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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 A-PART]
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第三章『閉ざされた国』(2)

 一晩たっぷり休んだおかげで、ルナティンが翌日目覚めた時には体はすっかり楽になっていた。シノンの癒やしも効いたのだろう。

 なるべく陽の高い内に行動しようと、ルナティンとシノンは朝食を摂るとそのまま宿屋を出た。前日と同じ道を引き返し、森へ入る。シノンが注意深く妖霊を追い払ってくれたおかげなのか、この日は迷うことなく、森を抜けることができた。途中で馬を借りて、一気にトーヤ山の山裾まで辿り着き。

「さぁて」

 馬から降りると一言呟き、シノンが目の前へ立ちはだかるトーヤ山を見上げた。ルナティンもつられるように目を上げる。暗い、と感じた。木々の緑と土の色。それだけのはずなのに、山はどこか暗い色に見えた。シノンの話を聞いたせいなのか。

 人為的な道筋の作られた入り口があるのに、山を登ろうとする人間は、ふたりの他に見当たらなかった。

「結界とか……わかる?」

 ルナティンがシノンの横顔に訊ねると、小さくその首が振られた。

「相変わらず気配は感じられないんだ。力の流出している元が測れない」

「登ってみる?」

「そうだな……」

 シノンがしばし考えあぐねる様子で、それから頷いた。

「まあ、山から出られないってだけで、体や精神に関しては大した実害があるわけじゃない。それが大問題なんだけどな。とりあえず、試しに行ってみるか」

 ルナティンはシノンにつき、馬を置いてトーヤ山を登り始めた。

 おそらく何ヵ月もかけて作られたのだろう、広い石畳の道を歩く。なだらかな階段になっている。子供でも一日かからず越えられるような山だから、子供よりもう少し大きなルナティンや、まるっきり大きなシノンにそう負担がかかるはずもないのだが、ふたりはしばらく歩いただけで、すでに汗みずくになっていた。

「キ……ッツイなぁっ」

 拾った木の枝を杖代わりに、ルナティンはぜいぜいと喘ぎながら声を上げた。

「この鬱陶しいの、どうにかなんないの?」

 まるで惹かれるように寄ってくる妖霊の気配が、はっきりとわかった。シノンが払っても払っても近づいてくる。浄化させてしまえば少しは保つだろうが、なるべく体力は温存したいというシノンの意向で、軽く追い払うのがせいぜい。

「なるべく気を張ってろ。気がくじけると、よけいにつけ込まれるぞ」

 シノンも疲れているようだったが、ひいひい情けない声を出しているルナティンほどではない。日頃の鍛え方の違いだろう。

「おまえさんは、自覚がないのかもしれないが、そもそも大した力を持ってるんだ。何てったってあのエイリアの息子だしな。術はろくろく使えなくても、気の持ちようでどうにかなる」

「そんなもんなの?」

「そんなもんだよ。そも、『白魔法を使う』ってのは、術者が持っている聖なる力に指向性を持たせるってことだ。その方向付けをするのが、人の意志(こころ)であり祈りである。意志が強ければ術も強い。祭司が全身全霊をかけて祈るのと、下級神官が大雑把に祈るのとじゃ、断然前者の方が有効だ。とはいえ、たとえば王族と祭司じゃ話は違ってはくるがな。較べようもない。王族ほど莫大な力を持った人間はまた別の話」

「じゃあ、詞は?」

「詞は指標のひとつだ。ただの、まあ記号みたいなものだな。一般に、魔法を使うための特別な、決まった呪文があると思われているみたいだがそれは違う。たとえば書物に記された呪文は、魔法が作用しやすくするために体系化された公式ではあるが、結局は文字の羅列でしかない」

「そんじゃ魔法に詞は必要ないの?」

「そういうことじゃないさ。力を持つ人間が詞を紡げば、その詞自体が意味と力を持つようになる。力を持たない人間が詞を唱えても何も起こらないが、力を持つ人間にとっては、詞は意志を外に向ける一番簡単な手段だ」

