第五章『覚醒』(1)
重い頭で目が覚めた。
窓の外からは、相変わらず暗い太陽の光が射し込んでいる。朝が来たらしい。
「……」
ずきずきと痛む頭を押さえ、セレナは寝台の上に体を起こす。
吐き気がする。
昨日――あの男たちは、ジンに殴りかかる直前、彼に何も手出ししないうちにいきなり床へ倒れ込み、ヒクヒクと体を痙攣させた。言葉にならない声で呻き、床をのたうち回る男たちを後目に、セレナはジンと共に酒場を出た。
『大丈夫かい?』
ジンはセレナの目を覗き込み、優しくそう訊ねた。
恐怖からまだ覚めやらぬセレナは、彼に抱き寄せられるまま、泣きじゃくった。
『ひどい思いをしたようだね。だが、もう平気だ』
『……どうして……っ!』
怒りや、悲しみに突き動かされて声を上げたセレナを、男はよりいっそう強く抱き締めた。
『そう、どうしておまえは、あんなところに行ったんだ?』
訊ねられ、そして、セレナは全身に冷たい水をかけられた心地になった。
(どうして……?)
呼ばれたからだ。ノイヤーに。
(でもノイヤーさんはいなかった)
ならば、誰が自分を呼んだのか。
『……バツー……、に』
ノイヤーからだと、伝言を伝えたのはバツーだった。
そう思い出した瞬間、セレナの中で何かの箍が外れ、そしてそのまま意識を失った。
もう一度目を覚ました時、セレナはまだジンの腕の中にいた。もうすでに真夜中で、セレナは深く眠り込んでいたらしい。
別れ際、ジンはセレナに何か言葉をかけた。セレナはそれに頷きを返したが、何を言われたのかは覚えていない。ジンと別れ、まだおぼろな意識のままどうにか家に戻り、そして眠った。
「わたし、何をしたらいいの……」
寝台に座りながら、セレナはぼんやりと呟いた。
この先どうすればいいのか。
心が麻痺してしまったように、何も考えられない。
「そう……仕事……、仕事をしなくちゃ……」
よろめきながら、セレナは寝台から床へ降り立つ。
「お金をもらわなくちゃ、暮らしてけないもの……」
自分は何のために暮らしているのだろう。
何のために生きているのだろう。
――誰のために。
セレナの胸の中を通り抜けるものは、痛みでも寂しさでもなく、ただ、虚無だった。
笑うこともできないのに、泣くこともできない。
自分の中には何もない。
もう何も。
それなのに、セレナは服を着替え、身支度して、家の外に出た。心は何も動かないのに、体だけは働こうとしている。ノイヤーの家に向かって歩き出した。
(今日は……おかあさんの様子を見ていないわ……)
歩きながらそれに気づいたが、セレナは足取りを止めなかった。
どうせ、ユマは目を開けてくれないから。
道を進む途中、がさがさと激しい物音がして、セレナは無意識にそちらの方へ首を巡らせた。道に沿って並ぶ植木を、乱暴に掻き分けて現れたのは、男の姿。
「……!」
もう何も感じないと思っていた心なのに、セレナはその姿を見た瞬間、凍った表情で息を呑んだ。
「……セレナ……ッ」
低くしゃがれた声で名前を呼ぶのは、昨日、酒場でセレナを組み敷いた男のひとり。顔を歪め、片手で右目を覆っている。
その顔と指の間には、どす黒い血液がこびりついていた。
「昨日の野郎はどこに行った……!」
歪めた口許で男が言う。
「あいつ……あの野郎のせいで、俺の、俺の目が……!!」
ジンが酒場に現れた時、男たちの体が一斉に床やテーブルに叩きつけられた。その時に怪我をしたらしい。
「見ろよセレナ、オレの目が!!」
叫んで男が目を覆っていた掌を外し、セレナへ見せつけるように血で汚れた顔をさらす。
セレナは短く悲鳴を上げた。
男の右目が、瞼ごと抉れ、ただの孔になっている。
「どうしてくれるんだよぅ……ええ? オレの目をよォ!?」
男がセレナに掴みかかる。セレナはその腕を振り払い、身を翻して駆け出した。男が追ってくる。
無我夢中で走るうち、セレナはどんどんと町の端の方まで進んでいた。人の作った道を外れ、放置されたままに生い茂る草を掻き分け、深い森の方へ入り込む。
