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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 A-PART]
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第四章『疑念』

 数日すると、ルナティンの胸の痛みもだいぶ治まってきた。

 何度かバツーが癒やしの魔法を使ってくれたので、ルナティンがバーンズに来てから一週間も経った頃には、自分で自由に動き回っても、さほど痛みを感じないようになっていた。バツーに包帯を換えてもらう時に見た傷痕も、ほぼ塞がりかけている。

 それまで食事も寝台で摂っていたルナティンだが、一週間目の朝、体の調子がよかったので部屋から抜け出し、バツーが食事の支度をしている台所へと足を向けた。

「あれ、ルナティンおはよう」

 朝から元気に動き回っているバツーが、ルナティンの姿をみつけて挨拶した。相変わらず、家事一切を取り仕切る――というよりも取り仕切らされている――のは『バツー』のようだ。

「もう起きて平気? すぐごはんできるよ」

「ああ、悪いな、何も手伝わなくて」

 ルナティンがそう声をかけると、バツーは鍋の蓋を手にしたまま、感動の眼差しを作った。

「うー、そんな優しい台詞、久しぶりに聞いたなあ……カナン様は面倒なこと全部オレに押しつけて、なーんにも手伝おうとしないし――痛っ!!」

 バツーが、手にした鍋の蓋で自分の頭を殴り、悲鳴を上げた。反対の手で、頭をさすっている。

「痛いなあもぉっ」

 おそらくカナンの仕業だろう。そう察して、ルナティンは呆れた。本当に手の早い王子様だ。

「ずるいよなあ、痛覚も人に押しつけてるんだもん」

 ぶつくさ文句を言いながらも、バツーはこまめに台所を動き回っている。普段からやり慣れているような感じだった。

「バツー、そういやおまえ、母さんは?」

 食卓にある椅子へ腰掛けながら、ルナティンは思い至って訊ねてみる。シノンとの会話でも、彼の妻、つまりバツーの母親のことに触れられた覚えがない。

「んーと、すっごい昔に死んじゃったんだって」

 竈へ薪をくべて火加減を調節しつつ、バツーが背中で答える。

「オレは全然覚えてないんだけど。でもシノンがいてくれたからいいんだ」

「そうか」

 父ひとり子ひとりの生活だったから、バツーはこうやって器用に家事をこなしているのだろう。

 バツーが支度を整え、ルナティンは彼と朝食を摂った。カナンは特に用事がないのか、表に出ようとしなかった。日常のほとんどにカナンは関わっていないらしい。バツーの話だと、バツーが考えていることはカナンに筒抜けなようだが、逆にカナンの思考は大抵閉ざされているので、向こうから『話しかけて』こないかぎりは、意志の疎通がないらしい。バツーの思考にあれこれ口出しすることも滅多にないようだ。それはそれで気楽だけど、とバツーは言う。

「初めはそりゃ、自分の中に別の人がいると思ったら気持ち悪かったけど、慣れたらどってことないよ。でも、いきなり力ずくで体の所有権奪われるのにはまいるかなあ」

 どうやら、バツーよりもカナンの力(精神力、のようなものだろうかとルナティンは考える)の方が強いらしく、体の取り合いになれば勝つのはカナンだ。

「まあ、タダで王家直伝の白魔法を教われるのはラッキーだよね。本当ならオレ、今頃神学校に入って、シノンみたいな聖神官になるために勉強してるはずなんだから」

「ああ、そうか……」

 十二の歳なら、そろそろ神学校で白魔法を本格的に学べる頃合いだ。バツーの身に降りかかったことは、まさしく不運としか言いようがない。

「オレがもっと強い癒やしの術が使えたら、ルナティンの傷だってあっと言う間に治してあげられるのになあ」

 申し訳なさそうに呟くバツーに、ルナティンは苦笑して首を振る。

「それでも助かってるよ、魔法があるのとないのじゃ大違いだ」

 一歩間違ったら、宮廷騎士を相手に、ルナティンの命などなくなっていたのかもしれないのだ。

(……でも)

 ふと、ルナティンは以前から感じていた疑問を再び意識に乗せる。

(『カナン』が術を使ったら、一発で完治したんじゃないのか?)

 相手は王家の白魔法士だ。それもかなりの力の持ち主という。

 しかしルナティンに癒やしの術を施してくれたのは、すべてにおいてバツーだった。

「ルナティン? どうかした?」

 黙り込んだルナティンを、バツーが怪訝げに見遣る。いや、と首を振って、ルナティンは立ち上がった。

「ごちそうさま、うまかったよ」

「部屋戻るの?」

「いや、少しその辺散歩してくるよ。寝たきりだったから、結構足腰弱ってるみたいだし」

「……そう」

 少し戸惑ったように、バツーが相槌を打つ。

「何?」

 様子を怪訝に思ってルナティンが訊ねると、バツーがすぐに笑顔を作った。

「ううん、気をつけてね。まだ本調子じゃないんだから、あんまり遠くまで行かない方がいいよ」

 バツーに頷きを返し、ルナティンは台所を出た。狭い家だから、すぐに玄関まで辿り着く。

 外に出てみると、空は相変わらずの曇天だった。ルナティンはラキウスに来て以来、まともに陽の光を拝んだ覚えがない。

 それでも久しぶりに全身で浴びる外気は、それまで部屋に閉じこもっていたからか、ずいぶんと心地よかった。

「――あら」

 澄んだ声を聞き止め、ルナティンは垣根越しに隣家を見遣った。庭で洗濯物を干していた少女が、ルナティンのことを見ていた。

「もう……具合はいいの?」

 少しためらいがちに問いかけてくる少女に、ルナティンは首を傾げた。

「ええと……」

「わたし、セレナです。あの、覚えていないかしら」

 ぬけるような白い肌、緩く波打つ金茶の髪。静かな空気をまとう少女の姿に、ルナティンはおぼろげながら覚えがある。

「ルナティンさん、でしょう? あの、十日くらい前に……」

「ああ、もしかして、俺がラキウスに着いた時バツーと一緒にいた」

 あの時は朦朧としていたのでルナティンの記憶も曖昧だが、たしかバツーのそばに少女がいた。彼女がそうだろう。セレナ、という隣人の名はルナティンもバツーから聞いていたが、実際ちゃんと意識がある時に彼女と話すのは初めてだ。

