第三章『閉ざされた国』(1)
バーンズからしばらくは馬で走った。
パラスはサンファール北端の町から、山脈ひとつを越えた場所に位置する国だ。一週間進んだのち、ルナティンは国境沿いのトーヤ山中腹で馬を預け、その先の行程を徒歩に変えた。
そうそう険しい山ではなかったし、子供の頃何度か登っていて馴染みがあったから、予定どおりの日程でパラス最南端の町へ到着した。
その辺りで、ルナティンは奇妙な違和感を覚えていた。
妖霊の気配が、そこかしこでするのだ。
ルナティンは『聖なる力』の持ち主ではあったが、洗礼も受けておらず、術者としての|存在階級《クラスが低いので、妖霊の姿そのものを見ることはできない。ただ妖霊や、精霊の気配を察知するのがせいぜいだった。
自然から生まれたものの多くには、聖なる力を帯びた精霊が宿っている。もしくは精霊とは、聖なる力を具現化した、力そのものだともされている。
『聖教典』の教えによれば、精霊の宿った樹や花や石などが多くあれば、人は心平らけく健やかに過ごすことができ、精霊により聖の力を帯びた様々なものが集まって、聖域と呼ばれる場ができる。そこから新たに生まれ、生み出されしものは聖霊と呼ばれて人や物の守護になり、さらなる福音をもたらすという。
対して妖霊は人の邪念を好みその気に寄り憑き、力を蓄えて災いを喚ぶ。妖霊の好物は聖なる力だ。妖気は精霊や人の聖の領域にある力を喰い潰し、その気を邪に変え自らの力とする。それを払うことのできる唯一の存在もまた、聖なる力のみ。
人にとって、聖なる力とは、邪悪を排する力とも邪悪を取り込む礎ともなる。妖霊が育てば邪霊に変わる。そうなるとすでに、神から強大な力を授かる洗礼者にしか退けることができない。
その町は、妖霊の気配が強すぎた。不審に思ったルナティンは、とりあえず落ち着いた先の、宿屋の主人に訊ねてみることにした。
「この町には、祭司はいないの?」
「おりますが」
宿屋一階に店を構えた酒場。
いくつかのテーブルとカウンターを囲んで、十人前後の男たちと女が酒を飲んでいた。
ルナティンは、ひとり座るテーブルへ食事を運んできた主人の答えに、さらに不審を覚えた。
祭司は、町の中心部に必ずひとつある教会で、町の守護を司っている。精霊を護り妖霊を排する力を持つ祭司は、何ヵ所かの聖域を選び、そこへ結界を作り出すのが務めだ。それにより邪な霊は退けられるはずなのに。
「祭司がいて、どうして結界も張ってないんだ……」
ひとりごとに近いルナティンの問いに、主人は笑いを返してきた。
「そんな馬鹿なことがあるわけないでしょう、お若いお客さん。この町には、立派な祭司さまがちゃあんと結界を張って下すってますよ。その証拠に、妖霊のひとつも出入りしてない、よい町でしょう」
「妖霊がいない? いや、だって」
「よう美人の兄ちゃん! そんなつまんねぇ話なんてしてないで、こっちに来て飲まないか!」
反論を試みたルナティンは、唐突に首へ回された太い腕に、ぎょっと振り返った。間近に、商人らしい風情の男の横顔があった。
「うわ、何だよおっさ……」
「――悪いことは言わない。この町から……、この国で無事に暮らしていきたかったら、よけいな口はきかないことだ」
「!」
素早く耳打ちしてきた男を、ルナティンは驚愕して見上げた。
目が合うと、男はすぐに陽気な笑みを浮かべて、ほとんど強引にルナティンを座っていた椅子から引っ張り上げた。
「ほらっ、新顔だ! パーッといこうぜ!」
男がルナティンを引き摺りながら、店内に向かって叫ぶと、四、五人いた客たちが揃って歓声を上げた。
「おい親父、酒追加!」
「よーし坊や、たっぷり飲ましてやっから覚悟しろよ?」
脳天気なはしゃぎぶり。その店に馴染んだような様子から、おそらくこの界隈の住民たちだろうが、その姿はとても妖霊がまとわりつく町の人間のものとも思えなかった。男に背中を押されてその輪に加わりながら、ルナティンはひとりうろたえた。
「お、おい、いったい……」
「いいから、余分なことを口走らずに、黙って酒でも飲んでな」
再び小声で忠告した男に、ルナティンはふと気がついた。男の言葉には、かすかなサンファールの響きがあったのだ。隣接したサンファールとパラスの国の言語に基本的な違いはないが、細かなイントネーションが違う。
(こいつ、サンファールの?)
