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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 A-PART]
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第五章『覚醒』(2)

「邪魔だ!」

 鋭い声を上げ、カナンは周囲に群がる妖霊の渦を振り払った。

 後から後から、まるで湧き出るように妖霊や邪霊が現れる。カナンの行く手を阻もうとするように。

 場を浄化する時間なんてない。どうせ術を使ってこの場の澱みを消しても、他の場所から妖霊たちがまた押し寄せてくるだけだ。

(こんなに早く結界が壊れるなんて)

 まるで夜のように暗い道を走りながら、カナンは歯噛みする。

 もう少しは保つはずだった。せめてあと三日。

 後悔に心を奪われそうになり、カナンは大きく首を振った。今は悔やんでいる時ではない。

(セレナを捜すんだ)

 だが、ひどい淀みの中でセレナの気配を辿るのは難しかった。カナンは苛立つ。焦ってはいけない、そう思うのに、焦燥感が集中の邪魔をする。

《――ごめん、カナン様》

 歩みを止め、心を落ち着けようと目を閉じたカナンは、不意に聞こえたバツーの『声』に意識を向けた。

《オレが、最初に失敗したから。だからカナン様も、セレナも、ルナティンも、ひどい思いをして……》

「……馬鹿」

 少しだけ、カナンは微笑う。

「おまえは余計なことを考えるな。おれが何とかする。心配しなくていい」

《――うん》

「セレナを助ける。それからおまえの父親だ。おまえの体を借りた礼はかならずする。それに……セレナもおまえの父親も、おれの国の人間だ」

 澱む空気の中、カナンは真っ直ぐに前を見据えた。

 視覚以外でセレナを捜す。この一ヵ月で覚えた彼女の波動。間違えようもない。

 ずっと見てきたのだ。

「行くぞ、バツー」

 うん、とバツーが答えた。

「精霊、聖霊、守護せよ、我が足許を照らし道を拓け」

 カナンは小さく詞を唱えながら、再び走り出した。カナンの聖なる力を狙って集まりだした妖霊たちが、カナンに触れることもできずに弾き飛ばされる。

「……やはりそこに戻るのか、セレナ」

 走りながら呟くカナンの声に微かな悲しみが混じるのを、自分の体の中でバツーだけが聞いていた。

 妖霊たちを拒みながらカナンが辿り着いた先は、自分たちの住む家だった。

 ――否。

 その隣、セレナの暮らす家。

「……ひどい瘴気だ」

 すでにその惨状を予測していたかのように、セレナの家の門前まで歩んだカナンの声には驚きはない。ただ、確認するように言う。

 ほんの少し前までカナンたちが家の中にいた時には、こんなふうになってはいなかった。

 家中を無数の妖霊たちが取り囲み、これまで進んできた時の倍、空気の淀みがひどい。目を凝らしても家の形すら判別し難いほどだった。

《カナン様、結界は》

 バツーの声も苦渋に満ちている。

「……ああ。ここも、跡形もないな。まるで吹き溜まりだ」

 一ヵ月に亘って張っていた結界が、今は完全に壊れてしまっている。

 先刻の男が悪しき者の手によって殺された時、完全にこの街の聖と妖のバランスが崩れた。

《カナン様……セレナを助けて》

 バツーもこの惨状で何かを悟っている。カナンに聞こえてくるその思念は、悲痛なものだった。

「当然だ」

 短く答え、カナンはセレナの家の門扉へ手をかけた。そのまま一気に玄関まで向かい、鍵が掛かっているらしい扉を迷いなく蹴りつけて開け放つ。

「セレナ! セレナ、いるんだろう!」

 家の中はひどい臭気が漂っていた。カナンは片腕で顔を覆い、息苦しいほどの空気の中で呼吸する。一度息をするごとに、体力ごと消耗していきそうだった。

 家の中は外以上に暗い。明かりがひとつも灯されていなかった。狭い廊下を歩くごと、耳障りに木の軋む音がした。家の入り口から一番近い部屋を開け放つが、誰もいなかった。おそらくセレナの部屋。寝台や小さな籠が並ぶだけの簡素な部屋だったが、花や綺麗な布が飾られている。

(おれが摘んだ花だ)