「あの時は見苦しい姿を見せて、ごめんな。大丈夫だった?」

 垣根のところまで歩んで、ルナティンは隣家の庭にいるセレナを覗き込む。可愛い女の子とお近づきになれるチャンスを見過ごすほど、ルナティンは晩稲でも人生枯れてもいない。

 セレナも垣根を挟み、ルナティンのすぐそばまで歩み寄ってきた。

「ええ、わたしは。それよりもルナティンさんはもう大丈夫? すごく、大変そうだったから……」

 その時のルナティンの姿を思い出したのか、セレナの顔色は少し悪い。元から色白だからか、病を得たかのように血の気が感じられなかった。

「平気へーき、結構頑丈なんだ、俺」

 ルナティンが冗談めかして両腕でまったくない力瘤を作る真似をして笑うと、つられたようにセレナも微笑んだ。

(綺麗な子だなぁ)

 彼女をしみじみ眺め、ルナティンは感嘆した。ラキウスなんてひなびた土地に住んでいる割に垢じみたところもなく、逆に都会擦れしてないから清涼な印象がある。都会育ちのルナティンには新鮮な感じだ。きっと優しい子なんだろうな、と思う。ルナティンのことを、本当に心配してくれている様子だった。

「名前は呼び捨てにしてよ。俺も君のことセレナって呼んでいい?」

「ええ」

「じゃ、セレナ。君、ひとりで住んでるの?」

 ルナティンが訊ねると、セレナが少し寂しそうに首を横に振った。

「母とふたり。でも今は、病気で伏せっているから」

「悪いの?」

「……わからない。ずっと目を覚まさないの。ひとつきも前から、眠ったままで」

「眠ったまま?」

 ええ、とセレナが頷く。

「どこが悪いのかもわからないの。この町には、お医者様も祭司様もいらっしゃらないし、他の町からお医者様を呼ぶほどのお金はないし……」

 セレナの表情が暗くかげる。頼りないほど華奢に見えてしまう体や、青白い顔色は、もしかしたら看病疲れのせいだろうか、とルナティンは我知らず眉をひそめた。

(祭司がいない、か)

 パラスの町には、祭司がいたのに妖霊がはびこっていた。このラキウスでは、祭司がいないのに妖霊の気配は感じられない。

 町に祭司がいないのは異常なことだ。どんな小さな町にもかならず教会が据えられ、神殿から祭司が派遣される決まりがある。

 しかしこのラキウスは、首都からも忘れ去られてしまったかのような町。おそらく、何年か、あるいは十何年か遡れば、祭司がいた時もあったのだろう。だがその祭司は何らかの事情で行方を眩ませたか、あるいは命を絶ち、その報せは神殿に入ることもなく、記録の上ではまだ仕事をこなしていることになっているに違いない。ルナティンはそう考えた。

 町の人々がまっとうな暮らしをしているのならば、祭司がいなくなってしまったことを正式に神殿や王宮に告げることもできる。それをしないのは、多分ここの住民たちが、大っぴらに自分の立場を明かして意見を言えない立場だからだ。

 だからバツーやカナンも、ここを逃げ場所に選んだのだろう。

(このセレナも?)

 一切の罪や穢れと縁遠そうな、物静かな少女。彼女も、何かから逃げているのか?

「祭司があてにならないのなら、バツーに看てもらえば?」

 セレナを励ますつもりで言ったルナティンの言葉に、セレナは驚くほどびくりと体を震わせた。

「バツー……に?」

「ああ。あいつ、少しだけ癒やしの魔法が使えるんだ。俺も、バツーに助けてもらったし」

「……」

 セレナが無言で目を伏せた。

「あ、もしかして、とっくにやってもらった?」

 それで効果がなかったのなら、セレナを傷つけてしまったかと、ルナティンは少し慌てた。

「……ルナティン」

 重い口調で、セレナがルナティンに呼びかける。

「バツーは、白魔法を使えるの?」

「え? ああ、そうだよ?」

 セレナのかすかに震える声を聞いて、ルナティンは内心戸惑った。彼女は、どこか怯えているふうにも見える。

「どうして? どうしてバツーは白魔法なんて使えるの?」

「どうしてって……聖なる力の持ち主だからだろ?」

 どう返事をするべきか迷いつつも、ルナティンは彼女に答えた。

「でも……だって、バツーはまだ小さな子供だわ。たとえ聖なる力を持っていても、修行を積んで、洗礼を受けなければ癒やしの術なんて使えるはずがないんじゃないの?」

「そりゃあ……」

 再び、ルナティンは返答に詰まる。

 癒やしの術というのは、割に高度な魔法なのだ。たしかにセレナの言うとおり、ある程度修行を積み、最低でも祭司レベルにならなければ使えるものではない。

(けど、『カナン』が教えてるわけだしなあ)

 王家直伝の魔法、とバツーは言っていた。『カナン』に指導を受けられるなら、そんじょそこいらの神学校で学ぶよりもいくらか有意義だろう。バツーはそもそも聖神官であるシノンの血を引いているのだから、素養だってかなりいいものを持っているはずだ。

 しかしそのあたりは、セレナに説明できるものでもない。バツーはおそらく自分のおかれた状況、処刑されたはずの父を持ち、自分も王都から追放されたなどという事実は周囲に隠しているだろうし、ましてや体の中に次期国王たるカナン王子が入っているなんて公言しては、正気を疑われる。