そんなことを気にしたのは最初の頃だけで、元来酒好きの上お調子者なルナティンは、男に乗せられたこともあっていいだけ酔っぱらった。この町に対する違和感も、男の正体についても、すっかり忘れて明け方近くまで酒盛りに興じ、どこをどうやって歩いたのか、気がついた時には宿屋の一室の寝台で横になっていた。
目が覚めたのはすでに正午近く、ルナティンは慌てて出発の支度をした。用のあるパラスの都市リマリヤへは、その町から優に一週間はかかる。この日の昼下がりには、次の町に辿り着く予定だったのだ。
それでもルナティンはどうにか昨晩のことを思い出し、男の姿を捜して宿の中や酒場を歩き回った。だが宿屋の主人に聞けば、男はすでにどこかへ発ってしまったあとで、結局「サンファールからやってきた旅商人」『らしい』ことしかわからなかった。
諦めて自分も宿をあとにしたルナティンは、道を進む内、違和感を昨日よりもさらに募らせた。リマリヤへと続く森の中へ足を踏み入れた時には、それは誤魔化しようもないほど強烈な感覚になっていた。
ルナティンの覚えている限りでは、その森には、細いが人為的な道が存在していたはずだ。だが、その道は高い雑草に埋もれて隠れてしまっている。ルナティンは記憶を頼りに、鬱蒼と茂る木々と草を掻き分け、森を進んだ。
パラスは常春の国、美しい自然を賞でにやってくる旅人や詩人も多い。最も美しい花の都、リマリヤへ向かうためにこの森を通る人間はあとを絶たない――が、人影は、その時ルナティンのものしか見あたらなかった。
旅人に、木蔭と涼風を与え、木々の精霊が疲れを癒やしてくれるはずの優しい森だ。しかし吹きつけてくるのは、涼風というより冷風、寒風に近かった。風は木立の間をぬい、唸るような音を上げている。
道沿いに進んで、男の足なら一時間足らずで抜けられる森なのだ。それなのに、ルナティンがどれだけ歩いても光が見えなかった。木洩れ日すらその姿を覗かせることがない。ランプを掲げなくては、危なくて歩くこともままならいないような有様だった。そして妖霊の気配は、森を深く進むにつれて、増してゆくばかり。
思っていた時間の倍ほどを歩いても、ルナティンの行く手を阻むように生い茂る植物たちは、途切れることすら知らなかった。
少し休もう、そう決めて足取りを止めた瞬間、懐に入れておいた守護石が悲鳴を上げるように激しく軋み、砕けてしまった。出発前に母親エイリアから授かった、バーンズ城直轄の大神殿御謹製である聖なる護りの石が。
(これは……)
小袋の中で光を失い、砕け散ったアミュレットを見降ろして、ルナティンは眉根を寄せた。
白魔法を使えないルナティンは、アミュレットと共に妖霊からの防禦手段をも失ったのだ。途端に激しい頭痛と嘔吐感に見舞われる。
それでも何とかよろよろと歩き続けたが、足がもつれて草地に膝をつき、ひとけのない森の中で、ルナティンはとうとう動けなくなってしまった。
(まずいな……)
焦る気持ちとは裏腹に、地へ伏した体は痺れたように動かない。元々、ルナティンは妖霊の気配に敏感なたちだった。母エイリアはもちろん、すでに亡くなったという顔も名も知らない父方の血統にも、聖なる力が入っていたらしい。その両方の血を確実に受け継ぎ、ルナティンが持ち得る力はそれなりに強かった。
(くそ、こんなことなら、結界を張る呪文のひとつでも覚えときゃよかった)
声を出す気力もなく、ルナティンは内心でそう舌打ちした。
幼少の頃、息子に自分と同じく強い力を感じ取ったエイリアは、王都で修行をすることは自分の立場上できないが、どこか他の町で神殿に入ってみるかと訊ねてきた。そして、ルナティンは「面倒だからいい」と至極わかりやすい理由で断った。
十四歳になった時、バーンズの隣町の祭司がスカウトに来たが(それは実に名誉なことであったにも関わらず)、ルナティンは以前と同じ理由で丁重にお断りした。
十六歳になった今年で一般教養学校を卒業し、以来その上級学校に進むことも、定職に就くこともなく、フラフラとその日の糧を得るために仕事をしては遊び歩くという生活を続け、放埒家の名をほしいままにしていたのだ。
気づくと、妖霊の気配がルナティンの頭上まで迫っていた。
感覚が強いだけで、妖霊を浄化することも捕縛することも払うことすらできないルナティンは、その邪念を全身に受け、さすがに危機感を抱いた。ルナティンの指向性のない聖なる力など、妖霊たちには格好の餌だ。このままでいれば心ごと乗っ取られて、妖魔に変容してしまうかもしれない。そうやって、他の者を襲い始める人間の話は聞いたことがある。
一度妖の領域へ足を踏み入れてしまえば、そこから抜け出すことは容易ではない。大抵は、自分を失くして完全な魔族へと生まれ変わるか、運がよくて聖職者に浄化される、つまり存在そのものを失うことが『できる』かだ。
(妖魔になるなんて、冗談じゃない)
意識がなくなればもう終わりだ。しかしルナティンには、すでに森を抜ける元気も、立ち上がる力すら残っていない。
(――そのくらいだったら)
痺れた腕で荷物を探る。護身用のナイフが入っているはずだ。短刀などで胸を突いて死ぬのは難しいだろうしそりゃあ痛くて苦しいだろうが、仮にも稀代の巫女と謳われた母の名を汚すよりはよほどましだった。
短刀を探り出し、その柄を握り、目を閉じる。ぎりぎりまでは頑張るつもりだ。でも、覚悟は決めておかなければ、一瞬の迷いで取り返しのつかないことになる。
(母さん、情けない息子で勘弁な)
と――。
「……え?」
瞑った瞼、瞳の奥にふっと光が射し込んできて、驚いたルナティンは目を開けた。
「眠るのは寝台の上だけにしとけよ坊主、風邪ひくぜ」
からかうような声のあと、辺りへ高らかに言葉が響いた。
「主は我が守護者、我が神は我が避処、我は神に因りて望みを抱く」
男の右手には鈍く光を放つ石が握られていた。おそらく精霊の宿る石。