 いつか、母親の具合がまるで治らないと涙を堪えるセレナに、元気を出して欲しくてカナンが花を摘んで渡した。街の中に花の咲くような場所はほとんどなく、隣町のぎりぎりまで出かけて捜してきたのだ。

 花はすでに枯れてしまったが、セレナがそれに綺麗な布を結び、壁へ飾ってくれた。

 カナンは軽く唇を噛み、セレナの部屋を後にする。水場や窯のある部屋にもセレナの姿はなかった。

(澱みが激しすぎて、中心がわからない)

 いわばこの家自体が澱みの中にある。

 だが、一番奥の部屋に向かうにつれ、カナンの足取りは重くなりじっとりと背中に汗が浮かんだ。ここが一番、重くて暗い。

(ここだ)

 確信し、カナンはその部屋の扉に手をかける。

 その時、背後から唐突に明るい気配がして、カナンは驚いた。妖霊や邪霊とはまったく異質なものの近づく感じ。軽く眉を顰める。

「……ルナティン」

 振り返っても姿は澱みのせいで見えないが、わかった。ルナティンがこの家に入ろうとしている。

「あの、馬鹿」

 舌打ちして見遣るカナンの視線の先に、壁に縋るようにして廊下を歩いてくるルナティンの姿があった。

 

      ◇◇◇

      

「カナン……」

 息を切らしながら廊下を歩き、ルナティンはカナンの姿を見つけるとその場に崩れ落ちた。

「何をやっている。あそこから動くなと言っただろう」

 少し離れた場所から、カナンがルナティンを見下ろした。ルナティンは再び立ち上がろうと壁に手をつき、強く首を横に振る。

「俺だけ安全なところになんて、どうして」

「……まあいい、来てしまったものは仕方がない。こうなれば、おれの側の方が安全だ」

 カナンはルナティンの側に近づき、その腕を取って立たせた。それはさほど強くはない力だったのに、ルナティンは真っ直ぐに立つことができて、詰まりそうだった呼吸が数段楽になるのを感じる。

 カナンの周りは空気が澄んでいる。

「おれが守ってやる。側を離れるな」

 そう言い置いて、カナンは再び部屋の扉へと近づいた。ルナティンも後に続く。

「何を見ても取り乱すな。心の隙を突かれれば人は脆い。いいな」

「――わかった」

 扉に手をかけてそう告げるカナンに、ルナティンは頷いた。

 その返答を受け取り、カナンが扉を開け放つ。

「……ッ!」

 扉を開けた刹那、中から激しい瘴気が吹きつけて来た。ルナティンは一歩後ろへとよろめき、カナンは足を踏みしめ、ルナティンを庇うように一歩前へ出る。

「やはりおまえか」

 カナンがそう呟いた。

 部屋の中央には悠然と微笑む男の姿があった。逆巻く風に髪や暗い色のマントを靡かせ、悠然と、冷たい笑みを浮かべながら立っている。

 男の傍らには、一台の寝台。

 床に崩れるように座り、寝台の上へ伏せているのはセレナ。

 そして、寝台には誰かが眠っていた。

(誰だ?)

 強い風に吹きつけられ、ルナティンは痛みを覚えて目を細める。瞳が灼けるようだ。目を凝らしてみると、寝台の上にいるのが人だというのはルナティンにもわかる。おそらく女性。

(セレナの――母さん?)

 たしかひとつき前から臥せっているのだと彼女から聞いた。だったらあれは、セレナの母親だ。

「御名でもお聞きしようか。術者殿」

 男はカナンやルナティンを、見下す目でそう言って笑った。

 ルナティンは無意識のうちに心臓の辺りを押さえる。男を見ているだけで、全身に悪寒が沸き起こった。何て圧倒的な存在感。先刻、バツーの家を飛び出したカナンを追って、ルナティンも外へ出た。その時に覚えたたとえようもない『嫌な気配』は、今、この男から発されている。

