第五章『覚醒』(3)
目を開けていられず、ルナティンは腕で顔を庇いながら目を閉じた。
(熱い)
灼けるような光。暖かいだけでなく、痛い。
(痛いのは……)
光のせいじゃない。
心を直接打つような痛みが、ルナティンの体を動けなくする。
(――泣いている)
見えなくてもわかった。
(あの人が――あの人の魂が)
悲しみに満ちた心が、泣きながら叫んでいる。
愛しているのに。喪いたくないのに、選びたくない方法を選ぶしかない。
(痛い)
気づかず、ルナティンも涙を落としていた。堪えられない痛みが全身を、魂を支配する。
そのまま流れ込んでくるように、体中、彼の悲しみで埋め尽くされる。
悲しみと、慈しみと、癒やしの心。
(何て優しい)
悲しいのに暖かい。望みはいつもそこにある。それが希望。それが拓ける未来への路。
――癒やしの心――。
◇◇◇
まばゆさに目が慣れ、ようやくルナティンが目を開いた時、すべてが終わろうとしていた。
カナンの剣がセレナの胸を貫いている。
剣を伝い、真っ赤な鮮血が流れ落ちてカナンの手を濡らしていた。
「バ……ツ……」
セレナの掠れた声が、唇から零れた。
セレナの目はまっすぐカナンを見て、先刻までの狂気は形を潜めていた。
ルナティンも、はっと現実に立ち戻る。
(今の――何だ)
まるで魂を奪われるように、自分の心ではないものに心を支配されていた。まだ泣いている。悲しくて悲しくて動けない。
「……ありがとう……わたしの……願い、は」
カナンは間近で、自分をみつめるセレナのことを見返していた。
「あなたの、手で……解き放ってもらうこと……」
セレナは首を巡らせ、床に座り込む男の方を見下ろした。
男は、ルナティンに傷つけられた足だけではなく、体の半面をまるで焔に焼かれたように爛れさせていた。カナンの放った光に体が耐えられなかったのだ。
「私を救うのは……あなたではなかった……『セレナ』の心が……それを、拒んだもの……」
男は何か言おうとして、耐え難い音を喉で鳴らすとどす黒い体液を吐き出した。
部屋を渦巻いていた澱みも、今はほとんど見えない。
セレナはそれ以上男に言葉はかけず、カナンに目を移した。
「わたし……あなたの望みの邪魔にはならなかった……?」
「――セレナ」
「あなたはきっと、進む人……導く人。迷わないで、どうか……わたしは、倖せに死んでいけるのだから」
セレナの体から力が抜けている。カナンも、支えていることができずに、セレナは自分を貫く剣ごと床にゆっくりと崩れ落ちていった。
「セレナ」
カナンは床に膝をつき、静かに目を閉じていくセレナの伸ばしたかけた手を取った。セレナ指先は冷たい。
「……ありがとう、バツー……どうか、あなたに、神の祝福と守護が……」
セレナの声はもうほとんど音になっていなかった。カナンはセレナの冷たい指先をきつく握り締める。
セレナが少し、笑ったように見えた。
「そしてわたしの……」
セレナの体から力が抜ける。
彼女の胸に深々と刺さった剣が、次第に輪郭を喪い、空気に溶けるように歪みだした。
そして剣は光の粒子となり、セレナの体を包み込むように降り注いでいく。
「……セレナ――おれの、名前を呼んでくれ……」
セレナの体に、光と共にカナンの涙が落ちた。頬を打つカナンの涙に、答えるセレナの声はもうない。
「バツーじゃない、おれの……本当の名を」
光に包まれ、セレナの体もゆっくり、ゆっくりと輪郭を喪っていった。大気へと溶けていく。光に導かれ、セレナの形を喪っていく。
(浄化されたんだ……)
ルナティンも、言葉もなくそれを見ていた。
たった今まで生きていた人が、浄化され溶けていくのを、ルナティンは初めて見た。
カナンが握り締めていたセレナの指先も、光に溶け大気に溶け、消えた。
部屋の中は、ただ静寂だけが支配している。
「貴……様……」
静寂を破ったのは、聞き苦しく掠れた男の声だった。