「もしバツーが洗礼を受けた白魔法士だとしたら、神殿からの仕事も受けずに、こんな辺境の町で一体何をしているの?」

 セレナの疑問ももっともだ。通常、強い聖なる力の持ち主は、神学校を始めとする神殿に属した施設で修行を積み、洗礼を受けて術を使うに足る力の持ち主と認められれば、必ず国の組織に組み込まれる。定められた場所に派遣され、定められた仕事を請け負い、国から糧を受けるのが普通だ。

「白魔法を使うには王宮の許可がいるのでしょう? 王宮の許可のない人は洗礼が受けられないから、術を使うことができないって聞いたわ」

「いや、洗礼が受けられないから術が使えないってわけじゃないだろうけど」

 詳しくわからないので、ルナティンの言葉は曖昧に濁される。

 洗礼と術を使うことの関係は、シノンに聞いたとおりだろう。ただ、ルナティンも、それを聞くまではセレナと同じように思っていた。洗礼を受けていなければ術が使えない。それがあたりまえのことだと信じ込んでいた。

(そうやって、学校で習った気がするんだけど)

 ただしルナティンが通っていたのは普通の一般教養を教える学校だったし、ルナティン自身がさほどまじめな生徒でなかったため、正確なところはわからない。それでも頼りない勉強の記憶から、白魔法士を名乗ったり、魔法を使って糧を得るには王宮の許可がいるということを思い出した。

(洗礼を受けてない人間でも白魔法を使えるなら、どうしてそんなこと学校で教えるんだ?)

 疑問に思って口を噤むルナティンを、やはり何かを怖れているかのようなセレナの眼差しが捉える。

「ルナティン、大丈夫?」

「え?」

「わたし……怖いの。バツーがバツーでない気がする。前はもっと、ずっと普通の男の子だったわ。屈託なくて、優しい、ただの小さな子供だった。でも……今は違うような気がして仕方がないの」

 必死に訴えかけるように、セレナが言った。

「いや、セレナ、それは」

 セレナの誤解を解こうとルナティンは咄嗟に口を開くが、やはりどう説明していいのかわからない。カナンの正体を隠したまま、彼女を納得させるような説明が自分にできるとは思えなかった。

(タチの悪い冗談みたいなもんだよ)

 この自分だって、まだ半分信じていないほどなのだ。頭で理解していても、感情の部分ではなかなかそうはいかない。

 セレナは怯えた顔をして、両手を胸元で握りしめている。

「気づくとバツーがわたしを見ているの。気のせいかと思ったんだけど、でも、この一週間、いいえ、ずっと前から、監視してるみたいな……」

「――監視?」

 あまり穏やかならざる単語に、ルナティンは表情を曇らせた。

「いつもバツーと目が合うの。今までのバツーとは違う表情で。わたしの知っているバツーは……白魔法なんて、使えなかったわ」

「……」

 そう、セレナの言うとおりだ。

 今までのバツーとは違う。中味は『カナン』だ。バツーが癒やしの術を使えるようになったのも、きっとカナンの教えがあってこそ。

 それを知らないセレナが怯えるのはもっともだろう。しかし事情を知っているルナティンは納得できる。

 ――できる、はずなのに。

(ちょっと……待てよ?)

 それに気づいた瞬間、ルナティンはぞくりと全身を鳥肌立てた。

 どうして今まで考えようともしなかったのだろう。

『剣士は城から出て逃げ込んだ先、この家のバツーを叩っ斬って、黒魔導士は魔導でその体におれを押し込めて、器のないまま行方を眩ませ』

 カナンはたしかに、そう言った。あれほどとんでもない説明もなかったから、ルナティンは鮮明に覚えている。

(じゃあ)

 我知らず顔を強張らせ、ルナティンは自分の背後、バツーの住む家を振り返った。

(どうして剣士はバツーを殺したんだ?)

 とんでもない説明過ぎて、迂闊に聞き流してしまった。

 剣士は、カナンの主張どおりなら、間違いなくそれもカナン自身だ。

(それに……どうしてすぐに剣士や黒魔導士を捜しにいこうとしないんだ?)

 バツーがここを離れたがらないから、というのがカナンの説明だった。

 しかし、体の主導権を握っているのはカナンなのだとバツーは言った。つまり、バツーの意向がどうあれ、カナンはそれを無視して自分の目的を遂行することだって不可能ではないはずなのだ。

 乱舞する疑問符が、さらにルナティンの不信を呼んだ。

(そもそも、本当にあれはカナンなのか?)

 どうしてああまであっさりと信じ込んでしまったのか、ルナティンは自分にすら疑問を抱いた。

 思い出してみれば、実際にカナンが自分のことを『カナン』だと言葉にして名乗った記憶が、ない。

 もしそれが、名乗らなかったのではなく、名乗れなかったのだとしたら?

(図書蔵別館の本だって、どんなルートで一般人の手に渡らないともわからない)

 もしよほどの魔力を持つ者なら、図書蔵の警備や結界をかいくぐって蔵書を持ち出せる可能性が、まるっきりゼロというわけではないのだ。たとえば――パラスに気配のない魔導で結界を張れるクラスの者なら……?

(そう、それから、俺のこの傷だ)

 先刻バツーと話していた時も思った。もしバツーの中にいるのが本当にカナンだったら、この傷は一瞬で完治させられていてもおかしくはない。

 なのに、カナンはルナティンの治療に関して、一切手出しをしていない。

 もしそれが、手出ししていないのではなく、できないのだとしたら?