 ルナティンは大人しくシノンの説明を聞いた。

「たとえば、術を使う際に、術者の『真名』というものが有益になる。あれは何でかっていうと、その名を持つ術者のクラスが、その名前によって表されるからなんだ」

「でも真名を持ってない聖職者とか、黒魔導士もいるんだろ?」

「それは真名をもらっても、大した力にならないレベルの術者だ」

 わかったようなわからないような顔で首を傾げるルナティンに、シノンが言を継ぐ。

「自分がどれだけの力、これは意志の力ってことだけど、それを持っているのかをより短い音で表せるのが真名なんだ。真名を与えられたから力を持てるんじゃなくて、力を持つ人間にこそ与えられるのが真名だ。だから本当のところ重要なのは、名前そのものじゃなくて、その名を持つ人間の存在そのもの、意志そのものなんだ」

「ってことは、名前を偽るっていうのは、存在を偽るってこと?」

「そう。それで嘘の名乗りを上げると、自らが自らの存在を裏切ったことになり、その報いを受けるんだ。あり得ない名前はあり得ない存在ということで、ゼロから魔法を動かそうったって、そりゃあ無理な相談だろ? もし自分よりもクラスの高い存在の真名なんてうっかり名乗れば、容器、つまり体がキャパシティ不足で打撃を受ける。逆に自分よりも力の強い術者、それも黒系魔導の使い手なんかに真名が知れれば、簡単に聖なる力を奪われる羽目になる。真名っていうのは、力を閉じこめた個体、人間っていう容器に対する鍵みたいなものだからな。自分で鍵を開けるくらい制御する力がある分には、勝手に開かれたらあとは外へ流れ出るだけだ」

「なるほどね。えーと、あと、なんで洗礼しないと白魔法が使えないの?」

 続けてルナティンが訊ねると、シノンがあからさまにがくりと肩を落とす。

「おまえなあ、仮にもエイリアの息子ならそこまで初歩的な疑問を口にするなよ、情けないな」

「悪かったよ。でもこのまま無知でいるよりマシだろ」

「そりゃ正論だ――じゃ、超初歩的な質問。『魔法』とはいったい何ぞや」

 シノンの問いに、ルナティンは力一杯眉根を寄せる。

「うぅ……ええと、怪我とか病気を回復したり、あとダメージを与えたりもできる力」

「……」

 できの悪い教え子を見る教師の眼差しになったシノンに、なんだよぉ、とルナティンが居心地悪く呟く。

 シノンが深々と溜息をつき。

「それは結果であって本質ではない。いいか、自然界にはさまざまな生命や、その息吹が満ちあふれている。同時に邪気を帯びた物質、精神も。それらすべての集合体を総じて『世界』と呼ぶんだ。そしてそのエネルギーは、たったひとりの人間が持ちうる数千倍、数億倍の、さらに数億倍の力と匹敵する。それはわかるな?」

「んー、まあ、何となく」

「何だよ、頼りないなあ――まあいいや、とにかくそのエネルギーを丸ごと人間が得ることは、人間が人間である限り不可能だ。人間も世界の一部ではあるが、決して世界イコール人間ではあり得ないからな。だが、すべての力を手に入れることは無理でも、干渉することはできる。要するに力を借り受けるってことだ」

「それが魔法」

「そう。人間も世界の流れの一部だ。人間のうちの何か、たとえば先刻おまえさんが言ったとおり、怪我や病気で失ったところ、あるいは何かの弾みで失ってしまった正しい心を、聖の領域にあるエネルギーから補う。邪悪なものを打ち払うための力を生み出す。それが白魔法だな。逆に邪な力を得て他者を傷つけたり、生命を奪うのが黒魔導」