ルナティンが目を瞠る先で、まるで石が膨張するようにその光は増し、音を上げて辺りへ広がった。
「光刃、光輪、我が佑けとなりて闇を払い、邪悪を討て!」
ルナティンはまぶしさに目を瞑り、瞼に灼きついた光が薄まる頃には、体を押さえつけるような重苦しい邪霊の気配がなくなっていた。あっという間のことだ。男の力にルナティンは驚いた。
(払ったわけじゃない)
浄化されたのだ。
「……おっさん……」
ルナティンは二重の驚きを隠しきれずに男に呼びかけた。助けてくれたのは、昨夜酒場で会ったあの男だったのだ。
「おいおい、命の恩人に向かっておっさんはないだろう」
「おっさん、それって詐欺じゃねえ……? どう見たってあんた、聖なる力を持ってる人間には見えないって……」
動けない体のまま、ルナティンはへらへらと笑った。体を蝕む瘴気と吐き気は消えていたが、相変わらず手足が痺れている。
男はかなりの長身で、がっしりした筋肉が服の上からでもわかった。着ているのは商人が身につけるような服。腰には護身用の大太刀がぶら下がり、背中には旅商人が持ち歩く木箱。これではどう見たってただの商人、無理して剣士も兼ねた商人といったところだ。
しかし、妖霊を払うだけでも捕縛するだけでもなく、精霊との契約もなしに石ひとつを媒介として一気に浄化させられるなど、相当な力の持ち主と見て間違いない。
「商人? 剣士? 両方?」
男に上半身を起こしてもらいながら、ルナティンは先刻のお返しとばかり、からかい口調で訊ねてみた。
「いや。さすらいの聖神官だ」
男が極めてまじめな口調で言い、ルナティンはそのまま後ろにひっくり返りそうになった。
「おいこら、大丈夫か坊主」
「ぜんっぜん、信憑性がないって言っていい?」
「なくてもそうなんだから仕方ないだろ」
立たせてもらったはいいが、ルナティンは自力で立ち続けることができずに、仕方なく木の根本へ腰を下ろした。男を見上げる。
「そもそも、何で神職にある人間がこんなとこにいるんだよ。おっさんサンファールの人間だろ? 神官、しかも聖神官ってなら、バーンズの大神殿に仕えるのが筋ってもんじゃないか」
「そう、バーンズの聖神官シノンといえば、俺のことだよ」
「胡散臭え……」
ルナティンは、言葉どおりの表情で男、シノンを見上げた。
神官レベルになると、町の教会ではなく国に点在する神殿で神事を執り行うのが普通だ。上級の神学校で学び、決められた厳しい修行をこなし、与えられた試練を受け初めて選別の儀式に参加できるという。ある程度の聖なる力があれば比較的楽になれる祭司とは違い、神官の大抵は幼少の頃から正規の教育を受けた、いわばキャリア組のような存在だ。
祭司から経験を積んで神官になる者も稀にあるが、男は神職者にしては未だ若く、三十代後半か四十代前半程度に見えるので、おそらく幼い頃から神学校で学んだ口だろう。それも、聖神官を名乗っている。
通常、祭司は神官が選別する。
神官は上級神官が選別する。
上級神官は聖神官が選別する。
そして聖神官は、セイマー神の力を直接受け継ぐとされるサンファール国の王自らが選別し、国王を介して洗礼を受けたほんの一握りの人間だけにしか名乗りを許されない、異常に倍率の高い職業なのだ。
ルナティンが見たことのある下級の神官すら、すでに七十の老齢を迎えた、しわしわの歳寄りだった。それがこの若さで、よりによって聖神官。胡散臭いの一言だ。
男はルナティンの胡乱げな目つきに向かって、にやりと笑った。
「ちょっとばかりわけありでな。しかしおまえさんこそ無茶やらかすじゃないか。見たところ、聖なる力を持ってはいるようだが、防禦機能までは持ち合わせてないんじゃないか? それでこの森に入るなんて自殺行為だぞ。やたら強い邪気が集まってきたのに俺が気づいて飛んでこなきゃ、今頃おまえさん、妖霊の餌食だ」
「んなこと言ったって、俺、昔もここ通って無事にリマリヤまで行けたんだぜ?」
「何年前の話をしてるんだ。今現在の、この汚濁した空気がわからんのか? 妖霊や邪霊がうじゃうじゃしてるだろう」
「邪霊まで……!?」
ルナティンは愕然と呟いた。たしかに、あまりにひどい邪気は感じた。だが、森という、普通ならば精霊が数多く宿るはずの場所で、邪霊まで跋扈しているとは。
特にこの森は、リマリヤへと至る重要な道筋だ。人の出入りが多いはずの場所へは、結界が張られ、妖霊すら入り込めないのが常識ではないか。
王都の大神殿では、全国に散らばる神殿、教会を統括し、妖霊の動きを監視している。祭司レベルでは対抗できない妖霊が発生した場合、ましてや邪霊の存在が確認されれば、すぐさま大神殿まで報告する義務が、祭司たちにはあるのだ。
パラスの守護神は女神メリイサ。
主神は違えど、サンファールとパラスのシステムはほぼ同じはずだ。その上で、邪霊の存在があるとなれば。
「祭司は何をやってるんだ……」
ルナティンは、宿屋の主人の言葉を思い出す。祭司はきちんと結界を張っていると言っていた。あんなに激しい邪気、妖霊の気配が満ちていたというのに。
「たしかこの森を戻ったところにひとつ、教会があったはずだよな。様子を見てきた方がいいんじゃないのか?」
国境を越えた管轄外とはいえ、聖職者として見過ごせるものでもないだろう。そう思ってルナティンが言うと、シノンは少し眉根を寄せてルナティンを見返した。
「祭司はいるし、教会もちゃんとしている。祭司は毎日聖域に赴いては、結界を張るための祭壇を整えていた。様子ならとっくに見てきたんだよ」
「だって、結界は」
「張られているんだ。いや、張られているはずなんだ。聖域が不浄の場所でなく、オルターに捧げられるのが正しく聖の気を帯びたものであるのなら」
「え?」
問い返し、ルナティンは表情を曇らせる。
誤ったオルターを整え、穢れた地に毎日結界を張ろうとする祭司。
「なら、祭司が狂っているのか……?」
ルナティンに、シノンが静かに首を振った。