 一度殺されたバツーが助かったのだって、本当に反魂の法を使っていたからかもしれない。

(だとしたら、バツーの中にいるのは黒魔導使いだ)

 妖の領域にある魔術を扱う人間。それでルナティンが思い出すのは、もちろん、パラスに結界を張った者のことだ。

 カナンの説明を頭から信じられなくなってきた今、疑い出せばきりがない。

(俺は何を信じればいいんだ?)

 ルナティンは次第に混乱してきた。

 バツーが嘘を言っているようには思えない。バツーが白魔法を使ったことに関しては、間違いなく事実だと言うことを、ルナティンは身をもって確かめている。

 だが、バツーもカナンに欺かれている危険性はあるのだ。

「ルナティン」

 険しい眼差しになり考え込んでいるルナティンに、セレナが思い詰めたような声を出す。

「気をつけてね。何が起きているのかわたしにはわからないけれど、でも怖いの。わたしのお母さんが病気になったのは、ひとつき前だって言ったでしょう? それは、ちょうど……バツーの様子が変わりはじめたのと同じ頃なの」

 ルナティンは、ゆっくりとバツーの家からセレナへと視線を戻した。

「ひとつき前……」

 それは、カナンがこのラキウスにやってきた――バツーを殺した時?

「ええ。ただの偶然かもしれない、でも……怖いの。不安で不安で、仕方がないの」

「……」

 偶然じゃなければ、『作為』だ。

「お願い、ルナティン、気をつけて。わたし、何かとても悪いことが起こりそうで、怖いの……」

 か細い声でセレナが繰り返し言う。

 ルナティンは自分でも意識しないうち、まだかすかに痛む胸の傷痕を拳で押さえた。

 

      ◇◇◇

      

 ユマの部屋の扉を閉めて、セレナは溜息をついた。

 今日も、ユマは起きてくれなかった。

「お母さん……いつになったら、目を覚ましてくれるの?」

 扉に寄りかかって額をつけ、ぽつりと呟く声が、暗い廊下で小さく響く。

 しばらくそうしていてから、セレナは扉から離れた。泣いていても始まらない。

(ノイヤーさんのところへ、お仕事をもらいに行かなくちゃ……)

 あの日、ルナティンという少年がラキウスへやってきた時に行きはぐってから、セレナはノイヤーのところへ足を向けていない。何となく落ち着かなくて、仕事をする気にならなかったのだ。

 外に出れば誰かの――バツーの眼差しが自分を捉えている気がして、怖い。

 先刻ルナティンに話したように、ずっと、誰かに見られている気がして仕方がない。

(でも、もう、食べ物がなくなってしまう)

 働かなくては食べていけない。食料庫に納めた穀物や野菜も、あとわずかしか残っていなかった。

(たくさん働いて……お母さんが目を覚ましたら、美味しいものをたくさん食べさせてあげなくちゃいけないわ)

 ユマは、もう一ヵ月も食事をしていない。

 セレナは自分の部屋へ戻ると、身支度を整え、ノイヤーのところへ行くために家を出た。

 だが、外へ足を踏み出した瞬間、思わずその動きを止めてしまう。

「あれ、セレナ」

 家の表に、バツーがいた。

「こ……こんにちは」

 震えそうになる声で、それでもセレナは少年に向かって微笑んだ。

 バツーもにこりと笑みを浮かべる。

「ちょうどよかった、今、セレナのところへ行こうと思ってたんだ」

「え……」

「ノイヤーさんが、セレナを呼んでたよ。さっき買い物の途中で偶然会ったんだ」

 バツーは食料入りの紙袋を抱えている。

「何か、割のいい仕事が入ったんだって。女の人向けだから、他の人に回さないでセレナに取っとくって言ってた。今日中までは待ってくれるみたいだよ」

「そう……」

 いいタイミングだったかもしれない。こうやって、ノイヤーはセレナや、ユマに時々便宜を図ってくれるのだ。

 ノイヤーの気が変わらないうちに、彼のところを訪ねた方がいい。

「わかったわ、ありがとう、バツー」

 ぎこちないながらもセレナは微笑み、ノイヤーの家のある方へ進み出した。

「セレナ」

 それを、バツーが呼び止める。

 セレナはわずかにビクリと肩を揺らし、立ち止まった。

「元気?」

 訊ねるバツーを、セレナは振り返り、見遣る。どうしてか彼をまぶしく感じて、わずかに目を細めた。

 出会った頃は自分よりもずっと小さいと思っていたのに、彼はこの半年ほどで急に背が伸びた気がする。気づけば、目線の高さが同じになっていた。

 この年頃の男の子が成長するのは、驚くほど早い。

「……ええ、元気です」

 セレナは自然と、いつものように静かな笑顔を作っていた。バツーがそれを見て、ひどく嬉しそうな顔になる。

 その彼の表情が、なぜだかセレナの胸に染みいるようだった。

「気をつけて行っておいで」

 大人びた口調でバツーが言う。セレナは頷きを返した。

「ありがとう」

 バツーと別れ、家を出た時よりもわずかに軽い足取りで、セレナは道を進み始めた。

(わたし、気にしすぎだったのかしら)

 バツーの笑顔はあんなに優しい。それに怯えていたなんて。

(馬鹿ね、バツーはいつだって、わたしのことを心配していてくれたのに)

 まるで呪縛から解けたように、思い出す。バツーはいつでも優しかった。ユマが病に臥してからは、とりわけ。

 きっと、自分を見ていたのは心配してくれていたせいだ。それをどうして、『監視』されているなどと思ったのだろう。

(馬鹿ね)

 ここしばらく、バツーに接する態度がよそよそしかった自分を、セレナは恥じいる気分で叱る。

(今度のお金が入ったら、バツーにも何かお料理を作ってあげよう)

 そう決めて、セレナはノイヤーの家までの道のりを急ぎ、その門戸にかかるベルを鳴らした。

「ノイヤーさん、セレナです」

 セレナやバツーの家よりも大きく、庭もよく手入れされているノイヤーの家。彼にどんなつてがあって他人にさまざまな仕事を斡旋できるのかはセレナは知らなかった。

「ノイヤーさん?」

 何度かベルを鳴らし、声もかけてみるが、ノイヤーが出てくる気配はない。

(出かけているのかしら)

 つい先刻、バツーに頼んで自分を呼びだしたばかりだというのに?

