第二章『白の王子』
彼が目覚めた時、目の前には冷静に自分をみつめる子供の顔があった。
「ふん、やっと起きたのか」
そして真っ先に降ってきたのは、つまらなさそうな、かすかに毒づくような声。
「まったく遠慮なく寝こけやがって。おかげでこの三日というもの、おれはソファで眠る羽目になったんだぞ、この、おれが!」
「……」
ルナティンはぼんやりと、何やら腹を立てているらしい子供の姿を見上げた。どうやら自分は寝台に寝ているようだ。その寝台の脇に、腕組みした子供が立っている。
子供は、まだはっきりとは覚醒していないらしいルナティンの様子に、大仰な舌打ちをひとつした。
「それなりの代償というものは覚悟しろよ。いいか、ただでさえおれは繊細なんだ。こんな埃っぽくて小汚い、馬小屋よりひどいところで暮らしてるおかげで病気になりそうなんだ。このガキが言い張らなくちゃ、おれはあの時すぐにでもおまえをそこら辺の道ばたに捨てるつもりだったんだぞ。それを助けてやったんだから、おまえは一生かけてもおれに尽くすつもりでいろ」
「……んあ?」
まくしたてた子供は、ルナティンの気の抜けた返事を聞くと、目を眇めて片手を伸ばした。ぎゅうぎゅうと相手の鼻をつまむ。
「いつまで寝呆けている。目が覚めたのならその間抜け面を改めて、おまえの事情なりをさっさと話さんか!」
頭ごなしに怒鳴りつけられて、ルナティンは一度大きく眉をひそめてから、ぎゅっと目をつぶった。
ルナティンがいるこの部屋は、見知らぬものだった。なぜ自分は、こんな部屋でこんなふうに寝ているのか。それに何より、なぜ自分がこんな子供――少なくとも、自分よりはずっと年下に見えた――に好き放題怒られなくてはならないのか。不思議になる。
(こんな子供に……)
そう考えた次の瞬間、ルナティンはハッとして目を見開いた。
「おまえ、バツ……痛ぇ!」
咄嗟に寝台から起き上がろうとしたルナティンは、胸元に走った鋭い痛みに思わず叫び声を上げ、そのまま寝台へ逆戻りした。
「馬鹿者だな」
その上から降ってくる、情け容赦ない一言。
「あちこち剣で斬り刻まれて丸三日間寝こけていた人間が、いきなり起き上がって無事にすむわけなかろーが」
「ぎ……っ」
子供の手が、ルナティンの胸を軽く押した。ルナティンは叫び声を喉で押し潰す。
「おっ、おまえ……何しやが……っ」
「無駄口はいいから必要なことだけ話せ。おれは生来寛大なたちだが、あいにくここ最近で忍耐力のあまりが底を尽きている。いいか二度は言わないぞ、おれの気が変わらないうちに、おれに話したいことがあるのならさっさと話せ」
ルナティンは目の前にいる子供の、あまりといえばあまりに尊大な物言いへ呆気に取られた。
驚いた拍子に思い出した。自分がすべきこと。ルナティンは人を捜しに来たのだ。『ラキウス』に住む『バツー』という子供を。
王都バーンズからはるばるこの田舎町まで死に目に遭いつつ足を運び、そして気を失う前に少女と子供のふたり連れを見つけ――。
「そうだ、おまえ、バツー!」
ルナティンは、今度はできるだけ慎重に寝台の上へ身を起こした。バツーが相変わらず冷たい目つきでルナティンのことを見遣っている。その眼差しに気づいた時、ルナティンは混乱した。
(あれは、夢……か?)
おぼろげに覚えている記憶。温かな光に包まれた自分の体。
今自分の目の前にいる子供の声には聞き覚えがある。優しく癒やしの詞を唱えた声。バツー、と名を呼びかけたルナティンに、たしかにその子供は頷いた。
しかし、どうもその時の印象と、今のバツーの印象の間には大きな隔たりがある。
ルナティンはとりあえず一番ひどい傷があったはずの自分の胸へ目を落とした。新しくはないが、清潔な衣服に着替えさせられている。そっと襟口から覗いた胸には白い包帯が巻かれて傷口は見えないが、あるべきはずの壮絶な痛みはない。注意すれば自力で起きあがれるほどには回復している。それに、胸の他にも無数の傷痕があったはずなのに、完治こそしていないものの、それらは数日寝ただけにしては考えられないほどに治癒している。
「あれ……?」
やはり、治療されているようだ。自分の傷がどれほど悲惨なものだったか、もちろんルナティンは承知していた。もしかしたらこのまま死んでしまうのだろうかと、半ば覚悟まで決めたのだ。
それがここまで癒やされているということは。
「やっぱりあれは、白魔法だった……」
ルナティンに間違えようはない。癒しの術は、過去幾度かこの体に受けたことがある。感触が同じだった。
そう考え――ルナティンは、瞬間的に寝台から降りようと体を動かし、途端にまた胸に痛みを感じてそのまま床へ転がり落ちた。
「何をやっているんだ、おまえは」