「いや。祭司が狂っているわけじゃない。それならば町の他の人間が気づくはずだ。あの町は、誰ひとりとして自分たちの守護を疑ってはいない。狂っているのは、町そのものだ」
「――」
ルナティンは返す言葉を失くした。
シノンの言うことが信じられなかったわけではない。町へはびこる邪気。それに気づくふうもなかった昨日の宿の主人や、客たちの様子。そしてこの森の現状。考え合わせれば、どうしてもシノンの言葉が否定できなくなってしまったのだ。
「どういうことなんだ?」
ルナティンは、どうにか乾いた声で呟いた。
「こんな話聞いたことない。町そのものが妖霊に侵されるなんて、ありえるのか? だって聖なる力は最終的に妖の力を打ち破ることができるはずだろう? 『聖教典』がある限り」
ルナティンが言うと、シノンが溜息を返した。
「そうか……未だサンファールの民は気づいていないのか……」
ひとりごちるような男に、ルナティンは首を傾げながら訊ねた。
「何の話?」
「いや、まあ、そうだな……。この現状を見ているおまえさんに、今さら隠し立てしても仕方がなかろう」
「だから何」
「『闇教典』のことは知っているか?」
「『闇教典』……?」
ルナティンはおうむ返しに呟いた。聞き覚えはたしかにある。昔に、エイリアからその名は聞いていた。
「まさか」
嫌な予感を覚えて、ルナティンはシノンを見上げる。シノンは苦い顔つきをしていた。
「あれが見つかったっていうんじゃないだろうな!?」
思わず声を荒らげて訊ねたルナティンは、シノンが頷いたのを見て慄然とした。
『聖教典』と対になる『闇教典』。
人々へ、聖なる光と安らぎをもたらすための教えがすべて記された書。聖職に就く人間が必ず右手に携えると言われる『聖教典』。
が――。
人々に邪心と争い、不信腐心をもたらす邪悪な呪術が記された『闇教典』。
黒の魔導士が持つ呪術書はいくらかある。大抵は禁忌となって、宮廷図書蔵へ保管あるいは封印、場合によっては術で焼き捨てられる決まりだ。取り締まる国の目を盗んでそれらを手にするのは、ひたすら裏街道を突っ走る、根性のある魔導士くらいだろう。
大抵の魔導書は、妖力を持つ人間のために闇の魔導――たとえば人を傷つけ、滅ぼしたり、この世にあり得ない生物を作り出し自分に服従させるような――を行う方法を記したもの。
だが闇教典は、他のどんな魔導書とも違う。
人から、そして世界から光を消し去り、安らぎを奪うためのシステムそのものが記されているというのだ。
いつ生み出されたのか、誰がその存在を伝えたのか知る者のない闇教典は、実物が世に出ることなく、名前だけが忌み怖れられながら今まで語り継がれてきた。どこにその書があるのか、果たして本当にあるものなのか。誰も知らないから、人々は心の平穏を保ってきた。
だがしかし、闇教典が本当に存在するとなれば。
「おい……それって、かなりやばいんじゃねえ!?」
「ああ。やばいんだよ」
顔色を失くすルナティンに、シノンが困ったように頷いた。
「俺も、その噂を聞いたのはほんの一年ほど前なんだ。魔導士の裏ネットワークから入手した情報なんだがな」
「ちょっと待ておっさん、何で神職にいるヤツが、魔導士のネットワークを知ってるんだよ」
「そこはそれ、ほら蛇の道は蛇とか言うじゃないか」
「それちょっと違うんじゃ」
「やかましい、いいから聞け。それで、噂を確かめるためにバーンズの神殿では調査に乗り出したんだ。そのうちに、どうも噂が下ってくるのは北の方から、つまりパラスが臭いってことになってな」
「この国が……」
「そう。バーンズの神殿に対するパラスの態度が、急に素っ気なくなったのも気になった。年に数度行われるはずだった神殿の研究会や報告会が、何だかんだとあちらさんの都合で潰れたりと、まあ先触れはいくつかあったんだ」
「……」
「だから、俺は可愛いひとり息子もほっぽいてこの国へ出張だ。まだ十をいくつか過ぎたばかりだってのに」
「一年も?」
立っている男を見上げる格好で、ルナティンは訊ねた。男が苦笑する。
「まさかこんな事態になるとは思ってなかったのさ。パラスの神殿に何度か使者を出したが、まるで取り合ってくれなかった。よけいな口出しは内政干渉と見做す、なんて言われたらこっちにごり押しのしようはない。仕方なく極秘裏にパラスへ調査を差し向けることになって、選ばれたのが聖神官の中でも、ま、最も若く優秀なこの俺ってことだ。目立つとまずいんで、お供もないひとり旅だよ」
「で?」
「で、もう国中を歩き回ってる。実態がまるで掴めないんだ。この国が妙だってのはわかる。この町だけじゃなく、同じような状況の場所をいくつも見たが、それが闇教典のせいかどうかは確かめることができないん。ただこの数ヵ月での大気の腐蝕がひどくてな。瘴気が渦巻いているのすら目に見えるほどだ。だからもっと人手を寄越してもらおうと、何度かバーンズの神殿に手紙を書いたんだが……」
「邪霊かなんかに阻まれたとか?」
「いや、それなら問題は――まああるが、障害はそれだけじゃなかったんだ」
男は表情を曇らせた。
「俺だってこれでも聖神官だ。そこらの妖霊邪霊なんて、ものともしない自信はある。実際手紙には強力なシールドをかけたさ。半端な妖力なら跳ね返す程度のな。だが、邪魔をしたのはパラスの郵便屋さんだ。ここでは人間も妖霊の手先だ。誰にも自覚がないんだ。祭司と同じように」
ルナティンもシノンと同じような顔になった。
「なるほど、それで昨日の態度か……」
「ああ。だから彼らは妖力に対して何の違和感も感じないし、こっちが下手に事実を告げようものなら、町総出で袋叩きなんて憂き目に遭いそうになったこともある。仕方なく、俺はこうやってひとりで町々を巡って調査してるってわけだ」
「でも俺の感触だけど……町の人たちが魔物に変わったってこともなさそうだよな?」
ルナティンにシノンが頷く。