「ふんふん」

「そして生物のうちで、聖の領域へもっとも強く干渉できる存在を指して、我々は神と呼ぶ。神はもともと人間だった。その人間は他のどんな人間よりも莫大な力を持ち、自然の力を借り受けるのみならず、自らを自然と共棲させ、個体という不自由な殻を棄てて大きな意志となり、神と呼ばれるようになった。神と世界は同一ではないが同等だ。ここまで、了解?」

「――そこそこ」

「やれやれ……で、白魔法を動かすには、詞や自らの聖なる力を使った流れ、システムがある。洗礼というのは、より確実で強力なシステムを発動させるための段階、手順だな。聖なる力は洗礼により神の力を享受するための土台。強い力を持ち強い術を発動できるように、土台や容器、精神を鍛える。そうすれば、システムを動かすくらいの術者になれるわけだ。とはいえ一気に神の力を受け継ぐのは無理だから、段階を踏んで、祭司、神官、王族、セイマー神から力を貰い受ける。だから、洗礼を受けたから術を使えるようになるというのは間違いじゃないが、力を貰い受けても土台が破綻しないほどの力を持ち、修行を積んで初めて、洗礼が受けられるってところが最も重要だ。真名と同じく、先に洗礼があるわけじゃない」

 ふうん、とルナティンは頷く。シノンがさらに続け、

「詞が力になるというのは、それが唯一、真実の心を表した場合だけだ。心にもない思いを口にしたところで魔法は動かない。偽らざる心のみが、世界と繋がるたったひとつの架け橋になる」

 だから魔法を動かし、自然の力を得て、世界を動かすのは、より大きな祈りなのだという。正しい祈りを心に持つためには、正しく世界や魔法のシステムを知らなくてはならない。

「どうだ、ちっとは勉強になったか?」

 しきりに頷くルナティンにシノンが問うた。ルナティンが肩を竦める。

「ま、無事サンファールに辿り着いたら、神様のありがたみも感じると思うよ」

「罰当たりめ」

 そんな会話のおかげで、ルナティンは少し祈りについて考えた。祈りと、意志。聖なる力を外に向けるために必要なもの。洗礼を受けたから術が使えるということだけでなく、術を使えるほど強い祈りを持てば洗礼を受けられる。

 重要なのは、システムを動かすのが『洗礼』ではなく『意志』だということなのだ。

(てことは、こいつらもちょっとは退けることができるのか)

 ルナティンは、道を進みながら、相変わらず体にまといつく妖霊たちに気を向けた。これは、よくない生き物。邪悪な存在。自分にとって不要なものたち。だから、いらない。

「飲み込みが早いじゃないか」

 ルナティンの隣で、シノンが感心した声を寄越した。ルナティンの周りから少しずつ妖霊が遠ざかっている。ルナティンの『祈り』のせいで。

「ついでだから、サンファールに戻ったら手っ取り早く教会で洗礼を受けたらどうだ? おまえさんなら、ちょっと本気出して学べば神殿にも入れるかもしれないがな。洗礼を受ければ、もっと思うように力が使えるようになるぞ」