無様にひっくり返るルナティンに、呆れきった声がかかる。ルナティンは何とか起きあがり、きょろきょろ辺りを見回し寝台のそばにおいてあった水差しを片手でひっ掴むと、それを子供の方へ向けた。彼を威嚇するように睨み据えながら。
「で、いったい何の真似だ?」
もはや相手を罵る気力もなくしたような顔で、バツーがルナティンに訊ねる。ルナティンはずるずると壁に向かって後退り、痛む胸を片手で押さえながら必死でバツーを睨み続けた。
「おまえ、誰だ!?」
「――何?」
ルナティンの問いに、バツーはわずかに意表を突かれたような顔になった。
「おまえはバツーじゃない! 何者だ!」
「これはこれは」
バツーは軽く眉を上げると、笑いを含んだ顔になってルナティンの方へ近づいた。さらに、ルナティンが後ろへ逃げる。
「おれがバツーじゃないだなんて、何を根拠にそんなことを?」
「バツーをどこへやった! 白魔法を使ったあの子供は!」
「それならおれのことだ」
「違う! おまえじゃない、わかる。あの時俺を癒やしたのはおまえじゃなかった。わかるんだ。波動が違う。こうじゃなかった」
「……」
『バツー』は、口許だけさらに笑った。瞳の形は笑っていない。
「おもしろいな……」
そして、十をいくらか過ぎただけの子供には、決してそぐわない口調で呟いた。
「おまえこそ何者だ? ――ふん、まあ、そんなこと今はどうだっていい。わかるのなら仕方がないな、たしかにおまえを癒やしたのはおれじゃない。このおれが直々に術を使ってやってこの程度の治りと思われるのはあんまり気分のいいものじゃないから、見破ったのはまあ褒めてやろう」
「じゃあやっぱり……ッ」
「だが、おれがバツーじゃないとどうして言える? おまえを癒やした方が、別の者なのかもしれないじゃないか」
「違う。あの時、バツーは自分で名乗ったんだ。あれが真名じゃないのなら、俺が癒やされてるはずがない! それであっちのバツーは白の魔法で俺を癒やしてくれた! そのバツーのフリをしてるおまえの方が、どう見たって悪者! 決定!」
水差しをぶんぶん振り回してルナティンが子供を指し示すと、子供は軽く眉をしかめた。
「言わんこっちゃない」
警戒の色も顕わに自分を見上げるルナティンに、返る舌打ちがひとつ。
「このうえ面倒が起こるくらいなら、こんなものひとりくらい、捨てておけばよかったんだ」
言葉どおり面倒臭そうに、子供がルナティンに近づく。
背後を壁に阻まれたルナティンは、それ以上逃げることも適わず、ぎりっと歯軋りした。
「お……おまえはバツーと入れ替わってどうする気なんだ! まさか、シノンの言ったとおりここまであの黒の魔導使いの手が伸びてるってのか!?」
「――何だって?」
初めて子供の顔色が変わった。ルナティンへとさらに詰め寄る。
「おい、今、何と言った?」
「だから……シノンが」
「そのあと!」
身を屈めてルナティンの胸倉を掴み上げ、子供が声を張り上げる。
「シノンとかいう奴のことはどうでもいい、黒の魔導士がどうしたって?」
「何驚いてんだよ、シノンの子供を狙ってその姿に成りすましてるのはおまえだろう! 聖神官の血を引く子供なら強い聖なる力を持っていて不思議じゃない、だからその力を利用しようとか」
「ハッ!」
子供は力一杯鼻で嗤うと、掴んでいたルナティンの服を乱暴に離した。勢いあまって、ルナティンの頭が壁に激突する。
「聖神官の、子供? その力が欲しくておれが、よりによってこのおれが! わざわざこんなクソちびの体を狙っただって? あはははは!」
子供はルナティンを見下ろし、笑った。目を見開き、口許だけ持ち上げた怖ろしげな表情が笑いと表現できるのであればだが。
子供の迫力ある笑顔に、思わずルナティンの腰が引ける。
そんなルナティンの様子を見ながら一度大きく息を吸い込み、それから子供はルナティンを怒鳴りつけた。
「寝言は寝てから言え、この、おー馬鹿者!! 何が悲しくてたかだか聖神官ごときの血を引いた程度のちびガキ風情をあてにしなくちゃいけないんだ!?」
「だって、おまえバツーの贋者なんだろ!!」
子供につられて大声になりながら、ルナティンが叫ぶ。間髪おかず、子供がルナティンの手に相変わらず握られていた銀製の水差しを引ったくると、それで手加減なく相手の頭をぶん殴った。中味の水が辺りへ飛び散る。
「戯け者ッ!!」
「んなっ」
ルナティンは目を見開いて、殴られた頭を両手で押さえた。
「何すんだよ!!」
「何すんだもかにすんだもあるか、このボケ、ボケナス!! 言うに事欠いて贋者? 無礼にもほどがある、誰に向かって口利いてんだ!!」
「ぶ……無礼、ったって」
ルナティンは思わず言葉に詰まった。「誰に向かって」などと言われても、この子供の正体がわからないことが、そもそもの大問題なのだ。