「貴様などに名乗る名前を持ち合わせていると思うのか、このおれが」

 男を睨み据えてカナンが答えると、クッと、男が喉を鳴らして可笑しげに笑う。

「ではそちらの、光を抑える術すら知らない愚鈍な生き物の名を問おうか」

 男がカナンから目を移し、自分を見て言ったのはルナティンにもわかったが、答えることができなかった。

 頭では怯むなと全身を叱咤するのに、男に見られ、全身が恐怖で強張っている。

 こんな存在は初めて見た。ルナティンの心臓がうるさいほどに早鐘を打つ。今すぐにでもこの場から逃げたい。これは異質だ。異質なものだ。今まで妖霊にも、邪霊にも襲われたがそんなものの比ではない。

 男の存在だけで、自分の存在すら蝕まれてしいまうのではと、ルナティンはそんな怯えに支配される。

「答える必要はない」

 今度答えたのも、カナンだった。

 カナンはわずかさえも怯えなどは見せず、毅然と男のことを見据えていた。瘴気に嬲られ、明るい色の髪が靡いている。

「では私の名を教えようか」

「必要はない。おれはおまえの存在を拒む。闇に生きる者は闇へと還るがいい」

 カナンがスッと右腕を上げた。目線の高さまで。指先が男の方を向いている。

「それで聖霊を喚べるのか。街中を覆うほどの結界を張り、この家に結界を張り、闇に囚われた魂ふたつを浄化して、おまえの力はまだすべて回復はしていないだろうに」

「おまえひとりを消し去るくらい、おれのすべての力を持たずともできる」

 カナンの周囲から、澱みが薄れていくのをルナティンは感じる。同時に自分の周囲からも。カナンが簡易な結界を張っているのがわかった。

(……俺、カナンといると何か冴えるみたいだ)

 そうルナティンは気づいた。カナンが聖なる力を使うところを見てから、はっきりわかるほど感覚が鋭くなっている。

「私ひとり?」

 男が、カナンを見たまま愉しげに言った。

「ではこの娘はどうする? 退けることも消し去ることもなく、このままこの場所に置いておく気か?」

 男の言葉に、ルナティンは眉を顰めた。娘――セレナのことだ。

(どうしてセレナを退けたり、浄化する必要がある)

「いいや。セレナをこの街にはいさせない。もっと住みよい美しい街に移す」

 男が、声を上げて笑った。

「これはいい。この娘を姫君のように扱うのか」

「この街はセレナには似合わない。こんな、祭司の姿もないような街に」

「セレナには祭司などおらぬ街の方が住みやすかろうよ」

「……だから殺したのか。結界を張った人間を」

 セレナはじっと、寝台に俯せている。身じろぎもしないその後ろ姿を、ルナティンは固唾を呑んで見遣った。そしてカナン、男へと視線を移す。

(何の話をしてるんだ、カナン)

「そうだ。セレナに必要なのはセイマー神の加護などではない。セレナの力を目覚めさせるに邪魔なものは、排除するまでだ」

「ノイヤーを殺したのもおまえだな」

「セレナがこの街を出るための算段など、下らぬことをおまえが持ちかけるから、あの男は死ぬことになったんだ」

 今はラキウスで身を潜めているものの、ノイヤーは国中のあちこちに人脈を持っている。だからカナンはそれに頼った。セレナには戸籍がないのだ。ノイヤーならば、セレナに新しい名を与え、住処を与え、新しい場所で暮らす術を与えることができる。

「おまえが殺さなければ、セレナはこの街から解放されたんだ。もうノイヤーはセレナのために新しい暮らしを用意していてくれたのに!」

「……嘘よ」

 寝台に伏せていたセレナが、カナンの声に反応するようにゆっくりと上体を起こした。カナンには背を向けたまま。

「ノイヤーさんは、お母さんのこともわたしのことも、けだもののような目で見ていた。そう扱っていた」

「違う」

 セレナの言葉を打ち切り、強い口調でカナンが否定する。

「いいえ。違わないわ。わたし、聞いたもの。ノイヤーさんが、お母さんを好きに扱うことで仕事を譲ってくれていたこと。……他の人たちにも、同じようなことをさせていたこと」

「違う。この街へ最初に来た時、暴漢たちに襲われたユマを助けたのはノイヤーだった。それからもユマの側に近づく男たちを、常に遠ざけてきたのはノイヤーだったんだ」

 セレナをこの街から離れさせ、新しい暮らしをさせるようノイヤーに頼んだ時、彼自身がカナンにそう言った。

「……そんなこと。口でなら何とでも言えるわ」

「ノイヤーは嘘をつくような男じゃない。実直で、ただ不器用だった。バーンズの騎士だった頃、罪人を捕らえる時に誤って殺してしまったことを悔いて、自らこの街に落ちた。でもこの街ですら、狼藉を働く輩は見過ごせなかったし、君たち母娘のことも見捨ててはおけなかったんだ」

