表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TRILOGY  作者: eleki
[#;01 B-PART]
17/18

第六章『悪い夢から覚めた町』

 ようやく雨が止んだ。

 あの悪夢のような夜から明け、ミューザが目を覚ますと、空には太陽の光がいっぱいに輝いていた。

「晴れた……」

 寝台で起き上がり、窓に打ちつけたままき板を剥がせば、明るい光が飛び込んでくる。眩しくて、ミューザはちょっと目を細めた。

「痛てて」

 雨の中を全力で駈け続けたせいか、あちこち痛む体を寝台から下ろして、部屋を出る。太陽はもう高い。すっかり昼になってしまったようだ。

「おはよ、セルバン」

「おはよう、よく眠れたかい」

 居間に向かうと、セルバンがお茶の準備をしているところだった。訊ねたセルバンに頷いて、ミューザは食卓へとつく。

「あー、おなか空いちゃった」

 言いながら、テーブルの籠に盛られたパンを手にするミューザを見て、セルバンが笑う。気づいてミューザが首を傾げた。

「どうかした?」

「元気でよかったなあと思って」

「どーせ、起きるなり食欲満点ですよ」

 少し拗ねた口調で言いながら、ミューザがパンを千切り、セルバンがますます笑う。

 ふたり分淹れたお茶をテーブルに置くと、セルバンもミューザの前に腰を下ろした。

「――ねえ、セルバン」

 パンを食べる合間に、ミューザはセルバンに呼びかける。

「領主様は……エリスの父親は」

 ふと、セルバンは笑みの性質を変えた。苦笑に近かった。

「正気に戻られるまで、もう少しかかりそうという話だよ。ゆうべ議会で、首都に送られて罪が裁かれることに決まった」

「……そう」

 首都送りになれば、おそらく、重い罪になるだろう。ミューザはやりきれない思いで溜息を飲み込んだ。

 ゆうべ、エリスバートが『戻ってきた』後、子供を捜していた町の人たちも領主の家へと辿り着いた。彼らがやってくる前、セルバンはミューザやエリスバート自身、それからマナやクレディスにも、たった今使った術のことは誰にも言わないようにと告げ、皆それに頷いた。

 マナは白魔法を使う許可を得ていないし――それに、全員、おそらく誰にも話さない方がいいことだと、察していた。

 町の人たちが、倒れている黒ずくめの男やリエインをみつけ、その体に縄を打つと議会で監視することになった。ややもすれば殺気立ち、男やリエインを傷つけようとする人たちを、セルバンの説得がどうにか宥めた。

 エリスバートの家の地下室は、神学校の教師や上級の生徒たちが協力して清めた。あちこちに黒魔導を使った形跡があり、その作業は一晩中かかった。セルバンもその作業に駆り出され、帰ってきたのは明け方のはずだ。もしかしたら眠っていないのかもしれないとミューザは察する。

 ルカや、あの時ファムスを襲った人たちは、我に返り、自力でそれぞれの家に戻った。全員、ファムスの家に行ったことはぼんやりとしか覚えていないようだった。

「結局、誰も蘇ったりなんてせずに、血ばかりが流れたんだわ」

 ひとりごとのように、ミューザは呟いた。

 リエインが望んだ、妻ティレイの復活。それは叶うべくもなく、ただそのための犠牲が山積みになった。ラルも、神学校の子供も、祭司たちも、それにティレイも。

 全員、安らかに眠るれるように、祈ることしかミューザにはできない。

「エリスバートやクレディスは、どうなるのかしら」

 訊ねたミューザに、セルバンがまた悲しそうに微笑む。

「おそらく、縁者を頼ってドモスを出ることになるだろうね。もうこの町にはいられないだろうから」

「……」

 ゆうべのうちにミューザも予測していたことだが、改めてそう聞くと、辛い。

「今はふたりとも、レスマイン先生のおうちで眠っているよ。朝少し様子を見てきた。回復の魔法を使ったから、エリスバートも明日か明後日には目が覚めるだろう」

「よかった」

 ミューザはほっと息を吐いた。エリスバートが元気になる、それだけがミューザの心を明るくした。マナもひどい怪我をすることなく、些細な傷はゆうべ帰る前にセルバンが癒した。

「……ねえ、セルバン」

 ミューザはもう一度、セルバンに呼びかける。

「うん?」

 優しく問い返したセルバンに、しかし、ミューザは訊ねる言葉を選びきれなかった。

「……ごめん、何でもない」

 セルバンも笑っただけで、何も言わなかった。

 どう訊ねたらいいのか、ミューザにはわからない。

(あの時どうして)

 思い出す、自分の中から沸き上がった光。暖かなもの。

 それが一体何なのか、ミューザにはわからなかった。

 そしてそれをセルバンに訊ねるのが、怖い。

(どうしてだろう)

 聖なる力なんて、ほんの少しでも持ち合わせていないはずの自分が、エリスバートを呼び戻すための力になるなんて。

 だがセルバンは、当然のように、マナやクレディスを誘い、導いた。

 マナの力に気づいたように、あるいは、ミューザにも潜在的な力があると、セルバンは知っていたのか。

(……後で考えよう)

 とにかく今は、エリスバートが助かったことを喜んでおくべきだと思った。彼が戻ってきたのは、反魂の術のせいなんかじゃない。悪い力じゃない。たったひとつ、ミューザにはそう確信できた。そうじゃなくちゃセルバンがそんなことを許すはずがない。それがわかっていればいい。