「刺激を与えなければおかしな反応はないし、いたって普通の生活を続けてる。だからかえって、それがおかしいんだ。なぜ、この瘴気に満ちた町の中で人が平然として暮らしていけるのか」
「たしかに……」
ある意味、人々はすでに妖の領域に位置しているというのだろうか。
「でもさ、こんなに大変なことになってるんだから、手紙なんて回りくどいことしてないで、おっさんが一度バーンズへ直接戻ってみればいいんじゃないか?」
ルナティンが、何でこんな簡単なことに気づかないのかと訊ねてみたら、シノンは困ったような顔になり、右手でつるりと顎を撫でた。
「俺もそう思う。けど、山が越えられないんだ」
「山? トーヤ山?」
そうだ、とシノンは困ったままの顔で頷いた。
「何度登っても、サンファールに降りたつもりがまたパラスに着いてるんだ。どんなに気をつけても、目印をつけてみても無駄で、おそらく強力な目眩ましの術がかかってるらしい」
「なっさけねえな、おっさん、腐ってもバーンズの聖神官だろ。そんくらいの術、ぱーっと破っちゃえよ」
「無茶言いなさんな。並の力じゃないんだぞ。何たって、術の気配がないんだからな」
「気配がない?」
「山のどこからアプローチをかけても、結果は同じだ。ってことは山脈全体、下手すると国境を取り囲むように何かしらの結界のようなものが張られているのかもしれない。船で海に出てみても同じことだったからな」
パラスは一方をサンファールへ通じる山脈に、一方を広大な樹海に、残りを海に囲まれている。樹海はよほどの重装備をしても渡り切るのが難しく、しかも辿り着く先は生きた人間のいないという死の国、ラムダ。
山も海も道先が塞がれていれば、たしかにこのパラスからバーンズへ戻る手段はない。
そしてそれだけの大がかりな術なら、行使される妖力も常識では測りきれないほどの大きさであるはずだ。
「白魔法で作った結界なら、悪しきものを排除しても、同じ聖の属性にある力を拒むはずがない。だからこれは、おそらく黒の方の力で作り出したものだ。そして黒の魔導で起こした結界ならどこかに力場がなくちゃおかしい。それなのにその場所の特定すらできないんだ」
「特定できないって……」
「少なくとも、俺がこの国へ来る前に神殿から出した使者はきちんとバーンズまで戻ってきているから、術が施されたのはそのあとだろうな。それはわかる。だが、そこまでだ」
苦り切った顔でシノンが説明する。
「誰が、何のために、どうやって作った結界なのかわからないから解呪のしようがない」
「じゃあ、ひょっとして俺もここを出られないとか……」
「かもな」
あっさりと言ってのけたシノンに、ルナティンはカッとなって喰ってかかった。
「そんな! 一生バーンズに帰れないなんて、冗談じゃないぞ!」
「ああ、冗談じゃないんだ」
わめくルナティンとは対照的に、シノンは落ち着いた口調で諭すように言った。
「いいか、坊主。これは冗談ごとなんかじゃない。現実だ。だったら、わめき立てる前に冷静になって対処法を考えろ。感覚ばっかり強くって自分の防禦手段すら持たないガキが騒いだところで、何の得るところがある? ――わかったら落ち着け。よく考えろ」
ルナティンはシノンに肩を叩かれて、軽く唇を噛んだまま頷いた。彼の言うことはまったくの正論だった。
シノンは笑ったようだった。
「よし、さすが男の子だ」
「子供扱いするなよ。俺は坊主でもガキでもない、ルナティンだ」
ムッとして言い返すと、シノンがふと妙な顔つきになった。まじまじルナティンを見下ろし、その名前を口の中で繰り返す。
「ルナティン……」
「何だよ」
その反応に怪訝になりかけたルナティンは、ふと思いついてシノンを見返した。
「もしかして、聖神官ってことはおっさん、いつもならバーンズの神殿にいるんだよな」
「ああ」
「じゃ……知ってるとか?」
「……。そういえば、髪や瞳の色が同じだな。顔立ちもよく似ている。エイリアも綺麗な姿をしていた」
シノンはルナティンの煉瓦色の髪と瞳を見下ろし、目許を和ませた。
「まさかこんなところで会えるとは思っていなかったよ。おまえさんはまあ覚えていないだろうが、ほんの小さな赤ん坊の頃のルナティンを、俺は知っているんだぜ。そうか、あの時の坊主か。大きくなったもんだ」
思いがけなく昔の自分を知っていた人間に会って、ルナティンはそこはかとなく面映ゆい心地になった。
「母さんとおっさんは、親しかった?」
「エイリアが書師になって以来、滅多に顔を会わすことも少なくなったけどな。彼女が神殿の巫女だった頃にはよく話をしたよ。あれだけの美人だったから、神官たちもこぞって彼女の気を引こうと必死でな。神に仕える人間が不謹慎なことだが、あれほど綺麗で優しい心を持つ人間だったら、誰だって惹かれる」
「……」
「エイリアは元気か? サンファールを発つ前から、会う機会もなかった」
「さあ。病気だって報せはこないから、元気だと思うよ。俺もここしばらく会ってないんだ。滅多に……まあ、会えないもんでさ」
「そうか。そうだったな」
シノンはぽんぽんと、母親譲りの髪の色を持つルナティンの頭を叩いた。
「俺にも息子がひとりいるんだ。今年十二になったはずだから、おまえさんよりもうちょっと坊主だな。バツーって名の、めっぽう明るい子だよ。もう一年会ってないがな」
「そっか。元気だといいな」
笑って頷くと、シノンはそのまま地に腰を下ろすルナティンの前へ膝を落とした。口の中で何かを呟き、次第にルナティンの体に宿った不快感が消えていく。白魔法で、妖霊の邪気に中毒ったルナティンの体を癒やしてくれたのだろう。
「さっすが、腐っても聖神官、詐欺師でも白魔法士。楽になったよ、ありがと」
「だーれが詐欺師か。――とりあえず、この森を抜けよう。また妖霊たちが寄ってきた。たからせないようにするのも体力を使うんでな、結界を張るより逃げた方が早い」
シノンに手を貸してもらい、ルナティンは立ち上がった。