「……」

 セレナはただ、黙って俯き、首を横に振っている。

「ノイヤーはユマを愛していた。そしてセレナ、いつも君を心配していた」

「やめて……もうわからないの……わたしは何を信じればいいの」

 か細く、セレナが呟いた。

「君は君に見えるものを信じればいい。ノイヤーは君に優しくはなかったか? 暖かく見守っていてくれはしなかったか?」

 セレナはまだ拒むように首を振っている。

 男が、セレナの方へ近づく。跪き、その肩を優しく抱いた。

「セレナ。もう何も考えなくていい。私と共に来なさい。住む場所も優しい眠りもすべ私が与えてあげるから」

「やめろ!」

 カナンが伸ばした片手にもう一方を当て、触れた場所に光を集める。

 光の輪が澱みを切り裂くように男へ向けて走ったが、男はふわりとマントを動かすだけで、その光を避けた。

 カナンは男を激しい眼差しで睨み据える。

「セレナの心を惑わせるな。おまえの側にあるのは闇ばかりだ、そんなところに彼女を連れて行かせられるものか」

「下らぬことを言う」

 カナンを見て、男は唇の両端を持ち上げる。壮絶な、そして美しい笑み。

 なぜ存在はこんなにまがまがしいのに、男はこんなにも美しいのだろう。動くこともできずカナンの背後で立ち竦みながら、ルナティンは魅入られる心地で男の姿を見た。

「ならばセレナに光が似合うと言うのか? 本気で、そんなことを考えているのか」

 セレナがゆっくりと顔を上げて、傍らの男のことを見上げた。

 男はセレナを見返さず、カナンを見て微笑んでいる。

「おまえもわかっていたのだろう? この娘が、邪なる血族の力を受け継ぎしことを」

「……」

 カナンは答えず、ただ男のことを見据えたまま。

「だからこそ、完全な魔属にのみ反応する結界をこの家に施した。決してセレナが閉じこめられることのない、そして私を拒む結界を」

「――え?」

 ルナティンは呆然と呟き、セレナのことを見た。

 セレナは、見開いた目で、ゆっくりとカナンのことを振り返っていた。

「知って、たの……?」

 カナンはセレナにも答えない。男からセレナへと視線を移し、静かな眼差しでみつめている。

「バツーは、わたしを、知っていたの……?」

 譫言のように呆然と呟き、そしてセレナは震える両手で自分の顔を覆った。

「いや――いやあぁぁッ!!」

 そして、絶叫する。その場へ蹲ろうとするセレナを男が抱き寄せ、セレナは自分の姿をカナンに見られまいとするように男の方へ縋った。

「いや! いや、見ないで! わたしを見ないで、いや!!」

「セレナ!!」

 セレナに駆け寄ろうとしたカナンを、無数の妖霊たちが阻む。素早く詞を唱えて払おうとするが、追いつかない。すぐそこにいるセレナの側へも近寄れない。

「お願いだからわたしに教えないで!! 何も知りたくなかったの、わかりたくなかった!!」

「セレナ、違う、そうじゃない! 人の存在なんてその本人が決めればいい、君が怖れることも怯えることも、何ひとつだってありはしないんだ!」

 カナンの言葉からも逃れるように、セレナは自分の耳を塞いでいた。部屋を渦巻く風に阻まれ、カナンの声はセレナに上手く届かない。

 カナンは絶望するセレナから、愉しげにそれを見下ろす男へと鋭く視線を移した。

「なぜセレナに教えた!なぜ思い出させるんだ!セレナは何も知らなければ、ただの、普通の人間として倖せに生きていけるのに!!」

「戯れ言を。本来持ち得る力にも気づかず、愚鈍な人間共の中で生きていくのが我らにとっての倖せなどと思うのか」

「セレナはおまえとは違う!」

 セレナは男の体に顔を伏せ、怯えきった姿でがくがくと身を震わせている。

「セレナ――君は君の心を思い出せ。この男の言うことなんて考えなくていい、君はただ優しい心を持つ人じゃないか。君が誰であろうと、何であろうと、今まで暮らしてきたセレナがいなくなるわけじゃない、これからだって」