 出直すべきだろうか、と戸惑いながら思案するセレナは、急に肩を叩かれ驚いて振り返った。

「よう、セレナ。ノイヤーさんに用事かい?」

 セレナの背後に立っていたのは、三人の人影。セレナと同じく、ノイヤーから仕事を紹介してもらっている男たちだった。セレナよりもずっと年かさで、力仕事ばかり請け負っている。

 セレナが頷いたのを見て取ると、男のひとりが愛想よく笑いながら頷き返した。

「そうか、オレたちも、ノイヤーさんから仕事を回してもらえるってんで来てみたんだけどさ。留守みたいだな」

 チッと、笑いながら男が舌打ちする。ちらりと、他の男に視線を遣り。

「オレたちと入れ違いになっちまったんだ。オレたちが酒場の方にいるって、コイツがさっきノイヤーさんに言ったらしいんだよ。そっちに行っちまったみたいだな」

 男たちがセレナから離れ、歩き出す。ひとりがセレナを振り返った。

「あんたも一緒に来るかい? すぐそこの酒場だよ」

 少し考えてから、セレナは男に頷いた。すでに食べ物を買う金は家になかったし、それに先刻、バツーに料理を作ってあげるのだと決めたばかりだ。他の人に仕事を回されるより先に、ノイヤーと会わなければならない。

 男たちのあとをついて、セレナは道を進んだ。

 向かうのは、セレナの家とはまるで反対の方向だ。ノイヤーの家から向こう、酒場などの盛り場がある方には、セレナは足を向けたことがほとんどない。

 道がわからないから、足早に進む男たちのあとを、セレナは見失わないよう必死について歩いた。

 まだ昼間だからか、酒場や食堂の看板がついた店は、扉を閉ざしているところが多かった。さして広くはない通りを行き交う人の姿も、ほとんどない。

「あの……ノイヤーさんは、どこの酒場に……?」

 少し息を切らしながら、セレナは男たちの背中に訊ねた。歩くのが速すぎて、ついていくので精一杯だ。

「ああ、あそこだよ」

 男のひとりがすぐそばの店を指さして、セレナはほっとした。ようやく着いたらしい。

 店は他のところと同じように入り口を閉めていたが、男たちは気にせず扉を開き、中へ入っていった。セレナもそれに続く。

 店の中は明かりもなく薄暗い。客の姿のひとつもなく、セレナは、にわかに不安を覚えた。

「あの……?」

「二階が部屋になってんだ。ノイヤーさんがよく休んでるとこだよ――今はいないけどな」

 暗くて男たちの表情はよく見えない。誰かが振り返り、ゆっくりとセレナの方に歩み寄ってきた。

 セレナの本能が、明確に危機感を訴える。

「わ……わたし、帰ります……っ」

 震える声で言いながら後退さったセレナは、背中に何かが当たって、ビクリと振り返る。

「おいおい、来たばっかりでそれはねえだろうよ」

 背後にいたのは男のひとりだった。逃げだそうとするセレナの両腕をきつく指で掴んで押さえつけ。

 バタン、と大きな音が響いてセレナは全身を震わせた。入り口が閉ざされたようだ。

「いや……」

 首を振り、泣き出しそうに怯えたセレナの声に、男たちの低い笑い声が返る。

「まァさかこんな簡単に、ノコノコついてくるとはなぁ? 今まではノイヤーの野郎が目を光らせてたから、手出しできなかったけどよ。オレたち明日から別の町へ行くことになったんだ。もうノイヤーの顔色窺うこたぁねえ」

 乱暴に体を突き飛ばされ、セレナは店のテーブルの上へ倒れ込んだ。

「今までさんざん偉そうにオレたち使ってきたノイヤーに、最後だってンで礼のひとつもくれてやろうとヤツの家に行ったらお留守だ、ガッカリしたよ。でも――あいつをブチのめすよりも、こっちの方が……なア?」

 下卑た笑い声が、薄暗い店の中に低く響く。

「ノイヤーの奴、オレたちがいくらあんたをこっちに回せって言っても聞かなかった。あの野郎あんたがにもうちっと色気がつくまでなんて吐かして、焦らしやがって……一番最初にいただくのは自分だって、ニヤニヤしてよ」

 男の言葉に、セレナは耳を疑った。

(ノイヤーさん、が?)

 強面で、乱暴ではあるが、セレナたち母娘には優しかったノイヤー。

「でも、まあ、その代わりにユマには楽しませてもらったけどな」

「……!?」

 愕然と――セレナは男たちを見返す。

「そりゃあもちろん、あんたに較べれば歳は少々いってるが、まず美人だし、ノイヤーもオレたちも、何度も世話になったよ」

「嘘……」

 問い返す声が、震える。

「嘘なもんか。でなけりゃ、どうしてあんたら母娘が割のいい仕事ばっかりノイヤーに回してもらえたと思ってんだ。特別に斡旋料を、ユマが体で支払ってたからさ」

「ああ、ここんとこ姿が見えなくて、オレたちもずいぶん寂しい思いをしたもんだ。ちょうどいいじゃないか、今度はあんたがユマの代わりをしなよ」

「ノイヤーも、そろそろだって言ってたもんなア」

 耳を塞ぎたかったのに、セレナは腕を動かすこともできなかった。

 信じたくない。何もかも。

「や……いや……」

 男たちが、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべながら、セレナのそばに歩み寄ってくる。

「いや……っ」

 セレナの口から洩れるのはか細く頼りない声ばかりで、恐怖に身が竦み、テーブルに背中を押しつけられても逃げることもできない。荒く息をする男にのしかかられ、節くれ立った手で口許を押さえられ、叫ぶことすら適わなくなった。

(誰か……)

 あちこちから伸びる手が、セレナの手首を掴み、脚にかかり、服を剥ごうと動き回り始める。

 怯えと怖れに、締めつけられる全身を堅く強張らせながら、セレナは必死に身藻掻いた。

(誰か助けて……ッ)

 誰か――胸裡に浮かぶ姿は。

(助けて、誰か――バツー……!!)