「待てよ!! この……」
男が叫び、セレナに追い縋る。セレナは後ろを振り返ることもできず、その声と足音から逃れようと、さらに森の中へ走った。
だが、セレナの体力の方が、男よりも尽きるのが早かった。
「どうしてくれるんだよ、オレの目をヨォ、ああァ!?」
男がセレナの結った髪を掴み、そのまま草叢に引きずり倒した。下衣のベルトに挟んだ錐を、右手で握ってセレナに突きつける。
「あの男はどこ行った」
「わ……わたし、知りません……」
震えて掠れる声で、セレナは男に答えた。男が怒号する。
「嘘つきやがれ!! サァ、あの男を喚べ!! 昨日だってテメェが喚んだら来ただろうがァ!!」
セレナは必死に首を振る。この男は狂っている。狂人の瞳だ。
「じゃあいいよォ……テメェでなあ」
薄く、男が嫌な笑みを口許に浮かべる。
「テメェもオレと同じにしてやる……」
セレナの瞳に、鈍く煌めく刃物が映った。
もう一度、あの時のようにジンの名前を呼びたかったのに、声が出なかった。
セレナのいっぱいに開いた瞳、その視界の中、錐の刃先が一気に迫った。
◇◇◇
目が覚めた時、ルナティンはいつもの物置部屋のソファに横たわっていた。
「!」
気づいて、勢いよく身を起こす。
――朝だ。
「俺は……」
掠れた声で呟きながら、ルナティンは掌で自分の額を覆った。決して暑いわけではなかったのに、薄く汗が浮かんでいる。
(ゆうべのは――夢、か?)
一瞬縋るような希望を求めてそんなことを思ったが、ルナティンはすぐに自分でそれを打ち消した。
記憶は鮮明だ。あれが夢であるはずがない。
夜中家を抜け出し、誰かの家へ入っていったカナン。
彼が向かった先、部屋の中で、死んでいた男。
「……」
ルナティンはソファから起きあがり、部屋を出た。
台所には人影がなく、ルナティンはすぐにバツーの部屋を目指した。閉ざされた扉を、しばらく逡巡した後、拳で叩く。
「カナン。起きてるか?」
扉の向こうで小さく唸るような声と衣擦れの音が聞こえ、すぐに入り口が開いた。
「あ……ルナティン、おはよう……」
あくび混じりの声がする。
「バツーか」
今ここにいるのはバツーだ。ルナティンは小さく呟くと、目を擦っているバツーを見下ろした。
「バツー、カナンを呼べないか?」
「え……」
起き抜けでまだ寝ぼけているのか、バツーの呟きは頼りない。ぐらぐら体を揺らしながら、再び寝台へ戻っている。
「ゴメン、オレ、眠くって……」
大きくあくびをして、バツーがどっさり自分の寝台へ腰掛けた。
「えと、何……」
「カナンだ。カナンと話がしたい」
「んん……」
もぞもぞと、バツーはまた掌で目を擦っている。本当に眠たいらしい。
(ゆうべ、こいつもずっと起きてたのか)
それとも『体』が起きていたから、それを休ませるために眠りを求めているのか。
ルナティンは部屋へ大股に踏み込むと、バツーの両腕を強く掴んだ。
「バツー、頼む、あいつと話をさせてくれ」
「――何だ、朝から騒々しい」
パッと切り替わるようにバツーの表情が変わる。あまり抑揚を感じさせない声音で話したのは、カナン。
「……カナン」
腕を握ったまま、ルナティンは身を屈めて相手の顔を覗き込んだ。
「説明してくれ。ゆうべのこと。一体、あんたは何をしたんだ」
「だから、『あんた』などと軽々しく呼ぶな」
不愉快そうにカナンが言う。ルナティンはもどかしげに首を振った。
「そんなこと議論したいんじゃない。教えてくれ、あんたは何をするつもりなんだ?」
カナンの眼差しが、わずかの間だけルナティンを捉える。
だがすぐに、視線は逸らされた。
「おまえに話すことではない」
「カナン!」
思わず声を荒らげてから、ルナティンは、冷静になろうと大きく息をつく。
もう一度、相手に呼びかけ。
「カナン……いや、あんたに訊きたい。あんたは、誰なんだ?」
答えは返らない。
「頼む、教えてくれ。何が起こっているのか」
乱暴に体を揺さぶると、かすかに眉根が寄る。