口ごもるルナティンに、子供は再び大きく鼻を鳴らした。水差しを持ったまま腕を組む。
「まあいい。話がずれた。その黒魔導士ってのについて詳しく話せ」
命令口調で言われて、ルナティンはムッと眉根を寄せた。
「俺は、バツーの父親からくれぐれもバツーに伝えてくれと頼まれたんだ。正体も知れないおまえなんかに話す義務は」
「胸の太刀傷はここかなぁ?」
「……ッ、ッ!」
足を振り上げた子供の爪先が胸の傷痕を踏み躙り、ルナティンは声もなく床に転がって悶絶した。
「四の五の言わずにさっさと話せ。ああしまった、二度は言わないつもりだったのにポリシーを曲げてしまった。畜生もう一回蹴ってやろうかな」
「……んなにされても! 俺はバツーに会えるまで絶対喋らないッ!」
「強情だな」
叫ぶルナティンに、子供が思いきり舌打ちする。
「……待てよ?」
それから、ふと気がついたように、指先を口許へあてた。
「バーンズの人間だと言ったな、おまえ」
「そうだよ、それがどうかしたか!」
「いちいち声を張り上げるな馬鹿者ッ! ……そうか、バーンズのルナティンか」
ルナティンを上回る大きさで声を張り上げてから、子供はひとり何度も頷いた。
「どうりで聞き覚えのある名だと思ったら、おまえはエイリアの息子だな」
「母さんを知ってるのか!?」
ルナティンは驚愕して子供を見返した。
「彼女ほど強い力を持つ巫女は見たことがない。ああ、巫女と呼ぶのは問題だったか、おまえという子供もいるしな。一応は、元巫女と呼ぶべきだろう」
「おまえ……どうしてそれを……」
ルナティンは、彼が自分や母親のことを知っているのにも驚いたが――何より、母エイリアの過去を知っていることに愕然とした。
たしかにエイリアは、かつて王宮内の大神殿に仕える巫女だった。しかしそれも、ルナティンを身篭もるまでのことだ。
巫女は穢れなき女性のみにその力が与えられる。だからエイリアに子供ができたとわかった時、王宮は彼女を巫女の位から外し、今では書師を勤めさせているのだ。
だが稀代の力の持ち主と謳われた巫女エイリアは、ルナティンを産んでのちも、その力を衰えさせなかった。
数十年に一度は、純潔を失っても巫女としての能力を持ち得る人間が存在し、彼女たちは子を成してからもさらに神事に携わることがある。
ただ、エイリアは未婚のままルナティンを産んだため、不貞とされて当時巫女たちの首席にいたものを罷免された。それでも王宮内に残り様々な書物の管理などをしているのは、彼女の力を手放すことが、王宮にとっても惜しかったからだろう。
息子であるルナティンは十の歳になるまで城下に祖父母と暮らし、ふたりが亡くなった今はひとり住まい、エイリアはルナティンを産んでからはその息子と離れ、王宮内部で生活している。
彼女が父親のない子を産んだせいで巫女としての資格を失ったことも、力を失わずに書師になったことも、よほど王宮の事情に通じる人間しか与り知らないところだ。
それを、この子供が知っている――。
「エイリアとは知らぬ仲でもない。何しろ、このおれを手加減なく叱りつけた人間は、子供の頃とはいえ彼女が初めてだったからな」
「母さんに、叱られた……?」
「ああ、おれがまだ小さい時、彼女の管理する図書蔵別館の黒魔導書に書かれた術を許可なく試していたら、王の御子らしくはない振る舞いだと叱責を浴びた。いやたしかにおれとしたことが、実に品のないことをしてしまった」
「…………お?」
「でも気持ちはわかるだろう? 別館といえば、禁忌魔術書の文字どおり宝庫だ。あの頃の『おれ』はまだ白にも黒にも興味を持っていたからな。まあ今の『おれ』はそんな品性を欠いたことはしないが、禁じられたからこそ紐解きたくなる心理は、人間として有り得ぬものでもなかろうよ」
「お……お、お……」
「うるさいな、おまえはさっきから何をどもっている、聞き苦しい」
「おおお、王子ィッ!?」
「やかましい」
大声でわめいたルナティンを、子供が冷ややかに見下ろす。
「その頭と耳が飾りじゃないのなら、教えてやるから謹んで拝聴しろよ。おれが、このサンファール国の王子だ」
偉そうに両腕を組んで宣言する子供に、ルナティンはその場で絶句した。呆然とするルナティンに、子供は少々気分を害したような表情を作る。
「嘘、じゃ何おまえ、本っ気で気づかなかったの? 俺がバツーじゃないってことはわかってたんだろ? なのに俺の正体には思い至らなかったわけ?」
「あ……あ、あた、あたりまえだッ!」
上がるルナティンの声は、悲鳴に近い。
「何て畏れ多い奴なんだ、バチが当たるぞ! 今すぐセイマー神に謝れ!」
ルナティンは取り乱して慌てた。自分が王族だなんて公言するとは、恥というか命を知らない。