 言葉にならない声で叫ぶセレナに救いの光など見えない。服が引き裂かれ、肌を露わにされ、おぞましい指や舌先が体を這い回る。

 縋るものは、心に浮かんだあの明るい金色の髪を持つ少年の姿だけだった。

(……バツー、助けて……)

 涙のあふれだした目から見える暗い視界を閉ざし、そうして、セレナはただ救いを求めた。

(……お願い……)

 こんな時に呼ぶ神の名を、セレナは知らない。

(神様なんて――)

 今まで一度だって、自分を救ってくれたことがあったか?

 神の名を呼んでも聖なる力を持ち得ないセレナには何の奇蹟も起こらなかった。

 ユマは何かに追われるように、

 逃げるようにこのラキウスへ隠れ住み、

 セレナは学校へ行くこともできず、

 同じ年頃の少女があたりまえに過ごす生活も手に入れられず、

 ただその日の糧を得るために働くだけの日々を過ごし、

 それでもユマさえ優しければセレナの時間は満ち足りたのに、

(でも)

 仕事と引き替えにユマは男たちに体を売り、

(あのひとは)

 深い眠りに沈んだまま、目を覚まそうとしない。

(わたしを置いて)

 助けてなどくれない。

 名前を呼んでも振り返らない神。名前を呼んでも目を覚まさないユマ。

(助けて)

 心はこんなに叫ぶのに。いつも、いつも。

(助けて、バツー)

 切り裂かれるような痛みに心は悲鳴を上げて、泣き続けているのに。

 誰も――手を差し伸べてなどくれない。

「おい、順番だぞ!」

 抗う力をなくしたセレナに、手足を戒める指も消えた。

 男の声と荒い息が入り乱れ、肌に触れ、セレナを侵食しようとしている。

(たすけて)

 なぜ自分がこんな目に遭うのか。

 わからない。

『おまえの周りには敵が多い。それをわからなくちゃいけない』

 ――不意に、脳裡へ甦る誰かの言葉。

『そしてこれも覚えておくんだ。私がおまえの味方であるということを』

(誰……?)

『私はおまえを救う者。そして解放する者』

 おぼろげに浮かぶ顔。姿。声。

『必要な時はこの名を呼びなさい。私はいつでもおまえの許に現れよう』

(あれは……)

『私の名は』

 瞬間、鮮明に記憶を巡る――、

(あのひとは)

「…………、ン……」

『私はおまえを救う者』

「……ジン……」

 自分をみつめる瞳を思い出した。

「助けて、ジン――ッ!!」

 唇を覆う手を振り剥がし、セレナは持てる力すべてでその名を叫んだ。

「何だァ?」

 声を上げるセレナに、男がおかしげな調子で呟く。

 刹那。

「う……わぁあッ!?」

 仰天したような男の声が響く。続いて、激しい衝突音。

 セレナの上から、のしかかっていた汗臭い体重が消えた。

「あああああぁっ!!」

「な……んな、何だあ……ぁ!?」

「おい、一体……」

 驚き、肝を冷やしたような男たちの声、そして悲鳴は、床の方から聞こえる。

「――やあ。ようやく私を喚んでくれたね」

 そして、次に間近で聞こえたのは、たしかに覚えのある、深い響きを持つ低い声。

 セレナはゆっくりと、きつく瞑っていた瞼を開く。

「……!」

 大きく瞳を見開き、そして息を呑んだ。

 目の前に、彼、ジンが立っている。

 扉や窓が開かれた様子もなく、近づいた気配もなく、一糸乱れることもなく整った姿で。

「セレナ」

 名を呼んで、指先を伸ばす。頬に触れられて体を震わせる少女に、「ああ」と小さく呟くと、ジンは身にまとっていた上着を脱ぎ裸の体にかけ、彼女をそっと起こしてやった。

「愚かな者どもだ」

 セレナの目を覗き込み、ジンが優しく笑う。

「おまえの体に気安く触れられるほどの資格があるとでも思っているのか。下賤な人間に、おまえを穢すことなどできはしないというのに」

 両手の指先を使って、セレナの頬を伝う涙を拭ってやると、ジンは振り返って床へ無様に倒れる男たちを見下ろした。

 憐れむような、蔑むような瞳で。

「な……っ、何だテメェ、どうやって入った!」

 男たちは、一体何が起きたのか未だ把握していない。自分たち大人の男三人を、まるでオモチャのように床に転がしたのが目の前の優男とはとても思えなかった。ものすごい力だ。男のうちのひとりは、両手で片目を押さえ、わめきながら床を転がっている。その声が、耳障りなほど店の中でこだまする。

 店の扉は閉ざされたままだ。彼がどこから入ってきたのか、すべてが男たちの理解を超えた。

「か、構うもんか、殺せ!」

 混乱が男たちから思考を奪い、自分たちがもっとも慣れ親しんだ暴力へと走らせた。

 一気に押し寄せる男たちの勢いにまるで怯む様子も見せず、ジンは、ただ口許で優雅に笑っただけだった。

 

      ◇◇◇

      