「聖神官なら、妖霊の姿が見える?」
「いや、そうはっきりとは見えないな。どれも形を作れるほどには大した力を持っているわけじゃない。ただ、数が半端じゃないから澱みがひどいんだ。おまえさん、見えなくて正解かもしれないぞ」
妖霊にしろ精霊にしろ、強い力を持つ存在ほどその姿が明瞭になる。見る側の力が強ければなおさらだ。力が強くなるにつれて人型に近く、完全な人型となれば高い知能も持つ。人間と同じ言葉を話すものもあるという。シノンの話では、パラスに蔓延っているのはほとんどが力の強くはない妖霊たちで、しかし精霊の数を遙かに凌駕しているため、どんどん空気が汚濁していっているらしい。
「早い処置が必要なんだがな……」
呟くようにシノンが言った。
それから、ルナティンはシノンに導かれ、どうにか森を抜けた。そのままリマリヤへ向かうほどには力が残っていなかったので、その途中にある小さな村で宿を取り、ふたりでそこへ落ち着いた。
◇◇◇
「ところで、おまえさんはどうしてパラスまでやってきたんだ?」
宿屋には他に旅人の姿もなく、どこか閑散としていた。その部屋の中で、シノンが寝台へ寝ころぶルナティンに訊ねた。
「人に頼まれて、リマリヤまでお届けもの」
ルナティンは寝台に載っている自分の荷物を叩いてみせた。
「俺も中味は知らないんだけど。ただリマリヤのガドナーって人に必ず手渡してくれって、頼まれたんだ」
「ガドナー……?」
ふと、シノンが怪訝な顔をした。
「何だよおっさん、知り合いか?」
「知り合いではないが、知ってる。リマリヤのガドナーっておまえ、その筋じゃ有名な黒魔導士だぞ」
「……は?」
ルナティンは寝台に起き上がり、鞄を見下ろした。
依頼主からはもちろん、そんなことを知らされてなどいない。ただこれを「大事なものだから、決して封を開かずに届けて欲しい」と言われただけだ。
「おい坊主、そんなこと、いったいどこの誰に頼まれたんだ?」
「イクサの祭司さまからだけど」
「バーンズの隣町の? レンか?」
「知ってんの?」
「ああ、こっちこそ正真正銘の知り合いだ。同期だったからな、神学校の」
「同期? だってレン様って、その……あんたみたいな聖神官とは違って、こう言っちゃ何だけど、町の教会にいるような……」
「レンは優秀な白魔法士だ。ただ、理想が高すぎて神殿とは肌が合わなかったみたいだな」
シノンも、ルナティンの鞄を見下ろした。
「自分の無力さを自分で責め立てるような人間だった。神殿に居て何ができるのかと任官を拒んだが、それでも何をしないわけにもいかなかったんだろう。イクサのような小さな町に祭司としてとどまるのは、レン本人が望んだことだ」
「そっか……レン様はすごく優しい人で、二年くらい前に、自分のとこで祭司になるための修行を積まないかって声をかけてくれたんだ。俺が断っちゃってからも色々力になってくれてさ」
父親のようだ、とルナティンはいつも思っていた。
エイリアに会うことは思うようにできず、祖父母が死んで以来、ひとりで暮らしていくのはやはり淋しかった。イクサの教会に行けば、穏やかなレン祭司がいつも優しく出迎えてくれる。それが嬉しくて、ルナティンは何度もその場所へ足を運んだ。
父親を知らないルナティンは、もし自分にその存在があれば、きっとこんな人だろうと想像していたのだ。
「そのレンが、いったいガドナーに何の用があるっていうんだ?」
シノンは考え込むような顔になった。
「仮にも祭司が、子供を使者に立てて、黒魔導士へ何の届け物をする必要がある」
呟くと、シノンは大股にルナティンのいる寝台へ近づき、ひょいとその鞄を持ち上げた。
「推測だけじゃらちがあかん。開けてみよう」
「ちょっと待てよ、勝手に開けちゃまずいって! 開封しちゃ駄目だって言われてるし、他人様のものだぞ!」
慌てて制止しようとしたルナティンの声も無視して、シノンはさっさと鞄に手を突っ込んで中を探った。
「あ、ひっでー! 聖職者のくせに、信じらんない!」
ぎゃあぎゃあと文句を並べ立てるルナティンを無視して、シノンが取り出した木箱をじっと見つめた。
「シールドされてるな」
「だからぁ、開けちゃ駄目だと」
「よし、解呪してみよう」
「おいこら、おっさん!」
シノンはルナティンに構わず、封印された木箱を開こうと、呪文を唱え始めた。ぼんやりとその指先から白い光が湧き起こる。シノンがそっと指を木箱に近づけた瞬間、
「!」
パチッと弾ける音がして、木箱と触れ合った指から火花が散った。シノンが軽く舌打ちする。
「強力だな」
ルナティンはシノンを止めるのをやめ、その様子を見守ってしまった。聖神官であるシノンにすら、容易に解けないシールドの魔法がかかった品物。その中味が何なのか、つい興味を抱いたのだ。
もう一度解呪を試みたシノンにより、木箱が開かれた。
「……何だった?」
シノンはしばらくはこの中味を眺めると、そのままもう一度蓋をしてしまった。ルナティンの問いに、溜息で答える。
「なあ、中味何だったんだって」
シノンは険しい顔つきになって、無言のまま閉ざされた木箱をみつめていた。
業を煮やしたルナティンは、寝台を飛び降りてシノンのそばまで歩み寄った。木箱を取り上げようとしたが、シノンに躱される。
「もー、どっちかっていったらそれ、俺のものなんだからな!」
「ルナティン」
睨みつけた相手と真っ向から目が合って、ルナティンは軽く目を瞠る。シノンは相変わらず厳しい表情をしていた。
「これは、黒の魔導で使う道具だ」
言われて、ルナティンはシノンと木箱を交互に見較べた。
「魔導?」
「そうだ。しかも、かなり高等な術を使う際に必要なものだと思う。これ自体の気が半端じゃない」
「ああ、だから、悪用されないようにレン様がその箱へ封印して」
言いかけて、ルナティンはそのまま続く言葉に詰まった。
(違う)
ならばなぜ、黒の魔導使いなどにそれを届ける必要があった?