「ここにいるのが俺ひとりだからいいものの、表でそんなこと吹聴した日にゃ、宮廷騎士団にとっ捕まって王から死刑にされるぞ!」
「何を言う。真実を口にして咎められるいわれなどない」
ルナティンの焦りぶりを意に介さず、子供はあっさりそう言った。
「あまり無礼な振る舞いをすると、父上より先におれがおまえを縛り首にして河に放り込んで、魚の餌にしてやるぞ」
「ち、ち、父上って……っ、まさかおまえ、オルジア王の妾腹だなんて言い出すんじゃないだろうな、子供のくせに、どこで入れ知恵されたんだ?」
「馬鹿者ッ!!」
もう何度目か、子供はまたしてもルナティンの頭を容赦なく水差しで殴った。
「誰が妾の子だって!? 非礼もここまで来れば心の広いおれだってさすがに聞き捨てならないぞ! いいか、おれは間違いなく、この国の現王オルジアの嫡男、ただひとりの」
「わかった! わかったから、その先を言うな!!」
ルナティンは絶叫した。
オルジア王の血を引く者は、今のところ公式にたったひとりしかいない。王と、亡き王妃トゥーシャの息子。
病がちだったトゥーシャは、ひとりの王子を産み落としたその晩に亡くなり、妻を心から愛していたオルジア王は彼女の死をいたく悲しんで、以来後添えも側室も取らずに独り身で通している。
そして産まれた王子の名を、カナンといった。
『カナン』はこの国において、単なる名前という以上の重要な意味を持つ。今現在その名で呼ばれる者は、この国でただひとりしか存在しない。この国始まって以来、カナンという名を持つ人間は、同時期にふたりとしていないことが不文律となっている。
なぜならカナンとは、サンファールの王位継権承第一位の人間、つまり次期国王であるということを示す名前、もしくは称号であるからだ。
それを偽りに口へ乗せるのは、最高級の妖魔の真名を呼ぶのと同じほど危険だということくらい、ルナティンも知っている。唯人ならば、その身と魂がずたずたに引き裂かれるほどの報いを受けるだろう。
しかしルナティンの目の前にいるこのおかしな子供は、どうやらそのことを知らないらしい。
(それとも自分のことを本気で王子さまだなんて信じてる、妄想癖の持ち主か……)
ルナティンは内心で溜息をついた。えらいのに関わってしまった。ただでさえ、今は王宮の目が重箱の隅でもつつきそうな勢いで、人々を監視しているというのに。
「何がわかったって?」
「い、いや……」
ゴホン、とルナティンは一度大きく咳払いした。
「おまえの言いたいことは重々わかった」
「わかりました、だろ」
「……わかりました」
何となく屈辱的な気分でルナティンが繰り返す。しかしここは、自分の方が大人にならなくては仕方あるまい。
「言いたいことはよーぉくわかりました。でもな、王子は今、バーンズの王城にいるはずだし、それに何より年齢が合わないだろ?」
噛んで含めるような口調で、ルナティンは子供に問いかけた。
「今の『カナン』は俺よりひとつ上、今年で御歳十七になられるそうだろう。けどどう見たっておまえは、十二、三歳がいいところだ」
「そりゃそうだ。バツーは十二の歳だからな」
至極当然の口調で子供が言う。
「ちょっと待て、おまえは、バツーじゃないんだろ?」
「おまえおまえって、さっきから自国の王子に向かって何て口の利きようだ」
「混ぜっ返すな、ちゃんと説明しろよ」
ルナティンは苛立ちを隠さず声を荒げた。本来なら、自分はこんな誇大妄想狂の子供にかかずらわっている暇などありはしないのだ。
「おれはバツーじゃないが、これはバツーだ」
さらりと意味不明なことを子供が言い、ルナティンは頭痛を感じて頭を押さえた。
「何だそりゃ、謎かけか? それとも俺をからかってるだけか?」
「言葉そのままだ。おまえ、あったま悪いなあ」
呆れた口調で子供が言い放った。殴りたいのを、ルナティンはぐっとこらえる。相手は『子供』だ。
「バツーって子供は、半年前からこのラキウスに住み着いてるんだろ?」
どうにか気を落ち着けて訊ねたルナティンに、子供はまたもあっさり頷いた。
「そうだよ。たしかにバツーは半年前からここにいる。けど、一ヵ月前に死んじまったんだ」
「――え?」
ルナティンは相手の顔を見返した。
「何……」
「バツーが死んだ時、おれは自分の器をなくしたところだった。それじゃ都合が悪いから、ちょうど落っこちてた生きのいい、なりたてほやほやの死体を拝借させてもらったんだ。……不本意ながら」
まるで自分の体を見せびらかすように、子供は両手を拡げて見せた。
「こんなクソちびの体を借りるなんて、このおれともあろう者には落涙ものの悲劇だが、まあ唯一の救いはこいつにそこそこ聖なる力があるってことだな。使い勝手が絶望的に悪いってことはない」
「……頼む、待ってくれ」