 シノンの言葉へ、曖昧にルナティンは頷いた。

 それからしばらく石畳の階段を登り、そのうちにそれが途切れ始めた。滑り止めの丸太が地中に埋められただけの道に変わる。頂上が近いのだ。

「そろそろ……だな」

 シノンが呟き、荷物の中から青い布きれを取り出すと、手近な樹の枝にくくりつけた。目印にする。

「ここが、今通った道」

「うん」

 その樹と目印を、ルナティンは目に焼きつけておく。

 再び進み始めると、上り坂は緩やかなものに代わり、平坦に近くなってから、すぐ下りの道になった。ここがサンファールとパラスの国境。立て札も出ている。

 ふたりは休憩を取ることもなく、少し足早に道を下り始めた。下り坂にも、昇りと同じような人口の道ができている。

 そこを歩き始めて、しばらく経ったのち。

「え?」

「やっぱり、な」

 同時にふたりは声を上げた。ルナティンは目を瞠り、シノンは軽く溜息をつき。

 ルナティンは布切れの揺れる樹へ、走って近づいた。まじまじ眺めるが、どう見ても先刻シノンがくくりつけたものだった。

「でも! たしかに頂上まで行って、反対側の下りへ」

「だから言っただろう。こいつが結界なんだ」

「……」

 ルナティンはしばらく唇を噛むと、青い布切れを睨みつけた。それから、山の頂上を見上げる。

 何も言わず歩き始めたルナティンを、シノンが慌てて呼び止めた。

「おい、坊主?」

「もう一回やってみる」

 ずんずん進むルナティンのあとを、シノンが仕方なく追いかける。無駄かもしれんぞ、という呟きを、ルナティンは無視してさらに進んだ。

 再び頂上が近づき、ルナティンは一度歩みを止めた。シノンが隣に並ぶ。

「どうするつもりだ?」

「何か……」

 手掛かりを見つけなければ。

 ルナティンは静かに呼吸を整えた。結界の突破法なんてわからない。魔法と名のつくものに経験などもちろんなかった。

 けれど何か、きっかけがあれば。

「ルナティン、……」

 もう一度、声をかけようとしたシノンが口を噤んだ。

 ルナティンは軽く瞼を伏せ、深呼吸を繰り返していた。

 やり方なんてわからない。でも、先刻シノンが言ったのだ。

 力を動かすために必要なのは、意志。心。祈り。ここに自分の意志を阻むものがある。あるはず。だから見つければいい。

「――邪魔だ」

 自分の行く先を遮る『何か』。不要なもの。

 背中に何かが触れた。シノンの手だ。力を貸してくれようとしているのがわかった。

 右頬にまた何か触れた。今度は、妖霊。邪魔なもの。

(要らない)

 パチ、と小さくはぜる音がした。消えた、妖霊の気配。

「こりゃ、驚いたな……」

 シノンの呟き。

「おい、そのまま集中していてくれ。少し見えてきた」

 ルナティンにもわかりはじめていた。結界、のようなもの。それは、目の前にできているものではない。自分の、存在すべてを取り巻く力。

 全部覆っていたからわからなかったのだ。

「少しずつ――そうだ、開くんだ。ゆっくりでいい」

 シノンの言葉に導かれるように、ルナティンの神経は次第に研ぎ澄まされていた。自分を覆う「もの」を、ほんの少しずつ退けていく。開かれるイメージ。

「何てこった、エイリアは知っているのか?」

 再び、独り言のようなシノンの呟き。感嘆しているのか、呆れているのか。

「……ッ」

 ルナティンの足許が揺れた。外向きに開こうとしたものが、抵抗するように内へ押し戻ろうとしている。拮抗する力。強い抗い。

「よし、あとちょっと頑張れ、このまま固定する」

 ルナティンは両方の拳を握りしめた。がくがくと体が震える。シノンが荷物の中からまた何か取り出した。鮮やかな装飾のついた短刀。鞘から刃を抜き払い、何か詞を呟きながらシノンがそれを地に突き立てる。

 がくり、とルナティンがその場へ膝をついたのは次の瞬間。一気に全身から汗が落ちた。ひどく体力を消耗した感じがした。

「――まずい、奴さんたち、白魔法に惹かれて来やがる」

 目に入った汗をルナティンが手の甲で拭った時、シノンが忌々しそうに吐き捨てた。ルナティンは荒い息をつきながら、顔を上げて辺りの様子を窺った。たしかに、一度は薄くなった妖霊たちの気配が、また強まってきている。