 ミューザが食事を終えたのを見届けると、セルバンが椅子から立ち上がった。

「出かけるの?」

「うん、魔導に惹かれて、妖霊がそこここに現れているんだ。住み着かないうちに、全部祓ってしまわなければ危ない」

「あたしにできることって、ある?」

 セルバンは見るからに顔色が悪かった。休まなければ保たないだろうに、それでもここで立ち止まれる人ではないのは、ミューザも承知している。

 セルバンは、優しくミューザの頭に手を乗せた。

「久しぶりに、魚のシチューが食べたいな。あと、くるみのパイも」

「……ん、帰って来るまでに用意しておくから」

 セルバンを見送ると、ミューザは少し伸びをして、まだかすかに痛む腕や足を動かした。

「よし」

 痛いのは生きている証拠だ。

 ひとり気合いを入れて、ミューザはここ数日ですっかり荒れてしまった家の中を片付け始めた。窓は破れているし、床は汚れているし、洗濯物はたまっているし、さんざんだ。

 熱心に片付けを続ける合間に、エリスバートやマナ、そしてファムスのことを考えた。

 マナには、夕方にても顔を見せに行こう。エリスバートは、きっと疲れているだろうから目を覚ました報せを受けたら少しだけ会いに行って――そして、ファムスには。

(お礼、言わなくっちゃ)

 ゆうべ、気づいた時にはファムスの姿はリエインの屋敷から消えていた。セルバンに訊ねると、もう家に戻ってしまったのだろうと言う。

 ルカたちが睡っているの、大丈夫だろうかと心配したが、彼女たちは無事戻ってきたから、何とかなったのだろう。

「ファムス、あの人……一体、何者なんだろう」

 結局それもミューザにもわからない。

 黒魔導士なのはたしかだ。あの忌まわしい、黒ずくめの男と同じ、闇の力を持つ者だ。それも、おそらくあの男よりも遙かに強い力を。

 でも――ミューザを助けてくれた。特別ミューザを助けるという意図はなく、成り行きでしかなかったのかもしれないが、少なくともあの男を倒し、マナを運んでくれた。

「まあ、いいか」

 呟いて、ミューザは納得する。

 自分や、セルバンや、町の人たちに害がなければ、何だっていい。感謝こそすれ、疑い、忌む必要なんてきっとないだろう。

 そうして家の中を片付け、あちこちぴかぴかに磨き上げてから、買い物ついでにミューザはマナの家に向かった。だがマナはひどい経験をしたせいか熱を出し、眠っていると家族に告げられ、ミューザは仕方なしに彼女に会うこともなく帰ってきた。

 セルバンのために、腕をふるって料理を作っていると、ちょうどそれができあがる頃セルバンが帰ってきた。

「ああ、いい匂いだね」

 家に入るなり、セルバンがシチューの匂いに顔を綻ばせ、ミューザも嬉しくなってセルバンにおかえりのキスをした。セルバンも、ミューザの額にキスを返してくれた。

 セルバンと向かい合って上出来な夕食をとりながら、ミューザは幸福で仕方がなかった。

 たくさんの怖いことはなくなってしまったのに、セルバンは、ずっと昔のように自然にミューザの背を抱いて、キスをくれる。

 優しい目を向けて、自分の話に相槌を打ってくれる。

 幸福なまま食事を終え、ミューザはその後もお茶を飲みながらセルバンと他愛のない、楽しい話をして、夜が更けた頃もう眠るよう促された。

 明日からは、また学校が始まる。

「おやすみ、セルバン」

「おやすみ、ミューザ」

 眠る前に挨拶をして、またお互い頬に唇を触れ合う。

 ミューザははしゃぎ出したいような気分を抑えて、自分の部屋の寝台に収まった。

(昔みたい)

 ぎゅっと、ミューザは毛布を握り締めて笑いを堪えた。

 自分とセルバンが、言葉にはできないほど些細なぎこちなさを持て余す前。愛していると言えば、僕もだよと優しく応えてくれていた頃。

 町に蔓延りかけていた妖霊は、もうほとんど祓われたとセルバンがさっき話してくれた。

 これで町も、きっと元通りに――全部は決して戻らないとしても、たくさんの悲しみを残すにしても、とりあえず落ち着きを取り戻し、日常の生活が始まるだろう。

 たくさん起こった悪いことは、そのうち悪い夢のように、楽しい時間に紛れて忘れていけるだろう。

 そう信じながら、ミューザは目を閉じて眠りに就こうとしたが、どうしてか一向に睡魔が訪れてくれない。嬉しくて興奮しているせいか、それともゆうべから今日にかけて眠りすぎたせいか。