「なぜあんたはバツーを殺そうとしたんだ? なぜあんたは、バツーも、この町を出ようとしないんだ。このサンファールやパラスを、シノンを救うために、あんたたちは動き出さなきゃならないはずなんじゃないのか? それに、ゆうべの死体は――」
言う声が、どうしてもうまく続けられない。
答えを教えてほしかった。
「お願いだ、答えてくれ。あんたは誰なんだ?」
カナンは答えない。
「俺は……」
絞り出すルナティンの声は、何かに縋るようでもあった。
「俺は、一体何を信じればいいんだ?」
「……」
無言でいたカナンが、ゆっくりと視線をルナティンに戻す。
「おまえは」
そして、口を開いた。
「おれを信じればいい」
はっきりと、カナンはルナティンを見据えている。
「おれを信じろ。おまえの使命はそれだけだ」
「……」
ルナティンはのろのろと、相手の腕を掴んでいた指先をおろした。
迷いのないカナンの瞳。
父王と戦う決意を見せた時も、同じ目をしていた。
ルナティンが、何か言おうと口を開きかけた時、
「!!」
唐突に、カナンがビクリとその全身を大きく震わせた。
「結界が――!」
声は、絶望的な呻きに聞こえた。
「カナン?」
一瞬にしてカナンの顔色が変わる。ルナティンが問いかける暇もなく、跳ねるようにその場から立ち上がった。
「カナン!」
驚くルナティンの横をすり抜け、カナンが走り出す。ルナティンも咄嗟にあとを追って、部屋を飛び出した。
カナンは持てる限りの力で道を走る。まだ完全に傷の癒えないルナティンとの間が開いていった。目指すのは、この町の端、森のある方向。
全力で走るカナンの足取りをとどめたのは、道の前方へ現れた男の影だった。
ふっと、前触れもなくそこに出現した男の姿。冷たく整った顔。
うっすらと微笑み、男はカナンを見ていた。
「慌ただしいご様子」
穏やかな低い声で呟く男を、立ち止まったカナンは少しの距離を置いて見上げた。
「お見受けしたところ高位の術者殿のようだが、聖職に就こうという方が、落ち着きのないことだ」
「……」
肩で息をしながら、カナンは男を睨み据える。
「――穢れの臭いがする」
呟くカナンに、男の笑みが深くなった。
「おまえからは、穢れた血の臭いがする」
「そう……私は昏く深き淵より、おまえたちに絶望を告げに来た者」
さらに鋭く、カナンは男を見遣った。
「おれは絶望などしない」
「どうかな? すでに心は千々に乱れているだろう」
カナンは空を薙ぎ払うように右腕を振ると、指先を拡げてその掌へ意識を向けた。
大仰に感心した様子で、男が眉を上げる。
「おやおや、あんな結界を張るほかにも、まだそんな力が残っているか」
「我、主を知りつ、主の審判義なればなり――」
男の言葉を無視して声を上げたカナンを、冷笑が見下ろす。
「呑気に詠唱などしている暇があるのか? 今頃おまえの作り上げた聖域は、我の手と同じく穢れし血で浸されているだろうに」
「!」
「あの娘のところへ、早く行ってやらなくてもいいのかい?」
ぎりっと、カナンはきつく歯軋りをした。
男が、笑う。
そのまま風に紛れるように、現れた時と同じく、ふっとその姿が消えた。
「カナン!」
ようやく追いついたルナティンが、呼びかけながらカナンの方へ近づいてきた。
「何なんだ? 今、ものすごく嫌な気配が――それに、急に空気が澱んだみたいに」
「……セレナ!!」
カナンは叫ぶなり、再びその場から駆け出した。
「カナン!?」
「おまえは来るな、ルナティン!!」
一瞬だけ振り向いて、カナンが言う。ルナティンは走り続けて乱れた呼吸で肩を揺らし、痛む胸を押さえて、額を流れ落ちる汗を拭った。
「来るなって言われて、引っ込むわけにもいかないだろうが……!」
すでに小さくなったカナンの背中を目指し、ルナティンは再び走り出す。
走りながら、ルナティンは次第に体が重苦しくなるのを感じた。
(これは――)
こんな感じには覚えがある。
(パラスの時と同じだ)