「おっさん、早く、ここから……」

 シノンの姿を捜して視線を動かしたルナティンは、そのまま大きく目を瞠った。

 シノンも地に膝をついていた。短刀で体を支えるように。

「おっさん!?」

 叫んでからルナティンは気づいた。自分の開いた結界の空白に、シノンが新たな結界を張っている。

 そしてその、結界と結界の接点を狙うように、澱んだ感触――妖霊たちが大挙して攻め立てていた。

「お、おい、おっさん! やばいよ、あんた……ッ」

 これでは術者の負担が大きすぎる。うろたえて近づいたルナティンの手首を、シノンが強く掴んだ。

「いいか、坊主」

 それから、まっすぐにルナティンの目を覗き込み。

「このまま山を下れ。おそらくサンファール側は大丈夫だ」

「でも、おっさんは!?」

 縋る気持ちで訊ねたルナティンに、シノンは小さく首を振った。血の気がなくなりはじめ、脂汗の滲む顔で。

「俺はここを支えるので手一杯だ。おまえさんひとりで行け」

「そんな、できるわけないだろ! あんたが一緒にこなくてどうすんだよ!」

「ここを離れたら、せっかくおまえさんが作った孔が塞がっちまう。いいから行け。行ってバーンズの大神殿にパラスの状況を報せてくれ。これ以上の猶予は、この国の命取りだ」

「でも……」

 ためらうルナティンを、シノンは強い瞳で見返した。

「俺は大丈夫だ。おまえさんが助けを呼んできてくれるなら、この国でまだ踏ん張って待ってる」

「おっさん……」

 ぐ、とルナティンの手を掴むシノンの手に力が篭もった。

「この道を拓いたのは、ルナティン、他ならぬおまえさんだ。サンファールに戻って自分にできることをするんだ。振り返らずに、一気にここを抜けろ。それで多分助かる。おまえさんが行かなけりゃ、ただ共倒れになるだけだ」

「……わかった」

 ルナティンは、シノンの手を両手で握り返した。シノンの手はひどく冷たかった。もう考えている暇はない。

「必ずバーンズの神殿に伝えるよ。信じて待っててくれ、俺は、俺の名にかけて偽りは言わない」

 シノンが頷く。ルナティンも頷きを返し、立ち上がった。シノンが指し示す方向へと向かう。

「ルナティン、バーンズにいる俺の息子にも報せてくれ。バツーに……俺は、父さんは大丈夫だ。必ず戻るからと!」

「――ッ!」

 果たして返事が音になったのか、ルナティンにはわからなかった。シノンに言われたとおり、振り返らずに駆け抜ける。一歩ごとに足が重くなり、目の前が霞んだ。強い抵抗感。何かが行く手を阻もうとしている。

(――邪魔だ!)

 振り払うように心で叫ぶ。強い意志。それが力になるなら。

(どうか道を)

 地を蹴る自分の足が、本当に動いているのかわからない。

(道を示してくれ)

 自分が誰に祈っているのか、ルナティンにはわからなくなった。世界か、神か、エイリアか、シノンか、あるいは自分自身か。

(教えてくれ!!)

 ド――と耳許で音が響いた気がした。次の瞬間、体が浮遊したような感覚を味わう。

 いや、『ような』ではない。

「おわわわッ!」

 ルナティンは思わず悲鳴を上げていた。坂道をつんのめるようにして体のバランスが崩れ、力一杯蹴りつけた地面が遠くなる。宙に浮いた体は引力の法則に従ってしたたか地面に叩きつけられ、そのまましばらくごろごろと坂を転がった。