 水かお茶でも飲んでこよう、と仕方なく寝台を降り、部屋を出た時、ちょうどこちらも水を飲んできたらしいセルバンと顔を合わせた。

「ミューザ? どうしたんだい」

「眠れなくて……セルバンも?」

「僕は、少し喉が渇いたから」

 ミューザはそっとセルバンの寝間着の袖を掴み、遠慮がちに彼を見上げた。

「ミューザ?」

「……眠るまでそばにいてくれる?」

 子供みたいな我儘を言っていると、きっと窘められることを覚悟したのに、セルバンは少し驚いた顔をした後、すぐに笑ってミューザの頭を撫でた。

「いいよ、怖いことが続いたからね」

 ミューザが怯えて眠れないのだと解釈したのだろう、セルバンはそっと彼女の背を押し、部屋へと促した。

 ミューザはおとなしく寝台に昇り、そのそばに椅子を運んでセルバンが座る。

 セルバンに顔を見下ろされ、ミューザは何だか少し恥ずかしくなって、毛布を鼻先まで引き上げた。

 そんなミューザの態度にセルバンは目を細めて笑い、髪を優しく何度も撫でた。

 感触がとても心地よくて、ミューザは驚くほど急速にまどろみへと落ちていく。

「お眠り」

 セルバンの声が合図のように、ミューザは瞼を閉じ、吸い込まれるように眠りの底へと落ちていった。

 もしもその声に眠りの魔法がかかってたいたことにミューザが気づけたとしても、それに抗える隙もないほど、急激に。

 健やかな寝息を立てて瞼を閉じるミューザをみつめ、セルバンはその髪を撫で続けた。幸福そうな寝顔を見て、セルバンもとても倖せな心地になる。

 その手の動きが強張るように止まったのは、しばらくの後。

「……っ」

 セルバンは唐突に咳き込み、ミューザの髪を撫でていた手で自分の口許を覆った。口許を抑えた指の間から赤い血が溢れ出した。

 体中を駆け巡る苦痛に耐え、長い時間を掛けてその苦しみをやり過ごすと、セルバンは血に濡れた自分の掌を見下ろした。

「……潮時か」

 ぽつりと、セルバンが呟いた声は、眠りの淵に嵌り込んだミューザの耳には、決して届かなかった。


     ◇◇◇


 ずるずる、と擬音がついてもおかしくないように思われた。

 まず溶け出したのは左腕だった。上腕が茶色に変色し、泡立ちながら流れ落ちる。指先に、ぬらっとした感触が絡みつく。

「畜生……」

 部屋の中は闇が支配していた。陽は落ちたとはいえ、今日はやけに月明かりや星明かりがうるさい。今のこの身にとって、そんな些細な光すら毒のようなものになる。

 右手で左腕を押さえるように触れると、右の指先は滑り落ちてしまった。茶色い粘液と共に。

「く……」

 喉元で押し殺した声が漏れる。痛覚などないはずなのに、どうだ、この苦痛は。

 地面に描かれているのは、石で作られた環。その列石魔法環の中心部へ据えられた椅子に、ファムスは半ばずり落ちるようにして座っている。衣服は体から出る瘴気によって、焦げ付きだし、いやな匂いを発した。

 描かれた魔法環の外に、祭壇。その上には長剣、短剣、杯、円盤、黒水晶、杖が恭しく置かれている。

 半月足らず前に執り行った魔導のためのごく簡略な儀式場は、未だ維持され続けている。術は続いているからだ。

「やっぱり、本調子じゃなかったのが敗因か……」

 恨めしげに、ファムスは呟いた。

「それとも、こんな適当な道具でここまで保ったのが奇蹟か?」

 いちいち考えていることを声にしてしまうのは、そうでもしなければ体が溶け崩れる苦痛のために、気が狂いそうになるからだ。

「くそうっ、そもそもこのど田舎には妖石が少ないんだ、精霊ばっかりがうじゃうじゃしやがって!」

 精霊の多い町には、妖に属する物質が少ない。特にこのドモスの町は、よほど教会の祭司が優秀だったのか、単にそういう土地柄なのか、精霊があちこちに存在していた。祭司の結界外にも、妖霊の姿がほとんど見られなかった。

 どうにかして妖力を持つ石を捜したが、魔法環を作るにはとても間に合わない。大きな円を包んで建てるには、かなりの量の石が必要なのだ。足りない分に、そこら辺に落ちていた適当な石を混ぜてしまったのがいけなかったのかもしれない。

 それとも、古道具屋からかっぱらってきた剣や杖が、どう見てもまがい物だったのが不味かったのだろうか。人間の生き血を、民家から盗んできた鶏の血で代用したのも失敗か。杯に入れる酒をけちって半分をただの井戸水にしたのも失敗か。そもそも呼び出せた妖霊の数が少なすぎたことも見過ごせない。

 それらの道具を、ファムスが命じて準備させた妖霊が、限りなく下級の者だったのもいただけない。何しろ消耗していたので、上級の妖霊が呼び出せなかったのだ。かろうじて姿を保っているような妖霊に、使い走りを頼んだのが敗因だった。できればすべて自分の手でやりたかったのだが、状況がそれを許さなかったのだから致し方ない。

 ともかくとして、ファムスが行った、妖の姿を借りて魂の器を造り出す魔導、つまり新たな体を造り自らの魂をその中に移すという術は、とりあえずの成功は見たものの、現状として失敗の方向へ激しく傾いている。

 もとより、この自然に反した魔導は、黒魔術の中でも上級の術なのだ。第一級の禁忌に国から指定されている。その魔導を、限りなく適当でいい加減な方法で行い、とりあえずと注釈つきでも成功させたのは、ファムスの力が歴々の黒魔導士の力をすら、遙かに凌駕するものであるからに他ならない。

 それが、ここへ来て綻びが見えた。

 原因のほとんどは、万全の体制を整えなかったファムス自身にあるが――

「本当に、来る町を間違った……!」

 妖の気配と縁のない町だと思っていたら、唐突にそれがあちこちに現れ、増殖しだした。整えた力場を保つために余力が割けなかったから、その原因を探ることもままならないうち、あのミューザという娘がやってきて、次には頭のおかしくなった町の住民、挙げ句の果てにはミューザの父親までが現れて、ファムスは、オルターのあるこの家から離れなければならなくなってしまった。