シノンはじっと箱を見下ろしている。
「これは封印されてたわけじゃない。妖の気配を消す魔法がかかっているだけで、術自体はすでに発動していたんだ」
「術って……どんな?」
胸に何か嫌なわだかまりを感じながらルナティンは訊ねた。
どこかとても、嫌な感触だった。
「これはおそらく、より強力な妖霊を集め出すための道具だ。呼子笛みたいなものだな。音ではなく気で邪悪なものを喚び寄せる。妖霊を集めて育てれば邪霊になり、さらに力を蓄えさせて上手く操れば、術者に絶対服従の生き物が作れるってわけだ」
シノンが忌々しそうに短く息を吐き、
「なるほどよくできたからくりだ。妖霊の最も好むのは言うまでもなく聖なる力だろう。そんな力を持った人間が、このとんでもない代物を今のこのパラスで持ち歩いてみろ。一歩ごとに妖霊が増えて力を喰い潰し、リマリヤへ着く頃には立派に術の完成だ」
「ちょ……っと待って、その、聖なる力を持った人間て」
「そりゃ言わずと知れた」
ぽん、とシノンがルナティンの肩を叩く。ルナティンは瞬間絶句した。
「な……っ」
「おまえさん、レンの奴に一杯喰わされたんだよ」
「何で……!」
思わずルナティンは、シノンの胸ぐらに掴みかかった。
「何でレン様が!? まさかあの人が俺を騙したっていうのか!? そんな」
続く言葉を失いかけ、ルナティンはそのまま寝台へ力無く腰を落とした。
「そんな……嘘だろ?」
「絶好の餌と言ったらそのとおりだったんだろうな。ある程度の聖なる力を持ち得ながら、邪悪を排するほどのクラスにない人間なんて、そうはいない」
「そんなの関係ないよ!」
声を上げ、ルナティンは寝台を拳で叩いた。
「そんなのはどうだっていいことなんだ。重要なのは、レン様が俺に嘘をついて、俺を……利用したってことで……」
言いながら、自分の言葉を信じられずに、ルナティンはそのまま両手で頭を抱えた。
「あの人がそんなことするなんて信じられない。信じない。レン様は本当に優しい、いい人だ。祭司としても町の人たちに慕われて、そんな、他人を裏切るなんてことするはずがないんだ」
「レンの真意がどの辺りにあるのか俺にはわからないが、これが魔導のためのものだってことは動かしがたい事実だ」
「……」
きっぱりと言ったシノンに、ルナティンは何も言い返せなくなる。
反論の余地がなかった。
「それにしても」
溜息混じりのシノンの声に感嘆の響きを感じて、ルナティンは眉をひそめながら顔を上げた。シノンは声音どおりの顔でルナティンを眺めていた。
「よくもまあ、おまえさん命拾いしたな。大した力だ」
「え?」
「術は発動『していた』、と言っただろう。今は静まっている。道具自体にまだ邪気は溜まっているが、術は無効化されたんだ。ルナティン、おまえさんのせいでな」
「俺のせいって?」
「おまえさんの持つ聖の力が、術を破ったんだ。妖霊が力を喰いきれなかったんだろう。その様子じゃ多分無意識だと思うが、妖霊に聖なる力を喰われるどころか、逆にそいつが妖霊を取り込んで浄化させちまったんだろうな。だからまだ、体が疲れてるだろ?」
言われてみれば、ルナティンの体は泥のような疲労に包まれている。シノンが癒やしてくれたから、痛みや嫌悪感は薄れているが。
「でも、俺にそんなことできるのかよ? おっさんみたいに聖神官とか、ご大層な身分でもない、ただの一般人だぜ?」
「そこだ」
言ったきり、シノンは黙り込んで、何かを考えている様子になった。
ルナティンも床に目を落として口を噤む。
考えるのは、父親代わりに等しい、優しかったはずの祭司のこと。
(まだ信じない。何か、きっと理由があるんだ)
レンを疑うことが、ルナティンにはどうしてもできなかった。
だから。
「サンファールに戻って……レン様に直接訊けばいいんだ」
そう決意して、ルナティンはシノンを見上げた。
「おっさん、パラスに張られた結界らしきものっていうのは、絶対に破れないの?」
「そうだな……」
訊ねられたシノンが、思案げに顎を撫でる。
「今少し考えていたんだが、この国に張られた結界っていうのは、この術と同じような目的を持っているのかもしれないな」
シノンが手にした木箱に視線を移す。
「妖霊と、その餌になる聖なる力をひとつの場所に集めて、外に出られないよう結界を張る。そうしてより強い力を持つ妖の生き物を作り出す。あるいは、この国自体を極めて邪悪な『場』に変えようとしている。最終的な狙いが何なのかはわからないが、そんなところじゃないかと思うんだ」
「うん」
「ってことはだな、おまえさんがやったように、場を解体することはできなくても、術を聖なる力で侵食して、突破口を開くのは不可能ではない――ような気がするんだが」
「それ、できる!?」