「……だめよ……」

 力なく、セレナの声がカナンやルナティンたちに届いた。

「だめよ、わたし……お母さんを殺してしまった」

 ルナティンは愕然と、寝台の上に視線を走らせる。

 あれは、ユマ。

 すでに朽ちかけた死体となった、セレナの母親。

(そんな……じゃあセレナは、死んだ母親の世話をずっとしてたってのか?)

 あんなに、母親のことを心配しているようだったのに。ルナティンは信じられずユマを見る。

「……あ……」

 そして、気づいた。

 この部屋の、この家の瘴気は寝台を中心にして沸き起こっている。

「わたしが殺したの、お母さんを! 病で衰えていく体に耐えられなくて、このまま喪ってしまうのではと思ったら怖くて、何もせず朽ちていくだけの体をただ見ているだけなら……」

 セレナはわずかに身を起こし、ふと、その口許に笑みを浮かべた。何の笑いなのか、見ていたルナティンにはわからなかった。

「わたしが殺して、自分の力にすればいいと」

「教えたのはその男だ!!」

 カナンが声を張り上げる。セレナの笑みを打ち砕こうとするかのように。

「おれがこの街に来た時、その男に聖なる力を持つ男が殺された後だった! 町中に妖霊や邪霊が跋扈しだして」

 だからセレナの妖の領域にある力が、萌芽した。ずっと隠されていた力だ。

 いくらラキウスが罪人たちの集まる街だからといって、このサンファールの国中で聖域のない街など存在し得るはずがない。それをカナンはよく知っている。なぜなら、そうでなければ人は住んでいけないからだ。

 たとえ国の作った教会にいる、国が選んだ祭司がいなくても、聖なる力を持つ人間が結界を張っていたはずなのだ。

 カナンが、祭司という名を与えられていなくても、この街とこの家に結界を張ったように。

「この男の狙いは君を無理矢理妖の気配に浸すことだったんだ。普通に暮らしていれば、そんなこと起きっこないのに」

「……でもわたしは、自分の力に気づいてしまった」

 セレナはまだ、笑っている。だがその双眸からは大きく涙が落ちていた。

「そう、声が聞こえたのよ。『ユマを殺してしまえ』『そうすればセレナは力を得て、闇の生き物になれる』。……それが聞こえた時、わたしは納得したの。それがわたしには必要なことなんだって」

 涙を落としたまま、セレナはカナンを見る。

「どうして全部忘れていられたのかしらね。わたしはお母さんを殺そうとした。それを、初めて見るとても美しい人に止められた。あれは……誰だったのかしら」

 セレナの口調は、まるで夢を見ているかのようなものだった。

「強い力を持っているのがわかった。剣を持っていたわ。その剣で、あの人はわたしを斬ろうとして、それをバツーが止めた。止めようとして、代わりに斬られて……死んでしまったはずなのに」

(……『剣士』が殺そうとしたのはセレナだったんだ)

 ルナティンは、ようやく附に落ちた。

 セレナを庇って、バツーが斬られた。だが死にきらないうちに、白魔法士のこのカナンが、バツーの体に入って治療した。だから死なずにすんだ。

「あの人は、どこに行ったのかしら……」

「……おれが自分の体を出てこのバツーの体に入った時、その衝撃で魔導使いもおれの体の外へ弾き飛ばされた。剣士は元の体の中に残ったが、やはり衝撃でしばらく我を喪い、そのまま街を出た」

「……」

 カナンの説明を、セレナはまるで理解できないようだった。カナンも元より、意味を伝えようとしているわけじゃない。

「おれは君を止めることができず、バツーの体を癒すことで力を使い、君の記憶を閉じこめることで力を使い、結界を張ることで力を使い……君を本当に救うために動くことができなくなっていた」