 出かけていたのは珍しく『カナン』のようで、おまけに彼が手にしていたのが店屋の袋に入った食料だったため、ルナティンは多少驚いた。まさか食事の買い出しに、カナンが向かうとは。

 それがカナンである――少なくともバツーではない――ことにルナティンが気づいたのは、家に戻ってきた彼が、じっと考え込むような表情をしていたからだ。子供(バツー)のする顔ではない。それでなくとも、しばらく一緒に暮らすうち、もともと他人の気配に聡いルナティンは、それなりに観察していれば相手の区別がつくようにはなっていた。

「買い物に行ってたのか」

 食卓へどさっと紙袋を投げ出したカナンにルナティンが訊ねると、「ああ」と生返事が返ってくる。外の空気を吸いに出たルナティンと入れ替わりのように出かけてしまった彼は、家に戻ってきた今もすぐにバツーの部屋へ引き込み、ルナティンにろくろく言葉をかけさせる暇を与えなかった。

(でも……何をどう訊けばいいんだ?)

 ルナティンはほとんど、困惑していた。

 『カナン』に対して浮かんだ疑念。

 もし彼が本物のカナン王子でないとしたら、それになりすます目的はいったい何なのか。

(いや、まだ、贋者だって決まったわけじゃないけど)

 もし本物のカナン王子だとしても、不審なところが多すぎる。

 不用意に核心に迫る質問を本人にぶつけて、それが彼に都合の悪いものだった場合――彼が『バツー』を人質に立ててしまえば、ルナティンに対処のしようがない。

 もしも、万が一にでも『カナン』の正体が黒魔導士だったりしたら、どれほどひどい事態が待っているのか。

(だから、そうと決まったわけじゃ)

 せめぎ合う自分の疑念たちに、ルナティンは気が滅入ってきた。何しろわかることが少なすぎる。

 長い時間が経ったあとに、部屋から出てきて食事の支度を始めたのはバツーだった。

 バツーにも元気がない。明るく振る舞っているようにも感じられるが、ルナティンの見たところそれは空元気に近かった。

「あれ、ルナティン、そのサラダあんまり美味しくなかった?」

 あまり食の進まないルナティンの皿を見て、バツーが小首を傾げて問いかけてくる。

「いや……」

 ルナティンは曖昧に返答してから、テーブルと夕食を挟んで向かい合う少年を見遣った。

「カナンは、何をしてるんだ?」

「何って?」

「ほら、だから、今……」

「思考を閉ざしてるからわかんないってば。用があるなら呼び出そうか?」

「あ、別に用があるわけじゃないから!」

 慌てて手を振るルナティンに、バツーが小首を傾げる。

 あまり軽快とは言えない会話をしながら食事をすませると、ルナティンは早々と自分にあてがわれた部屋へ戻った。もう少し、頭を冷静にするため、ひとりになりたかったのだ。

 バツーも後かたづけをすませてから自室へ入ったらしく、台所からは物音が聞こえなくなった。

 考えているうちに頭が疲労してしまい、ルナティンは気づくとソファでうたた寝をしていた。自分が眠っていたことに、目が覚めたので気づく。

 窓の外を見遣ると、おぼろに空へ浮かんだ月が高い。昔から愛用していた懐中時計はバーンズの宮廷騎士に襲われた時壊れてしまったので正確な時間はわからないが、もう真夜中のようだ。

(喉渇いたな)

 のろのろと起きあがり、無意識に胸の傷痕を押さえながらルナティンはソファから床に降りた。こっちは怪我人だというのに、少し回復してきた途端ルナティンは寝台のあるバツーの部屋を追い出されて、この物置部屋のような場所へ押し込められている。もちろんカナンの命令だ。ソファがあるからいいようなものの、まったくひどい仕打ちだ。

 ぶつくさと文句のひとりごとを言いながら部屋を出て、ルナティンは台所へ向かった。水が飲みたい。

(あれ、まだ起きてるのか?)

 台所へ向かう途中、バツーの部屋から細く明かりが洩れていることに気づいた。何となく足音を殺しながらその前を通り過ぎ、途中、ちらりと部屋の中に目を遣る。

 カナン――あるいはバツー?――は、寝台に片膝を立てて座り、窓の外をじっと眺めていた。

 バツーの部屋の窓からは、セレナの家が見えるはずだ。

『気づくとバツーがわたしを見ているの。監視してるみたいに』

 昼間、セレナと交わした会話をルナティンは思い出した。

(監視……か)

 あまり気持ちのいい言葉ではない。

 ルナティンは台所へ入ると、水瓶からすくった水を直接柄杓で口に含んだ。ごくごくと音を立ててそれを飲み干し、柄杓を瓶に戻す時、何か物音を聞いて反射的に耳をそばだてる。

(――カナン?)

 音がしたのは家の出入り口の方だ。ルナティンが咄嗟に窓から玄関の方を見遣ると、子供の影が暗い夜道へ出て行くところだった。

(どこへ行くんだ?)

 考えるより先に、ルナティンの足も外へ向かっていた。気づかれないよう大きく距離を開けて、子供のあとを追う。

(あれは、カナンか、バツーか)

 多分カナンの方だろう、とルナティンは見当をつける。離れすぎているので表情は見えないし、精神の波動を追えるほど気持ちが冷静でないから、ただの勘のようなものだ。

 カナンは、曇天で月の光もそう届かなくなった暗い道を、惑うことのない足取りで進んでいる。もう真夜中だから、表を歩いているような者は、カナンと、それからルナティンの他には見当たらない。ルナティンに聞こえるのは風に揺れる木々のざわめきと、忍ばせても響く自分の足音、息づかい、それから早鐘を打つ心臓の音だけだ。

 カナンがどこに向かっているのか、土地勘のまるでないルナティンにはわからなかった。ただ見失わないようあとを追う。

 黙ってあとをつけるような真似をすることに罪悪感はあったが、今はこうするよりほかないように思えた。

(カナンはきっと、何かを隠している)

 それはルナティンの中で確信に近かった。

 しばらく歩くうち、カナンは一軒の家の前で立ち止まった。バツーやセレナの住む小さな民家に較べ、少し大きくて立派な作りをしている。都市の住宅に較べればみすぼらしいものではあったが、敷地も庭も充分に広く、おそらくこのラキウスでは力と財力を持つ部類の人間が住んでいるのだろうと察せられる。

(こんなところに、何の用だ?)