ひどい澱み。陽は昇っているはずなのに、辺りは薄暗い。昨日までは、いや、ついほんの少し前までは、こんな澱んだ空気など感じなかった。体を嫌な臭いが撫でていく。触手がのびてくる感覚。
(妖霊がいる)
しかも、カナンの進む方から、その感じがどんどん強くなっていく。
カナンが、目の前に見えた森へためらいなく入り込む。ルナティンもそれに続き、深く草の生い茂る中へ足を踏み入れた。
「う……っ」
ほうぼうからのびている枝を腕で払い、草を踏み分け進むルナティンは、強い衝撃を感じて顔を歪めた。
あたりに瘴気が満ちているのがわかる。空気はさらにひどく濁り、少し前も見えないほど。
「――カナン! どこだ!!」
叫んだ時、森のもっと奥の方に明るい光のイメージをルナティンは感じた。その光だけを指針にして、よろめきながらさらに進む。
(何てぇ空気だよ)
パラスの時と違い、今のルナティンにはアミュレットのひとつもない。おまけに傷を受けた身だ。激しい不快感に意識が吹き飛びそうになった頃、ようやくカナンの姿を捉えた。
カナンは瘴気を避けるように口許を腕で覆い、渦巻く黒い風に小柄な体がよろめくのを耐えていた。
彼の目前に、澱みの中心がある。
それに惹かれるように妖霊たちが集まっているのだ。
「これは……」
愕然と、ルナティンは呟く。
初めて見るものなのに、ルナティンはその澱みの正体をはっきりと理解した。
『……ナ……ンデ、オレガ……』
歪んだ声が、森の中に暗く響く。
『ドウナッチャッテンダヨゥ……ッ』
泣き喚くような叫び。強い怒りと嘆き。絶望と憎しみ。
「死に人の魂か……」
ルナティンはあまりに激しいその怨みの波動を、怯みそうな心でみつめる。
ここで誰かが死んだのだ。
すでに血と死肉は闇に溶け、空に昇ることもできない魂が悲しく漂っている。
「カナン!」
カナンは怨みと憎しみに囚われた暗い思念の澱みへ、近づこうとしていた。
(無茶だ)
「カナン、やめろ!!」
この澱みに喰われれば、きっと生きている人間も渦の中へ取り込まれてしまう。
「下がっていろ」
澱みの中心を見据えながら、カナンが言う。ここを浄化するつもりなのだ。ルナティンは考えるより先に、カナンを引き戻すため彼に近づこうとした。
「馬鹿、ルナティン……!」
気配に気づいたカナンが、振り向いて声を上げる。
その声と重なるように、樹々がざわめく音をルナティンは聞いた。枝々が軋み、激しい葉擦れを起こす。驚愕するルナティンの視線の先で、次々と樹の枝が弾けるように折れていった。
「!?」
瞬間、ルナティンは頭に走った鋭い痛みに呻き声を上げた。よろめき、数歩後退さる。
「痛……ッ」
顔を歪め、頭を両手で抱えようとした時、ルナティンは空を薙ぎ音を立て、折れた枝の鋭い切り口が一気に自分の方へ向かってくるのに気づいた。
「――!!」
だが、体が竦んで動けない。
「精霊、守護を!」
ルナティンの体に突き刺さることはずだった枝々は、凛とした響きを持つ声に阻まれたように、その目前で動きを止めた。粉々に砕け、地に降り注ぐ。カナンが守ってくれたのだ。
「カナン……」
「いいから退いていろ、この気ではおまえの感覚に負荷がかかりすぎる!」
ルナティンを突き飛ばすように澱みの中心から遠ざけ、カナンが懐に手を入れ、小瓶を取り出した。ルナティンの周囲、そしてルナティン自身に中味の液体を素早くかけた。
「我に順ろい、我に言向く精霊、彼の者へ光の垣根幾重に巡らせ、その護りとなれ」
唱え、カナンは空になった小瓶に軽く接吻けてから、それをルナティンに放り投げた。
「握っていろ」
ルナティンは自分を取り巻く空気が唐突に柔らかくなったのを感じていた。カナンがルナティンの周りだけ、守護の結界を張ったのだ。
カナンはすぐにルナティンに背を向け、再び澱みの中心へと向き合った。
「私はおまえの嘆きを聞く者だ! すべての苦しみや悲しみを癒やすためにここへ来た!」
強く、カナンが呼びかける。