 やっと家に帰れた頃には、蔓延りはじめてくれた妖霊たちは、セルバンら聖職者に祓われ、おまけにこの家の周囲まで空気が清浄になってきてしまっている。これでは何のために陽の入りづらい、陰気な家をわざわざ選んで住み込んだのかわからないではないか。

「それでも、あの力がなければ、いきなりにここまでにはならなかったんだ!」

 思い出すのも忌々しい。

 あの醜い男がいた屋敷、あの地下室に沸き起こった、とんでもない力。

 紛れもなく聖の領域にある莫大な光。

 セルバンに促され、その力が発動する前にあの屋敷を抜け出したというのに、光はほぼ町全体を覆ってこの家にまで届いていた。

 せっかく作り上げた魔法陣は崩れ、それを直すだけでも半日かかった。

「あの、女……っ」

 ファムスは堪らず舌打ちした。

 あの、ミューザという、口が異様に達者な娘。

 馬鹿げて強い聖なる力を発したのは、間違いなく彼女だった。嬉しくないことに、何度か会ってその波動を知ってしまったから、わかる。彼女の持つ光に、おそらくセルバンという非常に優秀な白魔法士の導きが加わり、死んだはずの人間をひとり、生き返らせてしまった。

(あの術には覚えがある)

 目の当たりにしたわけではないが、つい二週間前に、同じ術の気配を感じた。

「しかし、まさか、『あいつ』と同じような術を使えるほどの力の持ち主が」

 ミューザが発した聖なる力は、今まで『あいつ』以外ではファムスが認識したことのない、強大なものだった。離れていても、妖の領域にあるこの身が灼かれてしまうほど。

 しかも、それすらほんの一端に過ぎないのだ。奥底に秘められた潜在的な力は、想像もつかないレベル。

 彼女の力に中毒ったせいで、術を使うための力場も、ファムスの体そのものも浸食されてしまい、それでこのざまだ。

「何者なんだ、あいつは!」

 握り締めた左手の甲に指が突き抜けてしまって、ファムスは眉をしかめる。

 ミューザに悪態をついている暇はなさそうだ。

 ファムスは立ち上がると、座っていた椅子を魔法環の外に放り投げた。拍子に左腕が一緒になって吹っ飛んだ。

「……いかんな。あまり美しくない姿になってしまった」

 ファムスの美意識を結集した体が、欠落していく。もげた左腕のつけ根からは、しゅうしゅうと音を立てて茶色い煙が吹き出している。

 一度環を出て、ファムスは祭壇に近づいた。黒い布の上に置いてある杯に、床に転がっていた葡萄酒の中身を移す。同じく床に転がっていた壺のふたを空けて、指を突っ込む。どろどろになった中身を確認して、ファムスはまた思いきり眉をしかめた。

「腐ってやがる」

 妖霊に命じて集めさせた鶏の血だ。悪臭を発している。

 これから血液を採取しに出かける場合でもない。それに、今外の清浄な空気に晒されてしまえば、体の腐敗はもう止めようもないものになってしまう。

 ファムスは諦め、壺を逆さにして魔法環の中に振り撒いた。途端、茶色の煙が勢いよく噴き上がり、部屋に充満する。

「ええい、何なんだ一体!」

 もはや癇癪に近い。ファムスは壺を壁に叩きつけ、どかどかと魔法環の中心部に移動した。

「暗黒の使者、妖に生を享けし者ども」

 残っている方の腕を床につく。ファムスは目を閉じ、さらに口を開いた。

「この身再生のため、その力を我に与えんことを命ず。我が名――」

 名乗りを上げようとした瞬間。

「――ごめんください」

 静かな声が、いく枚かのドアを隔てて、ファムスの耳に届いた。

 詞を中断され、ファムスが不快気に闇に顔を上げる。

「誰だ」

 苛立ちに任せて怒鳴りつけた声に、やはり静かな声が返ってくる。

「夜分にご無礼をいたします。セルバンと申しますが――」


     ◇◇◇


 セルバンは、手を触れるものもなく開いたドアの中に、ためらいも見せず進んだ。

「すまないが早くドアを閉じてくれ。外の空気を入れるな」

 低い声が届き、セルバンが言われたとおりに素早く身をドアの中に滑らせ、ドアを閉めた。

 部屋の中はひどく暗かった。起きている人間がいるのに、明かりひとつ灯されていない。

「カーテンにも触らないでくれ。月明かりも見たくない」

 言いながら、奥の部屋に続いているドアから出てきたのは、当然この家の主。見惚れるほどの美貌に、今はかすかな苦渋の表情を浮かべている。それでも、その面立ちの秀麗さは損なわれていなかった。

 鼻を刺激するエキセントリックな臭いと、その原因となっている彼の姿に対し、セルバンはわずかに目を細めたものの、ことさら話題に乗せる気はなく、無言を保っていた。

 ファムスは食卓の前の椅子に、今まで腕がついていたはずの左肩を押さえながら、身を投げ出した。

「茶ぐらい出してやりたいが、生憎この状態だ。見苦しくて心苦しいものだよ」

「いえ……遅くに突然訪れた非がありますから。おかまいなく」

 ファムスの嫌味に、セルバンは微笑で応えた。何の含みもない笑顔を作れる辺り、彼もやはりなかなかに喰わせものなのか、それとも単に鈍感なのか。ファムスは判断つきかねた。