 どんな用があるにしても、今は人を訪ねるのにまるで向かない時間だ。

 門に貼りついてルナティンは姿を潜めながら、入り口へ向かうカナンの姿をそっと盗み見た。カナンは入り口の扉に手を伸ばし、何度かノブを回した。夜だから当然施錠されているらしいが、カナンは迷うことのない素振りで短く何かの詞を呟いた。

(魔法だ)

 鍵の代わりに魔法で扉を開けた。それが聖の領域の力か、あるいは妖のものか、ルナティンにはわからない。感じる暇もない早業だった。おそらくごく簡単な略式魔法だろうが、それにしてもあっという間だった。

(あいつの正体が何にしろ……多分、持ってる力は相当なものだ)

 そうルナティンが考える間に、カナンは開いた扉から家の中に入っていってしまった。さすがに家の中まで追っていけば、気配や物音で気づかれてしまうだろう。ルナティンはしばらく迷い、それから足音を殺して、家の周囲に場所を移した。窓から何か覗けるかもしれない。

 この家の敷地が広くて幸いした。外から窓を覗こうとしているのを誰かに見咎められでもしたら面倒だ。庭の周りには背の高い生け垣が巡らせてあるから、他の人間に見つかることはないだろう。

 身をかがめて家の外壁を擦るように進み、手近な窓の下に貼りつくと、ルナティンはそろそろと立ち上がった。

 慎重に、窓の中から部屋を覗こうと試みて、

(うわっ!)

 慌ててもう一度身を潜める。

 部屋の中に、間違いなくカナンがいる。早々とヒットしてしまったらしい。

(危ない、危ない)

 乱れてしまった呼吸を整えながら、ルナティンは意を決してもう一度窓越しに部屋を覗いた。細く開いたカーテンの隙間から、中が見える。

 明かりもない暗い部屋。この家の住人は、眠っているのか留守なのか。

 カナンは、部屋の中央辺りに佇んでいた。俯いている。床を眺めているようだ。

(何だ?)

 ルナティンも、カナンと同じ方向へ視線を凝らした。暗くてよく見えないが、おそらく寝室と思われる場所の床、そこに何か大きな塊のようなものがある。

 カナンが片手に燭台を握っていた。元からこの家にあったものだろう。片手が闇の中で動いて、すぐに、ほのかな明かりで部屋が照らされる。

(こっち、見えちまう……かな?)

 緊張しつつも、ルナティンはさらに家の内部に目を凝らす。カナンはやはり、寝室の床を見ていた。

「……」

 ルナティンはわずかに眉をひそめ、それから、背中を伝う汗を感じた。

(何――だ、あれは)

 床に転がる大きな塊。

 赤い。

(あれ、は……)

 床に拡がる大きな染み。

 赤い。

(血、だ)

 蝋燭の明かりに照らされ出す、どす黒い染み。床に落ちた大きなものは、

(人間……)

 死体。

 カナンは大柄な男の死体をみつめ、ただその場に佇んでいる。表情もなく。

(人が、死んでる)

 ルナティンは呻き声が洩れそうになるのを、必死にこらえた。気持ち悪いほど冷や汗が出てくる。

 明らかに、誰かに殺された死体。俯せに倒れた大柄な男の、後頭部から背中まで、まるで大きなかぎ爪に抉られたかのように、無惨な痕がついている。

(誰が殺したんだ?)

 浮かんだ疑問に、すぐさま出てくるさらなる問い。

(なぜ殺したんだ?)

 バツーを殺したのは――カナン。

『剣士は城から出て逃げ込んだ先、この家のバツーを叩っ斬って』

 では、あの男を殺したのは?

 ぞっと、ルナティンの全身に悪寒が走る。

 カナンは手にしていた燭台を、手近な棚に置いて、ふたたび死体と向き合った。

「ルナティン」

「!」

 窓越し、大きく叫んだわけでもないのにはっきり聞こえた声は、間違いなくルナティンの名を呼んだ。

「おまえはここにいない方がいい」

 命令する口調は、カナンのもの。ルナティンを振り返ることもなく、死体を見つめたまま口を開く。

「離れていろ」

「カナン……」

 呆然と、ルナティンは窓の中のカナンを眺める。

(気づかれてたのか)

「おまえには負担だ。怪我も治っていないんだから、おとなしく家に戻れ」

 カナンの言葉の意味がよく理解できず、ルナティンは拳で壁を叩いた。

「カナン、一体どういうことなんだ! あんたはここで、何をやってるんだ!?」

「今は問答している時間がない。いいから行け」

 言われて、はいそうですかと引き下がれるわけがない。

 ルナティンは自分の方を見向きもしないカナンに唇を噛み、今度は窓のガラスをダンダンと叩いた。

「カナン、開けてくれ! 何が起こっているのか教えてくれ!」

 いっそこのガラスを割ってしまおうか、そう思って両手を窓につけたルナティンは、次の瞬間、その場で大きくよろめいた。

(……!?)

 何の前触れもなく目の前に紗がかかる。頭と体が急激に重くなった。意識が遠のいていくのがわかる。もう何も見えない。地面に自分が倒れる音を聞いた。

「カナン――あんたが……」

 ルナティンの問いは、音にならずそのまま潰えた。

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