混乱しかけた頭を抱え、ルナティンは辛うじて彼に呼びかけた。
「じゃあおまえ……いや、あんた……本当に、『カナン』なのか?」
「くどい!」
ルナティンの問いに、子供が一喝を浴びせる。
「ふん、そこまで疑うのならいいだろう、証拠を見せてやる」
言うなり、寝台の下へ上半身を突っ込むと、王子『かもしれない』子供はずるずる木箱を引っぱり出した。鍵穴に人差し指を触れ、口の中で小さく何かの詞を唱え。
「――解呪」
最後にそう締めくくると、木箱がカチリと音を立てた。魔法で施された鍵が開いたらしい。
「どーだ、エイリアの息子ならわかるだろう!」
ビシ! と彼がルナティンにつきだしたのは黒革表紙の厚い本だった。まじまじそれを眺めたルナティンは、表紙の右端に貼ってある深紅のステッカーに、これ以上ないというほど目を瞠った。
『持出厳禁・バーンズ宮廷図書蔵別館』
「お、おまッ、これ……!」
「わかったか」
狼狽したルナティンを見遣り、彼は満足そうに言うと、再び丁寧に木箱へ蓋をした。
先刻の話題にも昇った、宮廷図書蔵の別館と呼ばれる場所。許可さえあれば、宮廷外の人間でも閲覧可能という本館とは別にある、重要書物や禁忌魔導書ばかり集められた施設だ。
厳重な警備と監視の許、王族の人間、しかも国王、もしくは次期王位継承者、そうでなければ書師の長たる人間のみにしか入室が許されないという、一般には存在すら怪しいといわれている場所だ。
ルナティンがその場所の存在することを知っていたのは、エイリアが書師長を務めているからだ。
さっきは聞き流してしまったが、というより信じることなどできなかったのだが、こうして事実別館に収められてあるべき本を目の前に突きつけられてしまえば、この子供が正式な手続きを踏んで別館に立ち入ったことは、ルナティンにも認めざるを得ない。なにしろ別館の扉には、強い結界すら幾重にも施されているという。おいそれと賊が入り込めるような場所ではない。
そして目の前にいる子供が、この国の王や自分の母親でないことならば、ルナティンには嫌と言うほどわかるのだ。
(そんな馬鹿な!)
愕然として、ルナティンは子供を見遣った。
どうやったってにわかには信じがたい。ここにいるこの子供が、次期王位継承権第一位を持つ王子『カナン』で、挙げ句こんな子供の死体に乗り移っている、などとは。
(――あ……でも)
しかしルナティンは、現カナンについての風評を思い出した。
王家の人間は、普通の人間が持ち得るものより、遙かに強大な聖なる力を動かし白魔法を行使できる。このサンファールの国を興し、この国においてもっとも甚大な守護の力を持つのが主神セイマー。その血を引き、その力を与るのが王族なのだ。
そして現国王の嫡出子であるカナン王子は、その王族特有の強い聖なる力による白の巫術の他、黒の妖術も得意とするという噂がある。その上高度な剣の使い手でもあるらしい。
宮廷騎士団を相手取り剣の試合をしたり、気まぐれに城下に出て国民の病を治癒してみたり、それに飽きれば自室に籠もり怪しげな魔導の実験に走っているという、王族にしては相当に異端な、つまり妙な人間らしい。
噂を聞いたバーンズ城下の民たちは、次代にかなり不安を抱いている。聖なる力を元に発動する白魔法と違い、属性が妖の領域にある魔導というのは、サンファールの法において厳重に禁じられている類のものなのだ。次期王が黒魔導の使い手だなど、国民が不安がるのも当然だ。
――もしも万が一、カナン王子が噂どおりの人種だとしたら、死体の中に入り込むという魔導くらいやってのけても不思議はないのかもしれない。
「わかったようだな」
相手の表情を見て取り、ふふん、と勝ち誇ったように子供はルナティンを見下ろした。
「じゃ……あ……んた、本当に……」
ルナティンはひたすら目を剥き、震える手でその子供を指さす。
「カッ、カナ」
「だからどもるなと言うのに」
「カナン様で、あらせらりっ」
「あらせられますか」
「――なのか!?」
「そう!」
力一杯頷かれ、ルナティンはもはや声も失くした。
(そんな……!!)
愕然と目を見開くルナティンを、子供が悠然と微笑みながら見下ろす。
たしかにこの度を超して高飛車な態度、傲岸不遜な物言いは、ある種の特権階級にいる人間特有のものなのかもしれない。そう考えた瞬間、ルナティンは自分の体中の血が下がる音を聞いたような気がした。
もし本当に彼が『カナン』だとしたら、今までルナティンが取った言動その他、無礼というにもほどがある。不敬もいいところだ。
「さぁて、我が親愛なるサンファールの民よ」
ルナティンの動揺を見透かしたように、カナンが笑みを浮かべてそれに呼びかけた。
「何かおれに言うべきことはないかな?」
(あ……謝ろう! とにかく誠心誠意!)