 力と体力が回復するまで、カナンはバツーの体の中でじっと待っているしかなかった。

 いつセレナが記憶を取り戻すか、ユマがすでに死んでいることに気づくか。自分の回復とどちらが早いか、毎日最悪の事態を避けるよう祈りながら。

 だが、最悪の事態はもう起こってしまった。

「……記憶に目隠しなんて、しなくてもよかったのに。わたしはわたしの醜い心を、自分で知らなくてはならなかったのだから。お母さんを殺し、さっき森でまたひとり殺した」

「セレナ、違う、それは君の本当の心なんかじゃ」

「わたし……本当はずっと、心のどこかでおかあさんを憎んでいたのかもしれない……いいえ、憎んでいたの」

 すっと、セレナが寝台の上へ目を移す。静かに伸ばした指先が、ベッドの上に眠るユマの体に伸びると、その体は簡単に崩れ去った。まるで火に焼かれた炭のように、細かな欠片をまき散らしながら。

(セレナの母さんの病は)

 ルナティンは、遣り切れない思いで崩れ去るユマの体を見た。

(長い間、セレナによって少しずつ生気を奪われ続けたから)

 それだけが原因ではないかもしれない。

 だが、もし些細な病でも、妖の生き物が側にいれば、治癒する妨げになっただろう。

 そしてユマはセレナに殺され、森の中の男のように自らも妖の領域へと足を踏み入れ、妖霊や邪霊を呼び寄せていた。

 それを、カナンの結界が、外に出ないよう守っていた。

 カナンは今も、この部屋の中で自分とルナティンの周りに結界を張り巡らせ、瘴気の渦から身を庇っている。

「思い出すんだ、本当に君はユマを憎んでいたか? 心の底から?その男の存在なしに、ただ君の心だけで考えろ!」

「戻れないの、もう……わたしは、この人に出会ってしまったから」

 男の体に両手を触れ、セレナはカナンを見て微笑んだ。

「ひとめ見た時から心を奪われてしまった。どうしようもないくらいに惹かれるの。この人のそばにいたい。この人と共にありたい。この人に――愛されたい」

「セレナ!!」

 悲痛なカナンの声を聞きながら、男はセレナに笑いかける。優しい、禍々しい笑みで。

「そうだ、だから私とおいで、セレナ。私ならいくらでもおまえを愛してあげよう。可愛い、私の娘」

 男の指先がセレナの頬を撫でる。セレナは陶酔したように男の顔を間近でみつめていた。

「人間の女など、おまえを作る依代に選んだのが間違いだった。おまえが産まれればすぐに殺してやろうとしたのに、おまえと共に小賢しく私から逃げ回るなど許し難い」

 だからユマは逃げていたのだ。あらゆる街を、男から逃げ、セレナと共にラキウスまで落ち延びて。

「我らが理想郷を創り出すために、愚かな人間などすべて殺し尽くしてしまうのだ。その血は、怒りは、嘆きは、我らの力となる」

 男が立ち上がり、座ったままのセレナに手を差し伸べる。セレナがその指先をみつめた。

「ふざけるな!!」

 カナンは再び両手を体の前に持ち上げ、腕の間に光を集めようとしている。

「おまえたちの好きになど誰がさせるものか! この街もこの国もおれが守る、セレナを奪わせはしない!」

 セレナの右手がゆっくりと持ち上がった。男の手をみつめたまま。

「セレナ! セレナ行っては駄目だ! 諦めては駄目だ、救いなら君自身が望まなければ何も動かせはしないんだ!!」

 セレナの悲しげな眼差しが、わずかの間だけカナンを捉える。

 それから、セレナは男の手を取った。

「セレナ!!」

「……もうわたしには何も望めない。わたしはもう、自分を愛せない」

「心なら俺があげるから……」

 強く首を振り、カナンはセレナ以上に悲しい瞳で彼女の姿を見ていた。

 悲しむのは、彼女を喪う自分の痛みのためじゃない。

 セレナの悲しみが辛くて。

「戻るんだセレナ。世界は誰のためだけでもない、君自身のものなんだ。だからセレナは君自身(セレナ)を捨ててはいけない」

「ごめんなさい、バツー」

 男の手に掴まりながら、セレナがゆっくりと立ち上がる。

「わたしは、あなたのことが好きだった」

「……!」

 カナンが言葉を失くし、男に抱き寄せられるように体を支えられるセレナのことを見る。

「ずっと弟みたいだと思ってたわ。でもいつの間にか……お母さんが死んでから、あなたはわたしに前よりもずっと優しくしてくれた。見違えるように強くなった。誰よりも眩しい光を集めているようで……」