「喉が渇いているようでしたら、私が淹れますよ」

「いや、いい。どうせ腹は空かない体だ」

 問いかけたセルバンに答えてから、ファムスはその笑った顔を見て、軽く吐息した。

「豪胆と言うか、大雑把な奴だな。おまえといい、娘といい」

 ファムスは呆れて呟いた。

 よくもまあ、片腕を溶かしている人間を目の当たりにして、のんびりと笑顔など浮かべていられるものだ。

「おまえにならわかるんだろう? こんなに妖の空気が充満していれば、この場所で魔導を行ったことくらい」

 ファムスの問いに、セルバンは相変わらず笑顔を見せるだけだ。

 韜晦しているのか地なのか、やはりファムスにはわからない。観察するように、ファムスはセルバンの姿に目を向けた。

 ずいぶんと頼りない体つきの男だ。薄暗い部屋のせいなのか、目の下が翳り、悄然とした雰囲気も感じる。しかし、浮かべた笑顔に、それは気のせいと言ってしまうこともできるが。

「……何の用があるのかは知らないが、ちょうどおれもおまえに聞きたいことがあった」

「娘の……ミューザのことですね」

 ファムスの言葉を聞くと、質問というより、わかりきった事実を確認する口調でセルバンが言う。そうだ、とファムスが頷き。

「あの娘、何者だ。おまえと血は繋がっていないんだろう? それであの力だ。冗談じゃない」

 ファムスは忌々しげに言うと、後ろのドアを振り返った。

「おかげで術の効力が切れちまった。もともと完全な術じゃなかったがな。もう少し力が回復するまで時間は稼げるはずだったんだ」

 力が回復すれば、今度は完全に新たな『器』が作り直せたはずだ。だがここでこの容器を失ってしまえば、またも妖霊に祭儀を任せなくてはならなくなり、結局二の舞を演じてしまうことになる。

 それは避けたい事態だったのだが。

「なぜなんだ? あの屋敷に行くまで、あいつには聖なる力など欠片も、塵ほども感じなかった。それが、いきなりあれだ。近くにいるだけで侵される波動だ。喰らってこの為体だよ」

 ファムスは左肩から服を落とし、腐りかけの体をセルバンに示した。

 セルバンは表情も変えず、まっすぐファムスの茶色く変色した体をみつめる。

「潜在する能力を封じていたんです。けれども、エリスバートを呼び戻すのに必要だったから、それを解いた。すべてではありませんが、ほんのわずかだけ」

「『ほんのわずか』であれか」

 ファムスはうんざりと吐き捨てた。成程、それでミューザにまだ潜む力を感じたのだ。

 しかし――とファムスはすぐに怪訝な表情になる。

「妖力ならともかく、聖なる力ならなぜ封じる必要があるんだ。歓迎されこそすれ、忌み嫌われる力ではなかろうに」

「あの子が持っているのは、『聖なる力』とは同種ですが同一ではありません。指向性なしに発揮されれば、あの子の命を縮めることになる」

「……何?」

「対となるものに向けられるべき力なのです。たとえば、癒しの術などはミューザ自身には使えない。詞で精霊と契約することもできない。あの子の力が果たす役割は、通常の聖職者とはまったくべつの領域にありますから」

 セルバンの言葉の意味が飲み込めず、ファムスはただ眉を寄せた。

 セルバンは構わず続ける。

「それに、力は隠し果さねばならなかった。外に漏れては危険な性質だったからです」

「……どういうことだ」

 セルバンは一度視線を宙に彷徨わせ、それからファムスに戻した。

「セイマー神が振るったとされる、サンファールの聖剣の話はご存じですね」

 セルバンの言葉に、ファムスはまたほんの少し、眉を顰めた。

「国興しの伝説だろう。守護神セイマーが、地を乱す強大な妖を斬ったという、聖なる剣。名を<サンファルナ>と」

 セルバンが頷く。

「妖を斬り地を治めたのち、セイマー神はサンファルナを地中に収め、その場所を祀り城を建て国を興しました。それが、このサンファールです」

「ああ」

 まるで歴史の授業だ。

 ファムスは繰り返し聞いて育ったサンファールの故事に、大した感動もなく相槌を打った。

「それがどうした。ただの『伝説』だろう、サンファルナは、民に平穏をもたらす祈りの詞としてしか今は知られていない。二十二代前と五代前の物好きな国王が剣を捜して地面を掘り起こしたが、結局みつからなかった。聖剣など、セイマー神が生み起こした正真正銘の伝説に過ぎない」

「いいえ」

 ファムスを見返すセルバンの瞳は、静かで、なのにまっすぐ自分をみつめるその顔から、ファムスは視線を逸らせなくなった。

「サンファルナは実在します」

「――何だって?」

「いえ……この先現れると言った方が正しいと思いますが」

「……」

 何を言い出すのかと、怪訝になるファムスを見返すセルバンの表情に、もう笑顔は見あたらない。

「サンファルナは、剣にあって剣に非ずと伝えられる。普段は眠っている状態だと言われています。波動だけが存在し、剣の形を成さないと」

 だから、サンファルナは存在しないと言われ続けていたし、地を掘り起こしても見つかるはずがない。

「剣を象ってしまえば力は強大になり、持て余されるだけです。邪心を持つ者が剣を振るえば滅びが訪れる。だから、剣は時代と使い手を自らの意志で選ぶ」

「時代?」

 重く、セルバンが頷く。

「サンファルナは、平穏の世には剣という形をもっては現れない。強過ぎる力は、聖と妖のバランスを崩します。すべての聖を上回る妖の存在があって初めて、聖剣サンファルナは世に発言するのです」