『ナ……コ、キハァ……』
聞こえる声は、すでに言葉になっていない。
澱みが、ゆらゆらと揺れながら男の顔を象り、カナンはわずかに目を細めた。見覚えのある顔だ。ノイヤーのところで、何度か見かけた。
『イ……イイイイイィイィイイ……』
鼓膜を鋭く打つような音が、空気を震わせる。カナンはきつく右の拳を握った。
「――駄目か」
すでにカナンの言葉は届かない。一度映し出された男の顔は、あっと言う間に散開し、残るのはただ澱みだけだった。
男の怨みが強すぎる。
「これでは人として送れない……」
呟いたカナンに、突然、澱みが鋭い刃となって襲いかかった。
「聖楯!!」
カナンが鋭く叫んで右の掌を突きだし、その瞬間、ルナティンは彼の前に厚い光の幕が現れたのを見た。バチンと雷電が弾けるように、光の幕が暗い色の刃を跳ね返す。
(すごい)
瞬きもできずにその様子を見ていたルナティンは驚嘆した。カナンは一瞬の間、ひとつの詞だけで、護りの楯を造り出したのだ。
「神の御詞真なれば、神の御業は遍く真なり!」
渦巻く瘴気を突き破るように、カナンの声が森に響く。
「我は主神セイマーの声聞く者、我が声は神の声、この天、この地に宿りしすべての精霊、聖霊、我の詞を聞きて我に言向け!」
カナンの体に、ぼうっとした光が宿り始める。
光はカナンに集約するように、あらゆる場所から引き寄せられていた。
澱みに向かってのばしたカナンの両腕へ、光はさらに集められていく。まばゆさに、ルナティンは目を開けていられなくなるほどだった。
「我は知る、光の御許、闇の宿る処無し。昏き闇に囚われし魂を汝らの光を持ちて解き放て!」
カナンが詞を紡ぐほどに、森に響く悲痛な絶叫が高くなる。ルナティンは意識を保つだけで精一杯だった。
(ただの死に人じゃないんだ)
聖職者によって魂が浄化される場面を、ルナティンはまだ見たことがない。妖霊や邪霊をシノンが浄化したのは目の当たりにしたが、その時とはまったく様子が違う。あの時もシノンが詞を唱えていたが、精霊を喚ぶこともなくことが終わった。唯人を神の御許へ送ることはもっと容易だろう。
(……妖霊か、邪霊に殺されたのか)
そうでなくては、この森中を巻き込むような妖気は説明できない。
「主を頌えよ! 汝らすべての大地、唄え! 賛美せよ! 弦をかき鳴らせ!!」
カナンが高らかに詞を唱える。両腕に集まる光はなお強く輝きを増し、一瞬、耐え難い悲鳴が力をなくして途切れかけた。
「……苦しみから解放してやる。神の御許へ往くがいい」
とうとうルナティンは目を閉じた。最後に見えたのは、カナンの全身から弾かれるように放たれた光が、澱みの中心を取り囲むように包んだところ。
後は静寂。
「……」
両腕で顔を覆っていたルナティンは、恐る恐る、その腕を外して目を見開いた。
円を描くように灼けた土の中心に、カナンが立っていた。
「カナン……」
ルナティンは立ち上がり、カナンのそばまで近づいた。
「今のは、浄化されたのか?」
「人間としての魂を持ったまま送ることはできなかった。来世では人になれないだろう」
「……」
ほとんどの場合、魂は転生し、生まれ変わっても人間は人間になると言われている。
先刻の男は、闇に飲まれた魂が人に戻ることなくこの世から抹消されたということだろう。ルナティンはそう納得する。
「悪しき存在のまま地上にいるより、倖せだっただろ」
ルナティンには、カナンがひどく傷ついているような気がして、そう呟いた。
カナンが眉を寄せてルナティンを振り返る。
「貴様に言われるまでもない」
どうやらルナティンに慰められたことが癇に障ったようだ。はいはい、とルナティンは苦笑する。
「……にしても、さっきの、妖霊に殺されただけなのか?」
それから不審に思っていたことを口にする。妖霊や邪霊に人が殺される事件は、滅多に有り得ないことでもないのだ。彼らは人間の心の隙をつき、守護の隙をついて聖なる力や人間の魂を喰らう。