「……」

「あなたが変わっていったのは、すべてを知っていたからなのね。本当にあなたは優しい。優しすぎて……わたしには辛い」

「セレナ」

「自分がいかに醜い存在なのか、もう嫌というほど理解できてしまうの。あなたに憐れまれる自分は惨めだわ」

「そうじゃない……そうじゃない、セレナ」

 もどかしく首を振り、カナンは集めた光で自分とセレナの間の空気を切り裂いた。妖霊たちが弾かれ、悲鳴を上げて消失する。

「愛しているんだ」

 それでもすぐに別の妖霊たちが澱みを連れて部屋を埋め、黙り込むセレナの表情はカナンには見えなくなった。

 耳障りな風の轟音の中、男の高らかな笑い声が響く。

「さあ、セレナ。そんな戯れ言を聞く必要はない」

 ギリッと歯を噛み締め、カナンは澱みの渦の向こうに浮かぶ男を見据えた。男もカナンを見ている。

「しかし、その力は魅力だな。体ごと喰らえば、より大きな力となってくれるだろう」

「……貴様……」

「この先どんな障害になるか知れない。あの方の妨げとなる者は、今のうちに消し去っておくのがよかろう――セレナ」

 優しく、男の声がセレナに呼びかけた。

「あの子供をその手で殺してあげるといい。憎いだろう? 自分には持ち得ない力を持ち高処に居て、ひとり穢れなき顔でおまえを見下ろす人間が。恋しい分――憎まずにはいられないだろう?」

「耳を貸すなセレナ!」

「だから殺してしまえばいい。そうすれば今度は私がおまえを愛してやろう。憎しみも何もかも力に変えて、きっとおまえは完全な魔の存在に成れる」

「完全な……」

 無言でいたセレナが、ぽつりと、独り言のように呟いた。それを聞き止め、男が大きく頷く。

「そう。おまえはずっと、淋しくはなかったか? 聖の領域にも妖の領域にも行けず、唯人にすらなれぬ自分が。だからいっそ捨ててしまうんだ。中途半端な優しさも願いも祈りもすべて!」