嫌味な口調で言外に謝罪を促された時、ルナティンは咄嗟の判断でそう決意して口を開いた。仮にも真にも彼は自国の王子だ。一介の市民である自分など、本来なら同じ目線で言葉を交わすことすら許されない立場の人間だ。
が、情けないことに、今さら態度を翻して相手を敬うことが、ルナティンにはどうしてもできなかった。というよりパニック状態に陥って、頭の中味と行動が一致しなくなってしまったのだ。
結果どうなったかというと、
「どこの世界の王子がこんな辺境のド田舎にたったひとりでいると思う! しかもそんななりで『カナン』だなんてわかる人間がどうかしてる! わかるわけないだろうが!」
……怒鳴りつけてしまったのである。
「このっ、大馬鹿者ッ!!」
そしてそのルナティンを一喝し、サンファール国の王子はその頭を今度は拳骨で一切の手加減なく殴りつけ、
「たしかにおれは、今こうやってこのクソちびガキの容れ物へ一緒くたになってるがな! それでも内側から滲み出る気品や溢れ出る優雅さってもんがあるだろうが! ぱっと見でわからないか普通!」
無茶苦茶なことを言っている。
「だからそんなもん、わかるわけあるか! 大体なぁ、いくら死体とはいえ人のものだぞ! 本人の許可なく勝手に取ったら、それは泥棒だ!」
返すルナティンの台詞も、なかなかに支離滅裂なものへ成り果てた。泥棒呼ばわりされたのに気分を害したか、バツーの『器』が顔をしかめる。
「おれは知らない。直接手を下したのは別の『おれ』だし、バツーの中にこのおれを放り込んだのはまた別の『おれ』だ」
「……はい?」
相手に倣うように、ルナティンも手加減なく顔をしかめてしまう。
「何だって?」
「今のおれには黒の魔導の力はない。力を持っている『おれ』はどこかに行ってしまったからな。ついでにバツーを殺した『おれ』も消息不明だ」
相手にはふざけている素振りもなく、ごくあたりまえの口調で言っている。ルナティンは、完膚なきまでに混乱してしまった。
「悪いけどもう一回言ってくれない?」
「だから、おれ以外の『おれ』はどこかへ行ってしまい、このバツーの中にいるのはおれだけってことだ」
「……はぁ!?」
自分が馬鹿になってしまったのではなかろうか、とルナティンは本気で恐怖した。
さもなければ、この自称王子様の頭の中味が腐っているかのどちらかだ。
「んーと」
『カナン』は、まじめぶって腕を組んでから、口許に手を当てる。
「おれは王族にしては珍しく、黒の方の魔導も使えたんだ。もちろん、お家芸の白魔法も使える。ついでに武術の腕もかなりのものだった」
ルナティンはとりあえず頷いた。何度も耳にした話だ。カナン王子の聖なる力、妖力に匹敵する力の持ち主は滅多にいないだろうとか、剣を使わせれば宮廷騎士団の者ですら一目おくほどの技倆があるとか――。
「とにかく普通では考えられないほどの才能を、それぞれにおいてこのおれは有していたというわけだ。ま、言うなればオールマイティ、天才、稀代の超偉人ってところか」
相変わらず平然とした口調でそう言ったカナンに、ルナティンは今度こそ納得した。たしかにこいつは王子様だ。でなければ、こんな図々しいことを臆面もなく言えるはずがない。
「しかし、やっぱりそれにはだいぶ無理があったんだ」
「無理?」
ルナティンが問い返し、カナンが頷いた。
「ひとつの器に、みっつもの超レベルの才能が入っているってことだろ? 単なる人間の器ごときにそんな耐性もキャパシティもあるわけがない。そりゃあ、このおれの器ときたら、元々美形揃いの王族の中でもさらに群を抜いた絶世の美貌、我ながら見とれずにはおれないような、存在することすら素晴らしい奇蹟だったけど、おれの才能ってやつはその器の奇蹟すらも凌駕していたんだ」
「はあ……」
「仕方なく、おれは能力の数だけ『自分』を分けて、器からひとつずつ出たり入ったりを繰り返して何とか凌いでた。でなければとっくに、器の方が耐えきれずぶっ壊れてただろう」
聞けば聞くほど、ルナティンのカナンに対する評価が固まってくる。
(こいつ、まともな人間じゃねぇ)
「そうこうしているうちに、やっぱり破綻してきたんだ。それぞれの『カナン』のやりたいことがまったく違ってたからな。器の取り合いは、そりゃあもう熾烈なものだったよ」
ルナティンは想像してみる。このカナンが、他にふたり。三人が揃って器の取り合いをして……あまり考えたい光景ではないし、そもそもどんな状況なのかも謎だ。
呆れるルナティンの前で、カナンはふと目を伏せた。
「――おれは、きちんと国政を学び、国を知り民を知り、王位を継ぐことを誇りと思いたかった。この時代の腐った政治を、おれの手で叩き直したかった」
呟くカナンの表情は、先刻までと打って変わって静かな、真剣なものになっていた。ルナティンは何となく口を噤み、カナンのことをみつめる。
「何が正しくて何が間違っているのかを見極めたかった。世の中には、このおれすらも知らないことが山のようにある。そのひとつひとつをわかろうと思ったんだ。国のこと、世界のこと、人々に宿る聖なる力や神のこと、心のこと……どれもおれには必要だから」