そんな事件が起こるたびに先刻のような状況になっては、いくら優秀な聖職者が各地に点在していたとしても、無傷で浄化できるとは到底考えられない。
(カナンだから、こんな短時間で対処できたんだ)
カナンの本当の正体はやはりルナティンにはわからなかったが、彼の力がとんでもなくずば抜けていることくらいはわかる。シノンも相当なものだと思ったが、それとは較べるべくもない。
「さっきの、嫌な感じの気配が原因なのか?」
ルナティンは、家を飛び出したカナンを追う途中に感じた気配を思い出した。
あれは、とてつもなくまがまがしいもの。
「あの妖霊が、さっきの男を殺したのか」
「……違うな」
考えて込んでいた風情のカナンに、自分の問いは届かなかったのだろうとルナティンは思っていたが、しばらくの沈黙のうちふと声が聞こえた。
「あれは妖霊や邪霊なんてレベルのものじゃない。自分の体を手に入れている」
「え?」
「もっと高等な生き物だ。――悪しき存在の中の上下で言えばな」
「高等な……妖霊よりも、さらに力の強いもの?」
眉を寄せて問い返すルナティンに、カナンが頷く。
「すべての命の源は精霊だ。精霊が生み出した自然に人間ができた。だが、妖霊や邪霊だけは聖の気を帯びずに発生した。その妖霊たちが生み出したものは、人間と同じ形をしている」
「……じゃあ、それはひいては、神にもなれるもの」
「冒涜だ」
思わずルナティンが呟くと、カナンが忌々しげに舌打ちした。それからすぐに踵を返し、森の入口、来た道へと引き返し始める。
「カナン?」
「セレナを捜す」
「セレナを?」
「説明してる時間がない。おまえはこのままここにいろ、さっき張った結界があるから動かなければ安全だ。……ほかは全部壊れてしまった」
「カナン、待ってくれよ」
ルナティンが呼びかけるがカナンは答えず、走り出してしまった。
(なぜ、セレナを)
追おうとしたのに、ルナティンは踏み出しかけた足が萎え、その場に膝をついてしまう。
「ぐ……ッ」
喉から苦いものが込み上げ、何度か嘔吐する。強い瘴気に当たりすぎたらしい。思った以上に体はダメージを受けている。
(情けない……!)
パラスでシノンと会った時と、自分は何も変わっていない。そう思うとルナティンは口惜しかった。
あの時も何もできなかった。何もできず、ただ妖霊に体や魂を蝕まれるままになるところを、シノンが助けてくれた。
今だって、ただカナンに救ってもらい、彼を追うことすらできない。
一体何が起こっているのか、わからないままに座り込んだまま身動きも取れない。
「……畜生」
力が欲しかった。せめて知りたい。この国やパラスで何が起こっているのか。カナンは何を思い何をしようとしているのか。
シノンをあの国へ置いてきてしまった自分が、カナンの張ってくれた結界の中で、ただ安全にいていいはずがない。
(動け動け動け動け!!)
ルナティンは自分の脚を両手の拳で力一杯叩きつけ、己を叱咤して立ち上がる。まだよろめくが、歩けないほどじゃない。ルナティンはカナンの去っていった方向へ動き出した。
(セレナの居場所)
それを捜そうとして、ルナティンはやめた。街のことには詳しくないし、セレナが行きそうな場所だって知らない。歩き回れば無駄に時間と体力を消費するだけだ。
(カナンを捜せばいいんだ)
この数日で、馴染んだ彼の波動。
ルナティンは近くの樹の幹へ背中を預けると、ゆっくり目を閉じた。静かな呼吸を繰り返す。
(思い出せ)
さっき彼は、白の魔法を使った。光。輝く光。強い意志。澱んだ空気の中で彼を取り巻く聖なるものたち。聖霊たちがカナンを照らしていたのではない。
彼自身の輝きだ。
ルナティンは呼吸を整え、一歩を踏み出した。はっきりとわかるわけではない。なのに体が引き寄せられるように動く。光のある方へ。
(どうしてわかるんだろう)
それが不思議だったが、その存在を疑いはしなかった。自分が向かう先に、必ずカナンはいる。
(光だ)
導かれるように、ルナティンはよろめきながら走り出した。