「……そんな話を、聞いたことはないが」

「ええ、洩らされたことはないのでしょう。聖剣の秘密は私たちモーフリートの神殿にある人間にのみ伝えられたものですから」

 伝えられた、とセルバンは過去形で話した。

「十五年前まで、私はモーフリートの神殿にいました。そこでは、サンファルナ伝説はたしかな史実として伝えられ、私も、それは上級神官だった父や、神殿の他の人間から聞いていました。決して他の者に、たとえ同じ神職を持つ者にも話してはならないときつく言い含められて」

 モーフリートが、セイマー神が妖との最終決戦に臨んだ地だとされているとこを、ファムスは思い出す。

「モーフリートには、サンファルナに関するこんな伝承があります。『聖剣サンファルナは、自らその能力を解放することはできない。傍らに守護、そして制御を司る聖人があって、初めて目覚めを受け入れる』と」

 つまり、剣を手に入れるには、永きに亘り眠り続けるサンファルナの覚醒を促す存在が必要となるのだ。さもなくば、サンファルナはただの精霊と変わらない存在ということだろう。

 守護と解放を受け、サンファルナは初めてその姿を剣に変ずることができる。

「サンファルナを携えセイマー神が戦った時、彼の娘ミューゼルが彼の左肩に乗っていたそうです。彼女が剣の守役だった。だから、守護者は女身とされています。ただ聖なる力を持ち得るだけの者ではなく、存在じたいが聖にあるという」

「おい……ちょっと待てよ」

 静かな口調で語るセルバンを、ファムスは愕然として見遣った。

 思い出すのは、ミューザの言葉。

 ――『神さまから預かった子供だから』って、一生懸命育ててくれた。

 ――名前をつけて、愛してくれた。

 ――だからあたしはものすごくセルバンには感謝してるの。

 ――この世で一番、大切な人なの。

「ミューザが生を享けたのは、モーフリートの神殿でした。モーフリートの神殿は、他の神殿とは違い、セイマー神だけでなくその娘ミューゼルをも祀っています。ミューゼルの彫像の下にあの子は現れました。ミューゼル像から生まれた守護聖女、それがミューザです」

 ファムスは肩を押さえるのも忘れ、凝然とセルバンをみつめている。

 ――両親を失ったミューザを引き取ったセルバン。彼を愛したミューザ。すべては虚像。始めから彼女には親など存在しなかった。セイマー神の愛娘にしてサンファルナの守護聖女、ミューゼルの彫像から生まれたミューザ。

「神殿の人間は、私を含め慄然としました。守護聖女が現れたからには、それは聖剣も存在するという証に他ならないのです。つまり、平穏な時期は過ぎたということ」

 聖と妖のバランスが崩れたのだ。その証がミューザ。

「王宮とバーンズの神殿に報告がなされ、秘密裏に剣の捜索が始まりました。ですが、手を尽くさぬうちに、バーンズやその周辺の町は襲撃を受けた」

 十五年前の、魔導士グーマーの反乱だ。

 どうにかグーマーを捕らえ処刑したものの、サンファルナの捜索は済し崩し的に延期になった。多くの神官が妖霊、邪霊との戦いで命を落としたのだ。

 グーマーを処刑したのち、荒れた町の復興や、数多く残った妖霊たちの退治に人々は時間と力を費やし、サンファルナを捜す余裕を失った。

 ようやく首都周辺が落ち着きを取り戻した頃、守護聖女の存在を語る者はいなくなった。それを知るほとんどの人間が死んだからだ。

「グーマーの放った邪霊によって、モーフリートの神殿は壊滅状態に陥りました。グーマーは守護聖女の存在に気づき、それを抹殺せんと企てたのです」

「なぜサンファルナはみつからなかったんだ。そもそも、剣の捜索など今まで一度も耳にしたことがないぞ」

 黙ってセルバンの話に耳を傾けていたファムスは、ようやくそう口を挟んだ。今まで驚きで自失していた。そんな自分に忌々しさを覚える。

「モーフリートの人間が死んだからとはいえ、バーンズの神殿の人間や王宮の人間まで全員死んでしまったわけではないだろう。それにおまえや、ミューザ自身がいる。どうして探索を続けなかった」

「サンファルナのことは、禁忌になりました。口に乗せることすら禁じられたのです」

「禁忌か――誰が命じたんだ」

「オルジア王の厳命です」

「……何?」

「サンファルナの存在を、陛下は否定なさいました。サンファルナを語る者は、国を不安に陥れる反逆者として次々処刑されました。ミューザも当然処刑の対象になった。妖霊から受けた傷で瀕死だった私の父も。わたはまだ学徒で、正式にモーフリート神殿に名を連ねていたわけではなく、処刑は免れていた。父は、私にミューザを連れ逃れるよう命じました」

 セルバンは父親の命令に従い、嬰児の姿をしたミューザを抱えて、モーフリートやバーンズから遠いこのドモスへと逃げ延びた。

「ミューザの能力を封印したのは、二重の意味があったのです。剣がみつかる前に、使命を果たせず力が行き場を失くし、彼女の心身を消耗されるという事態を防ぐこと。それから――彼女の存在を伏せること」

 セルバンが少しの間、瞼を閉じる。

「父は処刑の寸前、生まれたばかりの娘の子を王宮に差し出し命乞いをしました。守護聖女を渡す代わりに、自分の命は助けて欲しいと。……もちろん、父は私の姪とともに殺されたと伝え聞きました」