「……」
再び目を上げたカナンから、目が離せなくなる。
今までとは違う意味で、やはり彼は王子なのだろうと、ルナティンの心は納得できた。カナンの眼差しは強く、口調は真摯だった。
彼が嘘や偽りの気持ちを言っているとは思えない。
「けど、もうひとり――黒の力を持ったおれは、魔導を試すことにしか興味がなかった。剣士のおれは、ひたすら腕試しをしたがって、剣術を極めることしか考えていなかった。それぞれがそれなりに求めるところがあったんだ、それでは破綻もするだろう」
なるほど、と相槌を打つほかルナティンにはない。
「折り合いのつかなくなったおれ『たち』は、周囲の人間の不審を思いっきり買ったわけだ。そして父上の命により、城の西にある塔へ幽閉されてしまった」
「幽閉?」
ルナティンは驚いてカナンを見遣った。
「いいんだ」
そんな相手の表情に気づくと、カナンは思いのほか、穏やかな微笑を作った。ルナティンが驚くほど優しい笑みだった。
「そりゃあ、父上の政治は腐りきっていて、あまりよい噂は立たないし実際噂どおりの悪辣非道な方ではあるが、おれに対する愛情はきっと本物だ。父上はおれのことを思って行動なさったんだ。挙動不審のおれを、何とかしようとお考えになったのだと思う。でもかといって、おとなしく閉じこめられているわけにはいかないんだ」
凛然と言ったカナンに、ルナティンは迂闊にも見惚れてしまった。
やたら自信と自意識が高いのは、それだけ強い意志と誇りがあるからだろう。そう思えたのだ。
「おれは親としての父上を愛している。王としての誇りを尊敬していた。だからこそ、あの方に立ち直って欲しい」
「オルジア王に……」
呟きを返したルナティンに、カナンが頷いてみせる。
「そうだ。おまえだって聞き及んでいるだろう? 父上――国王の所業を。あの方はもはや狂っておられる。民衆に対する愛情が欠落してしまった。バーンズは今地獄だ」
カナンが、きゅっと小さく唇を噛んだ。
ルナティンもつられるように眉をひそめた。たしかに、オルジア王の政治は、よいものとは決して言えなかった。彼が王位に即いた頃には、善政を布いて民衆の絶大な支持を得たというが、数年前から少しずつ、何か歯車のようなものが狂い始めていた。身勝手な法律が増え、極度に民の生活を圧迫し、今では少しでも自分の害になると見做した人間、わずかでも叛乱因子と成り得そうな人間を次々に殺していく。虐殺、といって差し支えのない方法で。
「まるで妖魔に取り憑かれたかのようだ。次々と罪なき民を殺して……だから、おれは再びバーンズに戻って父上と話し合い、たとえもし術や剣を交え互いに血を流すことになっても、バーンズを平和に導くつもりだった。そう決意したんだ。だからどうにか城を抜け出して――なのに」
わずかに一瞬、カナンの言葉が途切れ、すぐにまた口を開く。
「なのに、あの『おれ』たちときたら……」
言いながら、カナンは拳を震わせ、激昂して顔を歪めた。
「『そんなもんおれの知ったことか』などと吐かしやがった!!」
つまり、破綻はとんだところで『カナン』の弊害となったのだ。
全員の力で塔から逃げ果せたまではよかったが、黒魔導士も剣士も城へ戻ろうとはしなかったという。オルジア王の許へ出向こうとしたカナンの意志を無視して、そのまま王都を出てしまった。白魔法士のカナンはもちろん抵抗しようとしたが、何しろ二対一だ。器の主導権を握ることがままならず、とうとうラキウスまで下ってしまった。
「剣士は城から出て逃げ込んだ先、この家のバツーを叩っ斬って、黒魔導士は魔導でその体におれを押し込めて、器のないまま行方を眩ませた。剣士もおれの体を持ってさっさと雲隠れしやがった。おかげでおれはしばらく器の治療に時と力を費やして、それから必死で十二歳の子供を演じる羽目になっちまったんだ。周囲の人間の怪訝な目がかかってはここにもいられなくなってしまう。まったく、何の因果で……」
「で、結局こうやってバツーの体に居着いたってわけか」
溜息混じりのルナティンの呟きに、カナンは顔を顰めて見せた。
「仕方がないじゃないか。おれが今のところ使えるのは白魔法だけなんだ。バツーから出ていこうにも、そもそもこの状況を作り出した黒魔導士が術を解呪しないことにはどうしようもないし、替えの器だってない」
それより、とカナンは改めてルナティンを見下ろす。
「おれの正体も知れたところで、そもそもの話題に戻すぞ。おまえが言っていた黒魔導士云々ってのは、いったい何のことだ?」
はたと、ルナティンも我に返る。
「そうか……あんたが本当に『カナン』なら、あんたにも話す必要があるのかもしれない」
「本当もクソもあるか。その黒魔導士っていうのは、『おれ』のことなのか?」
「いや、違う。違うと思う。あんたが完全に、なんていうかその、『分裂』したのは最近の話だろ? あっちの魔導士は、少なくとも一年は前からその存在が確認できるんだから」
言ってから、ルナティンはふと気づいてカナンを見上げた。