「い、いててて……」

 細い樹に激突して、ようやく転げ落ちた体が止まった。打ちつけたあちこちを掌でさすりながら、ルナティンはどうにか体を起こした。

 ハッとなって、上を見上げる。

「……おっさん……」

 視界に移るのは、何度か登って見覚えのある山の景色。――『サンファール側』の。

 しばらくルナティンはその場で座りこけると、大きく息を吐き、それからぶんぶん首を振った。

 呆けている暇はない。

「待ってろよ、おっさん!」

 そうして、ルナティンはサンファールに向かい、トーヤ山を一気に下り始めた。


     ◇◇◇


「山を下りた俺は、そのまま大急ぎでバーンズまで向かった。とにかく神殿に報せなくちゃと思ったんだ」

 話すルナティンを、バツーは真摯な瞳でじっと見上げていた。

「なりふり構わず王宮に辿り着いて、門番に中に入れてくれって頼んだ。だけど、まるっきり取り合ってくれなかったんだ。ここは子供の来る場所じゃない、大人しく帰れの一点張りで」

「それで……ルナティンはどうしたの?」

 訊ねたバツーに、ルナティンは頷き、

「そのまま引き下がれるわけがない、門番の目を盗んで、どうにかして王宮の中に入り込んで……でも、神殿に辿り着く前に、他の衛兵に見つかっちまったんだ」

 思い出し、ルナティンは苦い顔つきになった。

「そこでも俺は必死に事情を話した。パラスのこと、シノンのこと、神殿の助けがいることを。そのうち衛兵の他に、政務官らしい人間がやってきて、とんでもないことを言い出したんだ」

「シノンが……反逆者として、死罪になったってことを……だよね?」

 バツーの言葉に、ルナティンはまた頷きを返した。

「そうだ。シノンがすでに処刑されて、息子であるおまえも王都を追放されたなんていうじゃないか。俺は当然驚いて、政務官に喰ってかかった。そんなはずない、頼むから神殿の人に話をさせてくれって。でも、聞いてくれなかったんだ。宮廷騎士団までお出ましになったから、仕方なくてそのまま逃げた。誰も話が通じる人間がいなかったんだ。母さんを呼んでもらう間もなかった。俺は王宮からどうにか抜け出て、城下の町に潜り込んだ。そこで、シノンやおまえが以前に住んでたっていう辺りを捜して、どうにかバツーがラキウスって町に移ったことを聞き出した辺りで追っ手に見つかったんだ。殺されかかったところを、半死半生でバーンズを出た。あとは見てのとおりだよ」

「……」

 バツーが床に目を落とすと、大きく溜息のようなものを吐く。

「よく、ここまでこられたね、ルナティン」

 ぱたり、とバツーの伏せた瞳から涙が落ちるのが見えた。

「シノン、元気だったんだ」

「ああ、そりゃあもうぶっちぎりにな」

 ルナティンの言葉に、顔を上げてバツーが笑った。

 自分がパラスを去ったあと、シノンが果たしてどうなったのか、ルナティンにはもちろんわからない。でも無事であるはずだと信じたかった。それはバツーにしても同じ気持ちだっただろう。

「あの様子じゃ、王宮や神殿の助けは期待できない。俺はシノンとの約束を果たせなかったんだ。おまえに伝言を伝えることはできたけど、でも肝心のシノンの助けは呼べなくて……だから、俺が、シノンを助けに行く」

 バツーがかすかに目を瞠った。

「シノンじゃなくて、俺がここにいることを許してほしい。……ごめんな、バツー」

 バツーは見開いた瞳から、再びぽろぽろと涙を落として、力一杯首を振った。

「いいんだ! オレは、シノンが助けようとしたルナティンが助かってくれて嬉しいんだから。シノンは大丈夫だよ。自分が大丈夫じゃなくちゃ、他人を助けたりなんてできないんだよ。だから大丈夫なんだ」

 ありがとう、とルナティンが呟くと、バツーがまたぶんぶん首を振る。

「ホントはオレ、ずっと怖かったんだ。シノンが死んだって言われて、そんなこと全然信じられないし、信じたくないのに確かめる暇もなくオレもバーンズを追い出されて、何とかしなくちゃって思ってる間にカナン様には殺されちゃうし、まあすぐに生き返ったけど、でもそれからどうしていいのかわかんなくて、だけど、ルナティンが来てくれて……シノンが生きてるって、わかってよかった」