 こうして、守護聖女が失われたことを、疑う者はいなくなった。少なくとも当面の間。

「私はモーフリートの神殿で死んだ、学舎を出たばかりだったセルバンの名を借りて、この町に移り住みミューザを育てました。セルバンは私と同じく、神官だった父を持つのに、ずいぶんとおちこぼれで……」

『セルバン』のことを思い出したのか、ふとその顔に微笑が浮かぶ。

「この辺境で、小さな子供を育てる私に疑いの目が向くことはありませんでした。セルバンの成績では、たとえ自分から訴え出たって王宮から重要な仕事を回されることはない。私は持てる限りの力を使い、ミューザの力を封印するための術を何度も何度も試みた。周りの人間も、彼女自身もその力に気づくことがないように」

 そして――十五年。

「王宮に気づかれないよう、過ごしてきたとういうわけか。ここで」

 溜息混じりに呟くファムスに、セルバンが軽くかぶりを振った。

「私が警戒しなければならなかったのは、オルジア国王だけではありませんでした」

「他に、何を」

「魔導士グーマーに、ミューザの存在を気づかれることのないように」

「……馬鹿な」

 知らず、ファムスの口調が強張った。

「奴は神官たちと民衆の手によって、あらゆる方法での処刑を受けたはずだ」

「ならばなぜ、オルジア王は剣の守護聖女であるミューザを葬ろうとなさるのか。サンファルナの存在を、無視しようとなさるのか。――サンファールの現状には知り及ぶことかと思います。妖霊が前例なく増えている」

 セルバンの言葉をファムスは否定できず、頷く。

「聖剣は発現しました。いや……その証である守護聖女は誕生しました。これから先国は荒れます。なのに、王はサンファルナの存在すらを否定なされているのです」

「国王が……グーマーに操られていると……」

「あるいはそれに代わる存在に、です」

 惑いなくセルバンは言い切る。

 しばらく、ふたりの間に沈黙が流れた。

 何百秒かが経過したのち、ファムスは大きく息をついた。知らず、呼吸すらひそめていたらしい。

「成程……否定する材料はないな。たしかに王の所行は狂人のそれだ。妖霊に憑かれたと口にする者もある。もっとも、そんな人間はすぐさま捕らえられて処刑されたがな。……だがなぜ、そんなことをこのおれに告げる? ミューザの存在や正体は、軽々しく第三者に話していいものではないだろう」

「――剣を守り、その力を制御するものは選ばれる。そして、その剣を振るう人間も選ばれるのです」

 セルバンは、音もないほど静かに、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「サンファルナはセイマー神の聖剣。そして、今この世界でサンファルナを振るうことができるのはただひとり」

 そうして、セルバンはファムスのそばまで歩み寄り、その足許に膝をついた。

「セイマー神の聖なる光を受けし者、あなただけです。サンファール国の御子、カナン王子」

 ファムスは目を瞠り、跪くセルバンを見下ろした。

「なぜ……」

「以前、必要があって内密にバーンズを訪れた時、一度だけ城下でお姿を垣間見ました。見目形は変えられていても、発する波動は同じです。ひとめ見て気づきました。それとも……待っていたからわかったのでしょうか」

「待っていた?」

「聖剣は振るわれるために現れる。ならば剣、守護者、神の代理者と、三者は一堂に会すこと理」

「……代理者は父だ。オルジア国王ではないのか?」

「残念ながら。あの方は王たる資格を失いました。民への慈愛を捨て、人知を失った者に、王どころか人たる資格もありません」

 静かだが辛辣だ。ファムス――サンファール国王子にして、王位継承権一位を持つカナンは、初めてセルバンの人様を見たがした。

 ファムスにとって、オルジアの存在は、ただその名を持つ男が自分の父親であり自国の王であるというだけに過ぎなかった。だから面と向かって『他人』にその悪辣非道さを指摘されたところで、腹も立たない。彼自身も同じことを思っていたのだ。血の繋がりがあろうとなかろうと、個人の才能に変わりはない。事実の評価は公平であるべきだ。

「剣をお捜し下さい。この先国は荒廃の一途を辿るとこでしょう。斬らねばならないものがあるから、剣は生まれるのです。ミューザを連れ、サンファルナを手に入れ、国を平穏にお導きください。次代の国王として」

 跪いたままきセルバンが顔を上げた。真摯過ぎるほどの、貫く瞳。優男ふうの顔つきが、光をたたえるほどに強い意志を表していた。

(そうか、これがおまえの)

 思い出したのは、あの腹の立つほど気の強い、そして今目の前にいる男と同じ瞳を持つ少女。

 跳ねっ返りだと思っているのに、どうしてか、ファムスが真っ先に思い出したのは彼女の泣き顔だった。

「……おまえは、どうするんだ」

「わたしでは力及ばず、おそらく足手まといになります。残念ですが、共に参ることは」

「そういうことを言っているんじゃない!」

 張り上げた声は、自分でも意外なほど鋭かった。ファムスは驚いて目を瞠るセルバンを上から睨み据えた。

「ミューザはどうするんだ。あいつはおまえに惚れてるぞ。言うまでもなく、父親に対する娘として以上の感情だ。そんなことすらわからない朴念仁ではないだろう、十五年以上も一緒に暮らしていて」