 セレナがゆっくりと男からカナンに顔を向けた。

「……そう……じゃあわたしは、楽になることができるのね……」

 会心の笑みを浮かべ、男が左手を高く頭上へと掲げる。澱みが男の手に集まり、それは一本の剣の形を成し始めた。

「だから言ったはずだ。私はおまえを解放する者」

 長剣を象った黒く鈍く光るものを、男がセレナに手渡した。セレナは両手でそれを受け取り、柄を握り締めながら、ゆっくりとカナンの方へ足を踏み出す。

「カナ――」

 咄嗟にカナンを庇おうと、強張る足を踏み出そうとしたルナティンを、カナンが片腕で制した。

 そのままセレナを見て、呼びかける。

「セレナ」

 セレナは澱みに阻まれることなくカナンの方へ近づいていた。妖霊が彼女を邪魔することはない。彼女もまた、妖の生き物なのだから。

「……心なら、おれがすべて君にあげるのに」

 セレナは何も言わずにカナンの間近まで辿り着いた。

 しばらく、ふたり無言でみつめあう。カナンは逃げることもなく、止めることもなく、ただセレナを見たまま。セレナもカナンを見たまま。

 先に口を開いたのは、セレナだった。

「さよなら、バツー」

 ルナティンはきつく歯噛みして、カナンを押し退けるようにふたりの間に割って入った。

「やめろセレナ!!」

「邪魔をするな、小僧!」

 男が片腕を払うと、暗い澱みが大きな塊になってルナティンの体に叩きつけられた。そのまま、ルナティンの体が塊ごと部屋の壁に吹き飛ぶ。

「! ルナティン!!」

 カナンが制止する間もなく、壁に叩きつけられたルナティンの体はずるずると床に倒れ込む。大きく咳き込んだルナティンの口から鮮血が散った。

「さあ、どうする?」

 愉悦の浮かぶ表情で男が問いかけながら、再び軽く手を振る。ルナティンの体が自分の意志とは関わりなく持ち上がり、再び床へと叩きつけられた。

「やめろ!」

 ルナティンの方へ駆け寄ろうとしたカナンを、セレナの長剣が阻んだ。

 喉元に切っ先を向けられ、カナンは動きを止める。

 男が笑ってカナンを見ている。

「どうする、と訊いている。おまえが抗えば、この小僧の命もなくなるだろう」

 ルナティンは激痛を訴える体を叱咤して、床に腕をついて無理にカナンの方を見上げた。

「カナン、いいから――俺はいいから!」

 カナンは逡巡し、ルナティンからセレナに目を移す。セレナは剣の切っ先をカナンに向けたまま、だが動こうとはしていない。彼女も迷っている。

「カナン! あんたはあんたの信じる道を行け!!」

 叫ぶルナティンに、男が再び暗い塊を作り出してそれを放った

 気づいたルナティンが、強くその塊を睨み据えて右手を向ける。

「何……!?」

 驚愕する男の声が聞こえた。ルナティンに触れる前に暗い塊は四散し、代わりにルナティンの体を鈍く光る白光が包み出している。

 男は舌打ちすると、光から体を庇うようにマントを持った手を動かし、セレナの方を見た。

「何をためらうセレナ! おまえは自分の居場所がほしくはないのか!?」

「……わたしの、居場所」

「そうだ! おまえはこの先私の側で生きるがいい、永遠に!!」

「……」

 セレナの唇が、はっきりと笑いの形を作った。邪悪な形。今までの彼女が見せたことのない笑みと、暗く光る瞳の色。とうとう闇に心を任せ、セレナは狂気への一歩を踏み出す。

「カナン!!」

 ルナティンの叫び。

 カナンは一度きつく目を閉じた。

 ――もうセレナを救う方法は、たったひとつしかありえない。

「……っ!」

 カナンはセレナから長剣を奪い取り、渾身の力で空気を払った。

「馬鹿な」

 目前で起こったことが信じられず、男が呻きに似た声を洩らす。男が作り出したはずの邪悪な剣は、カナンが握り、一振りしただけでまばゆい光を放ち始めている。

「我が右手に宿るは聖なる力、神の光。私の触れるものに妖の宿るものはない」

 カナンが詞を紡ぐたび、その手に握られた剣が研ぎ澄まされた光を放つ。

「セレナ」

「……」

 セレナはカナンの呼びかけには応えず、次には自ら両手を頭上に掲げ、先刻の男を真似るように剣の形に邪な気を集め出している。

 浮かんだ剣の柄を再び握り締め、セレナはカナンに向かって信じがたく軽い動きで足を踏み出した。

「光即ち主神、聖の剣にその力顕現せしめ、邪悪を討ち滅ぼす佑けとなれ!」

 高く詞を唱えながら、カナンはセレナの繰り出した剣を剣で受け止めた。

 セレナは剣ごと後ろへ弾かれるが、すぐに体勢を立て直して再びカナンへと向かってくる。

 呼吸すら忘れそうにその様子を見ていたルナティンは、男がセレナに手を貸そうと動き出すのに気づいた。

「やめろ!」

 ルナティンは、咄嗟に懐からカナンが森でくれた小瓶を取り出し、男に投げつけた。男の足許に当たった小瓶は破裂するように光をまき散らし、男が苦痛の呻きを上げてその場に膝をつく。

「おのれ小僧……ッ」

 男の力を借りず、セレナは両手で握った剣を、体ごとカナンに叩き込もうと床を蹴る。

 カナンは何かを振り切るように大きく頭を振り、剣を握り直した。

「――我が守護、我が神に問う!! 邪悪を滅すのは誰の力か!! 誰の望みか!!」

 叫ぶようなカナンの声が響き、同時に聞く者の耳を打つ甲高い音が轟いた。セレナの剣にカナンの剣がぶつかり、ドッと激しい光が閃いた。

(おれの望みは正しいのか――)

 セレナの剣を弾き、カナンは剣を持つ右手を高く振り上げる。

(答えはなくとも)

 進むしかない。

『あんたはあんたの信じる道を』

 カナンが叫び、振り上げた剣を鋭く下ろす。

 光が、すべてを包み込んだ。

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