「断言はできないが、やってみる価値はありそうだな。ほんのいっときでいいから、結界の一部を力業で開いてしまうんだ。俺と、それからおまえさんの力を足してみれば、どうにか……」
ルナティンは、その万に一の可能性へ賭けてみることにした。
「駄目で元々だ、やってみようぜ。力……貸してよ」
そう頼んだルナティンの頭を、シノンが軽く叩く。
「お願いするのはこっちの方だ。よし、今日はとりあえず休んで、疲れをとってから試してみよう。ここで立ち止まっていても、何も変わらないからな」
そう意見がまとまって、とにかくその日は休むことにした。
幸いなことに、食物や水までは汚染されていなかったらしく、ルナティンとシノンは揃って食事を摂り、風呂で疲れを癒やして、陽が落ちる頃には床に就いた。
「なるべく早く休んで、明日にでもトーヤ山へ行って様子をみてきた方がいいと思うんだ。もし本当にこの結界の意味するところが俺の思ったとおりなら、もう一刻の猶予もないからな」
隣の寝台でシノンが言った。ルナティンは頷いて目を閉じたが、体は疲れているのに頭は冴えていて、すぐには眠れなかった。
「……おっさん」
明かりの消えた部屋の中で小さく呼びかけると、シノンはすぐに返事をした。彼もまだ眠っていなかったようだった。
「おっさんは、俺の母さんと一緒に神殿にいたことがあったんだろ?」
「ああ。俺も彼女も破格の出世頭だったからお互い多忙な身だったけど、彼女とは妙に馬が合ったし、仕事でもそれ以外のところでも付き合いはあったよ」
「そしたら……俺の、父さんのことも知ってる?」
「……」
暗闇の中でルナティンは目を凝らし、自分に背を向けて寝台へ横たわるシノンの姿を見つけた。
「……エイリアはとても優しい女だったが、変に頑固で気の強い部分もあった。譲らないところは決して譲らない、そういう人間だ」
「うん」
ルナティンは頷いた。たしかに母親はそんな気性の持ち主だ。
「だから、俺や周囲の人間がさんざん問い質しても、最後まで相手の名前は口にしなかった。彼女がそうと決めたら、それは絶対なんだ。誰も……多分、エイリアとその相手以外は知らないことだよ」
「……うん」
衣擦れの音がして、シノンが寝返りを打ったらしいことがルナティンにもわかった。
「でも勘違いはしないでくれよ。エイリアは生半可な気持ちでおまえさんを産んだりはしなかった。周り全体からどんなに責められても、詰られても、毅然と自分を貫き通した。相手の素性を人に話せなかったのも、彼女なりに何らかの事情があるはずなんだ。巫としても女としても誇り高かったから、もし意に染まない人間が相手だったなら、エイリアはきっと――おまえさんごと自分の命を絶つことすら厭わなかったと思う」
ルナティンは軽く瞼を閉じて、母親の姿を思い浮かべていた。慈愛に満ちた心と、凛然とした姿を併せ持つ美しい女性。ルナティンが彼女と過ごす時は、親子として考えれば少なすぎるかもしれないが、それでもルナティンはエイリアを愛しているし、尊敬していた。大切な存在なのだ。
「でもそうせずに彼女はおまえさんを産んだ。自分がどんな立場に追い込まれるかわかっていただろうにそうしたのは、間違いなく相手を、おまえさんの父親を愛していたからだ。もちろんおまえさんのこともな。それはわかるだろう?」
「それは勿論」
母親の愛情を疑ったことなんて、ルナティンには一度もない。
「でも、少しだけ納得はできないんだ。どんな事情があるにせよ、一度くらいは……顔を見てみたい。せめて、名前だけでも知りたい。そう思うのは、俺の我儘なのかな」
「だからおまえさんは、そんなに強い聖なる力を持ちながら神職に就こうとしないのか?」
シノンの言葉に、ルナティンは僅かに目を瞠った。
それから、ばさりと寝返りを打って、枕に顔を埋める。
「……わからないんだ。母さんは巫女の力を失わなかったけど、それは結果論でしかない。母さんが力を失くすリスクと引き替えに産もうとした俺が、何のために聖なる力を持っているのか。血って言ったら、それまでだけどさ。でもわからないんだよ。俺がいて、力を持っているっていうのがどういうことなのか。こんな半端な気持ちで仕えちゃ、セイマー神に悪いだろ」
「父親に会いたいのか?」
「……」
考え込むように少し沈黙してから、ルナティンは再び口を開く。
「答えを教えて欲しいわけじゃないけど……考えるきっかけにはなるかなって」
そう返してから、ルナティンは布団を引っ張り上げ、頭からそれを被った。
「あー、やめやめ、こんな辛気くさい話は! 明日のために俺は寝る!」
かすかにシノンが笑う気配がした。
「おやすみ」
「おやすみ!」
話すことを話したせいで気も疲れたのか、ルナティンはそのまま深い眠りに就いた。