 セルバンの顔が一瞬歪んだ。全身に痛みが走り抜けたかのように。

「立場が違うとか身分が違うとか、くだらないことを言いやがったら張り飛ばすぞ。父親だからっていうのも却下だ。それでもあの女を拒む理由があるのなら聞かせてみろ!」

 ファムスはセルバンに鋭い声を浴びせながら、なぜ自分が言葉を荒らげるほどに苛ついているのか、わからなかった。

 ――目の奥に浮かんでいるのは、ミューザの翳った、迂闊にも美しいと思ってしまった表情。落とした涙の透明さ。

「……私は、あの子の想いに応えることはできません」

「だからなぜ!」

 低く呟くセルバンの言葉を聞いて、ファムスはカッとして右手を振り上げた。食卓を拳で叩こうとして思い止まる。そんなことをしたら、左手同様右手まで欠落してしまう。

 上げた右手を持て余すような顔をするファムスの足許で、セルバンは着ていた服の上衣をはだけた。

 ファムスは右手を下ろし、つと目を細める。

 セルバンの右胸から左の脇腹にかけて、鉤爪で裂かれたような、大きな傷跡があった。傷はすでに肌色になっていたが、肌がひきつれて不自然に波打っている様が、暗い部屋の中でもありありと見えた。

「それは……」

「十五年前、邪霊に裂かれた傷です」

「……」

 ということは、ただの傷ではありえない。下級の妖霊につけられた傷ならともかく、邪霊に切り裂かれたのならば、体内に多量の妖気が入り込み、相当のダメージを負ったはずだ。

「ひどい傷だ」

 生きているのが不思議なほどだと思った。

 呟くファムスに、セルバンが少し笑う。

「これでも、ミューザには傷ひとつつけなかったのが誇りなんですよ」

「なぜ治癒させなかった。邪霊相手の怪我とはいえ、おまえほどの力の持ち主なら完治させることはできたはずだ」

 傷が消えていないということは、完全な治癒を施していないということだ。

 当然、妖気は体内に残る。

 たとえその量が微笑であっても、ゆるやかに体内組織を破壊され、体力が削られ、ついには命が尽きてしまう。

 セルバン自身が持ち得る聖なる力が自然に妖力を中和していくとしても、彼ほどの大きな傷を負ってしまたのでは、それにも限界がある。

 事実彼は、見るほどにわかり、消耗している。

「この傷を治すには、かなりの力を消費しなくてはなりません。少なくとも聖域を捜し、祭壇を準備し、相応の道具を用いて癒しの術を使わなくてはならない。そんなことをすれば、あの子に封印の術をかけることも、その術を継続させることもできなくなった」

「……」

「ミューザの守護聖女としての潜在能力は、はかりきれない強大さです。術を何度もかける必要がありました。余計なことに力を割くわけにはいかなかった」

 余計なこと、と言い切るのだ。ことは自分の命に関わる問題だというのに。

「私の力はもうあとわずかな時間で尽きるでしょう。ここしばらくで体力の低下が著しい。それでも、自分で考えていたよりは長く保った方です」

「自分から死ぬ趣味がないのなら、あの女を使って体を治せばいいじゃないか。一度死んだ人間が息を吹き返したんだ。死にかけのおまえはもっと簡単に」

 セルバンは小さく首を振った。

「十五年の間、この体も、力も、使い尽くしました。私がこの身で生きて行くには、もう留まる力がなさ過ぎる。あるいは、ミューザの力を正しく導ける強い聖なる力の持ち主がいれば、体を作り替え、魂を回復するための術で、それもかなうのかもしれませんが……」

 セルバン自身が、考えた末の結論なのだ。

(あのバカは、何だってこんな時にいないんだ)

 王家の血族が受け継ぐ、国で最高級の力と術を持つ『カナン』は、ここにはいない。

 ここにいるのが自分ではなくあの自分だったらと、思いかけてファムスはやめた。考えでも仕方のないことだ。

「私の役目は、ここで終わりです」

 俯いて微笑すると、セルバンは顔を上げた。

「僭越ながら、お願い申し上げます。どうか、ミューザを連れ聖剣をお捜し下さい。あなたにしか叶わない責務です。その身、王位継承者カナンの名にかけて」

「……」

 ファムスは、じっとセルバンの強い瞳を見返した。

 本音なら一言である。

 御免だ。

 はっきり言って面倒臭い。ミューザを連れて旅立てだの、剣を捜せだの、挙句妖霊や邪霊、国王を操る黒幕を切れときたもんだ。

 そう言って、何時を避けてこの町を出ることもできる。そもそも何のために自分がここにいるかといえば、『カナン』という名が煩わしかったからだ。黒魔導ならともかく、白魔法になんて欠片も興味がないし、それを強要される王位なんてしったことではない。

 だが――

「……わかった。すぐにでも出立する。おまえも……見られたくはないだろう。あの女に、自分の死に様など」

 ファムスは、気づけばそんなことを口にしていた。

(……まあ、いい)

 そう無理矢理自分に言い聞かせる。まあ、いい。たとえ直接自分が働かなくても、進んで使命を代わってくれそうな、正義感にとち狂った存在に心当たりがある。自分はそいつとさっさと再会して、今の話を伝えればいいだけだ。

 セルバンは安堵したように微笑むと、それから首を傾げた。

「ですが、今少し……時間を与えてくださいませんか」

「何だ。どうせならあの女に看取ってもらいたいのか」

 いえ、とセルバンは首を振った。

 そして、次に彼が切り出した話は、今まで彼の口から語られたことで、ここ数年分の驚愕を使い切ってしまったと思ったファムスに、さらなる驚きと衝撃をもたらした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