 涙が止まらず、バツーの声が掠れた。

「シノンとの約束を果たそうとしてくれて、ありがとう……」

 最後の方は言葉にならなくて、バツーが涙で濡れた顔をごしごしと腕でこする。ルナティンは、そんなバツーの頭を自分の方に抱き寄せて、撫でてやった。

「俺が力になる。何ができるかわからないけど、でもきっと何とかする。何とかしなくちゃいけない」

「うん――うん」

 ルナティンの言葉に、バツーが何度も頷いた。

 ガシガシと、ルナティンがその頭を掌で撫で。

「……用がすんだらさっさと離れろ」

 突然、憮然とした声が聞こえてルナティンはぎょっとした。慌ててバツーから体を離すと――相手の顔つきが変わっている。

「……カナンか?」

「様をつけろ、図々しい」

 冷ややかにルナティンを一別すると、カナンがバツーの寝台に腰掛け、邪魔臭そうに両目に滲む涙を手で払った。そのまま片手で自分の髪を掻き上げ、部屋の壁を睨みつける。

「気配のない魔導……リマリヤのガドナー、イクサのレン、か」

 呟くようにカナンが言った。ルナティンの話を、当然、バツーの『中』で聞いていたのだろう。

 それきりカナンが黙り込んでしまい、ルナティンには声がかけられない雰囲気だった。

「ルナティン」

 少しの間口を閉ざしていたカナンが、視線をルナティンに向けて呼びかけた。

「どうせ行くところなどないんだろう。しばらくここにいろ。部屋くらいは貸してやる」

 まるでこの家の所有者のような口調でカナンが言う。

「カナン、パラスやシノンのことは……」

「わかっている」

 言いかけたルナティンの台詞を遮るように、カナンは頷いて、寝台から立ち上がった。

「何にせよ、おまえはその傷を完治させないことには動きようがないだろう。焦ったところでどうしようもない、今バーンズに戻ったって同じことの繰り返しだ。おまえひとりくらいおれが守ってやるから、とりあえずは回復するまで休んでいろ」

「……わかった」

 カナンの言葉は正論だ。

 たしかに、じたばたと焦ったところで、今の段階では何ができるわけでもない。対策を講じる時間は必要だ。無策で急いでも、それは余計な回り道にしかならない。それはルナティンにも納得できる。

 ――だが。

(何だろう……)

 漠然とした違和感。

王子(カナン)って、そんなものか?)

 先刻彼が見せた表情。サンファールを正しい道へと誘うために、父王と戦うことすら厭わないと、そう言ったあの言葉。

 あそこまで決然と言ってのけたカナンなのに、どうしてこんなに冷静でいられるのか。

「三日も馬鹿みたいに惰眠を貪ってたんだ、腹も減ってるだろ。バツーに支度させるから、待ってろ」

 言うなり、ふっと両目が細まって、再びその顔つきが変わる。あどけない、子供の表情になった。

「もー、人使い荒いんだからカナン様は!」

 ぶうぶうと文句を言いながら、今度はバツーがルナティンを見遣った。

「ルナティン、ずっと食べてなかったんだから、スープとかの方がいいよね?」

「え? あ、ああ」

 呼びかけられ、ハッと我に返ったルナティンを、バツーが不思議そうに見上げる。

「何ぼーっとしてんの?」

「いや、別に大したことじゃないけど」

「あ、そっか、急にカナン様とオレが入れ替わったりしてるから、わけわかんないんだよねー」

 ルナティンの態度をそう解釈して、「じゃあちょっと待ってて!」と元気に言い置いてから、食事を作るためバツーが部屋を出ていく。

 残されたルナティンは、部屋のカーテンを少し開き、窓から外の景色を眺め遣った。陽はもう落ちかけ、暗く重い雲が立ちこめていた。すぐに夜が来そうだった。

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