「そういや、どうしてあんたはさっさとその魔導士たちを捜しにいかないんだ? バーンズに戻る気ならそのナリじゃまずいだろうし、それに他のふたりがいた方が有利だろ?」
「あんたあんたと気安く呼ぶな。だから仕方がないんだよ。バツーがどうしてもここを離れたがらないんだから」
「……は?」
またしてもカナンの言った意味が理解できず、ルナティンは怪訝に眉をひそめた。
「バツーは死んだんだろ?」
「馬鹿者」
ふん、とカナンが、例によって思い切り鼻先で嗤う。
「おれが誰だか知っていて、よくもそんな間の抜けた質問ができるものだ。あいつらが黒魔導士・剣士なら、こっちは白魔法士だ。いわば治療のエキスパートだぞ。ちょっと死んだくらいの人間の治療なんて、朝飯前だ。死にっぱなしなんてことがあるもんか」
「な……ん、だって!?」
ルナティンは立ち上がると、傷の痛みも忘れ、カナンに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「バツーは生きてるのか!?」
「――ん……もーおおぉっ、いい加減、表に出してよっ!!」
カナンが突然、ルナティンを凌ぐような大声を上げた。
「こっちはよけいな体内人口殖やして、迷惑被ってるんだよ!? 少しは誠意ってものを見せてくれなくちゃ嘘じゃないの!? ちょっと聞ーてんのカナン様ッ!!」
驚きのあまり口を開けたままぽかんとしているルナティンに、少年はようやく気づいたようだった。その方を向いて、
「ルナティンだってひどいと思うよね! オレを殺したのも助けてくれたのもカナン様なんだ、こっちだって混乱して当然だよ、少しはいたわってほしいじゃない? なのにカナン様ってば人のこと下男かなんかと勘違いして、掃除も洗濯もなんもかんもオレに押しつけてさあ! 昨日なんか自分が気持ちよーく風呂に浸かっておいて、掃除はオレだよ? あんまりじゃないそれって? あんまりだよねルナティン!」
そうわめく少年は、先刻まで自分が話していた人間ではない。ルナティンはそれを感覚で悟り、結果さらに愕然とした。
「おまえ……! バツーか!?」
「うん」
あっさりとバツー少年は首肯した。
「どういうことなんだ!?」
混乱して声を上げるルナティンに、バツーが「あそっか」とひとり頷く。
「説明しなくちゃわかるはずないよね。あのね、オレはたしかにカナン様に剣で斬り殺されたんだけどさ。その死体が新鮮すぎて、カナン様が白魔法を使ったら、あっさり生き返っちゃったんだよ」
「反魂の魔法か!? でもそれは白の力じゃないだろう!」
色めき立ってルナティンは問い返した。死者の魂を呼び戻す術なら、黒の領域、最大級の禁忌魔法だ。
不審を覚えるルナティンに、バツーが首を横に振って見せた。
「反魂なんて大したものじゃなくて、単に死んであんまり時間が経ってなかったから、魂がそもそも昇天してなかったみたい。仮死状態だったんじゃないの? んで、簡単に体に戻れたわけ。戻ってみたらみたで、何か違う人も中にいたから驚いたけど。――あーはいはいうるさいなあもぉわかってるよ、カナン様の力がすごかったおかげだろ? いちいち感謝を強要しないでよ、こっちだって被害者なんだから……えーとだからこの体には本来の所有者であるところのバツー、つまりオレと、それからカナン様が入ってるってこと」
ルナティンの脳裡に、寄生虫のイメージが瞬間的に浮かび上がったが、そんなことを口にしようものならすぐさま乱暴者の王子様がバツー少年の意識を押し退けて自分をぶん殴りに顔を出すことが目に見えていたので、あえて黙っていた。
(でも……そうか、じゃあこいつが)
今この少年から感じられる波動には覚えがある。彼こそが、自分の傷を治すために白魔法を使った人間だ。ルナティンはそう理解した。
これで状況は振り出しに戻った。
「バツー」
ルナティンは真剣な面持ちになると、バツーに呼びかけた。
「俺は、おまえに会いにやってきたんだ」
「……」
急にまじめな顔になったルナティンに、バツーも神妙な表情で応じる。
「うん、何?」
「この傷」
ルナティンは上着の前をはだけて、胸をバツーに見せた。
白い包帯が生々しい。その下にひどい太刀傷が刻まれていたことは、もちろんバツーも知っているはずだ。
うん、とバツーがもう一度頷き。
「バーンズの騎士団にやられたんじゃないかって、カナン様が言ってた」
「そうだ」
ルナティンも頷きを返す。
バーンズの騎士団。王都バーンズの守備を司る、サンファールの要にして最強の宮廷騎士団だ。
「バツー、おまえは、シノンの息子だな?」
ルナティンの問いに、バツーの瞳が微妙に揺れた。ルナティンはそれを肯定と受け取る。
「何で……ルナティンがオレのお父さんを知ってるの?」
「俺は、ある人に頼まれて、パラスへ使者として向かった」
ルナティンはバツーの顔を覗き込み、バツーがわずかに緊張した面持ちで頷きを返す。
「行ってみてわかったが、パラスの有様はバーンズの比じゃなかった」
その国の状況を思い出し、ルナティンは我知らず苦い顔つきになった。
「ひどいもんだった。妖霊が跋扈していて、空気すら暗褐色のような……」