「貴様、許さんぞ……よくも、よくも私の体をこんな」
「それだけか? 言うべきことは」
カナンは床に這いつくばる男に視線を遣ると、静かに問いかけた。
「最後だ。何かあれば聞いてやる」
「はっ。慈悲をかけるというわけか」
男が嘲るように笑う。カナンは怒りも笑いもせず、ただ静かな眼差しで男のことを見ている。
「いや。最大の辱めを与える方法を考えている」
「――」
一瞬、怯えたような色が男の表情に浮かんだ。
「馬鹿な……今あれほどの浄化をして、それ以外にまだ使える力を残しているなんて」
「さあな。やってみなければわからない。……おまえだけは許さない。たとえ力を使い果たしこの身が朽ちても、おまえだけはおれの手で還す」
殺す、とはカナンは言わなかった。
妖の生き物にとって、最も屈辱を覚えるのは聖なる領域に送られ浄化されること。
人と同じ姿を作り、自ら妖霊や邪霊を操るまでに力を持った男を浄化するには、たった今セレナを送った以上に力や体力を消耗するだろう。
「駄目だ……カナン、それじゃあんたが死んじまう!」
立ち上がろうとするカナンを、ルナティンは床を這うようにして近づき、制止しようとした。
「邪魔をするな、ルナティン」
カナンの中には怒りや憤りはなかった。
ただ、悲しみだけが。
「カナン!」
ルナティンはカナンの腕を掴もうとしたが、カナンはそれを外し、立ち上がった。
(駄目だ……)
そもそも、カナンは自分の体を喪い、殺されかけたバツーの体を癒し、セレナの記憶を隠蔽し、街やこの家に結界を張り、ノイヤーや森の男の魂を浄化することで、力を使い続けている。回復しきるわけがない。
そしてたった今セレナを浄化して、残っている力なんてほんのわずかもないはずなのだ。
「おれも一緒に逝く。神の御許へ」
ルナティンは、すでにカナンが立っているだけでやっとな状態であることに気づいた。止めどなく汗が流れ落ちている。それは男も同じ状態だったが、共倒れになんてなっていいはずがない。
「カナン駄目だ、じゃあセレナの願いはどうなるんだよ!」
男の方へ進みかけたカナンは、ルナティンの悲鳴じみた声でハッと目を瞠った。
「進めって! 迷うなってセレナが言っただろう、あんたが今死んじまったらセレナは何のために」
「……」
わずかに戸惑った眼差しでカナンがルナティンを振り返ろうとした時、男が爛れた手を振り空気を薙ぐ仕種をした。
「……ッ!」
カナンとルナティンが気づいてそれを見た時には、もう男の姿はどこにもなくなっていた。
「……クソッ」
追いかけようと足を動かしかけ、カナンはそのまま床の上に倒れた。
「カナン!」
焦燥してルナティンはカナンに近づき、その様子を見下ろす。
「……何がカナンだ……!!」
差し出しかけたルナティンの手を拒み、カナンは握った拳を力一杯床へと叩きつける。
「セレナすら――たったひとりすら救えずに、おれは何を思い上がって!」
ルナティンは、何度も床に叩きつけられるカナンの手を、上からそっと押さえた。
「もういいよ、カナン。手が壊れちまう」
カナンは血が滲みそうなほど歯噛みして、両手の拳を握り締めた。
「すまない……次の王が、こんなに不甲斐ない人間で」
「いいって、仕方ないんだ」
「けど!!」
顔を上げ、カナンはルナティンの胸ぐらを掴んで必死な顔で叫んだ。
「強くなるから! 絶対、おれは強くなるから! だから……」
「……ああ」
ルナティンは、強く頷いた。
「だから、一緒に行こう。『カナン』を見つけて、シノンを助けて、元凶を叩いて、皆を救おう」
ルナティンの言葉に、カナンも頷く。
(……何もできないのは俺の方だ)
カナンは、セレナを救った。間違いなく苦しみや悲しみから彼女を解き放ってやった。
それがカナンにとっての救いにもなるといい。
そう願いながら、ルナティンはカナンの片手をずっと握り締めていた。