同じ道をいつもより少し軽い足取りで進む。商店街に入る曲がり角で、視界の先に背の高い首から絵馬を下げたリクルート姿の女性が見えた。彼の歩調がさらに速くなる。

 彼が走り寄るのに気が付くと、彼女はその場で少し微笑みながら待っていた。

「こんにちは」

 少年が彼女を見上げる。

「こんにちは」

 静かに落ち着いた声が返ってきた。

「君、私のこと覚えているのね」

 彼女は小さく鼻だけでため息を吐いて呟いた。

「葵さんの魔術も意外といい加減なものね…」

「?」

 小首をかしげる青介に彼女は片手をかざしながら、なんでもないわとだけ言ってもう一度彼に視線を合わせた。

「君、あれから頭が痛いとか体の不調はなかった?」

「え?あ、はい。大丈夫です」

 返答の中身を確認するように、彼女が少年の顔を覗き込むように観察する。綺麗な瞳だ。完全な黒よりも何か静けさを感じさせるその色は、藍か青が混じっているように見える。その視線が彼の顔の上を優しく這う。彼は頬に熱を感じずにはいられなかった。

 顔をくしゃくしゃにして目の前の少年が赤くなっている。

 確かにこれだけよくも知らない人間に凝視されたら、恥ずかしいだろう。少し思慮が足りなかったと彼女は小さく反省した。そしてもう一つ確認したかったことを思い出した。

「君、昨日のことはどれくらい覚えている?」

 彼女の問いに少年は顔を赤くしたまま黙って考え込んだ。彼女の問いの意味がよくわからなかったのだ。

 青介が覚えていないのは彼女が立ち去るその瞬間だけだった。ほとんど全部覚えているようなものだ。額にキスをされたことも、一目惚れしたことも、そして勇気を振り絞って告白したことも全部覚えている。それなのにどのくらいと言われ彼は口ごもった。

 彼女はその沈黙をほとんど覚えていないものだと受け取った。彼女は満足げに笑みを浮かべると少年の頭にぽんと手を置いて。

「じゃあね」

 といって擦れ違おうとする。

「あの…」

 彼女が振り返ると少年はさらに顔を赤くして、あの時と同じすがるような顔をしていた。

「……お名前を教えてください……」

 この前の繰り返しになるかと思ったが、違った。でも、この状況もあまり好ましくはないものなんだろうと、彼女は自分でも気づかぬうちに小さくため息を吐いていた。きゅっと唇を結び直すと、その静かでよく響く低い声で彼女は名乗った。

「私は冥王。死者の王。幸せになりたいのなら、私にはあまりかかわらないほうがいいわ」

 彼女の口から出た彼の生活とは無縁の言葉が少年の脳にはなかなか入らない。メイオウという響きを理解しようとしているその間に、彼女は姿を消していた。


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